目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています   作:ブンチョウ

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第10話 貴族は、「借り」を返さなければならない

 ベルンハルト家からの正式な婚約打診。

 

 その知らせは、社交界を想像以上に騒がせていた。

 

 いや。騒がせている、といっても、この世界の貴族は大声で騒がない。

 

 噂は叫ばれない。扇の陰で、馬車の中で、茶会の終わり際に、劇場の幕間に――囁かれる。

 

 侯爵家の廊下でも、変化はすぐに分かった。届く招待状が増え、来客の名刺が増え、使用人たちの動きがわずかに忙しなくなった。

 

 それでも足音は小さい。声も低い。

 

 けれど、屋敷全体の空気が少しずつ密度を増している。

 

(なんか急に世界が動き始めたな……)

 

 ——元から動いていた。

 

(お前らの世界、静かに動きすぎなんだよ)

 

 ——音を立てて動くものは、たいてい下品だ。

 

(価値観が貴族すぎる)

 

 現在、ルシアンは侯爵家の応接室にいた。

 

 今日は来客がある。東部伯爵家の次男。

 

 名目上は「親交訪問」。実際には、様子見だ。

 

 ベルンハルト家との婚約話が本当なのか。どこまで進んでいるのか。ヴァレスト家は南方貿易派へ寄るのか。

 

 その温度を測りに来ている。

 

 怖い世界である。

 

 応接室は、朝の光を柔らかく受けていた。深い緑の壁紙、落ち着いた色の絨毯、低い卓、銀の茶器。壁には狩猟を描いた絵画が掛けられている。

 

 一見すると、穏やかな部屋だ。

 

 だが、俺にはもう分かる。こういう部屋ほど、何かが行われる。

 

 剣を抜かない交渉。署名のない確認。笑顔で行われる探り合い。

 

「ルシアン様。本日はどうか、ご穏便に」

 

 アルヴェルトが珍しく釘を刺してきた。

 

(え、お前、普段は穏便じゃないの?)

 

 ——私は普通だ。

 

(貴族基準の“普通”は信用ならねぇ)

 

 アルヴェルトは表情を変えず、静かに続ける。

 

「東部伯爵家は、“貸し借り”を重んじる家風でございます」

 

(貸し借り?)

 

 ——恩義の管理を好む連中だ。

 

(怖い言い方するな)

 

 ——貸しは鎖になる。借りは首輪になる。

 

(もっと怖くなった)

 

 ルシアンは椅子に座る前、窓の外を一度だけ見た。

 

 庭の植え込みは、きれいに刈り込まれている。春の花が咲いているのに、どこか兵隊の整列みたいに見えた。

 

「東部伯爵家は、先代の頃より軍馬と穀物で影響を持つ家だ」

 

(うん)

 

 ——だが爵位は伯爵。侯爵家に真正面から口を出す立場ではない。

 

(だから“借り”を使う?)

 

 ——そうだ。

 

 この世界では、感謝すらただの感謝では終わらない。

 

 誰かに助けられる。それは温かい出来事であると同時に、関係の非対称を生む。

 

 貸し。借り。恩。義理。返礼。

 

 人情のようでいて、実際には政治的な帳簿だ。

 

「お越しでございます」

 

 扉が開かれ、客人が通される。

 

 二十代半ばほどの青年だった。淡い茶色の髪。柔和な笑み。上品な礼装。物腰は穏やかだ。

 

 だが、目が笑っていない。

 

 いや、正確には笑っている。けれど、目の奥が別の仕事をしている。

 

「お初にお目にかかります、ルシアン卿。エドガー・ラウゼンと申します」

 

 東部ラウゼン伯爵家の次男。

 

 長男ではない。だが、交渉や社交の場へ出される次男というのは、それはそれで厄介なのだろう。

 

 家督の重みが薄いぶん、動きやすい。それでいて、家の意向は十分に背負っている。

 

 互いに礼を交わし、席につく。紅茶が運ばれ、カップが置かれる。

 

 沈黙。

 

(毎回この無音タイム、必要?)

 

 ——落ち着きの確認だ。

 

(面接かよ)

 

 ——似たようなものだ。

 

 エドガーは穏やかに笑った。

 

「ヴァレスト家は、最近ますますご繁栄のご様子」

 

「恐縮です」

 

「特にベルンハルト家とのお話。王都でも評判ですよ」

 

(探りに来たな)

 

 ——ああ。

 

 ルシアンは曖昧に微笑んだ。

 

 笑みは薄い。けれど、冷たすぎない。

 

 婚約話を否定しない。しかし、肯定もしない。絶妙な距離だった。

 

「社交界の噂は早い」

 

「良き話ほど広まるものです」

 

「広まりすぎると、本人たちが追いつかぬこともあります」

 

「それはまた、羨ましい悩みですな」

 

 営業トークの応酬が始まった。

 

