目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています 作:ブンチョウ
最初に聞こえたのは、銀器の音だった。
——カチャリ。
澄んでいた。
けれど、優雅ではなかった。
音が小さすぎたからだ。
食事中の音というより、何かを隠すために、全員が息を殺している音に近かった。
病院ではない。
救急車でもない。
車の走行音もない。
エアコンの低い唸りもない。
スマートフォンの通知音もない。
ただ、衣擦れ。
暖炉の薪が爆ぜる音。
それから、遠くで誰かが皿を置く、かすかな陶器の響き。
……暖炉?
そこでようやく、俺は目を開こうとした。
開かない。
いや。
違う。
目は、すでに開いていた。
視界はある。
見えている。
問題は——その視界を、俺が動かしていないことだった。
目の前には、長い食卓があった。
白いテーブルクロス。
銀の燭台。
季節の花。
磨き抜かれた皿。
葡萄酒を満たした薄いグラス。
壁には、馬上の騎士を描いた巨大な油絵が掛けられている。天井には蔓草を模した装飾が走り、暖炉の上には古びた紋章盾が掲げられていた。
部屋そのものが、歴史資料館の展示室のようだった。
ただし、展示物は生きている。
食卓には、十数人の男女が座っていた。
壮年の男。
白髪の混じった老婦人。
軍服姿の青年。
宝石を身につけた婦人たち。
年若い令嬢。
そして、年齢のよく分からない使用人たち。
全員が、異様なほど姿勢正しい。
背筋が伸びている。
肘の角度が揃っている。
ナイフを置く位置が似ている。
パンを千切る指先にまで、何かの基準がある。
奇妙だった。
家族の食卓に見える。
けれど、くつろぎがない。
宴席に見える。
けれど、笑い声がない。
会議に見える。
けれど、誰も議題を口にしない。
この場を支配しているのは、料理でも会話でもなかった。
沈黙だ。
沈黙が、食卓の上座に座っていた。
(……なにこれ)
夢か。
映画撮影か。
あるいは、どこかのテーマパークの悪趣味な没入型イベントか。
そう考えようとした。
だが無理だった。
空気に圧がある。
この場にいる全員が、見えない線の上を歩いている。
踏み外したら終わる。
そんな緊張が、燭台の火より静かに揺れていた。
その時だった。
「本日の鴨肉は、北領のものだそうです」
食卓の端にいた若い男が、穏やかな声で言った。
何気ない一言だった。
少なくとも、俺にはそう聞こえた。
だが。
空気が止まった。
ナイフが動かなくなる。
婦人の睫毛が、ほんの一度だけ震える。
老執事が、静かに目を伏せる。
向かいの少女が、グラスへ伸ばしかけた指を戻す。
誰も怒鳴らない。
誰も咳払いすらしない。
それなのに分かった。
今、何かが失敗した。
(え、何? 鴨肉の産地を言っただけだろ?)
若い男も気づいたらしい。
顔色が変わった。
彼は慌てて口を閉じる。
その沈黙の上から、低い声が落ちた。
「……許可前の発言は、慎みなさい」
食卓中央に座る壮年の男だった。
白髪の混じる黒髪。
鋭い灰色の目。
軍人のような肩幅。
彼は声を荒げなかった。
ただ、ナイフを置いた。
それだけで、食堂の温度が一段下がった気がした。
「食事中の雑談は、家長が始める」
「申し訳ございません、父上」
若い男は即座に頭を下げた。
早い。
迷いがない。
反論もしない。
謝罪の角度まで、決まっているように見えた。
(怖っ……)
怖い。
いや、怖いというより、細かい。
細かすぎる。
食事中の雑談に、開始権限があるのか。
誰が最初に鴨肉の話をするかで、家が揺らぐのか。
すると、その瞬間だった。
——だから北領育ちは嫌われるのだ。
声がした。
頭の中で。
俺のものではない、誰かの声。
若い。
冷たい。
そして、やけに品が悪くない。
品がいいのに、言っていることはひどい。
(……は?)
