目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています   作:ブンチョウ

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第13話 貴族は、痛みを姿勢で隠す

 クラリスから届いた銀細工の栞は、ルシアンの書斎机に置かれていた。

 

 ただし、飾られているわけではない。使われてもいない。箱へ戻されてもいない。

 

 机の右上。手紙を書く時、視界の端に入る位置。

 

 近すぎず。遠すぎず。

 

 忘れていないが、意識しすぎてもいない。そういう場所に、静かに置かれていた。

 

(気に入ってるじゃん)

 

 ——実用品として悪くないだけだ。

 

(毎朝位置確認してるくせに)

 

 ——机上の整頓だ。

 

(はいはい)

 

 ルシアンは返事をしなかった。だが、否定もしなかった。

 

 少し前なら即座に嫌味が飛んできたはずなので、これはかなりの変化である。

 

 その日の午前。ヴァレスト侯爵家には、礼法教師が来ていた。

 

 名を、マダム・オルガという。

 

 年齢は五十代ほど。黒に近い深緑のドレス。髪は一分の乱れもなく結い上げられ、首元には古びた真珠。

 

 背筋が、怖いほど真っ直ぐだった。

 

 椅子に座っていても、立っているように見える。いや、立っていても剣みたいに見える。

 

(うわ、絶対厳しい人だ)

 

 ——王都礼法院の元主席指南役だ。

 

(肩書きがもう怖い)

 

 ——貴族令息令嬢の所作を矯正する専門家だ。

 

(矯正って言葉が怖い)

 

 ——正しい。

 

(怖いって)

 

 今日は、婚約交渉が進むにあたり、今後の公式行事に備えた所作確認を行うらしい。

 

 婚約披露。親族顔合わせ。教会承認。挨拶回り。舞踏会。

 

 まだ日取りも決まっていないのに、準備だけは始まっている。

 

 この世界は、何かが決まる前から、決まった後の振る舞いを訓練する。

 

 順番が逆ではない。たぶん、それが貴族社会なのだ。

 

 大広間の床には、薄い線が引かれていた。

 

 白い粉で描かれた、歩幅の目印。椅子の位置。礼をする地点。相手の手を取る距離。視線を上げる角度。

 

 すべてが測られている。

 

(何これ。体育の授業?)

 

 ——礼法訓練だ。

 

(体育じゃん)

 

 ——身体を使う以上、似たところはある。

 

 ルシアンは当然のように立っていた。

 

 黒の練習用礼装。動きやすいはずなのに、まったく楽そうに見えない服。首元は締められ、袖口も整えられている。

 

 立つだけで完成品のようだった。

 

 その向かいに、クラリスがいた。

 

 今日はベルンハルト家から、伯爵夫人とともに来ている。

 

 淡い灰青のドレス。練習用なので装飾は少ない。だが、布は美しい。髪は控えめに結われ、手袋は白。

 

 彼女はいつも通り微笑んでいた。

 

 けれど、礼拝堂で見た後だと分かる。

 

 その笑顔は、自然に浮かんでいるのではない。置かれている。顔の上に。崩れないように。

 

「では、婚約披露時の入場動作から確認いたします」

 

 マダム・オルガの声は低く、乾いていた。

 

「ルシアン様。クラリス様。まず扉口より三歩。四歩目で視線を正面へ。互いに半拍遅れて礼。速すぎれば軽率、遅すぎれば不和と取られます」

 

(入場から地獄)

 

 ——基本だ。

 

「クラリス様。肩がわずかに上がっています」

 

「失礼いたしました」

 

「謝罪は不要です。直してください」

 

「はい」

 

 クラリスは微笑んだまま、肩の位置を下げる。

 

 ほんの数ミリ。俺には、言われなければ分からない。だがマダム・オルガは見逃さない。

 

「下げすぎです。萎縮して見えます」

 

「はい」

 

「首は折らない。背を伸ばす。顎は引きすぎない。貴女は差し出されるのではありません。迎えられるのです」

 

 クラリスの指が、わずかに動いた。

 

 その言葉は、たぶん刺さった。

 

 差し出されるのではない。迎えられる。

 

 美しい言葉だ。だが、それを身体で証明しろと言われている。

 

(……きついな)

 

 ——ああ。

 

