恋を知らずに死んだので、あの世で恋を買おうと思います。 作:稀葉
動物園デートの朝。
待ち合わせの二十分前にホテルに着いた聡の目に飛びこんできたのは、大きなトートバッグを手に浮き足立つ柚の姿だった。
遠足に向かう子どものような表情に笑いをかみ殺しながら近づくと、朝の挨拶もそこそこに「行きましょう!」と気合い充分な柚に、抑えた笑いがつい漏れ出した。
聡がこの世界の動物園を訪れるのは初めてだ。
客との逢瀬では、まず選択肢に上がらない先だし、動物が好きだという女が行きたがるのも、せいぜい猫カフェや犬カフェくらいだ。現世の時には、そんなカフェにすら行ったこともなかった。
聡も動物園の記憶は小学校の遠足くらいのものだったが、この世界の動物園はその記憶よりも動物たちの展示スペースがゆったり作られている。植栽もふんだんで、時にはそこに居るはずの動物がなかなか見つけられないほどだ。
柚は映画や買い物に連れて行った時より目を輝かせ、時にはその動物の豆知識を口にする。
こんな場所での恋人らしさが、聡にはよくわからない。
そっと周囲を窺えば、カップルも多い。寒空の下、頬がふれるほどの距離で展示場を見ていたり、体を寄せて歩いている。
自分たちはといえば、手こそ繋いでいるが、放っておくと駆け出して行ってしまいそうな柚を繋ぎ止めているにすぎない。
三百万の価値の提供。どうにもそこには届いていない。
なにより、聡にとっての計算違いが、なおさら落胆を深くさせていた。
「そろそろお昼にしませんか?」
柚の言葉に、聡も「そうだな」と頷く。
柚は芝生にレジャーシートを広げて食べるつもりだったようだが、聡は休憩用に設置されている屋内の椅子とテーブルでのランチを提案した。
いくら断熱用のレジャーシートでも、外で食事を楽しむような季節でもない。
建物に足を踏み入れた途端、柚がホッとしたように肩の力を抜いたのを見て取り、聡は柚の頬に手の甲を押し当てる。
「あったか……聡さん、手を繋いでた時も思いましたけど、手あったかいですね」
「柚が冷えてるんだろ」
思った通り、ひんやりとした柚の頬に呆れ混じりにそう言うと、半歩身を引いた柚は「お弁当食べましょう!」とテーブルに置いたトートバッグから弁当を取り出す。
柚の頬に赤みが差しているのは、外気が遮断されたせいばかりではなさそうだ。
柚がテーブルに置いた弁当箱は、弁当箱というよりも少し大きめのタッパーだった。
正方形の重箱サイズのそれをふたつと、アルミホイルのいくつかの包み。
聡はこれまで料理アピールの余念のなかった女性たちが作ってきたものを思い返す。
弁当を作ってくる女は、雑誌に出てきそうな彩り豊かな盛り付けをしていたし、こんな風にタッパーで料理を作ってきたという女は、容器の割には横文字の長い名前の料理を詰め込んできたこともある。
いずれにしろ肝要なのは、誉めること。見た目を誉め、味を誉め、労力を褒め称える。
聡は、柚が蓋を開けるのを、そんな心の準備で見守った。
「昨日好き嫌いを聞くの忘れちゃって。でも一緒にいる時にわりとなんでも食べてそうかなって思ったので、私が好きなものにしちゃいました」
ひとつには、唐揚げとウィンナーと、タレのからんだ茶色く楕円の平たいもの。もうひとつには、小さな球状の揚げ物に、卵焼き、ブロッコリーとプチトマト、りんご。
どれも、盛り付けというよりは縦一列ずつに区切られて詰められている。
目で楽しませようという気概はまったく感じられない。ただ、オーソドックスなそれらは、とても彼女らしいようにも思えた。
「うまそうだな」
「おにぎりは、梅のとおかかのにしました。聡さん、梅干し平気ですか?」
「ああ。好き嫌いはあまりないな」
「ならよかったです。それと、こっちがコーヒーで、こっちがほうじ茶です」
大きな水筒が二本。
トートバッグは聡が持ってやってはいたが、弁当だけにしてはずっしりしていて、どれだけたくさん作ってきたのかと少し身構えていたのだ。重かったのは、どうやらこの水筒のせいだったらしい。
紙コップに注いだ茶からは、まだ熱そうな湯気があがった。
「これはなんだ?」
茶色い謎の平たいもの。煮物にも照り焼きにも見えるそれを指すと「芋餅です。ポテトボールだけのつもりが、ジャガイモふかしすぎちゃったから、ついでに作っちゃいました」と照れたように笑う。
さっそく箸を手にする聡の前で、柚はいただきますと手を合わせる。
今更、箸を引っ込めて手を合わせるのも気まずくて「いただく」とだけ声をかけ、唐揚げをつまむ。
「うまいな」
しっかりとした味で、肉にきちんと下味をつけているのが感じられる。
ニンニクと生姜がきいていて、冷めていてもおいしい。これが揚げたてなら、白米がいくらでも食べられそうな気がした。