 いや、営業というより、互いの刃先を布で包んで撫で合っている感じだ。

 

 痛くはない。だが、刃物であることは分かる。

 

 エドガーは紅茶を一口飲み、ふと話題を変えた。

 

「そういえば先日、我が家の馬車が東街道のぬかるみに嵌りまして」

 

 ルシアンの感情が、わずかに動いた。

 

 警戒。

 

(何その話題)

 

 ——始まったな。

 

(何が)

 

 エドガーは笑顔のまま続ける。

 

「その際、ヴァレスト家の巡回騎士に助けていただいたのです」

 

 ああ。そういう話か。

 

「それは幸いでした」

 

「ええ。実に見事な働きでした。馬を落ち着かせ、車輪を傷めず、婦人方にも不安を与えず。さすがヴァレスト家の騎士と、同行の者も感服しておりました」

 

 褒めている。

 

 褒めているが、それだけではない。

 

 ヴァレスト家の騎士が、ラウゼン家の馬車を助けた。つまり、ラウゼン家はヴァレスト家に借りがある。

 

 それを、わざわざ言いに来た。

 

 エドガーはカップを静かに置き、さらりと言った。

 

「ぜひ、お礼をしたい」

 

 その瞬間、ルシアンの思考が高速化した。

 

(え? 普通に良い話では?)

 

 ——違う。

 

(違うの!?)

 

 ——借りを返したいと言っている。

 

(だから?)

 

 ——対等に戻したいのだ。

 

(……あ)

 

 なるほど。

 

 借りがある状態が嫌なのか。

 

 ラウゼン家は、ヴァレスト家に助けられたままではいたくない。恩義を抱えたまま婚約話の行方を見ると、立場が弱くなる。

 

 だから早めに帳尻を合わせたい。

 

 感謝の皮を被った、関係の清算。

 

 面倒くさい。

 

 でも、筋は通っている。

 

 ルシアンは静かに返した。

 

「困った時は互い様でしょう」

 

 柔らかい断りだった。

 

 こちらは貸しとして扱うつもりはない、という意味だろう。

 

 だが、エドガーは笑みを崩さない。

 

「しかし、恩義は恩義です」

 

(うわぁ……)

 

 押してくる。

 

 返させろ、と言っている。

 

 このままでは、ラウゼン家はヴァレスト家に借りたままになる。それは彼らにとって不快なのだ。

 

 そして、おそらく危険でもある。

 

 ルシアンは少し考えた。

 

 長すぎない沈黙。相手の申し出を軽んじず、しかし深刻にしすぎない間。

 

 そして、答えた。

 

「では、いずれ東部へ伺う際、良き酒場でもご紹介ください」

 

 空気が変わった。

 

 エドガーが、一瞬だけ目を細める。

 

(……何か正解を引いた?)

 

 ——重い借りを、軽い返礼に変換した。

 

(あー!)

 

 つまり、「馬車を救われた恩義」では重すぎる。

 

 だから、「今度、土地の良い店を教えてください」程度まで落としたのだ。

 

 恩を消し、縁だけ残す。

 

 貸し借りを清算しながら、関係は断たない。

 

 貴族社会の処理、うまいけど怖い。

 

 エドガーは小さく笑った。

 

「なるほど。では、その際は我が家が責任を持って、東部一の葡萄酒を出す店へご案内いたしましょう」

 

「楽しみにしております」

 

 決着したらしい。

 

 カップ一つ分の会話で、見えない帳簿が閉じられた。

 

(怖ぇ……)

 

 貴族社会、借金の単位が感情なんだ。

 

 その後も会話は続いた。

 

 領地の春蒔き。東街道の整備。軍馬の質。王都で流行の劇。南方茶葉の価格。

 

 一見すれば、ただの雑談だ。

 

 けれど、全部が探り合いだった。

 

 東部はヴァレスト家がベルンハルト家と結ぶかを見ている。ヴァレスト家は、東部がそれにどう反応するかを見ている。

 

 ベルンハルト家の名は何度も出る。だが、一度も核心には触れない。

 

 貴族の会話は、遠回りではない。

 

 遠回りをすることで、相手がどこで反応するかを見る技術なのだ。

 

 やがて、会談は終わった。

 

 エドガーが立ち上がり、ルシアンも立ち上がる。

 

 礼。笑顔。別れの言葉。

 

 そのすべてが整っていた。

 

 だが帰り際、エドガーが不意に言った。

 

「ルシアン卿は、以前より柔らかくなられた」

 

 ルシアンが止まる。

 

 ほんの一瞬。だが、止まった。

 

 エドガーは穏やかに微笑んでいる。

 

「社交界でも噂ですよ。最近のヴァレスト嫡男は、人を見るようになった、と」

 

 その言葉に、ルシアンの感情が静かに揺れた。

 

 嬉しさ。

 