 ルシアンの声も、少し低かった。

 

「ルシアン様」

 

「はい」

 

「手の位置が高い」

 

 ルシアンの手が、ほんのわずかに下がる。

 

「低い」

 

 少し上がる。

 

「まだ強い。令嬢を導く手ではありません。軍馬の手綱ではないのですよ」

 

(言い方)

 

 ルシアンの内側が、微妙にむっとした。だが表情には出さない。

 

「失礼いたしました」

 

「謝罪は不要です。直してください」

 

「はい」

 

(お前も同じこと言われてるじゃん)

 

 ——黙れ。

 

 マダム・オルガは二人を並ばせる。

 

「婚約者同士の距離は、近すぎても遠すぎてもいけません。近ければ軽薄。遠ければ不仲。手袋越しに指先を感じる距離で、体温を感じさせないこと」

 

(難易度が狂ってる)

 

 ——正確な指示だ。

 

(指先は感じるけど体温は感じさせないって何?)

 

 ——接触は公的記号だ。私的な温度を混ぜるなということだ。

 

(身体まで公文書かよ)

 

 ——貴族の身体は、半ば公文書だ。

 

 その言葉に、俺は一瞬黙った。

 

 貴族の身体は、公文書。

 

 嫌なほどしっくり来た。

 

 歩く。座る。礼をする。手を差し出す。視線を合わせる。触れる。離れる。

 

 そのすべてが読まれる。

 

 つまり、身体は言葉なのだ。

 

 しかも、一度書いたら消しにくい言葉。

 

 訓練が続く。

 

 扉口から三歩。四歩目で視線。半拍置いて礼。

 

 クラリスが一歩進む。ルシアンが手を差し出す。彼女の指先が乗る。歩幅を合わせる。止まる。礼。また戻る。

 

 同じ動作を繰り返す。

 

 一度。二度。三度。十度。二十度。

 

 大広間の空気は静かだった。だが、二人の身体には確実に負荷がかかっている。

 

 ルシアンの背筋は崩れない。クラリスの笑顔も崩れない。

 

 だからこそ、俺は気づくのが遅れた。

 

 クラリスの足元が、ほんのわずかに乱れた。

 

 本当に一瞬。ドレスの裾が隠した。靴音も鳴らない。

 

 だが、重心がずれた。

 

(今、ふらついた?)

 

 ——ああ。

 

 ルシアンも気づいていた。だが、動かない。

 

 いや、動けない。

 

 ここで彼が露骨に支えれば、クラリスの失態になる。

 

 婚約候補の令嬢が、訓練中に支えられた。疲労を見せた。そう記録される。

 

 だから助けられない。

 

 助けることが、傷になる。

 

 相変わらず、優しさの扱いが難しすぎる世界だ。

 

 マダム・オルガの目が細くなる。

 

「クラリス様」

 

「はい」

 

「足元」

 

「失礼いたしました」

 

「謝罪ではなく、修正を」

 

「はい」

 

 クラリスは、微笑んだ。

 

 そして何事もなかったように立ち直る。足首の角度を整える。背筋を伸ばす。顎を戻す。

 

 すごい。すごいけれど、見ていて苦しくなる。

 

(足、痛いのか?)

 

 ——おそらく。

 

(言えないの?)

 

 ——言える。

 

(なら)

 

 ——言えば、体調管理の不足になる。

 

 俺は言葉を失った。

 

 痛い。疲れた。少し休みたい。

 

 そんな単純な言葉すら、この場では意味を持つ。

 

 体調管理ができていない。準備が足りない。令嬢として未熟。家の教育不足。

 

 そう読まれる。

 

 だから、言えない。

 

 言えないから、身体で隠す。

 

 姿勢で。笑顔で。ドレスの裾で。

 

「続けます」

 

 マダム・オルガが言った。

 

 クラリスは静かに頷く。

 

 ルシアンの内側が、わずかに硬くなる。

 

 怒りではない。焦りでもない。

 

 何かを測っている。

 

 次の入場動作。

 

 ルシアンが手を差し出す。クラリスが指を乗せる。歩く。

 

 一歩。二歩。三歩。

 

 四歩目。

 

 そこでルシアンの動きが、ほんの少しだけ変わった。

 

 クラリスの歩幅より、わずかに短い。

 

