【完結】Alice.dat -ハッカーの彼女と公安の彼の騙し合い恋愛 嘘で始めた恋は本物になれますか?- 作:稀葉
三月ウサギに連れてこられてから、はや四日。
透子はキッチンに立ち、オムライスを作っている。
「へぇ…手際いいね。あ、ボクさ、玉子トロトロがいいな」
キッチンにやって来た男は、目を輝かせてそんなことを言う。
「そんな、お店みたいなのは期待しないでください」
「期待してるよ。楽しみだなぁ」
様子を見に来たというよりも、待ちきれなくて来てしまった子どものような顔だ。
言うだけ言ってさっさとキッチンを出て行く後ろ姿を見送る
緊張感が少しも続かない。
相手につられて、つい普通に受け答えしてしまう。
あのテロを、許せるはずはない。許しては、いけないのに。
透子はゆるゆると息を吐いた。
この建物の全容は、いまだによくわからない。
少なくとも、透子が自由に移動できる室内は川村のマンションと大した違いはなかった。
三月ウサギの寝室と、透子が使っている寝室。広いリビング。業務用の冷蔵庫が鎮座するキッチン。
強いて言うなら、透子の部屋がごくありふれた『普通の部屋』なのに対して、それ以外の場所はコンクリがむき出しで物も少ない無機質な空間だった。
三月ウサギの部屋がどうなっているのかはわからない。
ただ、時々部屋に籠もって出てこなくなることがあるから、寝室兼作業部屋なのかなと考えている。
フロアは4階か5階くらいだろうか。窓から外を見遣れば、周辺は林のようで、その向こうには大きな道路やビルも見えた。
玄関ドアの向こうには更にもう一つ鉄扉があり、そこを開けるにはパスコードが必要だった。
それを知ったのは、一度逃げ出すことを試みたからだ。
すぐに見つかって、鉄扉の前の透子に、三月ウサギはさも面白そうに笑って言った。
『指紋認証でも開くから、いざとなったらボクの手を切り落として使えばいいよ』と。
その目は少しも笑っておらず、背筋がヒヤリとした。
三月ウサギは『可哀想に。洗脳されてるんだね。味方の顔してたあいつらは敵なんだよ』と立ち尽くした透子の手を取ると、部屋へと引き戻した。
『ここは安全だから大丈夫。ここならボクが守ってあげられるからさ』
そう言う男の顔はひどく真剣で、その言葉を本心で言っているであろうことだけは理解できた。
以来、逃げ出すことはいったん諦め、当たり障りなく過ごしている。
実のところ、透子にとってここでの生活に不便はなかった。
これまでも川村のマンションから出ることは許されていなかったし、必要なものはおおむね揃えられていた。
女物の下着まである程度のサイズを網羅できるように準備されていて薄気味悪さを覚えた透子に、「女ばっかりの姉弟の中で育ってごらんよ。パンツもブラジャーもただの下着でしかないね」とさして興味もなさそうに言われた。
「女の子に対する幻想なんて、小学生のうちに打ち砕かれたよ」
実際三月ウサギと生活を共にして、女として危機感を覚えるようなことは一度もない。
節度のある距離を保ち、触れてくるわけでもない。
そういう意味では、川村と居る時のほうがよほど緊張を強いられることが多かった。
パソコンも与えられ、どこかにメッセージを送ったり書き込みすること以外は普通にネットを閲覧することもできて、拍子抜けするほど自由だった。
そんななか、三月ウサギが用意していたもので一番助かったのは、生理用品と共に置かれていた鎮痛剤だ。
薬にはいい思い出がない。
ラムネと称して渡された薬で眠らされ、保護されたあとも、病院では何度となく押さえつけられて注射をされた。
病院でのことは必要だったと理解はしているけれど、あの頃の記憶は恐怖と共に強く刻みつけられ、すっかり薬嫌いの大人になった。
ただ、今回ばかりはそうも言っていられなかった。