 いや。嬉しさに似たもの。

 

 けれど同時に、怖さ。

 

(……変化って、もう周囲にバレてるんだな)

 

 ——ああ。

 

 ルシアンの声は低かった。

 

 エドガーは軽く礼をする。

 

「良き変化であられることを、願っております」

 

 それは褒め言葉だった。

 

 同時に、観測の報告でもあった。

 

 我々は見ていますよ。

 

 あなたの変化に気づいていますよ。

 

 それが家にとって吉か凶か、判断していますよ。

 

 そういう意味も、たぶん含まれている。

 

 貴族社会、褒め言葉まで怖い。

 

 エドガーが退出する。

 

 扉が閉まり、応接室に静けさが戻った。

 

 紅茶の香り。磨かれた机。整えられた椅子。

 

 何事もなかったような部屋。

 

 だが、何事もなかったわけではない。

 

 ラウゼン家の借りは軽く処理された。ベルンハルト家との婚約話は外部から確認された。そして、ルシアンの変化は社交界に知られつつある。

 

 アルヴェルトが静かに入室した。

 

「お疲れ様でございました」

 

「報告は」

 

「旦那様へは、要点のみお伝えいたします」

 

「ラウゼン家の借りは」

 

「酒場案内にて処理、という形でよろしいかと」

 

「ああ」

 

 アルヴェルトは一拍置いた。

 

「最後のお言葉は」

 

 ルシアンは窓の外を見た。

 

 庭では、使用人が落ち葉を掃いている。

 

 箒の音は聞こえない。ただ、葉が少しずつ集められていく。

 

「そのまま伝えろ」

 

「よろしいので?」

 

「隠しても意味がない」

 

 アルヴェルトは静かに頭を下げた。

 

「承知いたしました」

 

 彼が退出した後、しばらく沈黙が続いた。

 

(大丈夫なのか?)

 

 ルシアンは答えない。

 

 ただ窓の外を見ている。

 

 その横顔は、いつも通り整っていた。

 

 けれど、内側は静かに波立っている。

 

 自分の変化。父に見られた変化。エミリアに言われた変化。クラリスに気づかれた変化。

 

 そして今、社交界に噂される変化。

 

 それはもう、ルシアン一人の中に収まっていない。

 

 しばらくして、彼はぽつりと呟いた。

 

 ——貴族は、変わらないことを求められる。

 

(うん)

 

 ——家名とは、継続だからだ。昨日と同じ顔で、明日も同じ責務を果たす。それが信用になる。

 

(でも)

 

 ——ああ。

 

 ルシアンは、窓硝子に映る自分を見た。

 

 銀髪。青灰色の瞳。侯爵家嫡男として整えられた顔。

 

 その奥に、少しだけ別のものが混じり始めている。

 

 ——だが、人は変わる。

 

 静かな声だった。

 

 その言葉は、たぶんルシアン自身が今一番戸惑っていることだった。

 

 変わらなければならない家。

 

 変わってしまう人間。

 

 その間で、彼は立っている。

 

 俺は何となく言った。

 

(変わったっていいんじゃないの)

 

 ——簡単に言う。

 

(まあ、俺は責任ないからな)

 

 ——本当に腹立たしいな、お前は。

 

(でもさ)

 

 ルシアンは黙る。

 

(変わらない家を守るために、変わる人間が必要な時もあるんじゃないか)

 

 ルシアンは答えなかった。

 

 だが、その沈黙は拒絶ではなかった。

 

 考えている沈黙だった。

 

 応接室の外では、次の来客の準備が始まっている。

 

 ベルンハルト家との婚約打診。ラウゼン伯爵家の様子見。社交界の噂。父の観察。

 

 すべてが、静かに絡まり始めていた。

 

 この世界では、借りは返さなければならない。

 

 恩を放置すれば鎖になる。借りを軽んじれば侮辱になる。返し方を誤れば、縁が切れる。

 

 だから貴族は、感謝すら慎重に扱う。

 

 重すぎる恩を、軽い約束に変え。借りを消しながら、関係だけを残す。

 

 そうして家同士の距離を整える。

 

 けれど、人の変化はどう返せばいいのだろう。

 

 クラリスから向けられた信頼。エミリアからの期待。父からの言葉。俺という、奇妙な同居人から投げ込まれた雑な価値観。

 

 それらがルシアンの中に、少しずつ積もっている。

 

 それもまた、借りなのかもしれない。

 

 返すべきものなのかもしれない。

 

 ただ、返し方はまだ分からない。

 

 ルシアンは窓辺から離れた。

 

 背筋を伸ばす。表情を整える。

 

 いつもの侯爵家嫡男へ戻る。

 

 だが俺には、もう分かる。

 

 その内側では、変化が始まっている。

 

 静かに。

 

 音もなく。

 

 この世界そのものみたいに。

 

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