 彼女が足を運ぶ距離を、少しだけ減らしたのだ。

 

 外から見れば分からない。むしろ、ルシアンがクラリスに合わせているように見える。

 

 だが実際には、彼女の負担を軽くしている。

 

(お前)

 

 ——黙れ。

 

 次の回転。

 

 ルシアンは半拍だけ動きを遅らせた。クラリスが呼吸を整える時間を作る。

 

 礼の直前。彼は手の位置を、ほんのわずかに安定させた。

 

 彼女が重心を預けられるように。

 

 だが、支えたようには見えない。

 

 完璧な範囲内。

 

 作法を破らず。彼女の失態にもせず。ただ、身体の余白を作った。

 

(……うまいな)

 

 ——必要な調整だ。

 

(優しさだろ)

 

 ——違う。

 

(今日は否定が弱いぞ)

 

 ——黙れ。

 

 クラリスも気づいた。たぶん。

 

 次の礼で、彼女の指先がほんのわずかに緩んだ。

 

 安心したのだ。

 

 だが、彼女は何も言わない。

 

 礼法訓練の最中に感謝を示すことはできない。だから、ただ動きを整える。

 

 その動きが、礼になる。

 

 マダム・オルガは、二人をじっと見ていた。

 

 怖い。

 

 気づいたのか。気づいていないのか。分からない。

 

 やがて彼女は、淡々と言った。

 

「今の距離がよろしいでしょう」

 

 クラリスの肩から、ほんの少し力が抜ける。

 

 ルシアンは表情を変えない。

 

「ルシアン様」

 

「はい」

 

「導きすぎず、放しすぎず。今の感覚を覚えてください」

 

「承知しました」

 

「クラリス様」

 

「はい」

 

「頼りすぎず、拒みすぎず。相手の手を使うことも作法です」

 

 クラリスの瞳が、わずかに揺れた。

 

「……はい」

 

 この教師、全部気づいていた。

 

 そして、叱らなかった。

 

 それどころか、作法の言葉に変換して通した。

 

 頼ることも作法。

 

 その一言で、クラリスは支えられたことを失態にされずに済んだ。

 

(この人、厳しいけど悪い人じゃないな)

 

 ——優秀な礼法教師だ。

 

(お前らの世界、優しさを厳しさに隠しすぎ)

 

 ——優しさだけでは通らない場がある。

 

(だろうな)

 

 訓練はさらに続いた。

 

 次は椅子に座る動作。立ち上がる動作。相手の手を取る動作。離す動作。並んで礼をする動作。

 

 ひとつひとつが細かい。

 

 クラリスの額に、うっすら汗が滲む。だが彼女は拭わない。拭うタイミングがないからだ。

 

 ルシアンも、息を乱さない。

 

 だが俺には分かる。

 

 彼の肩にも、背中にも、ずっと力が入っている。

 

(お前も疲れてるだろ)

 

 ——問題ない。

 

(問題ない、じゃなくて疲れてるか聞いてる)

 

 ——疲れている。

 

(素直)

 

 ——疲労と失態は別だ。

 

(名言みたいに言うな)

 

 ——貴族は疲労を理由に作法を崩さない。

 

(地獄)

 

 ——そう育てられる。

 

 その一言は、軽くなかった。

 

 ルシアンも同じなのだ。

 

 クラリスだけではない。

 

 彼もまた、身体を制度に合わせて削られてきた。

 

 背筋。歩幅。呼吸。声量。視線。痛み。疲労。怒り。

 

 全部、外へ出す前に形を整えられてきた。

 

 ルシアンの身体は、彼自身のものではない。

 

 次期侯爵の身体。ヴァレスト家の身体。見られるための身体。間違えないための身体。

 

(貴族って、身体まで家のものなんだな)

 

 ルシアンは少し黙った。

 

 そして答えた。

 

 ——身体で家名を書くのだ。

 

 俺は何も言えなかった。

 

 嫌な言葉だった。だが、美しい言葉でもあった。

 

 この世界の貴族は、文字だけで家名を記すのではない。

 

 歩き方で。立ち方で。礼で。手の差し出し方で。痛みを隠す姿勢で。

 

 家名を書く。

 

 その筆跡が乱れれば、家が乱れたと見なされる。

 

