【完結】恋を知らずに死んだので、あの世で恋を買おうと思います。 作:稀葉
柚の新居への引っ越しから三日。あの日以来、顔こそ合わせてはいないものの、毎晩の電話は欠かしていない。
「片付いたならよかったな」
「普通の引っ越しよりもラクだったかもです。物もまだそんなに多くなかったですし」
「ああ、それはあるかもな」
柚と出逢ってから、まだ一ヶ月経っていない。それなのに、と思う。
中高生の恋愛かよ、と柚のことを笑えない自分に聡は苦笑するしかない。
この、夜のひとときを心待ちにしているのは、きっと聡だけだ。それでもいいと思えてしまうのだから、我ながら大概だ。
「手続きには行ったのか?」
「手続き?」
「センターに。転居手続きと種族登録。人で生きていくことに決めたんだろ」
当然のように言った聡に、柚は「あー、そうか……そうですね」となんとも歯切れの悪い返事だ。
嫌な予感に「まさか、まだ迷っているのか?」と尋ねた声には、ギリギリ焦りなど透けなかったはずだ。
「まあ……いえ、迷ってるってほどでもないんですけど。アンドゥがひとりで寂しくないか気になります」
またアンドゥか、と思う。
相手はサイだ。張り合う相手のように目くじらをたてる必要はない。
けれど、実際問題契約日数は残り十日余り。いまだサイに勝てる気がしないのだから、どうにも情けない。
「……俺は?」
それは思わず零れ出た問いだった。
「聡さんが、なんですか?」
「……俺が寂しくないか、とは、考えないのか?」
「聡さんが、ですか?」
スマホの向こうで、不思議そうに目を瞬かせている柚の顔が目に浮かぶ。
店の外でビルに背を預ける聡が注意深く耳を澄ませていると、息を溢すようなささやかな笑いの気配。
「聡さんはひとりじゃないじゃないですか。お店のお客さんもいっぱいいるし。こないだカフェで一緒にいた人も素敵でした」
もっともで、柚らしい真っ当な答えだ。
「ああ、あいつか……気になるか?」
少しは気にならないのか? とも訊けずに向けた問いは、「綺麗な人だなって思いました」と笑み含んだ声で返る。そこには少しの色も悋気も感じられない。
会わずに契約日数を引き延ばす。聡にすれば苦肉の策だ。
例えば週に一回だけ会えば、終わりを二ヶ月は引き延ばせる。でも、それに意味があるだろうか。こうして電話をしていても、焦れているのは聡ばかりだ。
「そういえば、聡さん。私、気になったんですけど」
「ああ」
「電話してるのに残りの日数が減らないって、聡さん、損じゃないですか?」
柚の言葉にはなんの含みも感じられない。そこにあるのは、純粋な心配や気遣いだ。
これでは駆け引きにすらならない。
「……損だな」
「ですよね」
「ああ、声だけじゃ、足りない。会いたくなって困る」
俺ばかりが、とまでは言えない。ましてや、柚も会いたいだろ、なんて軽口も言えなかった。
そうでもないです、などと言われればダメージを負うのは聡だし、そうですね、と言われて嬉々として会う約束を取り付けるのもなんだか癪だ。なにより、会いたいと言われたら、このまま店を放り出して、柚の元に向かってしまいそうな気さえする。
受話器の向こうでは、小さく息を呑んだ気配がした。そのまま落ちた沈黙に、「黙るなよ」と苦笑交じりに言うと、おずおずと「ドキドキ、しました」と返った。
きっと、顔を赤らめているに違いない。こんなひと言に揺れてみせても、柚は一向に落ちてこない。
物慣れない柚を、それらしく誘導して押し切れば、きっと恋人にはなれる。錯覚させて、それを本当だと思い込ませてしまうことも、おそらくできてしまう。
でも、そんなやり方は、ろくな結果を招かないと聡はよく知っていた。
もっともらしい話術で、目的の結果を引き出す。それが、あんな最期を引き寄せた。
なによりも、柚には柚自身の気持ちで、聡を欲しいと言わせたい。
ドキドキついでに落ちてこい、と思っていると、さすがプロです、と期待したのとは違う感嘆の声が返り、聡はゆるくため息を落とす。
「明日は会えるから楽しみです」
受話器の向こうの声が弾む。
聡も楽しみにしている。でも、会うほどに終わりが近づいてしまう。
そんな女々しさを隠すように「そうだな。どこか行きたいところがあるか考えておけよ」といつもの調子で告げる。
とりとめない会話は、柚の小さな欠伸の気配に「おやすみ」と終わりになった。
いつのまにか一時間も経っていて、聡は再び苦笑と共に白い息を吐き出した。
これまでほぼ毎日会っていたし、会わない日も電話で一時間以上は話す。
いい加減話題も尽きてしまいそうなのに、会うとやっぱり楽しいのは聡の会話が巧いのだろうと柚は思う。
