【完結】Alice.dat -ハッカーの彼女と公安の彼の騙し合い恋愛 嘘で始めた恋は本物になれますか?-   作:稀葉

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File.42 金平糖の精の裏のうら

 狗塚はケガの療養も兼ねて2週間の休暇を取ったと言っていた。

 その休暇も、半分に差し掛かっている。

 当初は一方的に知られているだけの相手だった狗塚は、友人と思えるくらいの距離にはなっていた。

 さりげなく気遣うのが上手な大人の男性。

 余裕があって、綺麗好きで、透子が包丁を使う部分だけ手伝えば、あとは料理だってすんなりこなす。

 難点が、見当たらない。そんな人が恋人だったなんて、やっぱり現実感がないなと思う。

 

 狗塚がトイレに立った隙に、そう伝えた透子に、「それは、ノロケてるわけじゃないのよね?」と千彰が訝しむように尋ねた。

 

「……今の話に、そんな要素ありました?」

 

 今日は午後から千彰がマンションを訪れていた。

 ケーキをたくさん買ってきてくれたから、ちょっとした自宅ケーキビュッフェ状態だ。

 先ほどから食べているのは透子ばかりで、ふたりが微笑ましくそれを眺めるという状況に、やっぱり自分は食いしん坊なんだと思う。

 だからといって手が止まることはなく、三個目のチーズケーキを皿に移した。

 

「まあ、必死なんじゃないの? なにしろ『恋人』を失うかどうかの瀬戸際なんだもの」

 

 透子はこてりと首を傾げた。

 狗塚が記憶をなくしたら、自分はすぐにフラれそうな気がする。

 けれど、今回は逆だ。

 狗塚をふる女なんて、想像がつかない。

 

 もっとも、彼に恋をしているかと訊かれれば、そうだ、とは、まだ言えない。

 ただ、ふとした時にドキドキして緊張はしているから、意識している自覚はあった。

 

「なんの話ですか?」

 

 狗塚がトイレから戻ってきた。

 

「恋する男は哀れよねって話」

 

「千彰さんっ」

 

「あら、さっきも言ったでしょ?」

 

 メガネ越しに切れ長の目を細めた彼は、「ちーちゃんって呼んでね?」と本日三度目の呼び方指導だ。

 

「……ちーちゃん」

 

 そう呼ぶのは、なんだかひどく恥ずかしい。

 親戚のお兄ちゃんを、小さな頃にそう呼ぶことは不思議ではないし、大人になってもそれが残るということはあるだろう。

 けれど、そういう思い出がまっさらにリセットされた大人の男性に対してそう呼びかけるのは、なんともいえない羞恥心を伴う。

 

「あら、珍しく素直。あの頃の姿を思い出すわぁ。可愛い」

 

「彼女はいつも素直ですよ」

 

 狗塚がそんな風に口を挟むから、ますますもっていたたまれない。

 

「そういえば、ち……、私、訊きたいことがあって」

 

「なあに?」

 

「アルバムとかってないんでしょうか? 私が小さい頃のとか」

 

「……どうして?」

 

「見たら、思い出すこともあるかと思って」

 

 狗塚との写真は結局一枚もなかった。

 唯一見せてもらったのは、狗塚と水族館に行った時に彼が撮ったという一枚だけ。そこに写っているのは、透子ひとりだった。

 透子のスマホも事故で壊れてしまったらしく、仮にクラウドに上げていた写真があったとしても、そうしているかどうかすら思い出せないのだからお手上げだった。

 

「さあ、どうだったかしら。でも……まずはゆっくりなさい。焦りは禁物。ね?」

 

 どこか有無を言わせない気配に、透子は頷いて、切り分けたチーズケーキを口に運んだ。

 

「そういえば、卒アルならあるわよね?」

 

「は?」

 

 話を振られた狗塚が、やけに大きな声をあげた。

 

「それを見せて貰ったらいいんじゃない?」

 

「あれは……。……はい」

 

「卒アルって、卒業アルバム? なんで狗塚さんが私の卒業アルバムを持ってるんですか?」

 

「……仕事で、借りたんだ」

 

 なにか捜査で必要になったんだろうか。

 なんにせよ、写真が見られるならそれが記憶を戻すきっかけになるかもしれない。

 

 それにしても、写真の話は狗塚にもしていたはずなのに、と訝しく思う。

 忘れていた可能性もあるけれど、先ほどのリアクションからすると、それとも少し違う気もする。

 

 千彰が帰宅した後に改めて尋ねてみると、職場にでも置いてあるのかと思われた卒業アルバムは、あっさりと透子に差し出された。

 

 ふたりでソファーに腰をかけて、アルバムを開く。

 以前は少しだけ離れていた距離も、今は時折肩にぬくもりを感じる距離になった。

 

「中学の、ですね」

 

「……そうだね」

 

 ページをめくる。

 セーラー服姿の自分自身。それすらも、顔ではなく名前で探す始末だ。

 

 記憶には少しも掠らない。

 校舎も、教師も、友達も。何を見ても、懐かしさの欠片も見当たらなかった。

 

 体育祭の写真で、ふと狗塚がページを指先でなぞった。

 

