【完結】Alice.dat -ハッカーの彼女と公安の彼の騙し合い恋愛 嘘で始めた恋は本物になれますか?- 作:稀葉
「再度の検査でも異常は見つかりませんでした」
千秋の到着を待って、透子の現状について主治医から説明を受けることとなった。
病院の面談室。
小さな机の向こうに座る医師は、彼女のMRI画像をモニターに映し出しながら、説明を始めた。
「自分の名前や経歴すべてを失っている現状を鑑みると、身体的な要因よりも、心因性──解離性健忘のなかでも全般性健忘を呈していると考えるのが妥当でしょう」
医師には、彼女が事件に巻き込まれた被害者であることが共有されていた。
そのため、監禁からの解放による安堵が引き金となり、それまでの恐怖や苦痛、ストレスなどの切り離しが行われ、記憶ごと仕舞い込んでしまったのではないかという見立てだった。
実際、監禁に加え、三月ウサギの死、駅の爆破テロ未遂の阻止など、彼女に掛かった負荷は計り知れない。
心の防衛機能が働いたとしても、なんら不思議はなかった。
「いわゆる、記憶喪失、ということですか」
「ええ。世間一般で言うところの記憶喪失ですが、心因性の健忘は、脳の器質的な損傷……つまり、脳が壊れて思い出せなくなるものとは性質が異なります」
「心因性ということは、治療でどうにかするということではないんですよね?」
「そうですね。薬で記憶を直接戻すことはできません。カウンセリングという方法もありますが、まずは安心できる環境で、ゆっくりと心身を休めることがなによりの薬です」
安心できる、環境。
狗塚は、黙って説明を聞いてる千秋の横顔をちらりと窺う。
透子にとっての『安心』。それは、やはり千秋だろうか。
けれど、と思う。
今の彼女にとっては、誰でも同じく知らない他人だろう。
それならば、千秋でなければいけないということはないはずだ。
「瀬谷さんの場合、外傷に対する治療や、火傷については引き続きケアが必要ですが……そちらの経過も良好ですので、明後日には退院可能です」
「記憶は、……戻りますか?」
それまで黙って話を聞いていた千秋が、主治医に視線を向けて尋ねた。
「……数時間で戻ることもあれば、年単位で戻らないこともある、としか申し上げられません。ただ、焦らず、なるべくゆったりと過ごしながら、徐々に本来の生活へと戻っていくことで、なにかしらのきっかけが鍵となって記憶が戻ることは充分考えられます」
「……なるほど。わかりました」
医師との面談を終え、エレベーターに乗り込んだところで千秋がおもむろに口を開いた。
「恋人のふり、もうやめていいわ」
「……え?」
「あの子への疑いも晴れたことだし、もういらないでしょ? 透子が覚えてないならちょうどいいじゃない。だいたい……」
「いえっ」
思わず、口を挟んだ。
千秋の言っていることは正論だった。
彼女に近づいて恋人というポジションに納まったのは、彼女が三月ウサギか、もしくはそれに連なる人間だと踏んだからだ。
彼女は、三月ウサギではない。それどころか、公安に協力する側の人間だ。
疑う要素は、なにひとつない。
今なら、彼女は何も覚えていない。手を離すなら、今ほどいいタイミングはない。
謝罪なら、記憶が戻った時にすればいい。わかっている。
それでも。
「……いえ、俺には、『責任』があるので」
「責任?」
「救出対象に……透子さんにケガをさせた責任を、取らせてください。退院後、引き続き身近で警護を続けます」
千秋は小さく笑って「責任ねぇ」と呟く。
軽い浮遊感と共にエレベーターが停止し、ドアが開いた。
「そうね、責任、取ってもらいましょうか。ついでに、その腕じゃすぐには使いものにならないわ。2週間、あの子と一緒に療養に専念なさい」
廊下へ足を踏み出した千秋は、「ただし」と続けた。
「あの子が、うん、と言ったらね」
◇ ◇ ◇
狗塚のマンションに連れてこられて最初に驚いたのは、エントランスにコンシェルジュが居たことだった。
『コンシェルジュの居るマンションは割と高級』
そんな知識はあるのに、自分の名前については相変わらず借り物のような違和感を拭えないままだ。
透子が、病院で目を覚ました日。