柚は柚で、もう大抵のことは話したような気がするけれど、今朝待ち合わせに向かう途中に梅が綻んでいるのを見つけて写真を撮り、会うなり聡に報告した。
二人で入ったカフェで、モーニングセットのフレンチトーストを注文すると「朝っぱらからよくそんな甘い物が食べられるな」と聡が顔をしかめた。
聡が注文したのは、自家製ハムのクロックムッシュだ。
聡との食事の回数もそれなりに積み上がり、注文したそれを聡が気に入ったのか、それともイマイチだったのかは、ある程度表情と食べ方で読めるようになってきていた。
今日のそれは、かなり聡の心を捉えたようで、次に行った時には柚もそっちを注文してみようとひっそり決意する。
初めの頃には手を繋ぐのにも緊張したし、腰を抱かれて歩くと足の運びに迷っていた柚も、聡とそうして歩くのにもすっかり慣れた。それなのに、相変わらずドキドキしてしまうのは、聡が
戯れに柚の頬を撫で、髪に触れる。さりげなくキスをして、反応を愉しむように目を細める。そのたびに柚は、律儀に反応する自身の心臓を宥めながら、余裕綽々な顔をした聡を見上げて、不服ですと目で訴えるのだ。
「そういえば、こっちにも節分あるんですね」
目に留まったのは、寺院の節分イベントのポスターだった。
「そりゃ、クリスマスも正月もあるんだ。節分も、バ……」
「ば?」
「ばっちりある」
おかしな言い回しにクスりと笑った柚が「この場合、豆は何粒食べるんですかね? 死んだ年の数?」と尋ねると、聡は嫌そうに顔をしかめた。
「言い方。ま、俺はこっちに来てから豆まきなぞしてないからな。死んだ年の数食べる奴もいれば、こっちに来てからの年数で数える奴もいるんじゃないか」
「そうなんですね。ど……」
どうしましょうか、と訊きかけて柚は言葉を呑んだ。
節分の頃までこの契約が続くかは、ギリギリのラインだ。
昨夜、聡との契約の日数を指折り数えてみた。会う日数次第では、節分には届かない。
「どうするのが正解ですかね」
「まあ、そこは好きにすればいいんじゃないか?」
スマホに視線を落とす聡の横顔を見上げる。
この世界でも季節が巡る。クリスマスが過ぎ、正月が過ぎ、梅が綻ぶ。春が来て桜が咲いても、聡とはお花見に行けるわけではない。
夏に実るブルーベリーだって、食わせろと言ったあれも、『恋人』らしい台詞を言っただけで、真に受けるのは違うだろう。
なにしろこれは買った時間──契約なのだ。
友達ならば期限はないし、卒業したって会える。派遣先が変わっても、その後も呑みに行った人もいる。
でも、契約で人と付き合ったことのない柚は、その終わりの先がわかっていなかった。終わりは終わりでしかなく、そこまでの関係でしかない。
そう考えると、今の関係は随分と寂しいものに思えてくる。
無意識に繋ぐ手に力が入り、「どうした?」と聡が気遣わしげな目を向けてきた。
「いえ。夕飯、お好み焼きとかどうですか?」
今日は朝から会っているから、夕方解散という可能性もあるけれど、なんとなくそれも惜しい。
お店もいいけれど、家の方がゆっくりと時間を気にせず過ごせるだろうか。そう考えた柚は「ホットプレート買ったんです。うちでやりませんか?」と誘いかけた。
「それは……誘ってるのか?」
「はい。おうち焼き肉でもいいですよ?」
物言いたげな聡が、じっとこちらを見つめてくる。柚は何か失言があっただろうかと考えながら、その目をまっすぐ見つめ返す。
先に目を逸らしたのは聡だった。
「お前、男を軽く家に誘うな」
「夕飯に? 聡さんなのに?」
何か言いかけて一度口を閉じた聡は、溜め息を落とすと「俺でも、だ」と短く告げる。
聡が家に来るのは、何も初めてのことではない。
引っ越し前に家電の搬入の時にも一緒にいてくれたし、引っ越しの日にも来てくれた。
よく知りもしない男性を自宅に招くなど間違ってもしないが、聡ならばいいだろうと思ったそれは、どうも間違っていたらしい。
「なんか……すみません」
「まあ……あれだ、だいたいあの部屋でお好み焼きなんてやってみろ。絶対匂いが抜けなくなるぞ」
確かに広くもないあの部屋で、窓を開けられないこの時期にお好み焼きや焼き肉をするのは換気扇のパワーだけでは足りないに違いない。
「お好み焼きも食えて、海鮮焼きもうまい店がある。海老が絶品だ」
「海老! いいですね!」
海鮮の鉄板焼きは柚も大好きだ。聡の連れて行ってくれるお店はどこもおいしいし、今度はどんなところだろうとワクワクする。
けれど、先ほど落ちたしょんぼりとした気持ちは、柚の胸に小さな染みを残したままだった。