恋を知らずに死んだので、あの世で恋を買おうと思います。 作:稀葉
「わ、知らない名前ばっかり」
聡が柚を連れてきたのは、聡の店から歩いて二十分ほどの場所にある小さな焼き鳥屋だ。
こじんまりとしたその店は、路地の裏手、低徳エリアと中徳エリアの境目くらいに位置している。
「現世の酒蔵があるわけじゃないからな」
壁に張り出された酒の銘柄を見渡す柚にそう言うと、それもそうかと頷く。
夕方早い時刻だからか、まだ客はそう多くもない。カウンターの端に柚を座らせてその隣に腰を下ろすと、「さとちゃん、今日は早いじゃない」と店主がお通しの小鉢をカウンター越しに差し出す。
「男は五十からが本番だ」が信条の店主は、信条通りの姿で白い歯を見せて笑った。
「串盛りを適当に。ねぎま多めで頼む」
「タレでいいのかい?」
店主の視線を受けて、柚は「ねぎまはタレがいいです! それ以外はお任せで」と答えた。
「それと、おすすめの日本酒を冷酒で」
「お、イケル口かい。現世では何が好きだった?」
「
「おお、いいねぇ。じゃあいろいろ少しずつ飲み比べてみるかい?」
「はい、それでお願いします!」
「おう。さとちゃんはいつものかい?」
聡が頷くと店主がすぐに支度にかかる。
出されたおしぼりで手を拭きながら「さとちゃんなんですね」と、柚が楽しげに目を細める。
「まあ、それなりに通ってるしな」
「行きつけの店なんですね」
「まあな」
ほどなくして、柚の前には五種類のミニグラスが供された。黒い盆に並ぶ小さな切り子グラスの前には、付箋で酒の名前が貼り付けられている。
酔ったことはない。柚はそう言っていたけれど、度数の強いカクテルを既に二杯飲んでいる。
この店の開店を待つ間、聡の店の一階のカフェでアイスティーも飲んでいるが、本当にこのまま日本酒を勧めて大丈夫だろうか。
そんな心配を他所に、柚は香りを確かめてはひとつずつ味わう。
「気に入ったのはあったかい?」
串盛りを持ってきた店主に、「どれもおいしかったですけど、この中なら、『
酒に強いのは本当らしい。
「聡さんは何を飲んでるんですか?」
「俺も虎落笛だ」
「おそろいですね」
微笑む柚が「いただきます」と手を合わせ、数種類の串の中から鶏軟骨を選んだ。
「ねぎまじゃないのか」
「好きなものは最後のお楽しみかなって」
「ふはっ、また頼めばいいんだから好きなものを食え」
「じゃあ、これの次に。……うまっ、すごくおいしいです!」
柚がはす向かいにいた店主に届くように言えば、「おう! たんと食ってきな」と店主も応えた。
ルカに肩を抱かれて居心地悪そうにしていた姿よりも、活き活きとしていてずっといい。
「そういえば、聡さん。私、重大なお話があるんです」
真剣な声音に、聡も少しだけ佇まいを正して耳を傾ける。
「明日はクリスマスですよね?」
「まあ、日付的にはクリスマスイブだな」
クリスマスプレゼントのリクエストだろうか。
ここ数年は客の女にプレゼントを貰い、誰を同伴出勤にして、誰をアフターにするかを割り振る必要がある日になっていた。
柚との契約が入って、今年は店のクリスマスイベント中は出勤しないと決めていたが、肝心の恋人との時間については、これといって何も考えてはいなかった。
もっとも、今日は柚のホテルに花を贈ってある。彼女が帰れば部屋に飾られているはずだ。
花瓶が不要のアレンジで、女が好きそうなもの。そう依頼したから何が届いているかはわからないが、それなりに喜ばせることはできるはずだ。
「クリスマスの後には、あっという間にお正月です。恋人契約ってお正月休みとか、そもそも週休二日とか、どうしたらいいんですかね?」
「週休……二日?」
「はい。聡さん、お店にも普通に出勤してるって聞きました」
「ルカに聞いたのか?」