午後になって、病室にやってきた彼らは、名乗った後に透子が病院で目を覚ますに到った経緯を、ごく短く告げた。
狗塚と共に建物の崩落事故に巻き込まれ、頭を打って記憶を失ったのだ、と。
「瀬谷さん」と呼びかけると、「あなたも瀬谷さんよ」、と笑っていた千彰は従兄だという。
狗塚も千彰も、背が高いし格好いい。それが第一印象だった。
ただ、にこやかな千彰と違って、口元を引き結んでいる狗塚は、少しだけとっつきづらそうだと感じた。
その狗塚が、「明後日には退院できるそうだから、一緒に帰ろう」と言ったものだから、透子は小首を傾げた。
「一緒に……あ、送ってくださるってことですね。ありがとうございます」
なにしろ、自分の名前どころか、どこに住んでいるのかも知らない。
これまでどうやって生きてきたのかもわからない。
冷静に考えると、不安しかない。だから、透子はこまかいことを考えるのを放棄すると、へらりと笑ってお礼をのべた。
「いや、そうじゃなくて、……一緒に、住んでるんだ」
「……え、っと」
最初に名前は聞いた。
狗塚隆司。苗字が違うのだから、家族ではないだろうと考えていたら、警察手帳を見せてくれた。
お巡りさん。いや、刑事さんと言うべきだろうか。
その彼と一緒に居た時に、事故に遭って──一緒に住んでいる、とは?
「ちょっと、透子が混乱してるじゃない」
なぜか楽しそうに千彰さんが目を細める。
「あ、いや──婚約者なんだ」
千彰さんは咳払いすると、「プロポーズしたとは初耳ね」と再び咳き込んだ。
透子も初耳だった。そもそも、自分の名前すら初耳だというのに、初対面の男が婚約者だなんて、訳が分からない。
「……厳密に言えば、恋人、なんだ」
つまり、婚約はまだだけれど、もうプロポーズ目前の恋人同士だった、ということだろうか。
どこを切り取っても覚えていないのだから、はあ、と間の抜けた声と共に頷くしかなかった。
千彰は、「うちに来てもいいのよ」と言ってくれたものの、どちらに行こうとも記憶にない男だ。
両親も他界していて、帰る実家もないらしい。
それならば、元々一緒に住んでいたという相手のほうが、自分の持ち物もすべてある場所という意味で合理的な選択に思えた。
狗塚の部屋の前まで行くと、「カードキーでも開くんだけど」と言いながら、入口のドアを指紋認証で解錠する。見慣れない光景だからか、初めてお邪魔する場所だからか、なんとなく胸がざわりとする。
「お邪魔します」
丁寧に靴を揃える。置いてあったスリッパを履いてそろりと足を踏み出す。
短い廊下の突き当たりにある磨りガラスのドアを開けば、リビングにはレースのカーテン越しに柔らかな光が差し込んでいた。
十五畳ほどのリビング、連なるキッチンは対面式のものだ。
なるほど、たしかに二人暮らしにちょうどいい広さかもしれない。
「ピアノ、弾くんですか」
尋ねると、目を瞠った狗塚はそっと笑った。
「……?」
「ごめん。初めて透子さんがここに来た時も同じことを訊かれたなって。……最近は全然弾いてない。透子さんは、もし弾きたかったら好きな時に弾いて」
「私、……ピアノ弾けるんですか?」
「……子どもの頃、習ってたって言ってたよ。でも、聞かせて貰ったことはないかな」
人から自分の話を聞かされるのは不思議な感じだ。
そして、彼が確かに自分の軌跡を知っている人なのだというのを実感して、それもまた不思議な感覚だった。
「とりあえず座らない? お茶を入れるよ」
「あ、私やります」
狗塚さんは、骨折しているそうで、左腕を三角巾でつっている。
そんな怪我人にお茶をいれさせるわけにはいかない。
もっとも、今の透子はどこに何があるかを知らないから、説明してもらう必要はあるだろうけれど。
「お茶をいれるくらいは、片腕でも大丈夫。座って待ってて」
立っているのも手持ち無沙汰で、かといってキッチンに入っていくのも図々しいかと思い、キッチンカウンターのスツールへと腰を下ろす。
すると、狗塚は軽く眉をあげて、どこか懐かしむように微笑んだ。
これも、以前の私がしたことだったのかもしれない。
彼の入れてくれたミントティーは、猫舌でもすぐに飲める温度に調節されていた。