目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています 作:ブンチョウ
ベルンハルト家からの正式な婚約打診。
その知らせは、社交界を想像以上に騒がせていた。
いや。騒がせている、といっても、この世界の貴族は大声で騒がない。
噂は叫ばれない。扇の陰で、馬車の中で、茶会の終わり際に、劇場の幕間に――囁かれる。
侯爵家の廊下でも、変化はすぐに分かった。届く招待状が増え、来客の名刺が増え、使用人たちの動きがわずかに忙しなくなった。
それでも足音は小さい。声も低い。
けれど、屋敷全体の空気が少しずつ密度を増している。
(なんか急に世界が動き始めたな……)
——元から動いていた。
(お前らの世界、静かに動きすぎなんだよ)
——音を立てて動くものは、たいてい下品だ。
(価値観が貴族すぎる)
現在、ルシアンは侯爵家の応接室にいた。
今日は来客がある。東部伯爵家の次男。
名目上は「親交訪問」。実際には、様子見だ。
ベルンハルト家との婚約話が本当なのか。どこまで進んでいるのか。ヴァレスト家は南方貿易派へ寄るのか。
その温度を測りに来ている。
怖い世界である。
応接室は、朝の光を柔らかく受けていた。深い緑の壁紙、落ち着いた色の絨毯、低い卓、銀の茶器。壁には狩猟を描いた絵画が掛けられている。
一見すると、穏やかな部屋だ。
だが、俺にはもう分かる。こういう部屋ほど、何かが行われる。
剣を抜かない交渉。署名のない確認。笑顔で行われる探り合い。
「ルシアン様。本日はどうか、ご穏便に」
アルヴェルトが珍しく釘を刺してきた。
(え、お前、普段は穏便じゃないの?)
——私は普通だ。
(貴族基準の“普通”は信用ならねぇ)
アルヴェルトは表情を変えず、静かに続ける。
「東部伯爵家は、“貸し借り”を重んじる家風でございます」
(貸し借り?)
——恩義の管理を好む連中だ。
(怖い言い方するな)
——貸しは鎖になる。借りは首輪になる。
(もっと怖くなった)
ルシアンは椅子に座る前、窓の外を一度だけ見た。
庭の植え込みは、きれいに刈り込まれている。春の花が咲いているのに、どこか兵隊の整列みたいに見えた。
「東部伯爵家は、先代の頃より軍馬と穀物で影響を持つ家だ」
(うん)
——だが爵位は伯爵。侯爵家に真正面から口を出す立場ではない。
(だから“借り”を使う?)
——そうだ。
この世界では、感謝すらただの感謝では終わらない。
誰かに助けられる。それは温かい出来事であると同時に、関係の非対称を生む。
貸し。借り。恩。義理。返礼。
人情のようでいて、実際には政治的な帳簿だ。
「お越しでございます」
扉が開かれ、客人が通される。
二十代半ばほどの青年だった。淡い茶色の髪。柔和な笑み。上品な礼装。物腰は穏やかだ。
だが、目が笑っていない。
いや、正確には笑っている。けれど、目の奥が別の仕事をしている。
「お初にお目にかかります、ルシアン卿。エドガー・ラウゼンと申します」
東部ラウゼン伯爵家の次男。
長男ではない。だが、交渉や社交の場へ出される次男というのは、それはそれで厄介なのだろう。
家督の重みが薄いぶん、動きやすい。それでいて、家の意向は十分に背負っている。
互いに礼を交わし、席につく。紅茶が運ばれ、カップが置かれる。
沈黙。
(毎回この無音タイム、必要?)