——食卓を酒場と勘違いしている。料理の産地を語るなら、まず父上の視線を待つべきだ。
(誰だ、お前)
返事はない。
けれど、俺は一つだけ理解した。
この身体には、すでに誰かがいる。
しかも。
主導権は、俺にはない。
視界が自然に動く。
正面には、深紅のドレスをまとった少女が座っていた。
十六、七ほどだろうか。
金糸のような髪。
白い首筋。
伏せられた睫毛。
整いすぎた横顔は、絵画の中から抜け出してきたみたいだった。
彼女が一瞬だけ、こちらを見る。
すぐに視線を逸らす。
たった、それだけ。
それだけなのに、食卓の空気がわずかに動いた。
数人の視線が、こちらへ流れる。
婦人の扇が、ほんの少しだけ閉じる。
軍服姿の青年の眉が、気づかない程度に上がる。
(……今の何?)
——婚約候補だ。
(は?)
——エレオノーラ・ディ・クラウゼン。クラウゼン侯爵家三女。母方に王家の血がある。こちらを見るタイミングが悪い。露骨すぎる。
(いや、情報量)
——常識だ。
(常識の圧がすごい)
——お前、本当に何も知らないのだな。
その一言で、俺はようやく確信した。
これは夢ではない。
たぶん、転生だ。
異世界転生。
貴族社会。
人格同居。
しかも、俺は主人公として華々しく目覚めたのではない。
他人の人生の中で、勝手に意識だけ起きた。
最悪の間借りである。
(待て待て待て。説明しろ)
——断る。
(断るな)
——なぜ私が、正体不明の寄生虫へ礼を尽くさねばならん。
(寄生虫!?)
——脳内へ突然湧いた存在など、それ以外に呼びようがない。
(もっと他にあるだろ。客とか)
——客は招かれて来る。
(じゃあ迷子)
——迷子は出ていく意思がある。
(あるわ。出られるなら今すぐ出たいわ)
——なら努力しろ。
腹が立つ。
ものすごく腹が立つ。
だが、口は動かない。
声も出ない。
俺が考えると、向こうへ伝わる。
向こうが考えると、こちらへ響く。
会話はできる。
距離感はゼロ。
プライバシーは死んだ。
(お前、名前は?)
少しの沈黙。
それから、声は妙に誇らしげに言った。
——ルシアン・ヴァレスト。
芝居がかった響きだった。
だが、その声には似合っていた。
——ヴァレスト侯爵家嫡男だ。
(……侯爵)
思った以上に大物だった。
しかも嫡男。
次期当主。
俺は改めて、周囲を見る。
いや、正確には、ルシアンの視界を借りて観察した。
使用人たちは、彼の背後を通る時だけ、足音をさらに消している。
料理を運ぶ順番も、グラスへ注ぐ量も、視線の高さも、すべて彼を中心に調整されている。
座席もそうだ。
家長の正面ではない。
けれど遠くもない。
家族の中で、未来の重みを背負わされる位置。
この少年は、食卓の中心ではない。
中心になる予定の場所に座らされている。
(俺は?)
——知らん。
(そこは知らんのかよ)
——お前の名など、お前しか知らんだろう。
それは、そうだった。
けれど、俺自身の記憶は妙に曖昧だった。
名前。
年齢。
住んでいた部屋。
コンビニの光。
夜の道路。
白い天井。
断片はある。
だが、最後が霞んでいる。
事故だったのか。
病気だったのか。
それとも、もっと別の何かだったのか。
思い出そうとすると、頭の奥に白い靄がかかる。
怖くなって、俺は視線の先に意識を戻した。
食卓では、まだ誰も鴨肉の話をしていない。
さっきの若い男の失敗は、なかったことにされていた。
なかったことにする。
それもまた、この場の作法らしい。
(なあ)
——何だ。
(なんでみんな、パンを同じくらいの大きさに千切ってるんだ?)
一瞬、ルシアンが黙った。
まるで、真顔で「空はなぜ青いのか」と聞かれた人間みたいな沈黙だった。
——……本当に知らんのか。
(知らん)
——大きく千切れば、飢えた家柄と見なされる。
(は?)
