【完結】Alice.dat -ハッカーの彼女と公安の彼の騙し合い恋愛 嘘で始めた恋は本物になれますか?-   作:稀葉

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File.46 うさぎはおうちにかえります

 ここ数日体調がいまひとつに見えた透子が、今朝はすっきりとした顔をしていた。

 目元が腫れていた気がしたものの、「寝過ぎてむくんじゃいました」と笑っていた。

 たしかに、昨夜彼女が自室へ戻っていったのは随分早かったし、それでよく眠れたならなによりだった。

 

 昼を告げるチャイムが響く。

 少し前に外から戻っていた東が、いそいそと自席で弁当を取り出している。

 パンを囓っている東にしては、珍しい光景だ。

 

「弁当、珍しいな」と言うと、すぐに破顔した。

 

「上司の愛妻弁当が羨ましいって話してたら、彼女が作ってくれたんです」

 

 そう言って蓋を開けた東は、感嘆の声が聞こえてきそうな顔で弁当を見つめていた。

 

 夕飯はもっぱら狗塚が作っているけれど、昼の弁当も作ったら喜ぶだろうか。

 ただ、そうすると透子の手料理が食べられなくなる。

 それはそれで惜しいと思いながら、狗塚も弁当を取り出した。

 今日のメインは、鶏の照り焼きのようだった。

 

「そういえば、瀬谷さんとクリスマスの話をしたんすよ」

 

「いつ」

 

「昨日の朝。彼女がゴミ捨てに出たので、自分もついてったんです。で、捨てようと思ってた雑誌がクリスマス特集で、話をふってみたんですよ。なにかほしいものはないのかって」

 

 一昨日の夜、報告を聞くために隣室を訪れた際、机に置かれたクリスマス特集の雑誌に目が留まった。

 その時に、透子へのプレゼントを迷っている話をしたのだ。

 

「それでか。お前、俺の忘れ物だと言っただろう?」

 

 昨夜透子に渡された時は、なんのことかと一瞬考えてしまったが、ここに話が繋がるのか、と遅まきながら納得する。 

 

「いやぁ、きっかけ作りで」

 

「不自然すぎだ」

 

「大丈夫です。ちゃんと彼女へのプレゼントの相談だって言いましたから」

 

 子どもが親や教師に誇らしげに報告するような顔で言った東は、揚げシュウマイを口に入れて、「うまっ」と声をあげた。

 

「それで? なにか欲しいと言っていたか?」

 

「それが、なにもないって言ってました。ただ、バイトを再開したいって言ってました」

 

 やっぱり退屈なんですかねぇ、と頷きながら、東は炊き込みご飯のおにぎりをぱくついた。

 

「バイト、か……」

 

 透子の手首は、そろそろ包帯をはずせそうなところまで来ていた。

 頭の外傷も心配はなさそうだし、記憶がなくても問題ないならバイトへの復帰も可能だろう。

 問題は、移動手段だ。

 彼女がひとりで電車に乗るのは難しい。

 これについては、カウンセリングに通わせる必要があるかを千秋と相談している段階だ。

 狗塚自身が回復したら、車で送り迎えをするのもやぶさかではないが、毎回彼女のシフトに合わせてとなると難しいだろう。

 せっかく隣室に彼女の護衛担当が詰めるならば、送迎も任せたいところだが、そうなると今の彼女に、自身が護衛されるような存在だというところから話さなくてはならない。

 どうしたものかと考えながら、箸で摘まみ上げた卵焼きを口に放り込んだ。

 

「──っ!?」

 

 急いで茶を含み、喉の奥へと流し込む。

 それでも、むせた。

 

 しょっぱいを通り越して、塩を口に含んだかという塩辛さだった。

 

「大丈夫ですか?」

 

「……ああ」

 

 残りの卵焼きをまじまじと見つめる。

 いつも通りの、黄色い綺麗な卵焼きだ。

 

 塩と砂糖を、間違えた?

 

 いや、そもそも彼女の卵焼きはほんのり甘い。この塩辛さの量は、ちょっと間違えたというレベルではないだろう。

 それならば、わざとだろうか? ──なぜ?