——落ち着きの確認だ。
(面接かよ)
——似たようなものだ。
エドガーは穏やかに笑った。
「ヴァレスト家は、最近ますますご繁栄のご様子」
「恐縮です」
「特にベルンハルト家とのお話。王都でも評判ですよ」
(探りに来たな)
——ああ。
ルシアンは曖昧に微笑んだ。
笑みは薄い。けれど、冷たすぎない。
婚約話を否定しない。しかし、肯定もしない。絶妙な距離だった。
「社交界の噂は早い」
「良き話ほど広まるものです」
「広まりすぎると、本人たちが追いつかぬこともあります」
「それはまた、羨ましい悩みですな」
営業トークの応酬が始まった。
いや、営業というより、互いの刃先を布で包んで撫で合っている感じだ。
痛くはない。だが、刃物であることは分かる。
エドガーは紅茶を一口飲み、ふと話題を変えた。
「そういえば先日、我が家の馬車が東街道のぬかるみに嵌りまして」
ルシアンの感情が、わずかに動いた。
警戒。
(何その話題)
——始まったな。
(何が)
エドガーは笑顔のまま続ける。
「その際、ヴァレスト家の巡回騎士に助けていただいたのです」
ああ。そういう話か。
「それは幸いでした」
「ええ。実に見事な働きでした。馬を落ち着かせ、車輪を傷めず、婦人方にも不安を与えず。さすがヴァレスト家の騎士と、同行の者も感服しておりました」
褒めている。
褒めているが、それだけではない。
ヴァレスト家の騎士が、ラウゼン家の馬車を助けた。つまり、ラウゼン家はヴァレスト家に借りがある。
それを、わざわざ言いに来た。
エドガーはカップを静かに置き、さらりと言った。
「ぜひ、お礼をしたい」
その瞬間、ルシアンの思考が高速化した。
(え? 普通に良い話では?)
——違う。
(違うの!?)
——借りを返したいと言っている。
(だから?)
——対等に戻したいのだ。
(……あ)
なるほど。
借りがある状態が嫌なのか。
ラウゼン家は、ヴァレスト家に助けられたままではいたくない。恩義を抱えたまま婚約話の行方を見ると、立場が弱くなる。
だから早めに帳尻を合わせたい。
感謝の皮を被った、関係の清算。
面倒くさい。
でも、筋は通っている。
ルシアンは静かに返した。
「困った時は互い様でしょう」
柔らかい断りだった。
こちらは貸しとして扱うつもりはない、という意味だろう。
だが、エドガーは笑みを崩さない。
「しかし、恩義は恩義です」
(うわぁ……)
押してくる。
返させろ、と言っている。
このままでは、ラウゼン家はヴァレスト家に借りたままになる。それは彼らにとって不快なのだ。
そして、おそらく危険でもある。
ルシアンは少し考えた。
長すぎない沈黙。相手の申し出を軽んじず、しかし深刻にしすぎない間。
そして、答えた。
「では、いずれ東部へ伺う際、良き酒場でもご紹介ください」
空気が変わった。
エドガーが、一瞬だけ目を細める。
(……何か正解を引いた?)
——重い借りを、軽い返礼に変換した。
(あー!)
つまり、「馬車を救われた恩義」では重すぎる。
だから、「今度、土地の良い店を教えてください」程度まで落としたのだ。
恩を消し、縁だけ残す。
貸し借りを清算しながら、関係は断たない。
貴族社会の処理、うまいけど怖い。
エドガーは小さく笑った。
「なるほど。では、その際は我が家が責任を持って、東部一の葡萄酒を出す店へご案内いたしましょう」
「楽しみにしております」
決着したらしい。
カップ一つ分の会話で、見えない帳簿が閉じられた。
(怖ぇ……)
貴族社会、借金の単位が感情なんだ。
その後も会話は続いた。
領地の春蒔き。東街道の整備。軍馬の質。王都で流行の劇。南方茶葉の価格。
一見すれば、ただの雑談だ。
けれど、全部が探り合いだった。
東部はヴァレスト家がベルンハルト家と結ぶかを見ている。ヴァレスト家は、東部がそれにどう反応するかを見ている。
ベルンハルト家の名は何度も出る。だが、一度も核心には触れない。
貴族の会話は、遠回りではない。
遠回りをすることで、相手がどこで反応するかを見る技術なのだ。
やがて、会談は終わった。
エドガーが立ち上がり、ルシアンも立ち上がる。
礼。笑顔。別れの言葉。
そのすべてが整っていた。
だが帰り際、エドガーが不意に言った。
「ルシアン卿は、以前より柔らかくなられた」
