恋を知らずに死んだので、あの世で恋を買おうと思います。 作:稀葉
「めちゃ感じ悪かったですね!」
不動産屋を出るなり、鼻息荒くそう言った柚は地団駄まで踏みそうな勢いで歩き出した。
不動産屋で対応に出てきた男は、物件を探しているエリアから柚が高徳者であることをすぐに察し、いくつかピックアップして提示した。
ただ、話の流れで聡が中徳下層だと察してからの態度が、接客業としてはありえないあからさまなものだった。
最初は眉を寄せつつも話を聞いていた柚も、ついには「もういいです!」と席を立った。
「あのくらい腹を立てるほどでもないぞ。慣れてるから気にするな」
あの手の言動は、この世界では自身の資産──徳を減らす行為だ。次回の
因果応報。
だから、聡はたまにああいう輩にあたっても、内心ざまあみろと思うだけで腹も立たない。立たなくなった。当初はいちいち腹を立て、時には口論もしたし、そのせいで徳が減るのが納得がいかないとサポートセンターの窓口に乗り込んだこともあったが、今となっては笑い話でしかない。
「慣れないでくださいっ」
ふんすふんすと鼻息が聞こえそうなほどに怒っている柚を前に、なんでそんなに腹を立てるのかと不思議になってくる。
彼女はどちらかといえば温厚そうで、人と波風をたてるのを嫌うタチにみえる。しかも、下に見られ蔑ろにされたのは、柚ではなく聡だ。
「まあ、なんだ……かえって悪かったな。付き添ったのが俺だったせいだ」
柚は高徳者、つまりは上客だ。普通なら最大限の気遣いで接客され、こんな風に腹を立てて店を出る羽目になどなるはずもない。
「それは違います! 聡さんは1ミリも悪くないです」
柚は聡のために怒っている。今日会ったばかりの男のために。
なんでも大人しく言うことを聞くタイプでもないのだなと思いながら、聡は喉の奥で笑った。
「あ……お花屋さんなんてあるんですね」
ほんの今まで怒っていたはずの柚が、そう言って足を止めた。視線の先には小さな花屋がある。
店頭はポインセチアやリース型のアレンジに彩られ、大きなツリーが飾られていた。
「まあ、現世にあるものはほとんどあると思っていい」
「そうなんですね」
花束のひとつでもプレゼントしてやろうか。少しは恋人らしい振る舞いもすべきだろう。
そう考えて、なおも花屋を見つめる柚に、「寄っていくか」と尋ねる。
「あー……まだホテル暮らしですし、花瓶もないですし」
花瓶くらい買えばいいのに、と思う。なんでも買えるだけの
「買えばいいんじゃないか。花瓶くらい新居に持って行けるだろ?」
そう言うと、柚は花屋から聡へと視線を移して、ぴっと人差し指を立てた。
「いいですか、聡さん。物事には優先順位というものがあるんです。欲しいか欲しくないかよりも、まずは生活に必要かどうかを考える必要があります」
「真っ先に恋人を買った人間が言うと、説得力があるな」
茶化すように言えば、彼女は大真面目な顔で「確かに」と頷いて破顔した。
「でも今は花よりも、昼ご飯食べましょう。私、おなかすいちゃいました」
「それもそうだな」
頷いて、どこの店に連れて行こうかと思考を巡らす。
フレンチか、イタリアンか、懐石料理か。客を連れて行って喜ばれた店を脳内でリストアップしながら「何が食べたい?」と尋ねる。
女が喜びそうな、小洒落た、デザートまでおいしい店。和洋中何をリクエストされても、すぐに対応できるだけの自信はあった。
それなのに。
「あそこどうですか?」
柚が指し示したのは、小さな古びた食堂だった。女がランチを楽しむ店というよりは、サラリーマンが昼休みにサッと行って腹を満たす、そういう店構えだ。
店の前に行ってみると、そこそこ人は入っているから、まずくはないだろう。店頭には、今日の日替わりと書かれた黒板。生姜焼き定食、焼き魚定食(ぶりの照り焼き)、煮魚定食(かじき)、牛丼などの文字が並ぶ。
「ここでいいのか?」
「聡さんが嫌でなければ」
「構わんが……念のため言っておくが、俺といる時の飲食費は、パック料金に含まれている。高級な店でも追加料金がかかるわけじゃないぞ?」