 写真を見て、透子をじっと見て、再び写真に視線を落とす。

 

 リレー待ちだろうか。 

 クラスTシャツを着ている中学生の透子は、髪が短くて、ともすれば少年めいて見えた。

 

「この写真が、どうかしましたか?」

 

「……いや。どこかで会ったかなって思ったんだけど、毎日会ってるしね」

 

 狗塚がおどけたように笑うから、透子もついつられて笑ってしまう。

 ひとしきり笑って、透子は気になっていたことを尋ねてみた。

 

「違ってたらごめんなさい。狗塚さん、もしかして私に思い出してほしくないって思ってたりしますか?」

 

 この一週間、透子は思い出せるきっかけを探しては狗塚に問いかけてきた。

 思い出の場所。思い出の出来事。手がかりになりそうな言葉。

 近い場所なら行ってみようと誘ってもみたけれど、彼は乗り気でないのか、それとも透子の体調を不安視したのか、結局どこにも行けてはいなかった。

 

 千彰にしてもそうだ。

 軽やかな言動ではあるが、透子のことを確かに心配してくれているのは感じた。

 記憶が戻らないことで不便はないかと気に掛けて、電話やメールをくれていた。

 今日だって、様子を見に来てくれたのだろう。

 その割に、記憶を戻すための写真ひとつとっても、どうにも協力的ではないように感じた。

 もちろん、卒業アルバムを見たのと同じく、子どもの頃の写真を見たくらいで、すぐに記憶が戻るとは思っていない。

 それでも、きっかけになることならなんだって試したい透子に反して、狗塚にしろ千彰にしろ、どうも腰が重く感じてしまう。

 

 狗塚は細く息を吐いて、膝に視線を落とした。

 言葉を、選んでいる。

 そう感じた。

 

「……迷ってるんだ」

 

「何を、ですか?」

 

 狗塚は透子に視線を向けると、その目をじっと覗き込む。まるで何かを探すように。

 

「思い出すことで……君が傷つくんじゃないか、とか」

 

「もしかして……私、犯罪者でした?」

 

「そんなわけない」

 

 即答した彼が、再び口を噤む。

 透子は狗塚の目をまっすぐ見つめて、なら、と口を開いた。

 

「私は、思い出したいです。狗塚さんとどんな話をしたのか。どんな風に……狗塚さんを好きになったか。ちゃんと、全部思い出したいです」

 

 狗塚は、ギプスのない右腕を持ち上げて、躊躇うように「触れても、いいかな?」と尋ねた。

 透子が頷くと、遠慮がちに抱き寄せられて、狗塚の腕の中におさまった。

 トクトクと鼓動が鳴る。

 彼の鼓動も同じように、少しだけ早い気がした。

 

「……君に、謝らなくてはいけなかったんだ」

 

 顔をあげようとすると、そっと制するように髪を撫でられる。

 だから透子はそのままで、「ケンカしたんですか?」と尋ねた。

 

「それならよかったんだけど。……俺が、悪かったと思う。君はひとつも悪くなかったんだ」

 

 要領を得ない答えだった。

 なんとなく、彼らしくないような気がした。

 そうして言葉をぼかすのが、故意なのか、それとも無意識なのかはわからない。

 けれど。

 

 透子は腕の中から逃れるように身を離すと、再び彼の顔を見つめた。

 思った通り、彼らしくない、少し弱気にも見える眼差しだった。

 

「許します!」

 

「え……」

 

 難点が、見当たらない。

 そう思っていた『大人の男性』が、初めて対等な人間だと感じて、透子は少し嬉しくもなっていた。

 

「記憶がない私じゃダメかもしれないけど、許します! きっと記憶がある私もそう言いますよ」

 

 笑みを浮かべると、狗塚も同じように微笑む。

 

「ありがとう」

 

 再び抱き寄せられて、今度はおとなしく腕の中におさまる。

 ふたりの鼓動は、さっきよりも早く鳴っていた。

 

 

 

◇   ◇   ◇

 

 

 

『思い出してほしくないか、ね。ふふ、記憶がなくてもあの子はあの子ね』

 

 電話の向こうで、千彰が愉しげに笑う。

 

『ずっと思い出さなくていい、とも言ってあげられないけれど、思い出さない方が平穏なのも確かね』

 

「……そうですね」

  

『無理はさせなくていいわ。でも、残念ながら、あの子の首輪をはずしてあげるわけにはいかないの』

 

 もしも記憶が戻らなければ、彼女はこの世界に自分の椅子があるかどうかなんてことを考えなくて済む。

 監視されることに変わりなくても、それを知らずに済めば、日々は以前よりも遥かに平和だ。

 同時に、組織にとって、脱兎の力は必須だった。

 その迷いを、透子は敏感に嗅ぎ取った。

 

『休暇が明けてひとりで居る時に、なにかが引き金(トリガー)になっても厄介だわ。ぼちぼち外にも連れ出してあげて』

 

「わかりました」

 

『ああ、それから。明日プレゼントを届けるわ』

 

「プレゼント、ですか?」

 

『そ。受け取りよろしくね』

 

 マイペースな上司は、それだけ言うと、通話を切り上げた。

 

 

 

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