「ですよねぇ。おいしくできました」
少しの謙遜もなく、柚も唐揚げを頬張る。
「聡さん、玉子焼きは甘い派しょっぱい派どっちですか?」
「両方好きだ」
本当は甘い方が好きだ。でも、柚の作ってきたのがどちらかわからない以上、両方と言っておく方が無難だろう。実際、拘りはない。
「そうなんですね。私、自分で作る時は断然甘い玉子焼き派なんです」
ん、おいしい、などと言いながら、柚は大口を開けて玉子焼きを食べる。
芋餅もジャガイモがきちんと潰されていて、もちもちしている。甘辛のタレも絶妙だった。
キラキラした弁当ではないが、揚げ物だの、芋餅など、手間が掛かっている。しかも、どれも本当においしい。
「芋餅、うまいな。朝から大変だったろ?」
「まあジャガイモ蒸かして潰すのは手間と言えば手間ですけど、これってうちのお弁当の定番なので。お口にあったならよかったです」
柚はそう言って唐揚げを囓った。そこに躊躇はない。
ふと、柚の言葉を思い出す。
『花は、この世界でも花で生きてくって決めたってことですよね』
ならばこの唐揚げ──鶏も、鶏として生きることを決めたということになる。
花に対してどこか感慨深げだったわりに、肉を食べる柚にそう言ったものは微塵も感じられない。
「……気にならないのか?」
「何がですか?」
「肉。花と同じで、この世界で鶏になることを選んだのだなとか。それを食うことは気にならないのか?」
聡の言葉に、柚はもぐもぐと咀嚼しながら自身の弁当に視線を落とした。
飲み込んで「気にならないです」とけろりと答えた。
「動物園の動物も、それを選んだんだなぁとか、動物園がよかったんだなぁとは思いますけど、それだけです。だって、そこを気にしたら、ブロッコリーだってトマトだってそうですよ? 食べる物なくなっちゃいます」
そこには上下や哀れみがあるわけではなく、ただ彼女なりの線引きがあるのだなと理解した。
可哀想です、と口先だけで言いながらも食べるより、よほど潔くて腑に落ちる。
「そのかわり、なるべく残さないです」
「ふっ、なるべくなのか」
「はい……なるべく」
絶対に、と言わないところが正直で好ましい。それがなんだか可愛く思えて笑いが漏れる。
タッパーがすっかり空になった後、ご馳走様でした、と手を合わせる柚の向かいで、聡もなんとなく手だけは合わせた。
満ちた腹をさすりながら、聡はおもむろに口を開く。
「そういえば、……すまなかったな」
「なにがですか?」
「サイ。見たかっただろ」
「見たかったですけど、いないんだから仕方ないです。それにコアリクイの威嚇、初めて見られたので大満足です」
先ほどふたりで見たコアリクイの姿を思い出す。立ち上がり、小さな体を大きく見せようと両手を広げる姿は愛らしいばかりで、威嚇とはほど遠かった。
柚も、怒ったとしても迫力に欠けそうだ。そんなところは、コアリクイに似ているかも知れない、などと考えながら、聡は柚が喜びそうな、けれど残念がりそうなことを伝えた。
「……いるんだ、サイ」
「いるんですか!?」
柚の目がきらりと輝く。本当にサイが好きなのだな、と改めて感じ、なんとなく申し訳ない気持ちになってくる。
「……いる。ただ、まだ公開してないらしい」
今日来てすぐに動物園の案内パンフを手にした聡は、柚にサプライズを仕掛けたくて、それを柚に見せなかった。
けれど、パンフにはサイのサの字もなく、すぐにそっと動物園のスタッフを捕まえて確認したのだ。サイはどこか、と。
来たばかりの動物は、調整期間があるので見られない。公開日も未定です。
それが職員の答えだった。
「そうなんですね。じゃあ公開したら見に来ないと」
「命名権や記念撮影権を売りに出すそうだ」
「命名権?」
「獣舎を整えるのに費用が足りないらしい。記念撮影権やら、記念品やらでクラファンをする予定らしい」
「獣舎……クラファン、集まらなかったらどうするんですかね」
「どうにかはするんじゃないか。サイが来ちまってるんだから」
柚は少し考えるように視線を落とす。
「買えますかね?」
「……サイをか?」
「違いますよ。……命名権とか、いろいろ。詳しいお話、聞いてみたいです」
「本気か?」
「もちろんです!」
普通なら飛び込みでそんな話はできないだろう。
でも柚は普通ではない額の徳持ちだ。しかも、ひやかしではなく、本気で出資するつもりだろう。
聡は、敢えて電話で問い合わせ、ある程度の出資の意思をちらつかせながら話を持ちかけた。
動物園に居ることを伝えれば、園長が時間を作るとのことだった。
話の持って行き方次第で、今日柚にサイを見せてやることもできるのではないか。
少しは良いところも見せたいと思いつつ、聡は柚を伴い、動物園の職員棟へと足を踏み入れた。