「それも含まれてるんですか。そんなんで聡さんの取り分残るんですか?」
目を丸くした柚に「そこは問題ないから気にするな」と言うと、よかったと笑った彼女は「じゃあここにしましょう」と店内へと入っていった。
年配の男女が切り盛りする小さな食堂。壁には、店頭に掲げられていたもの以外にも、肉野菜炒め、回鍋肉、ベーコンエッグなど様々なメニューが一面に張り出されている。
柚は迷わず生姜焼き定食を選び、聡も同じものを注文した。
メニューのバリエーションは多いが、比較的同じ食材でまわせるものが多い。二十席にも満たない店舗なら、これで採算がとれるのだろう。
ついそんなことを考えて、今の自分には関係ないなと内心ひっそり苦笑する。
すぐに運ばれてきたのは、成人男性向けのボリューミーな定食だった。
こんなに食べられないです、などと言い出すのではないか。
過去の女性たちの言動を振り返りながらそんなことを思う聡の前で、柚は目をきらきらさせて、「いただきます!」と手を合わせた。
量に少しも怯んだ様子もなく、豚肉を箸でつまみあげて口に運ぶ。
軽く目を見開いた彼女の表情だけで、それが期待通りにおいしかったのだと見て取れた。
「おいしいっ! 甘さもちょうどいいです!」
食べてみると、生姜と胡椒をきかせつつも、甘辛加減が絶妙なそれは、いくらでも白米が食べられそうな味だった。
これは再度足を運んで他のメニューも試してみたいと思える店だ。
「さっきの花なんですけど」
向かいで食べ進めながら、ふと箸を止めた柚が口を開いた。
「買いに戻るか? 花瓶も買ってやるぞ」
「そうじゃなくて。花は、この世界でも花で生きてくって決めたってことですよね」
思いも寄らないことを言われ、聡は箸で持ち上げた生姜焼きを皿に取り落とした。
この世界に来て、一番最初に迫られる決断は、衣食住ではない。『何として生きていくか』だ。
人間ならば、この世界でも人間で生きていくのか、それとも何か違うものの生を歩むのか、この世界に来てから四十九日以内に決めなければならない。
犬でも猫でもそれは同じだ。実際、客の中には、元猫や元オウムだった人間もいる。
徳が高ければ性別や年齢も思いのままらしい。
そして、一度選んだら次に転生して現世に旅立つまでは、ずっとその姿でこの世界を生きることとなる。
「まあ、そうなんだろうな」
この世界に来てから、何度となく花を買ったことはある。でも、その花が、この世界で敢えて花の生を選んだ存在だなどとは考えてみたこともなかった。
「俺は人間以外ごめんだな。……迷っているのか?」
「まあ……猫もいいなぁって」
「猫?」
「家でゴロゴロして過ごせるし、働かなくてもご飯が出てくるし。可愛いし」
「今も充分可愛いぞ」
「ぇ……アリガトウ、ございます」
頬を染めた柚は視線を泳がせ、少し上擦った声で礼を述べる。
ホストを買った女とも思えないウブなリアクションを見ながら、聡は大口をあけて生姜焼きを口に運んだ。
「ただ、猫だと生姜焼きが食べられないじゃないですか」
「そんなに好きか。生姜焼き」
「いえ、特別大好物ってことではないんです。ただ、こういうおいしいものが食べられなくなるのは大損失だなって」
柚は真剣な顔で言いながら箸で摘まみ上げた玉ねぎを口に運ぶ。
もぐもぐと咀嚼して飲み込むと「それに」と言葉を続けた。
「猫はネギが食べられません」
聡は段々真面目に取り合う必要はないのではないかと感じながらも「ネギが好きなのか」と尋ねた。
「私、焼き鳥は断然ねぎま派なので。そう考えていくと、やっぱり人間がいいのかなぁって」
「まあ、自分の意志で好きに生きていくなら、人間が一番じゃないか?」
「そうなんですよねぇ」
ましてや、一億もの徳があれば、人間の中でもかなり自由に生きることが許される上位層だ。
迷う余地があるほうがおかしいだろ、と思いながら、聡は最後の白米を口にかきこんだ。
少し遅れて食べ終えた柚も、「お腹いっぱいです」と腹を撫でてから、ご馳走様でした、と手を合わせた。
