【完結】Alice.dat -ハッカーの彼女と公安の彼の騙し合い恋愛 嘘で始めた恋は本物になれますか?-   作:稀葉

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File.45 うさぎのおめめがあかいのは

 記憶が戻るという感覚は、例えばスイッチを切り替えるような、堰き止めていた流れを解放するようなものかと思っていた。

 けれど、体感してみると、濾過して透明になった水にゆっくりと絵の具をとかしていくような、そうしていつの間にか元に色に戻っていくような感覚だった。

 ただ、残念ながら、まっさら元の色には戻れない。透明でいた間に混ざり込んだ色が、あまりに鮮烈だったからだ。

 

 いってらっしゃいと『狗塚』を送り出した透子は、ここ数日の習慣となったコンビニへの買い物に出掛け、それから長い時間をかけてお風呂に入る。

 外に出ることを禁じられていないのは、三月ウサギの死で透子の安全が確保されたからか、それともアリス班の当番間で問題ないと判断されているのか、透子にはわからなかった。

 少し前の透子ならば、すぐに千彰に連絡して確かめたし、記憶が戻り始めた段階で真っ先に報告していただろう。

 それをしていないのは、千彰にも困惑して、じわじわと怒りを募らせていたからだ。

 

 『糸井』は『川村』で、『川村』は『狗塚』だった。

 今度こそ、本当の名前だろうか。──わからない。

 

 ただ、彼が警察手帳を見せて身分を提示した時、同じ警察官である自称従兄も同席していたのだから、少なくともその職業については信じてもいい気がした。

 

 わからないのは、婚約寸前だった、という設定だ。

 

「それ必要……?」

 

 小さく呟いて、ミルクの香りで白く濁った湯船のお湯をぱしゃりとはねさせる。

 

 お風呂に、監視カメラはない。

 このマンションで完全にひとりになれるのは、トイレと脱衣所とお風呂場だった。

 黙って考え事をするだけなら、リビングでもベッドの上でもできる。

 でも今は、狗塚や千彰から見えない場所で、ひとりきりになりたかった。

 トイレに長く籠もれば体調を心配されそうだし、消去法でお風呂にしたけれど、結局体調は心配されている。

 

 それはそうだろう。知らなかった頃のようには、きっと上手に笑えていない。

 

 狗塚は、千彰にどこまで聞いただろうか。

 少なくとも、透子が脱兎だということは知らされているはずだ。

 ならば、『アリス』のことはどうだろう。

 異世界から来ました、なんて普通信じられない。

 透子でも、何も知らずに相手がそう言い出したら、間違いなくメンタル面の心配をする。

 狗塚は、どうだろうか。

 

『恋する男は哀れよねって話』

 

 揶揄うように言っていた千彰の声が思い出される。

 

 誰が、誰に?

 

 狗塚が透子に恋をしているのだと、千彰はそう言っているのだと、あの時は受け止めていた。何も覚えていなかったからだ。

 実際記憶のない透子に接する狗塚の振る舞いは、想われていると思わせるには充分だった。

 

 透子が脱兎だとわかっている上に、千彰と狗塚が繋がっている今、ハニートラップを仕掛けるメリットもない。

 

 唯一考えられるのが、東の存在だ。

 

 カモフラージュ。

 対外的な恋人を透子にしておけば、狗塚はセクシャリティーを伏せておける。

 

 昨夜も、透子が「おやすみなさい」と自室に引っ込んだ後に、狗塚はそっと部屋を出て行った。

 もしかして、と思ってはいたけれど、今日、わかった。

 狗塚は、夜、東の部屋へと出掛けていた。

 

 狗塚を送り出した後、ゴミ置き場へと降りた透子は、同じく降りてきた東と顔を合わせた。

 

「狗塚さん、昨日、雑誌忘れていったので」

 

 そう言って渡されたのは、情報誌だった。見出しにはクリスマス特集の文字が躍る。

 昨日も普通に出勤して帰ってきただけの彼が、東の部屋に忘れ物をした。つまりそういうことだろう。

 東にしても、それをわざわざ言ってくることに、なんとなく違和感を覚えながら雑誌を受け取った。

 

「クリスマス、何か欲しいものあったりしますか?」

 

「え?」

 

「あ、彼女に……俺、まだ彼女へのプレゼント迷ってまして。女性の意見を聞けたらいいなぁって」

 

 彼女、いるんですか? と喉まで出かかってやめた。

 彼氏じゃなくてですか? と。

 それが失礼な発言だという良識と理性は、正しく発動された。

 

「好みがわからないと、難しいですねぇ」

 

「ですよねぇ……。瀬谷さんは、何が欲しいですか?」

 

「私は……」

 

 クリスマスを最後に祝ったのはいつだったろう。

 シフトに盛大に穴があきがちなその日は、大抵バイトに明け暮れていた。

 それよりも前には、千彰がアリス班のみんなを集めて、一緒にチキンとケーキを食べた。

 そういえば、初めてお酒を飲んだのも、クリスマスだったような気がする。

 

「私は、これといって思いつかないですけど……そろそろバイトを再開したいくらいですかね」

 

 会釈して別れてから、手の中の雑誌をぱらぱらとめくる。

 イルミネーション。クリスマスディナー。テーマパークの特別イベント。

 楽しげだけれど、縁のないものだ。

 

 何を思ってこの雑誌を買ったのか。

 それとも、狗塚が買ったわけではなく、東からの牽制だろうか。

 

 理由がわからないことは、無駄に思考のリソースを奪う。しかも答え合わせができないのだからタチが悪い。

 

 本当は、ひとつだけ答え合わせの方法に心当たりがあった。

 弁当だ。

 

『おいしかったですか』

 

『おいしかったよ。ありがとう。でも無理はしないで』

 

 昨夜も、そんなやりとりをした。

 卵焼きは、普通に作っている。

 以前と同じようにしょっぱくして、それについて「おいしかったよ」と微笑まれたら、今度こそ立ち直れない気がしていたからだ。

 

 乳白色のお湯を掌に掬い上げる。

 そろそろ上がらないと、のぼせてしまいそうだ。

 のぼせて、倒れて、頭でも打ったら、もう一度忘れてしまえるだろうか。

 

 じんわりと目頭が熱くなる。

 掌で顔を覆って、漏れ出そうになる嗚咽を抑える。

 

 答え合わせなんてしなくても、わかっていることだ。

 でも、理由にはできるだろう。

 

 手の中のカードを切らずにおけば、近くで笑っていられる。

 でも、そんな嘘は虚しくなるだけだ。

 

 さよならを、しよう。

 カモフラージュは他を探してもらう。

 千彰には、後から盛大に文句を言って、甘い物をたくさんご馳走してもらおう。

 でも、──あのドーナツは、二度と食べられない気がした。

 

 

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