【完結】Alice.dat -ハッカーの彼女と公安の彼の騙し合い恋愛 嘘で始めた恋は本物になれますか?- 作:稀葉
「人違い?」
「はい。抱きついた少女は、瀬谷透子を『イトウモネ』と呼んでいました」
透子が拉致された報を受け、狗塚は今日マンション周辺を見張らせていた東を庁舎に呼び戻した。
少女に抱きつかれた透子は、直後横付けされた白いワゴン車から降りてきた男により口元を覆われ──恐らくは薬で眠らされ、車へと押し込まれた。
そのまま走り出した車を、けれど東たちは追跡することはかなわなかった。一帯の信号機の電源が断たれ、周辺が大混乱に陥ったからだ。
「彼女のスマホのGPSは?」
「途中で電源を切られました。いったんその周辺のカメラをあたります」
「わかった。このあと、高村と一緒に動け」
東の目に困惑が浮かぶ。
ほんの最近まで高村を引きつけるように行動しろと指示していたのだから、当然の反応だ。
とはいえ、高村が瀬谷千彰──千秋修の指示で動いていたことを言えるはずもない。
東には、高村への嫌疑が晴れたことだけを伝えて送り出した。
伊藤桃音。
その名を知る者は、とても少ない。──この世界では。
狗塚にしても、ほんの先ほど知ったばかりの名前だ。
東は人違いだと言ったが、犯人は正しく彼女を把握したうえで連れ去った。
「どういうつもりだ……?」
独りごちる狗塚の脳裏に、今朝も変わらず送り出してくれた透子の姿が浮かぶ。
ここしばらく沈んでいた彼女の気持ちが、今ならわかる。
モノレールテロを食い止めた彼女が、取りこぼしてしまった命をどれほど悼んだか。
きっと自身を責めていた。狗塚もよく知る痛みだ。
しかも、覚悟をもって警察官になった狗塚とは決定的に違う。ある日突然連れてこられただけの、一般人だ。
同居を始めた初日。兄がいたと言った彼女に、探さなかったのかと尋ねたことがあった。
残酷な言葉だ。
彼女がどれほど望んでも、世界中を探しても、この世界では家族には会えないのだと透子は知っていた。
狗塚自身に行方不明の兄がいることを話したのは、誘い水のつもりだった。共感を引き出すことで、得られるものがある。そう計算した。
『どこかで、生きてます。きっと……きっとお兄さんも会いたいって思ってますよ』
そう言って『川村』の頭を撫でてくれた彼女は、『もう会えないんだとしても、それなりに元気にしてますよ』と眉を下げて元気づけるように笑ってくれた。
ひとつひとつの自身の言動を、それに対する彼女の言動を、思い返す。
隠して演じていた自分と、隠して受け入れていた彼女。
それでも、彼女が差し出してくれていたものにはいつも
日常を、家族を、名前すらも奪われた彼女に、これ以上なにひとつ喪わせたくない。
必ず、助け出す。
強く決めた思いとは裏腹に、彼女を乗せたはずの白いワゴン車は発見されたものの、以降の足取りがまったく掴めなかった。
◇ ◇ ◇
白いワゴン車が見つかり、鑑識が入った。
現職公安職員が複数目撃する場で起きた事件だ。まんまと連れ去られたのは情けない限りだが、透子を連れ去った制服姿の少女と男も思いのほかすぐに見つかった。
そのふたりが確保できたことで、今回のおおまかな流れは判明した。
まず、確保された二人の男女に面識はなく、SNSを起因としたいわゆる闇バイトの実行犯だった。
少女は送られてきた制服を着て、指示された場所で待機する。
二十代くらいの女から声をかけられたら、相手が『イトウモネ』かを尋ね、そうだと確信したら抱きつく。その後は手を引いて逃がさないようにする。そういう指示だった。
男は現場近くで車を停めて待機。
少女が女に抱きついたら、すぐに車を横付けし、女に薬品を嗅がせて車に押し込み、指定のルートで指示された場所まで運転する。
ご丁寧にも、信号は無視していい、という指示があったとのことで、周辺の信号機トラブルは、単なる事故でなく意図的な犯行であると推測できた。
男女はやってきた男に透子を渡し、その場で多額の『バイト代』が渡されていた。
普通ならここからは乗り換えた車を、車種や車両番号から辿っていくか、車種により防犯カメラ映像で足取りを追っていく。
ふたりの証言により、乗り換え先の車両はメタルグレーのセレナであることもわかった。
ただ、乗り換え時の場所を映す防犯カメラは一台もなく、今は周辺の防犯カメラ映像をしらみつぶしにあたっていた。
「あの制服、あれは、透子さんがこちらに着た時に身につけていたのと同じものですか?」
