【完結】Alice.dat -ハッカーの彼女と公安の彼の騙し合い恋愛 嘘で始めた恋は本物になれますか?-   作:稀葉

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File.41 グレーテルの部屋

 シングルベッドだ。

 

 案内された部屋で真っ先に思ったのはそんなことだった。

 

 お茶を飲んだ後、室内(なか)を案内するよと、言った狗塚さんに室内をついて回った。

 お風呂、トイレ、ウォークインクローゼット、洗面所。お風呂にはシャンプーとリンスが二種類ずつ置かれていたし、洗面所には歯ブラシが二本と、女性用の化粧水やヘアオイルが並んでいた。そんなところにも、本当にここに住んでいたのだな、と思う。

 あれ? と思ったのは、寝室を案内された時だった。

 狗塚の部屋は、簡易的な書斎にベッドがあるようなレイアウトで、寝室というよりは、仕事部屋という印象だ。

 

「ここが透子さんが使っていた方の部屋だよ」

 

 室内は、がらんとしていた。

 物が少ない。真っ先にそう思った。

 ビジネスホテルのシングルよりは広いかもしれないけれど、そのくらいシンプルだった。

 そして、シングルベッドだ。

 狗塚の部屋にあったのはもう一回り大きかったようにも思うけれど、どちらのベッドにしても大人ふたりで寝るには窮屈だろう。

 思わず狗塚を見上げて、すぐに視線を逸らす。

 プロポーズも間近の恋人同士。しかも一緒に住んでいるともなれば、当然ソウイウ関係だろうと思っていた。

 

「どうかした?」

 

「いえっ……えーっと」

 

「うん?」

 

 ふたりで寝るのに狭そうですね、とも言えないし、どちらのベッドでするんですか、なんて訊けるはずもない。

 事実は置いておいても、感覚的にはまだ数日前に出逢ったばかりの男性だ。

 そんな相手と一緒に住むというだけで、結構なハードルを飛び越えたつもりだ。このうえ、こんな恥ずかしいことを訊けるはずもないし、それをしたいわけでもなかった。

 

「物が、そう、私の物がそんなにないのかなって。あ、クローゼットのほうに置いてますよね」

 

「物が少ないって、感じる?」

 

「え?」

 

「あ……いや。実は透子さんの荷物、まだ全部はこっちの家に持ってきてないんだ」

 

「ですよね。……え? 私の家、あるんですか?」

 

「言ってなかったっけ?」

 

 狗塚さんは、しれっとそう言って微笑んだ。

 

「言って、ないです。てっきり、私が帰れるのがここしかないんだとばかり……」

 

「……俺といるの、嫌?」

 

「嫌とかそういう問題じゃないというか」

 

「君にしてみれば、俺なんて初対面の男も同然だもんね」

 

 視線を落とした彼が、少し沈んだ声音で続けた。

 

「でも、頭を打って、ましてや記憶をなくしている君をひとりで居させるのも心配なんだ」

 

「嫌ではないので! ただ、なんていうか……ちょっといろいろついていけないというか」

 

 記憶がなくなった。

 それだけでも、人生においてかなりの大事件だ。

 そのうえ、以前の私には妙にハイスペックな恋人がいて、その恋人はプロポーズ間近だったという。

 鏡で見る自分の顔さえも、こんな顔をしているのか、と他人のように感じるというのに、どちらかといえば平凡にしか見えないその自分に、何がどうなってこんな恋人ができたんだろう。

 しかも──既に同棲中。すんなりついていけるような展開で、あるはずがない。

 

「……そうだよね。ひとりのほうが寛げるだろうから、部屋でゆっくりしていてもいいし、なんなら俺は自分の部屋にいるから、君はゆっくり」

 

「いえ。お話ししましょう。私、自分のことも、狗塚さんのことも、もっとちゃんと知りたいです」

 

 まっすぐ言うと、ひとつ瞬きをした狗塚さんは、ふっと笑みを浮かべて、そうだね、と頷いた。

 

「話を、しよう」

 

 

 

 改めて、リビングのソファーに腰を下ろす。

 狗塚さんはブラックの珈琲なのに、透子の分には当たり前にミルクと砂糖が入れられており、それがまた好みに合っていることに、ふたりが重ねてきた時間を感じる。

 

「なんて呼んでいたんですか? もしかして、た、隆司さん、とか?」

 

 思い切って下の名前で呼んでみると、狗塚はぴたりと動きを止めて、ぱちりと瞬いた。

 どうやら違ったらしい。

 

「いいね。そう呼んでもらおうかな」

 

「狗塚さんって呼んでたんですね」

 

「……うん、苗字に、さん付けだったね」

 

「付き合ってどのくらいなんですか?」

 

「初めて食事に行ったのがバレンタインの日だから……まだ一年は経ってないかな」

 