火傷をした手首は完治しておらず、水疱が破けた皮膚はまだじくじくとして痛んでいた。変色した古い皮膚の下では、新しい皮膚が再生途上で、本当だったらまだ薬入りの軟膏で保護してやりながら、鎮痛剤で痛みをやり過ごしている時期だ。
お風呂は好きに入れるから、かろうじて清潔な状態を保ててはいるはずだけれど、シャワーの時も、そうでない時も、とにかく痛くてたまらない。
得体のしれない男が用意した薬など、口にはしたくない。
けれど、あまりの痛みに、開封された跡がないかをよく観察してから箱を開けた透子は、恐る恐る薬を口にして、ようやく眠れないほどの痛みから解放されるに至った。
三月ウサギには一度、手首について訊かれたことがあった。
「ずっと包帯してるけど、どうしたの?」と。
あなたのせいで、とは言いたくなかった。
モノレールテロの話を持ち出したくはなかったし、本当にギリギリで勝ったのだと思われるのはなんだか悔しかったからだ。
「捻挫」
そう答えると、「両手を?」と訝しむように言った男は、運動神経悪いんだね、とケタケタと笑ってすぐに湿布を渡された。
もっとも、モノレールテロのあれは、勝利ではなかったことも既に聞かされていた。
あの時、透子のパソコンは男によりハッキングされていた。居場所を特定されたのはそのためだ。
けれど、なぜ三月ウサギが桃音の名を知っているのか、中学の制服のデザインまで知っているのかは謎のままだ。
透子のパソコンにそんなデータは入っていない。そこまでは、許されていない。
ただ、尋ねた透子に『ボクしか知らないから安心してていいよ』と笑うばかりの男が、それ以上を教えてくれそうにはなかった。
「うっま! 天才!」
「いただきます」と手を合わせている向かいで、男はすぐに頬を綻ばせた。
透子もスプーンですくいあげたそれを口に入れる。
ここに来てからは冷凍食品ばかりを食べていた。業務用冷蔵庫には、少し高級そうな、様々な冷凍食品が詰め込まれている。
好きなものを選び、温める。
得体の知れない男が作るよりは、安心して食べられる。
きっと、川村もそういう気持だったのだろう、と思った。
思い返してみれば、川村は、お茶ですら彼が選んだ店か、市販のもの、あとは自分でいれたものしか口にしなかった。
最初から──顔を合わせた最後の日すらも、少しも信頼なんてされていなかった。
スプーンを動かす手が、知らず止まる。
「どしたの~?」
三月ウサギのオムライスは、早くも半分ほどになっていた。
「よく平気で食べられますね」
「なんで? おいしいよ。思ってた出来映えと違った?」
「私が……私が何か変なものをいれたかもとか、考えないんですか?」
もぐもぐと咀嚼をした三月ウサギは口の中の物を飲み下すと、「なんで?」と小首を傾げた。
「桃音ちゃんはそんなことしないじゃん」
当たり前の顔でそう言うと、手を止めたままの透子を気にも留めずに食べ続ける。
当然だ。
人に害になるようなものを、料理にいれるはずがない。
そんな当たり前の信頼を差し出され、複雑な気持ちになる。──川村からは、ついに得られなかったものだ。
「強いて言うならさ、ケチャップでハートとか書いてあったら満点だったかも」
「どこのメイド喫茶ですか」
思わず笑って、透子も再びオムライスを掬い上げた。
「あれ、桃音ちゃんメイド喫茶知ってるんだ。中学生でこっち来て……あ、こっちにもあるのか」
世界の移動。それを知る男の前では、何も取り繕う必要もない。
透子は「文化祭でやったことあるんですよ。メイド喫茶」といつかの出来事を思い返しながら答えた。
メイド喫茶なんて行ったことのない中学生が、ネットやテレビから得た情報を元に、メイド服に袖を通した。男子も同じようにメイド服を着た桃音のクラスは、当日大盛況となった。
「おー、いいね。文化祭で飲食系OKだったんだ?」
「はい」
「へえ、じゃあメイドの格好して『モエモエキュン』みたいなことしたの? オムライスにしてもらえばよかったな」
