【完結】恋を知らずに死んだので、あの世で恋を買おうと思います。 作:稀葉
ハッとしたように口を噤んだ聡は、少しだけ気まずそうに口の端を引き上げた。
「悪い。つまらんことを言った」
「つまらなく、ないです」
聡が、刺し殺された。
誰に。なんで。気にはなる。
けれど何より、聡の自嘲を湛えた眼差しに、その時の痛みが、今なお彼の内にあるように見えて、胸がきゅっと絞られる心地になる。
命日は『この世界に生まれた日』『再出発』の日だなどと考えていたけれど、奈月が言っていた通り、それは無神経な考え方だったかもしれない。
人は予想もしなかったことで、ある日突然命を亡くしてしまう。そんなことは、柚自身の身の上を考えれば、容易く想像できることなのに。
聡の胸元のタイピンの冷たい光が刺さる気がして、柚はそっと目を伏せた。
「そんな顔するな」
暖かい大きな掌が柚の頭を撫でる。
「柚が気にすることじゃない。……新年早々する話じゃなかったな」
「言いたくないなら、訊かないです。でも……気には、なります。聡さんのことなので」
そっと顔を上げてみると、聡が僅かに目を瞠る。
柚は、聡の傷に不用意に触れたいわけではない。でも、聞いてしまったことをまったくなかったことにするのは、難しいようにも思えた。
「……仕事絡みだ。恨みを買った」
恨まれた。それはどんな行き違いだったんだろう。
柚から見て、聡は優しい人だと思う。ぞんざいな物言いの裏で、こまやかに気遣ってくれる。その彼が、刺されて死ぬほどの恨みを買うのが、どうにもうまく結びつかない。
「聡さんなのに?」
柚の口から零れた言葉に、聡がふっと笑みを浮かべた。
「なんだそれ……。まあ、コンサルが読めるのは、所詮数字だけだった、ってだけの話だ。もう三年以上前の話だ。今さら柚が気にするようなことじゃない」
聡はそう言って話を切り上げた。
「山下さんには俺から連絡しておく。……食い終わったなら甘酒飲みに行くぞ。で、洗濯機やら冷蔵庫やら買うんだろ?」
「はい。……そうですね! 甘酒飲んで、買い物行きましょう」
冷たく澱む空気を払うように、柚は微笑んで腰をあげた。
◇ ◇ ◇
「え? 柚ちゃん今日お店行かないの?」
意外そうな奈月に、柚は「来るなって言われました」と息を吐いた。
そう言われたのは、昨夜、三が日の最終日、ホテルまで送ってもらった時のことだ。
元旦から三日まで、柚は連日聡と過ごした。
聡の仕事始めは一月四日。それを翌日に控え、柚は聡に「明日は、同伴とか、アフターとか。私もしなくていいんですか?」と尋ねた。
柚にしてみれば聡が売り上げを落としているというルカの言葉が気になって、店に行って売り上げに貢献すべきなのではと思っての発言だったが、手を繋いだまま足を止めた聡は、嫌そうに顔をしかめた。
「お前、アフターの意味をわかって言ってるんだろうな」
「閉店までお店でたくさんお
違ってました? と尋ねると、聡は、間違ってはいない、と目を逸らす。
「店に行くまでの時間に会うか、明日はナシだ。店に来られても、ずっとお前のところにいられるわけじゃない」
「聡さん、大人気なんですね」
称賛の眼差しを送ると、何かを言いかけて口を閉じた聡は、「お陰様でな!」とつまらなそうに返した。
クリスマスイベントには行かず、年末は早めに正月休みに入った聡だ。彼の
そう考えると、ここ最近、彼の多くの時間を独占している柚が店に行って、店の中でまで彼の時間を使わせてしまうのは、聡にも他のお客さんにも申し訳ないことなのかもしれない。
「私以外のお客さんも、大事にしないとですよね」
「お前……」
くいっと手を引かれ、柚はビルの壁に背を預けることになった。
柚の顔の脇に手をついた聡が、顔を寄せてくる。