 

『おいしかったですか』

 

 透子の声が思い出される。

 

『……今日の、卵焼き、ちょっと甘すぎたかなって思って』

 

 そう言っていたことがある。あれは、まだ弁当を食べていなかった頃のことだ。

 あの時も、透子は毎日おいしかったかを尋ねた。

 

 おいしかったと答えても少しだけ落胆されているような気がして、感想が足りないかと考えた覚えがある。

 でも、あの時はあれしか言いようがなかった。なにしろ、一口も食べていなかったのだから。

 

 卵焼きは昨日と変わりない。見た目では、こんなに塩辛いなんて想像もつかないほどに、普通だった。

 

 試されて、いたのか? ──本当に食べているのかを。

 

「ちょっと出てくるっ」

 

上着をひっつかんで立ち上がる。

 

「え、狗塚さん?」

 

 追いすがる声に、後で連絡するとだけ言って部屋を飛び出した。

 早足で歩きながら、透子のスマホを鳴らしてみる。出ない。

 

 マンションの室内カメラにアクセスする。いくら切り替えても、彼女の姿が見当たらない。

 

 エレベーターが上がってくる時間すらもどかしい。

 今日の隣室当番は、高村だ。

 透子の所在を確認すると、お風呂に入っています、と返った。

 

 日中の風呂は、ここ最近の彼女の日課だった。長い時は二時間も入っているというから、よくふやけないなと変に感心しながらも、のぼせないように気をつけて、とだけ伝えていた。

 

 庁舎を飛び出して、タクシーを捕まえる。

 

 単なる間違いであってくれ、と願う。

 でも、量を考えれば、その可能性はきっと低い。

 

 いつからだろう。

 いつ、彼女の記憶が戻ったのか。

 

 渋滞した道路に、タクシーは一向に進まない。

 

「師走の五十日(ごとおび)ですからねぇ」

 

 少し申し訳なさそうに言う運転手と、バックミラー越しに視線を交わす。

 この時期は道路の工事も多い。五十日(ごとおび)が、それに拍車をかけているのだから仕方ない。

 そう言い聞かせてみても、気は急いて仕方なかった。

 

 立ちくらみがすると言ったあの日だろうか。

 あの日から、様子が違っていた。

 でも、少し体調が悪いと言っていたから、そのせいだと思い込んだ。

 なにより、その受け答えに違和感がなかった。

 

 彼女が、隠しながら話すということを、どれほど長く重ねてきたかを、自分はもう知っていたはずなのに。

 

 タクシーはいよいよ動かなくなった。

 

「ありゃ、お客さん、工事かと思ったら事故渋滞だ。どうします?」

 

 前方を窺うと、赤色灯が見える。

 警察官が車の流れをさばいてはいるものの、合流する地点ともあって、ここから更にかなりの時間がかかるのも容易に察せられた。

 

「ここで降ります」

 

 まだマンションまでは距離もある。

 それでも、走れば十五分ほどの距離だ。

 

 透子のスマホを鳴らしてみる。出ない。

 まだ風呂に入っていてくれと願う。

 

 タクシーを降りて歩き出す。

 早足で。その歩調もどんどんと速度を増し、ついには駆け出した。

 

 ひと足ごとの振動が、折れた肋と左腕に痛みとなって響いた。

 片腕を固定されていることで、思うように走れない。それでも、人にぶつからないように気をつけながら、最大限早く足を動かす。

 

 マンションのエントランスで、数字を打ち込むのももどかしく駆け込むと、コンシェルジュが目を丸くしている。

 その脇をすり抜けて、エレベーターのボタンを連打する。

 普段の自分なら、何度も押したところで早くはならないと嗤ったはずだ。

 でも、そうせずにはいられなかった。

 

 エレベーターがやけにゆっくりと降りてくる。

 階段で行くよりは、早いはずだ。

 そう言い聞かせながら、弾む呼吸を宥める。

 

 軽やかな音をたてて、エレベーターの扉が開き、息を呑む。

 透子が、いた。

 荷物は多くない。でも、どこか悲壮な顔に、近所へ買い物に行くわけではないと察せられた。

 彼女も、こちらに気づいて目を見開いた。

 

 言いたいことならたくさんあった。訊きたいことも。

 なにより、今ここに、彼女が居てくれることに安堵した。

 

「しょっぱかったんだ」

 

 真っ先に口から零れたのは、そんな言葉だった。

 

 

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