ルシアンが止まる。
ほんの一瞬。だが、止まった。
エドガーは穏やかに微笑んでいる。
「社交界でも噂ですよ。最近のヴァレスト嫡男は、人を見るようになった、と」
その言葉に、ルシアンの感情が静かに揺れた。
嬉しさ。
いや。嬉しさに似たもの。
けれど同時に、怖さ。
(……変化って、もう周囲にバレてるんだな)
——ああ。
ルシアンの声は低かった。
エドガーは軽く礼をする。
「良き変化であられることを、願っております」
それは褒め言葉だった。
同時に、観測の報告でもあった。
我々は見ていますよ。
あなたの変化に気づいていますよ。
それが家にとって吉か凶か、判断していますよ。
そういう意味も、たぶん含まれている。
貴族社会、褒め言葉まで怖い。
エドガーが退出する。
扉が閉まり、応接室に静けさが戻った。
紅茶の香り。磨かれた机。整えられた椅子。
何事もなかったような部屋。
だが、何事もなかったわけではない。
ラウゼン家の借りは軽く処理された。ベルンハルト家との婚約話は外部から確認された。そして、ルシアンの変化は社交界に知られつつある。
アルヴェルトが静かに入室した。
「お疲れ様でございました」
「報告は」
「旦那様へは、要点のみお伝えいたします」
「ラウゼン家の借りは」
「酒場案内にて処理、という形でよろしいかと」
「ああ」
アルヴェルトは一拍置いた。
「最後のお言葉は」
ルシアンは窓の外を見た。
庭では、使用人が落ち葉を掃いている。
箒の音は聞こえない。ただ、葉が少しずつ集められていく。
「そのまま伝えろ」
「よろしいので?」
「隠しても意味がない」
アルヴェルトは静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
彼が退出した後、しばらく沈黙が続いた。
(大丈夫なのか?)
ルシアンは答えない。
ただ窓の外を見ている。
その横顔は、いつも通り整っていた。
けれど、内側は静かに波立っている。
自分の変化。父に見られた変化。エミリアに言われた変化。クラリスに気づかれた変化。
そして今、社交界に噂される変化。
それはもう、ルシアン一人の中に収まっていない。
しばらくして、彼はぽつりと呟いた。
——貴族は、変わらないことを求められる。
(うん)
——家名とは、継続だからだ。昨日と同じ顔で、明日も同じ責務を果たす。それが信用になる。
(でも)
——ああ。
ルシアンは、窓硝子に映る自分を見た。
銀髪。青灰色の瞳。侯爵家嫡男として整えられた顔。
その奥に、少しだけ別のものが混じり始めている。
——だが、人は変わる。
静かな声だった。
その言葉は、たぶんルシアン自身が今一番戸惑っていることだった。
変わらなければならない家。
変わってしまう人間。
その間で、彼は立っている。
俺は何となく言った。
(変わったっていいんじゃないの)
——簡単に言う。
(まあ、俺は責任ないからな)
——本当に腹立たしいな、お前は。
(でもさ)
ルシアンは黙る。
(変わらない家を守るために、変わる人間が必要な時もあるんじゃないか)
ルシアンは答えなかった。
だが、その沈黙は拒絶ではなかった。
考えている沈黙だった。
応接室の外では、次の来客の準備が始まっている。
ベルンハルト家との婚約打診。ラウゼン伯爵家の様子見。社交界の噂。父の観察。
すべてが、静かに絡まり始めていた。
この世界では、借りは返さなければならない。
恩を放置すれば鎖になる。借りを軽んじれば侮辱になる。返し方を誤れば、縁が切れる。
だから貴族は、感謝すら慎重に扱う。
重すぎる恩を、軽い約束に変え。借りを消しながら、関係だけを残す。
そうして家同士の距離を整える。
けれど、人の変化はどう返せばいいのだろう。
クラリスから向けられた信頼。エミリアからの期待。父からの言葉。俺という、奇妙な同居人から投げ込まれた雑な価値観。
それらがルシアンの中に、少しずつ積もっている。
それもまた、借りなのかもしれない。
返すべきものなのかもしれない。
ただ、返し方はまだ分からない。
ルシアンは窓辺から離れた。
背筋を伸ばす。表情を整える。
いつもの侯爵家嫡男へ戻る。
だが俺には、もう分かる。
その内側では、変化が始まっている。
静かに。
音もなく。
この世界そのものみたいに。