恋を知らずに死んだので、あの世で恋を買おうと思います。 作:稀葉
聡が柚と共に通された部屋は応接室とは名ばかりの、簡素な部屋だった。
いくつかの長机とパイプ椅子、それにホワイトボード。客を通す場所には見えないが、動物園の事務スペースであることを考えればこんなものかもしれない。
園長は生徒会長でもやっていそうな若い男だが、この世界では見た目の年齢など当てにならない。
柔和な笑みを貼り付けてはいるが、支援候補者の本気を測りかねている眼差しだった。
「園長の山下です」
「
先ほどまで動物を見てはしゃいでいたのと同一人物と思えないほどに、落ち着いたトーンで挨拶をする柚に、聡は一拍出遅れた。
支援を申し出る側があまり
「よろしくお願いします」
向かいに座った山下は、聡に半身を向けて「サイの命名権の購入を検討していると伺いましたが」と話し始める。どうやら支援をするのは聡だと思っているらしい。
それはそうだろう、と思う。
服装こそふたりともラフな格好ではあるが、柚と並べば支援するのが聡に見えるのは当然だ。
いったん相手の出方を見たい。そう考えて、聡は敢えて訂正することなく話を進めた。
「ええ。クラファンで獣舎を整えるご予定だそうですね」
「はい。現状サイを展示するためのスペースが足りず、いったん空いているバックヤードを使っているんですがいかんせん手狭で設備が足りず……」
「それで、命名権、ですか」
「それだけではとても賄いきれませんので、他にも記念品などいろいろと検討しております」
「そうなんですね。命名権はどのくらいの徳をお考えですか?」
「三百万ほどで考えております」
三百万。たかがサイの名前をつけるだけにしては、随分と強気の価格だった。
たとえばサイに企業の名前をつけたところで宣伝効果は薄い。もっとも、社会貢献をしているアピールにはなるだろうなと頭の中で電卓を叩く。
「あの、三百万じゃ獣舎は整えられないですよね? 全部でいくらかかるんですか?」
それまで黙ってふたりのやりとりを聞いていた柚が口を開いた。
「……二千万ほど、足りない状況です」
「二千万……、それで運動場が広くなるとかですか? 最低限ってことは、それでは足りないということですよね?」
「ええ。草を植えた広めの運動場、それから、獣舎に冷暖房とシャワーを設置するのが最優先なので、まずはそこから手を付けるつもりです」
柚は「最優先……」と呟いて、なにやら考え込んでいる。
聡としても、小出しの情報では全体の把握ができない。何を必要としているのか。それがいくらで、どこまで出来るのか。企業でいうところの、事業計画書があるはずだ。
「計画書を拝見しても?」
「構いませんが……命名権の購入だけをお考えではないんですか?」
聡は柚に視線を送る。柚が小さく頷くのを確認してから、園長に向けて営業スマイルを浮かべた。
「どの程度お力になれるかわかりませんが、いったん全体を把握して、そこから検討させていただけますか」
本気で検討していることが伝わったのか、山下はすぐに書類の束を持ってきた。
「こちらが役所から私どもへの申し送り書、こちらが設備計画書です」
申し送り書には、サイが生前もインドサイであったことが記載されていた。
動物園生まれの動物園育ちで、野生で生きることも、他の種族になることも望まなかったと書かれている。
つまりは、柚の言うところの『飼われたいサイ』ということだ。
設備計画書では、バックヤードの床暖房と温水シャワーまわりの設備が特に大きな金額を占めているのが読み取れる。
熱心に紙をめくる柚が「……運動場に水場がないですね」と呟いて手を止めた。
「水場で水に浸かるのと、泥の上でごろごろ転がるのが好きって書いてあります。これだとできなくないですか?」
申し送り書と計画書とを交互に見て柚が質問すると、「おっしゃる通り、水場の設置は今回の計画に含まれていません」と答えた山下は、少し困ったように笑った。
「その代わり、自由に行き来できるバックヤードスペースにシャワーを設置するつもりです。冬場も使える水場を運動場に作るとなると、温水での濾過循環が必須となります。運動場にそれを作ると費用が跳ね上がってしまうので」