ハンドルを握りながら、狗塚は視線を前に向けたまま尋ねる。
助手席の千秋は、きちんとした濃いグレーのスーツを身に纏っていた。
髪をセットした男は、『瀬谷千彰』とはがらりと印象が違い、見る者が見ればすぐに警戒するような鋭さを宿していた。
今向かっているのは、犯行時に少女が身につけていた制服を作ったと思われる業者だ。
透子はマンションからは出ないという約束を、きちんと守っていた。そうすることが身の安全のためには必要であると、正しく認識していたはずなのだ。
それでもなお、思わず彼女がマンションの外へ出てしまうほどの理由が、あの制服姿にあったのだとすれば。
答えは訊くまでもないようにも思えた。
「ええ。あの子が保護された時に着ていたものによく似ているわ。というか、ほぼ同じね。十中八九、犯人はアリスの管理ファイルにアクセスしているわ」
「管理ファイル、ですか」
「そ。Alice.dat。日本では
「厳重管理されているのでは?」
「わかるでしょ? 人の手が介してる限り絶対はないの。内部犯行の可能性も排除できない」
「身内が誘拐犯ですか。笑えないですね」
「そもそもこの世界に来たばかりの迷子を──あの子を連れ去ったのも、銃で撃ったのも、現職刑事だったわ」
狗塚は衝撃のあまり運転中なのも忘れて、一瞬助手席に視線を向けた。前見て、と苦笑した千秋は言葉を続けた。
「規定、あるでしょ? ありもしないものを探していたり、存在しない住所に帰りたがる対象を見つけたら、所持品を確認。身分を正しく特定できない時はすみやかに『提携する精神科病院』に連絡しろ、ってね」
ハッとする。単にそういう病気を疑われる患者を、いったんは病院に保護するための取り決めとしか捉えてこなかったことだ。
「頭のおかしい、偽造とも思えるような身分証明を所持している人間。たいていアリスはそうして保護されるの」
なぜ彼女は正しく保護されなかったのか。訊くまでもない。警察官全員が善人とは限らないからだ。
狗塚の思考を読むように、千秋は説明を続ける。
「捜索願いも出ていない頭のおかしい失踪者。しかも若い女の子。高く売れると思ったそうよ」
苦々しい声を耳にして、ハンドルを握る手に力がこもる。
「当時あの子が着ていたものは、今でも厳重に管理されてるわ。持っていたスマートフォンもね」
「……スマートフォン?」
彼女が保護されたのは十年も前。まだ、いわゆるガラケーだった時代だ。一般の、ましてや中学生が、それどころか会社員すらもスマートフォンなど持ち歩いていたはずもない。
「彼女は……未来からきた、ということですか?」
「ちょっと違うわね。そもそもファイル形式からいって、今でも未知のもので解析不能。ほんの少しだけ進んだ世界、といったところかしら」
どこまでも現実感がない話。けれど、紛れもない事実だ。
「あくまで、あの子の場合は、よ。アリスによってそれもバラバラなの。……なかでもあの子はトクベツ」
「……脱兎だから、ですか」
「……アリスにも二種類いるの。放し飼いにできるアリスと、囲っておく必要のあるアリス。あ、野良も含めれば三種類かしら」
「犬猫みたいな言い方ですね」
皮肉を込めて尋ねると、「実際そうでしょ」と思いのほか軽やかな声音で返った。
「部屋中に監視カメラを仕掛けられて、24時間盗聴される。それが人間らしい生活?」
狗塚も彼女を監視し続けていた側の人間だ。今更倫理観など説ける立場でもなかった。
「逃げないように見張っていたというより、いつかこういう日が来ることを恐れていたから……なんて、今更綺麗ごとを言うつもりもないわ。私たちにはあの子が必要なのよ」
たったひとりで犯人と渡り合い、モノレールテロを食い止めたスキル。
それは間違いなく両刃の剣だった。
目的の衣服製造の会社で、例の制服の受注制作の確認は取れた。
犯人の指定してきた制服の画像は伊藤桃音の保護当時の写真──顔だけは消されていたが──そのもので、犯人がAlice.datにアクセスしたのは間違いないであろうことが確認された。
ただ、発注住所と氏名は架空、受け渡しは宅配ロッカーだったことから、そこでいったん捜査は手詰まりとなった。
昼夜を問わない捜索は既に八日目を迎えていた。異例の早さで進んではいるものの、次のルートを探す必要がある。
そんな矢先、メッセージが届いた。
『うさぎちゃんは諦めて。というか、元々ボクのだから。うさぎ狩りを続けるなら、また電車ごっこして遊んじゃうよ』