【完結】Alice.dat -ハッカーの彼女と公安の彼の騙し合い恋愛 嘘で始めた恋は本物になれますか?- 作:稀葉
昼を告げるチャイムが庁舎内に響く。
事務方の担当ならばいざ知らず、普段ならあまりチャイムには左右されずにその日のスケジュール次第で昼を取る時間がまちまちとなる狗塚も、今日はこの音に従っての昼休みとなった。
保冷バックに入った弁当箱を取り出す。
以前はそのまま給湯室に持って行ってゴミ箱の上で傾けていたそれを見ると、僅かに罪悪感が蘇った。
息をついて、蓋を開けると、豚の生姜焼きとインゲンのおかか和え、プチトマトと卵焼きが彩りよく詰められていた。
今朝、透子が作った。
これは、今朝、彼女が作ったものだ。
もう一度心の中で繰り返して、箸を手にした。
休暇の残りは、あっという間に過ぎていった。
その間、東に車を出させて透子の部屋を訪れてみたものの、彼女の記憶が戻る気配もない。
「私、シンプル好きだったんですかね?」
自身の部屋にもやはり物が少ないことに違和感を覚えたのか、そう言って首を傾げていた透子は、水族館で買ってやった亀のぬいぐるみを大事そうに抱えてマンションへと戻った。
透子は案外ぬいぐるみが好きなようで、アクセサリーを贈るよりもぬいぐるみのほうが喜ばれた。
年齢感覚が本来よりも下がっているせいか、それとも元々の好みなのかは定かではないけれど、ここ数日間で彼女のベッド回りは亀に加えて熊や犬のぬいぐるみが増えて、可愛らしい雰囲気へと変わっていた。
この二週間で、片手で料理をするのにも随分と慣れた。
もっとも、野菜を切ったり剥いたりするのは、彼女のサポートがあればこそではあったが。
なにより、料理そのものが楽しみのひとつに変わっていた。
自炊をするのは、自身の健康管理と自衛のためだったが、彼女と暮らすようになってからは、おいしそうにたくさん食べるのを見るという楽しみが加わった。
透子の正体に疑念があった頃には、彼女の一挙手一投足も見逃さないようにと気を張っていた。
その緊張感から解放された今は、食事の時間は、どの料理を好むのか、どんな味付けが好きなのかを見極める以外は、他愛もないことを話しながら笑い合う時間となっていた。
「じゃあ、当分は事務作業だけするんですか?」
「だけとも限らないけど、この腕だと現場で予想外のことが起きた時に、対処が難しいからね」
「確かに。刑事さんだと危ないことも多そうだから、心配です。銃で撃ったり撃たれたりするんでしょう?」
自身が撃たれた経験を忘れ去っている今、彼女の思い描いているのは刑事ドラマの銃撃戦だろうか。
いくら警察官とはいえ、発砲する機会などそう訪れるものでもない。撃たれることはあるにはあるが、今それを口にして、徒に彼女の不安を煽りたくはなかった。
「ドラマじゃないんだから、滅多にそんなことは起きないよ」
ならよかった、と目を細めて、鯛のカルパッチョに箸を伸ばす。
初めて作ってみたそれに、おいしい、と彼女が目を瞬かすのを見て、また作ろうとひっそり心に決めながら、自身も箸をつけた。
「あ、狗塚さん、明日の昼ご飯なんですけど、よかったらお弁当を持って行きませんか? 私、作ろうかなって」
弁当。その単語にどきりとしたのを奥底に留め、「弁当?」とオウム返しした。
「はい。よかったら、なんですけど」
「朝から大変じゃない? 電車で行くから、結構早く出るよ?」
「大丈夫ですよ。……寝不足になったら、昼寝しちゃいます」
茶目っ気たっぷりに言った彼女は、今朝は早起きして、朝ご飯も作ってくれていた。
朝ご飯は、生野菜のサラダとミネストローネ、目玉焼き。それから、パックからだしたハムだった。
いただきます、と手を合わせ、彼女と共に口にした。
一緒には何度も作ったけれど、自分が見ていないところで彼女が作ったものを食べたのは、今朝が初めてだった。
彼女が、作ったものだ。
もう一度言い聞かせて、弁当に箸を付ける。
卵焼きを口に入れる。舌にのせて、慎重に咀嚼する。
ほのかに甘い。出汁の香りがするそれは、思った以上においしかった。
(こんなにおいしかったのか……)
以前透子が作ってくれていた弁当にも、おかずは毎度入れ替わってはいたけれど、卵焼きだけは毎日入っていた。
彼女の家での弁当の定番だったからか、それとも彼女の自信作なのか。
いずれにしろ、これを毎日捨てていたという事実に、改めて重い気持ちとなる。
全員出払っていて、室内には誰もいない。
ここに東でもいたら、弁当を口にしていることを茶化してきそうだが、幸い今日はその東が例の隣室に控えている日だ。
ゆっくりと味わって、米粒ひとつ残さずにたいらげる。
あの、どうしようもなく忌まわしい晩餐の記憶が、ほんの少し遠のいたように感じた。
◇ ◇ ◇
「おかえりなさい」
「ただいま」
玄関を開けると、スリッパをぱたぱたと鳴らして彼女が出迎えてくれた。
帰ってきて、「ただいま」という相手がいるのはいいものだな、と思う。
「君が居てくれてよかった」
「え……?」
「家に帰るのが楽しみになった。いや……でも、家を出るのが嫌になるのも考えものか」
独りごちる狗塚の前で、動きを止めた透子が、胸の前で手を握りしめていた。
「透子さん? どうしたの?」
「あ……、……一瞬、立ちくらみがして……」
「大丈夫?」
彼女の額に手を当ててみる。
熱はなさそうだ。
とはいえ、立ちくらみならば、転倒の危険もあるだろう。
狗塚はすぐに透子を抱え上げた。
「え、か……狗塚さん?」
そのままリビングまで彼女を運んで、ソファーの上に慎重に下ろした。
「吐き気ない? 目眩は? 今日は日中大丈夫だった?」
彼女の目が、どこか哀しそうに揺れる。
「今日、なにかあったの?」
彼女は視線をはずして、目を伏せると、小さくかぶりをふった。
「なんにも。なんにもないです。……大丈夫ですよ」
「そう? 夕飯はまだだよね?」
「……これから、作ろうかなって思ってたんですけど」
「いいよ、大丈夫。俺が作るから。……普通に食べられそう?」
「今日は、午後におやつを食べ過ぎちゃって……だから少なくて大丈夫そうです」
「了解。じゃあ軽めにリゾットでも作るよ」
その後の彼女は、食欲を除けばいつも通りの様子だった。
夜、彼女が自室に戻ってから、念のため東の元へと赴いてその日一日の彼女の様子を確認してみたが、特段変わった様子もなく、そのまま一晩様子を見ることに決めた。
様子を見るなどと決めたことを、後からひどく後悔する羽目になるなどとは、この時は欠片も思わなかった。