【完結】Alice.dat -ハッカーの彼女と公安の彼の騙し合い恋愛 嘘で始めた恋は本物になれますか?- 作:稀葉
熱を出してから一週間が経った。
獣医の薬袋をゴミ箱に捨てた透子は、少しかゆみの出始めた手首に丁寧に軟膏を塗って、包帯を巻いていた。
カサブタになった擦り傷がかゆくなるのと同じだとわかっているけれど、痛みがなくなったわけでもない現状では不快がひとつ増えただけだ。
三月ウサギは薬を塗ってくれるわけでも、包帯を巻いてくれるわけでもない。
「わぁ……痛そうだね」
ジクジクした傷口を眺めて眉間に皺を寄せることはあっても、それだけだ。
お陰で透子はこの一週間で、自身に包帯を巻くのが上達した。
それでも、やっぱり少し不格好だ。──川村が巻いてくれた時よりも。
三月ウサギ同様、痛そうだと眉間に皺を寄せていた顔が思い出される。
男らしい無骨な指は、透子よりもよっぽど丁寧で繊細な動きをして、医師や看護師がするのと同じくらい、綺麗に包帯を巻いてくれた。
包帯を巻き終えた彼はいつも、まるでそれが仕上げだとでも言うように、透子の頭をひと撫でしていた。
大好きだったその感触を、そっと思い起こす。
彼にとっては何か目的があっての演技だったかもしれないけれど、透子にとっては確かな感触だった。
三月ウサギはことあるごとに、この世界はニセモノだ、現実ではないと繰り返す。
確かに、この世界に来たばかりの頃は、いっそ夢だったらいいと幾度も考えてはみたし、朝が来るたびに絶望した。
でも、今が現実でないというのなら、どうしたらこの夢が覚めるんだろう。
監視されていたのが現実でないせいなら、今こうして監禁されているのも、ここが嘘の世界だからなんだろうか。
ここは現実ではないんだよ。
そう繰り返す男とだけしか話さない日々は、透子の心の奥の何かを、小さく、けれど確実に揺らしていた。
今が、現実でなかったら? それなら私が居るのはいったい何処なんだろう?
透子をかろうじて『
病院に行った日、ここに帰ってくるまでの間に、スマホには圏外だった間の着信の記録やメッセージが受信されていた。
千彰からは、『おとしなくしておけ』、川村からは『必ず助けるから諦めないで』、どちらもそれを口にする声が耳に響く気がした。
スマホのバッテリーはだいぶ減っている。
何も取りあげないと宣言していた三月ウサギは、確かに透子のスマホを取り上げはしなかったけれど、充電器をくれるわけではない。
その代わりのように渡された新品のスマホも、充電器があったって結局は圏外なのには変わりない。
メッセージを再び確認した透子は、息を吐いてスマホの電源を落とした。
必ず助けるから。川村のそのメッセージは、彼が三月ウサギの仲間ではないということを告げている。
それならやっぱり彼は警察の人間なのでは?
千彰が、本当に危険な相手が『アリス』に近づくのをそのままにしておくのは考えにくいし、『糸井』が拳銃を持っていたのだって説明がつく。
でも、それならどうして千彰は、彼が
そう考えると、川村は警察官ではない、という結論になる気もした。
堂々巡りだ。
「桃音ちゃん、遊ぼう。ゲームしようよ」
三月ウサギがドアから顔を覗かせた。透子が包帯を巻き終わるのを待ち構えていたようなタイミングだ。
この部屋に監視カメラはないよ、と言っていた。だってここは安全だからね、と。
でもそれが本当かどうか、今の透子には確かめる術がない。
「……ゲームって?」
モノレールテロを電車ごっこと言ってのける男が誘いかけるゲームに、迂闊にのれるはずもない。
様子を窺いながら注意深く尋ねると、三月ウサギはにんまり笑って「ゲームはゲームだよ」とだけ答えた。
「どうせならさ、なんか賭けた方が盛り上がりそうだよね」
「じゃあ……私が勝ったら、私をここから出してくれるの?」
「ぶー、それはダメでーす。だってさ、桃音ちゃんはまだ、この世界が現実だとか思ってるんじゃない?」
「……」
「24時間監視されるような生活が普通じゃないってことくらい、いい加減わかったでしょ? キミがいた場所のほうが普通じゃないんだよ」
三月ウサギの面白がるような視線から、何かが流れ込んでくるような錯覚を覚えて、透子は急いで視線を外した。
「……ない」
「なぁに?」
「ゲームはしないよ」
「そ。ざーんねん。桃音ちゃんとゲームしたら、絶対楽しいと思うんだけどなぁ」
そう言いながら部屋を出て行く三月ウサギは、ドアを閉める前に肩越しに振り返った。
「なにが
何が楽しいのか、クスクス笑って去って行く。
ドアが閉められたのを確認してから、透子は膝を抱えて、その膝に額を預けた。
現実だとか、現実じゃないとか、そんなことを考えることに疲れ始めている。
嘘なら、ついていた。
誕生日はバレンタインじゃないし、千彰とは親戚じゃない。
川村が女とキスするのが嫌いだってことも知っているし、私のことが好きなわけじゃないってことも知ってる。
そもそも『瀬谷透子』なんて、ホントはいない人間だ。
『透明の透に、子どもの子。本来いないはずの人間だからな』
名付けた男もそう言っていた。
自分でも、よくわかっていた。いないはずの人間。いてはいけない人間だ。
だから、千彰の役に立てるのが嬉しかった。
桃音を知っている数少ない人間の役に立てるのが、そこに居ていい唯一の理由のように思えた。
川村に差し出せる『本当』は、ほんの少ししかなかったから、いつもそれが心苦しかった。
川村はどうだったろう。彼のくれたものに、少しくらい、ほんの欠片でも本当はあっただろうか。
「ドーナツ……おいしかったな」
ぽつりと呟く。
ああ、でもあれは彼が買ってきてくれたわけではない、貰い物って言ってたっけ。
でも、一緒に居てくれたのが、キスしてくれたのが、嬉しかった。
「もう……つかれた……」
透子は、そのままベッドに体を横たえて目を閉じた。
ふと目を開ける。部屋の空気が揺れた気がした。
ぼんやりとした頭のまま、ゆっくりと体を起こした、その時。
「──っ!?」
背後から伸びてきた手に強く口を塞がれた。
もがきかけて、
「動かないで」
潜めた声に、呼吸ごと止まった。
透子がおとなしくなったのを確認して、口を塞いだ掌がゆっくりと離れていく。
恐る恐る振り返る。
そこに居たのは、川村だった。
声が、でない。
いよいよ自分はおかしくなってしまったのかもしれない。
それとも、寝る前に思い描いていたせいで、夢でも見ているんだろうか。
黙り込んで固まる透子に、川村は訝しむように「透子さん?」と囁いた。
「なん……、ほんもの?」
「本物だよ……無事でよかった」
ぎゅうと抱き締めた川村の腕の中は、たしかによく知るあたたかさだ。
「行くよ」
腕を引かれてベッドから降りた途端、
「いいね、いいね。どこ行く~?」
三月ウサギが歌うように言いながら部屋に入ってくる。
その手の拳銃は、ひたとこちらに向けられていた。