「それを設置すると、全部でいくらくらいになるんですか?」
「その場合の見積書はこちらです。役所からの支援はありますが、三千万は必要になってしまいます」
柚の横顔をそっと窺えば、真剣に書面を見比べている。
命名権の購入を検討して、もしかしたら少しくらいは支援して、それでサイが見られたらいいだろう。そのくらいの心づもりで連れてきたはずが、額が跳ね上がった話になっていくことに、聡は内心冷や汗をかく。
三千万。聡との恋人契約の十倍だ。
それだけの額があれば、設備を揃え、会社を興して、大きな利益をあげることもできる。
それに引き換え、サイの獣舎を整えても一銭にもならない。
自分なら、絶対にやらない
けれど、柚はやるだろうと思った。サイが快適になるならいい。彼女なら、そう言い出す気がした。
「なら、私が出しま……」
「待て」
聡はすかさず割って入った。
「柚。よく考えろ。三千万だぞ?」
諭すようにその目を覗き込むと、小首を傾げた柚は、すぐに「はい」と頷いた。
「安くはないですけど……でも、必要なら仕方ないです。そうでないと、アンドゥさんが泥んこ遊びできないんですよ?」
「
「アンドゥ。サイの名前ですね」
山下が書面を指し示す。確かにそこには、名前:アンドゥと書かれていた。
「あの……今回支援をご検討いただいているのは、内海さんではないんです、か?」
半信半疑といった態の山下は、柚と聡との顔を交互に見た。
「支援するのは、私でなく彼女です」
「寺門さんが……」
信じられないという顔の山下に、柚は「
「いえ、そこまでは……。もし、ご支援いただけるのであれば、当然命名権をお渡ししますし、できる限りのご希望に沿うように努めさせていただきます」
「希望……。アンドゥさんは、アンドゥさんのままがいいんじゃないですかね。急に違う名前で呼ばれても困るというか、わからないだろうなって」
「「……は?」」
園長と聡との声がハモった。
この場を設けたのは、命名権のためだ。
そうでなくても額に見合うほどの見返りはないのに、命名権まで手放すならば、なんのための三千万なのか。
「あ、年パスとかあれば、それは欲しいです」
せめて永久入場無料くらいの交渉はしろと考える聡の前で、山下がクスりと笑う。
「ありがとうございます」
「……額が額だ。口約束というわけにもいかないのでは?」
聡の言葉に、山下は「もちろんです」と頷いた。
「改めて正式な書類を整えて、ご連絡いたします。寺門さん。もしよろしければ、遠目にはなりますが、アンドゥをご覧になりますか?」
「いいんですかっ!?」
椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がった柚に、山下は笑みを深めた。
サイを前にした柚は、歓声のひとつでもあげるだろうと思っていた。
ところが、サイに見入ったまま、無意識なのか聡の手を取ると、ぎゅうと握ってくる。
その手を握り返しても、柚がこちらを見ることはない。
「すごい。本当にサイです」
放心しているような、細く小さな呟きだった。
それでも、瞬きすら惜しむように、魅入られたようにその巨体を見つめ続ける。
聡は、掌の熱を感じながら柚を見下ろす。
どれほどそうしていただろう。やがて、長く息を吐き出した彼女は、「ありがとうございます」と聡を見上げて微笑んだ。
「ああ……」
答えながらも、複雑な気持ちになる。
今日の目的──柚にサイを見せることは達成できた。
それなのに、聡の胸には言い知れない思いが残る。
『ありがとう』と言われるほどの、何ができただろうか。
三千万の支援をするのは柚だ。彼女の言動が、本来ならばまだ人目に触れさせないはずのサイを見せて貰えるという状況を招き寄せたに過ぎない。
どこか晴れないモヤのような気持ちが、三千万という額をなんなく動かせる柚への嫉妬なのか、結局は自身の力で彼女を満足させたわけではないという敗北感なのかわからないまま、帰路についた。
その日の夜。
聡のスマホに届いたメールは、柚からでも、客の女からでもなく、彼岸サポートセンターからの来所依頼だった。