「そうです。お店でのお仕事もあるのに、休みなしで一ヶ月恋人やるのはさすがに……定休日とかあったほうがよくないですか?」
「柚は恋人に定休日があると思うか?」
「恋人に定休日はないかもしれないけど、ちゃんとお休みを取れているか気にするのは、恋人じゃなくても当然です」
「柚と会って出掛けるくらい、どうってこともない。まあ、用事でもあって会えない日があったら、その分の日数は延長すればいい」
「わかりました。なら、聡さんが無理がないようにしてください。お正月とか三元日くらいは休みたいとかあれば、遠慮なく言ってくださいね」
「そこは一緒に年を越しましょうとか、初詣に行きましょう、じゃないのか?」
「それは……」
珍しく柚が口ごもって、ほんのり頬を染める。
「なんだ?」
「実はここ何年か毎年祈ってました。今年こそは恋人ができて、来年の初詣に一緒に来られますようにって」
ささやかな願いが、いかにも柚らしい。
今年は叶うな、と軽い調子で言えば、柚は「でも今回限定なので、やっぱり今年も同じ願い事が必要ですね」と現実的な言葉が返った。
彼女が言う通り、契約は一ヶ月、初詣は一回きりだ。その通りではあるものの、そうすっきりと割りきったことを言われるのも、聡の方がすっきりしない。
物わかりの悪い女は面倒だが、よければいいというものでもないのかもしれない。
我ながら自分勝手だなと考えて、内心ひっそり苦笑する。
「なら、今年は俺も祈ってやるよ。来年の初詣は、柚が恋人と来られますようにってな」
「それは心強いですね! そろそろ神様にも本気だしてもらわないと」
二人ともグラスが空になり、追加の酒とつまみとを注文する。
鶏の炊き込みご飯を食べた柚は「ここ、ホントに何食べてもおいしいですね」と頬を綻ばせる。
「行きつけってことは、デートでもよく来るんですか?」
聡は、柚の言葉にふと動きを止めた。
どちらかといえば小汚い、お洒落さの欠片もない店だ。しかも、中徳のはずれもはずれのこんな場所に店の客を連れてくれば、自分は大事にされていないなどと拗ねだして面倒が増える予感しかない。
なんとなく柚を連れては来たが、我ながらよく連れてこようと思ったなと改めて思ってしまう。
「女を連れてきたのは、お前が初めてだ。女を連れて行くならもっとわかりやすい店にする」
「ふふ。なんか恋人っぽい台詞ですね。私は、わかりやすくないですか?」
そういう意味ではない。けれど、そういう意味にもとれるのか、と思いながら「柚はわかりやすくはないな」と口にする。
聡の知るセオリーがひとつもハマらない。
聡の言葉をどう受け取ったのか、柚は「そうですかねぇ」と首を傾げた。
「私は、好きな人たちとおいしいものを食べられたら、それで満足ですよ。だから今も大満足です」
そう言って笑った柚は、店主をつかまえて違う日本酒を飲んでみるらしい。
柚と店主がメニューを指差しながら話すのを横目に、聡はグラスに口を付ける。
「好きな人たち、ねぇ」
けれど、少なくとも、今そこに聡自身が含まれているらしいのは、悪い気はしなかった。
新たに出されたみぞれ酒に口を付けて、ぱっと目を輝かせた柚は、蒼いグラスの縁を指先でなぞる。店主おすすめの日本酒もお気に召したらしい。
「そういや、柚。サイの名前、本当に変えなくていいのか?」
昨日の今日で、園長の山下からは柚と聡宛に契約書のたたき台がメールで送られてきていた。そこには、命名権に触れた条項はない。柚の言葉通りではあるが、契約を交わしてからでは遅い。
確認する聡に、柚は少し考えてから、「戒名ってあるじゃないですか」と口を開く。
「戒名? サイに?」
「いえ。私のです。あれ、全然読めない上に長くって。しかも、はい、使っていいですよって言われても、自分のものには思えなくって。名前なんてひとつあれば充分じゃないですか」