 二月に付き合い始めて、十ヶ月。それで同棲をしているのが、早いのか遅いのか、透子にはよくわからない。

 でも、一年も経たずにプロポーズを考えるというのは、割と早いんじゃないかと思う。

 

「あの、私って何歳なんですか? 狗塚さんよりは年下ですよね?」

 

「透子さんが25歳。俺が30歳だよ」

 

 25歳。そうか、25歳なのか。

 

 何歳ならしっくりくるかと訊かれると困るけれど、感覚的にはなんなら十代くらいの気さえする。

 もちろん鏡に映る自分の姿に、十代ではないだろうと思ってはいたけれど。

 

「思ってたのと違うって顔してる」

 

 指摘されて、両の頬を手で覆う。上目遣いに狗塚を見ると、「透子さんはわかりやすいんだよ」と微笑んだ。

 

「確かに。25歳って言われると、ちょっと、思ったより上な感じです」

 

「じゃあ30歳のおじさんが恋人っていうのは、さらにギャップがありそうだね」

 

「そんなの、狗塚さんはかっこいいからいいんです」

 

「……ありがとう。透子さんも可愛いよ」

 

 さらりと言った男は、マグカップを傾けた。

 かっこいいなんて言葉は言われ慣れている人の反応だ。

 

「告白は、私からですよね」

 

「俺からお願いしたんだよ。友達からでいいからって」

 

 意外すぎる言葉に、今度は透子が固まった。

 

「私のどこがよくて……いえ、やっぱりそれはナシで」

 

 ナシで、と言ったのに、彼は、透子がカフェでバイトしていたこと、朝、客を送り出す「いってらっしゃいませ」という声が元気いっぱいで気持ちよかったことから話し始めた。

 

「ふたりで出掛けるようになって、よく食べて、よく笑って、……普通の女性なんだなって思って」

 

「え? 普通じゃないって思ってたんですか?」

 

「いや……可愛いなって」

 

 かっと顔が熱くなる。

 氷を入れた冷たいカフェオレにしてもらえばよかったと思いながら、マグカップに口をつける。

 心なしか、舌に残る甘さが増している気がした。

  

 その後も、狗塚はぽつぽつとふたりの出来事を教えてくれた。

 狗塚のことは彼自身に訊けばいいけれど、自分のことは彼に訊いても案外よくわからない。

 人の(フィルタ)を通せば、どうしたってその人の主観が混じる。

 その瞬間、本当は自分がどう思っていたかなんて、結局自分にしかわからない。

 

 思い出したい、と思う。

 

 確かに狗塚は優しいし、そんな彼に恋をしていても不思議ではない。

 でも、自分が自分でないような感覚がする今、誰かに心を傾けるほどの想いはうまく理解できない気もした。

 きっと、好きだったんだろう。一緒に住んでもいいと思うくらいに。

 

「そうだ! ふたりの思い出の場所ってないんですか? ふたりの写真とか。そういうところ行ったら、記憶が戻ったりするかも」

 

「……あるけど、まずは家でゆっくりするのがいいと思うよ。お医者さんにもそう言われてたしね」

 

 カップに視線を落とした狗塚はそう言って、「そういえば夕飯なんだけど」と切り出した。

 

「前に透子さんが気に入ってたボンゴレのソースがあるから、パスタでいいかな?」

 

「いいですね。私、ボンゴレが好きだったんですか?」

 

「パスタなら、カルボナーラもよく食べてたよ。あと、鍋が好きだって熱弁してた」

 

 初めて一緒に食事に行ったのも鍋だったしね、と、狗塚はその時のことを思い出しているのか口元に笑みを浮かべた。

 鍋が好きだと、熱弁。

 それってどうなんだろうか。

 

「甘い物も好きでよく食べてたよ。チョコレートケーキも、ドーナツも。プリンは固めがいいって言ってたかな」

 

「私、すごく食いしん坊みたい」

 

「そうだね。おいしそうにたくさん食べるから、君を食事に連れてくのはいつも楽しかったよ」

 

 食いしん坊を肯定されるのは、少しだけ恥ずかしい気もする。

 けれど、どうやら狗塚にとっては、それもまた好ましい材料だったらしい。

 

「食べ物以外では、私、何が好きだったんですか?」

 

 そう訊くと、狗塚は「食べ物以外……」と呟いたきり考え込んでしまう。

 

 待ってほしい。

 そんなに食べ物ばかりが好きだったんだろうか。

 恋人が、すぐに思いつかないくらいに?

 

「ゲームが……いやでも、あれは違うか。……ごめん。案外俺は君のことを知らなかった」

 

 狗塚が申し訳なさそうに肩を落とすから、透子のほうが、食べ物ばかりですみません、という気持になってしまう。

 

「じゃあ、一緒に探す楽しみができましたね。私の好きなもの。それと、狗塚さんが好きなものも、たくさん教えてください」

 

 顔をあげた狗塚は、少し眩しそうに目を細めると、そうだね、と微笑んだ。

 

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