帰りの会計でも、柚は店の女性にも「おいしかったです! ご馳走様でした」と声をかけ、聡にも「ご馳走様でした」と頭を下げた。
「金を払ってる人間がいちいち『ご馳走様』だの言う必要はないだろ」
ご馳走様でした、と女に言われることはある。
媚びを含んだ笑みを浮かべ、感謝よりも、その後の夜の時間への期待が透ける表情。
だから、こちらも薄く笑みをはく。
けれど、柚の言動は、金銭の絡まない、どこか子どもじみた物言いに見えた。
「んー、食べる前のいただきますとご馳走様は、命をいただくんだから言うべきだって親に言われました。お店の人に言うのは……うーん、おいしかったです、って感謝ですかねぇ」
「そんなにあちこちに愛想を振りまく必要があるか?」
「愛想? 愛想なんですかねぇ……まあ減るもんじゃないし」
けろりとした顔で言った柚は、再び腹を撫でながら店を出た。
空腹が満たされて満足げな顔の柚を見下ろして、聡は自分が恋人どころかホストとしての職務すら、ここまでひとつも果たせていないと少しばかり焦りだした。
不動産屋では自身の存在が足を引っ張り、花を贈り損ね、食事をしたのはお洒落さの欠片もない食堂だ。
少しは巻き返さなくては、立つ瀬がない。
さてここからどこにエスコートすべきかと考えながら、なにげなく細い腰に手を添えると、柚が「ひぇ」と飛びすさった。
「は?」
「あ、すみません。ちょっとびっくりしました」
腰に手を添えただけで?
えへ、と照れたように笑う彼女をまじまじと見下ろす。
「お前、恋人を買ったんだよな? 念のため確認するが、お前の恋人の定義は?」
「定義、ですか?」
意味が分からないという顔で小首を傾げる女に、軽く頭痛を覚える。
「寝るまでセットか?」
「寝るって……まさか」
「セックスもありかと聞いている」
「ないないない! ないです!」
赤い顔で首を振る柚の姿に、聡は彼女が自分の思い描くイロコイよりも遥かに離れた場所に立っているような気がしてきた。
「……なるほど。キスは?」
「ないです。そういうのは好きな人としましょう!」
「ハグは?」
「……状況次第?」
「まさか手を繋ぐのも?」
「それは、いいんじゃないでしょうか」
「ガキの男女交際か。まさか男と付き合ったことがないなんて言うんじゃないだろうな」
「それはさすがに……その通りです」
否定しかけた柚は、赤い顔のまま照れ笑いを浮かべて肯定した。
「……。……なるほど」
「……すみません。買っておいてなんなんですけど、実際問題恋人ってよくわからなくて。なので、何か変なことあれば教えてください」
「買った側が気にすることじゃない。むしろ、希望があれば言えばいい」
「希望……」
「例えば……なんて呼んでほしい? 柚、柚さん、寺門さん……姫?」
からかうように笑って言うと、柚も釣られたように笑った。
年の割にやや幼さはあるけれど、笑顔は悪くない。
恋人のひとりやふたり、居てもおかしくなかっただろうに。
「好きに呼んでくれていいです。……あ、姫以外で」
「じゃあ、柚」
「はい」
「なんで俺を選んだ? もっとちょうどいいのがいただろう?」
店に在籍する男は二十人はいる。
聡を指名する女の多くは、男に尽くす方が好きだとか、身体の関係を期待してのことが多い。
実際柚の考える中高生の男女交際なら、もっと優しげな男を選んだほうが要望に近かったのではないか。
「三途さんに勧められて」
「三途を信じ過ぎだろう」
いくら
公的施設の信頼を差し引いて考えても、どうかと思う。
眉間に皺を寄せる聡に、柚はおずおずと口を開いた。
「でも、聡さんでよかったです。サイの話を笑わずに聞いてくれたし、一緒にご飯食べてくれたし。残さずご飯食べる人、私は好きです」
イロコイにはほど遠いままの笑顔で、まっすぐに言った柚に、「……なら、いい」と答える。
それでも、三百万に見合うだけの満足を与えるにはどうしたらいいか。
聡は邪気のない笑みを見下ろしながら、あれこれ思考を巡らせ始めた。