——小さすぎれば、労働を知らぬ虚弱と嘲られる。
(めんどくさ!!)
——中庸を保つのだ。欲を見せず、弱さも見せず、家の余裕を損なわず、料理人への敬意を示す。
(パン一個に背負わせる思想が重すぎる)
——食卓とは、家格を示す戦場だぞ。
(戦場でパン食うな)
——だから平民は。
(誰が平民だ)
——少なくとも貴族ではない。
ぐうの音も出なかった。
その時、老執事が静かに近づいてきた。
足音がしない。
黒い衣服の影だけが、燭火の間を滑る。
「ルシアン様」
声もまた、食卓を乱さない大きさだった。
「旦那様が、お話を求めております」
空気が変わった。
視線が、一斉にこちらへ集まる。
いや、こちらではない。
ルシアンへ。
その瞬間、ルシアンの内側が、ほんのわずかに揺れた。
緊張。
それは小さい。
針の先ほどの感情だった。
だが確かにあった。
(お前、親父怖いの?)
——黙れ。
即答だった。
図星だった。
視界が立ち上がる。
椅子を引く角度が美しい。
音がしない。
背筋は真っ直ぐ。
顎は上げすぎず、下げすぎず。
歩幅は広すぎず、狭すぎず。
たぶん、これも全部、決まっている。
ルシアンは食卓中央へ視線を向けた。
家長。
父親。
この家の沈黙を支配する男。
その灰色の目が、こちらを見る。
俺だったら、たぶん固まっていた。
だがルシアンは違った。
息を吸う。
ほんの半拍、待つ。
そして言った。
「本日の晩餐、北領産の鴨肉は、香草の使い方が見事でした。とりわけ、ジュニパーの配分が絶妙かと存じます」
空気が止まった。
今度は、さっきとは違う沈黙だった。
咎めるためではない。
測るための沈黙。
父親は、ルシアンを見た。
次に、料理へ視線を落とした。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……うむ」
ただ、それだけ。
たった二文字。
けれど、その瞬間、食卓全体から細い安堵が漏れた。
令嬢が再びグラスへ手を伸ばす。
婦人の扇が開く。
老執事の肩が、ほんのわずかに下がる。
若い男の顔から、血の気が戻る。
(え? なに? 今ので何が解決した?)
——父上が最初に触れたかった話題を、こちらから提示した。
(そんなの分かるのか?)
——分からねばならない。
(いや、無理だろ)
——無理なら、座る資格がない。
その言葉には、嫌味がなかった。
冷たくもなかった。
ただ、当然の事実として置かれた。
俺はそこで、ようやく少しだけ理解した。
ルシアンは性格が悪い。
たぶん、それは間違いない。
だが、それだけではない。
この少年は、こういう世界で生きるために、こうなったのだ。
父親の視線の角度。
使用人の間。
令嬢の睫毛。
パンの大きさ。
ナイフの音。
沈黙の長さ。
それらすべてを読み、間違えず、先回りし、傷を塞ぎ、家の面子を守る。
それができて、ようやく食卓に座れる。
子どもではなく。
人間ですらなく。
家名の器として。
(……貴族って、飯食うだけでも命がけなのか)
ルシアンは少しだけ黙った。
そして、冷めた声で言った。
——貴族とは、言葉を間違えぬ者のことだ。
食卓では、ようやく会話が始まっていた。
鴨肉の香り。
北領の冬。
香草の輸送路。
どれも穏やかな話題だった。
だが俺には、その一言一言が、薄い刃物に見えた。
笑顔は鞘。
沈黙は盾。
作法は鎧。
そして言葉は、剣。
この世界では、誰も怒鳴らない。
皿も投げない。
拳も振るわない。
けれど確かに、人は傷つく。
たぶん、失敗すれば死ぬ。
社会的に。
家名ごと。
ゆっくりと。
美しい食卓の上で。
その瞬間、俺は理解した。
ここは異世界だ。
魔法も竜も、まだ見ていない。
剣を抜く騎士も、怪物も、まだ現れていない。
それでも、ここには戦場があった。
この世界では、剣より先に。
作法が人を殺す。