柚の言葉は聡も身に覚えがあった。
こちらに来て最初にする手続きの書類には、確かに戒名の欄があった。
使わないことにしたせいではあるが、それがどんな名前だったのか思い出せない。
店に勤めだした時もそうだ。源氏名をどうするか訊かれた聡は、本名をそのまま使うことにした。
聡という名前に特別な愛着があったわけではない。ただ、今更違う名前を持ったところで、咄嗟に反応出来る気がしなかった。それだけだ。
「それは、まあ、わからなくもない」
「アンドゥさんもきっと現世で意味があってその名前がついたんでしょうし、本人が慣れてるのが一番ですよ」
「柚がそれでいいなら、いいんじゃないか」
「はい。それに、永年入場パスをつけてくれるみたいなので、もうそれだけで充分です」
機嫌よく笑った柚は、シャーベット状の日本酒をくっと飲み干すと、再び虎落笛を注文する。
結局ふたりでそれなりの量を呑んだはずが、柚はほんのり頬が赤くなった程度で、少しも酔ったようには見えなかった。
飲みっぷりに加え、丁寧にご馳走様でしたという柚は店主にいたく気に入られ、またおいでとの言葉にニコニコと頷いていた。
店を出ると、既に往来には酔っ払いも歩いている時刻となった。
柚と夜道を歩くのは初めてのことだった。
タクシーで帰るか尋ねると、聡さんが平気ならゆっくりお散歩がてら帰りましょうと笑う。
いつもなら、外では冷たい柚の指先が暖かい。酒のせいかもしれないが、足取りも受け答えもしっかりしており、やはり酔っている様子もなかった。
電車を乗り継ぎ、ヒガントンホテルまでゆっくりと歩く。
食事を済ませ、酒を飲んで、普通ならこのままホテルに行く。
機嫌よく歩く柚は、きっとそんなことを微塵も考えてはいないのだろう。
なんとなく癪で、繋いだ手をクイと引く。
少しも思い通りにならない女だ。でも、嫌ではない。
聡は、気に入らない客ならば、金払いのいい太い客でも同伴もアフターも応じない。
それが許される程度には、売り上げている。
ならば、柚ならどうだろう。
役所の紹介などでなく、もしも柚があの店に客として訪れていたならば。
「聡さん? どうかしました?」
「……このまま帰るのか?」
「そのつもりですけど……、あ、もう少し呑みますか?」
小首を傾げる柚には、少しの艶もない。
それなのに、振り回されている。そう思った。
こちらはこんなに振り回されているというのに、彼女ときたら「そもそも恋人って何をしたらいいんですかね?」などと言うのだ。
サイにはあんなに夢中なのに、聡についてはあっさりと最初で最後の初詣だと割りきって見せる。
少しは困らせてみたくなる。
聡は柚の腰を引き寄せ、「少しは恋人らしいこと、してみるか?」と囁く。
「え……?」
柚は逃げ出す気配もない。正面から抱き寄せると、ただ丸くした目をこちらに向けてくるばかりだ。
顔を寄せていくと、柚がぎゅっと目を閉じる。
そのまま口づけようとした瞬間、柚の言葉が聡の脳裏に過った。
『キスは?』
『ないです。そういうのは好きな人としましょう!』
寸でのところで思いとどまった聡は、柚をまじまじと見つめる。
ぎゅうと目を閉じたままの柚に、その気もないのに目を閉じるな、抵抗しろ、と毒づきながら、額に口づけた。
「……え?」
そっと目を開けた柚は、間近にある聡を見上げると慌てて身を引いて両手で額を抑えた。
「え? 今、キスしました」
「こんなもん、キスの内に入るか」
「……そうなんです?」
「当然だ」
もっともらしい顔で言う聡に、目を白黒させながらも、夜目にもわかるほどに柚の顔が赤く染まっていた。
「ほら、帰るんだろ」
手を差し出せば、一瞬考える素振りをした柚は、それでも手を握ってきた。
ぎゅうと握った掌の熱がどちらのものか、聡にはよくわからなかった。