心臓の音が、ひときわ大きくなる。
また、柚のリアクションを楽しんでいるに違いない。そう思って、負けないように聡を見上げると、額に口づけられた。
飛び退こうにも背後は壁だ。
バクバクと鳴る心臓に、逃げ道を探すように視線を動かすと、喉の奥で笑った聡は、柚の頬をひと撫でしてすぐに身を離した。
「むぅ、聡さん、私で遊ぶのやめてください」
「遊んでない。柚が可愛くないことばかり言うからだ」
頬が熱い。夜風は凍るほど冷たいはずなのに、きっと頬も耳も赤くなっている。それすらも、聡を楽しませる要因になるのが悔しいのに、この時間を楽しんでいる自分もいる。
すたすたと前を歩き出した聡の腕に飛びつくように掴まると、聡が軽く目を瞠る。驚き返すのに成功して気をよくしていた柚の頬に、聡の唇が触れる。
「なっ──……」
文句のひとつも言いたいのに、向けられた眼差しが優しくて、柚はそのまま口を閉じ、大人しく聡の腕に掴まっていた。
たったそれだけのことなのに、思い返すと頬が熱くなってくる。
そんなわけで、今日、予定が空いていたところに奈月からの誘いの連絡があり、先日の水槽のあるカフェでのお茶会となった。
「そっか、来るなって言われちゃったのか」
奈月は両手でマグカップを持ったまま、クスりと笑った。
「でも、聡の気持ちわかるな」
奈月はそう言って、はちみつラテをひと口飲むと、ゆるりと息を吐いた。
「聡さんの、気持ち?」
「うん。だってさ、柚ちゃん、わかってる? 今の時間ってさ、単なる契約だよ? 本気になっちゃ駄目って、ちゃんとわかってないと。傷つくの柚ちゃんなんだからさ」
奈月の言葉は、近頃柚もよく心の中でくり返す言葉だ。
これは契約。本気になっちゃ駄目なやつ。言い聞かせるように、くり返す。
『本気にはなるなよ?』
最初の頃に、聡にははっきりそう言われている。『聡さんもですよ』と反撃してみたけれど、『なると思うか?』と一笑に付された。
「なんか柚ちゃん、こういうの慣れてないように見えるしさ。このうえお店にまで来られたら、ちょっと迷惑なのかも」
なるほど、と思う。
聡のいる店は、一階はまだしも二階の雰囲気は柚には完全にアウェイだった。
シャンパンタワーは綺麗だったけれど、それを外から眺めているくらいが、柚にはちょうどいいだろう。
せめて売り上げに貢献、だなんて、おこがましかったかもしれない。
「そっか……てっきり柚ちゃん、今日は同伴するのかなって思ってたんだ」
「なんか、すみません」
「あ、ごめんね。いいの、柚ちゃんと会って、こうしておしゃべりしたかったんだ。そういえば柚ちゃん、今はどこに泊まってるの? まだ引っ越し済んでないんだよね?」
「はい。今は……」
言っていいものか。一瞬迷ったものの、奈月ならばいいだろうと柚は言葉を続けた。
「ヒガントンホテルに」
「……え? ヒガントン、ホテル?」
言うべきじゃなかっただろうか。僅かに強ばった気配を感じつつ、柚は「はい」と頷いた。けれど、次の瞬間破顔した奈月に安堵して、柚もミルクティーに口を付ける。
「すごいじゃん、柚ちゃん。私もビュッフェ行ったことある。あそこおいしいよね」
「そうなんです! 昨日まではおせちメニューだったので、お雑煮食べすぎてちょっと太った気がします」
「やだ、柚ちゃん! ……そういえば柚ちゃん、中学の頃よりも少しふっくらした?」
「中学の頃に比べたら増えましたよ。胸も人並みに育ってよかったです」
おどけて言うと、奈月がくすくすと声をたてて笑う。
「うん。あ、ごめん、変な意味じゃないよ。女の子らしい感じになったなって」
ごく自然なその笑顔の裏で、奈月が何を考えていたかなど、柚には少しも想像はつかなかった。