「してません!」
「なぁんだ、ザンネン」
さして残念でもなさそうに言った男は、再びオムライスを頬張った。
軽やかな会話が、心地良かった。
ここでは、嘘をつく必要がない。知らない学生生活をねつ造する必要もない。
この世界以外のことを、人に知られてはいけない。だから、千彰やアリス班の人と話す時以外はいつも、言っていいことと悪いことを考えながら話していた。
線引きを考えずに話せるのは、こんなにラクだったっけ。
この閉じた空間に、ずっと居てもいいんじゃないのかとすら思えてきてしまう。
三月ウサギは、オムライスの材料をネットスーパーで購入していた。
無造作に渡された材料と共に入っていた伝票。記されていた店舗は、意外にも川村のマンションからそう遠くない場所だった。
そんな場所にいるだなんて、思っていないだろう。
探しているだろう。きっとあの日もアリス班の当番がマンションの外を見張っていただろうに。
千彰は心配している、と思いたい。少なくとも、『アリス』が行方不明だなんて、困っているに違いない。
ならば、川村はどうだろうか。
結局、彼がなんの目的で近づいてきたのかも、本当の名前が糸井なのか、それとも川村なのかすらよくわからないままだ。
初めて出逢った時の、まだ『糸井』でも『川村』でもなかった時に言われた言葉を思い返す。
『君が居てくれてよかった』
私も、貴方が居てくれてよかった。あの時、あの言葉がどれほど透子を掬い上げたかなんて、きっと彼は知らない。
いっそ、もうこのまま会えないほうがいいのかもしれない。
「おいしかったぁ! 気が向いたらまた作ってよ。次はハンバーグがいいな」
男は「アイス食べよーっと」と腰をあげた。
「あのっ」
「ん? 桃音ちゃんも食べる?」
「名前……、名前を教えてください」
三月ウサギは、きょとんとこちらを見ると、こてりと首を傾げたあと、「いらないでしょ」と言い切った。
「ここにはボクらしかいないんだしさ。桃音ちゃんが呼びかけるのはボクだけでしょ?」
「それは……そうなんですけど」
「だよねぇ。『ねえ』って呼びかけてくれればわかるからさ」
それだけ言うとキッチンへと行ってしまう。
確かに、名前を知らなくても困らない。知らないと困ることなど、なにもない。
ならば、今、どうして名前を尋ねたんだろう。──知りたいんだろうか。
「ストロベリーにしちゃった」
アイスを手に戻ってきた男は、嬉々としてアイスを食べ始める。
「そういえばさ、桃音ちゃんはどこでプログラミングやってたの? あの並び替えができたってことは、こっちに来てからやったわけじゃないよね?」
あの並び替え。
いつか千彰に渡された、紙に書かれたコードのことだろう。
この世界にはない用語が並んでいた。
あの時から、既に試されていた。
「学校でもやってたし……あとは兄がやってて。家でよくゲームを作ったり、それを教えてくれたりしたので」
「桃音ちゃんお兄ちゃんいたのかぁ。ボクも男兄弟が欲しかったんだよね。女ばかりの中で一番下に生まれてきた男なんて、下僕でしかないからね」
「私は……お姉ちゃんも欲しかったです」
「ハハ、交換できたらよかったのにね」
家族の話も、本当の気持ちも、ここでならなんでも話せる。
ここで『言ってはいけない』のは、『ここから出して』という言葉くらいだろう。
ここに居続けて、どこにも、誰にも干渉しなければ、誰かの何かを狂わせる心配はない。
私がここにいて、この男にモノレールテロのようなことをさせないようにできたなら、もう、それでいいんじゃないだろうか。
そこまで考えて、ふと川村がよぎる。
好きだと言って、キスをして。でも本当は、私のことなんて少しも想ってはいない人。
ここに居たらもう会えない。会えないのだから──仕方ない。
冷めたオムライスを口に運べば、ひどく味気なかった。
透子が倒れたのは、その翌日のことだった。