 ようやく休憩が許されたのは、訓練開始からかなり経ってからだった。

 

 使用人たちが静かに椅子を用意する。茶が出される。

 

 当然、すぐには飲まない。

 

 もういいだろ、と思ったが、誰もそうは思っていない。

 

 マダム・オルガが伯爵夫人と短く会話をしている間、ルシアンとクラリスは少し離れた窓辺に立った。

 

 座らない。

 

 座るにも順番があるらしい。

 

(休憩とは)

 

 ——立ったまま休むこともある。

 

(休めてない)

 

 クラリスは微笑んでいた。

 

 しかし、ほんの少し呼吸が深い。

 

 ルシアンは窓の外を見ながら、静かに言った。

 

「足は」

 

 クラリスが一瞬だけ固まる。

 

 問いが短すぎる。だが、通じた。

 

「……問題ございません」

 

「問題の有無ではなく、痛みの有無を聞いています」

 

 クラリスは目を伏せる。

 

 しばらく沈黙した後、小さく言った。

 

「少しだけ」

 

「靴が合っていない」

 

「昨日は合っていました」

 

「今日は足が張っている」

 

 クラリスが驚いたように顔を上げる。

 

(お前、よく分かるな)

 

 ——歩幅が半寸変わっていた。

 

(怖いけど頼もしい)

 

 クラリスは少し迷った後、かすかに笑った。

 

「ルシアン様は、本当に色々とご覧になるのですね」

 

「見るようになった、と言われます」

 

「どなたに?」

 

「……何人かに」

 

(俺含む?)

 

 ——黙れ。

 

 クラリスは笑みを深めた。だが、すぐに真面目な顔になる。

 

「礼法院では、痛みは敵ではないと教わりました」

 

「ほう」

 

「痛みを憎めば、顔に出る。痛みを恐れれば、足が止まる。だから、痛みは衣服の内側へしまいなさい、と」

 

 ルシアンは黙って聞いていた。

 

 クラリスは続ける。

 

「でも時々、しまった場所がいっぱいになるのです」

 

 その言葉は、静かだった。

 

 けれど重かった。

 

 痛みをしまう場所。そこがいっぱいになる。

 

 泣く場所にも許可がいる少女は、痛みをしまう場所まで決められている。

 

(……)

 

 俺は茶化せなかった。

 

 ルシアンも、すぐには答えない。

 

 やがて彼は言った。

 

「次の動作確認では、私が半歩詰めます」

 

「それでは、ルシアン様の歩幅が」

 

「私の方が調整しやすい」

 

「ですが」

 

「婚約披露では、二人の動作として見られます。片方が崩れれば、両方の失点です」

 

 理屈だ。

 

 いつものルシアンらしい、制度の言葉。

 

 だが、その奥にあるものをクラリスも分かったのだろう。

 

 彼女は静かに一礼した。

 

「ありがとうございます」

 

「礼は不要です。合理的判断です」

 

(出た)

 

 ——何だ。

 

(不器用)

 

 ——黙れ。

 

 クラリスは、小さく笑った。

 

「はい。合理的判断として、頼らせていただきます」

 

 その返しに、ルシアンが少しだけ黙る。

 

 たぶん、一本取られた。

 

 俺は心の中で笑った。

 

 この二人、少しずつ会話ができるようになっている。

 

 直接ではない。甘くもない。

 

 制度の言葉を挟んで。作法のふりをして。

 

 それでも、ちゃんと相手へ届いている。

 

 休憩が終わる。

 

 再び訓練。

 

 入場。礼。歩行。手を取る。回る。離れる。

 

 ルシアンは予告通り、半歩だけ距離を調整した。

 

 クラリスは、先ほどより安定していた。

 

 マダム・オルガはそれを見て、短く頷く。

 

「よろしい」

 

 それだけ。

 

 たった一言。

 

 だが、クラリスの表情が少しだけ明るくなる。

 

 ルシアンは相変わらず無表情だった。

 

 けれど内側は、ほんのわずかに安堵していた。

 

(良かったな)

 

 ——必要な調整が成功しただけだ。

 

(はいはい)

 

 訓練が終わる頃には、窓の外が薄く茜色になっていた。

 

 ベルンハルト家の馬車が用意される。

 

 伯爵夫人とマダム・オルガが礼を交わす。

 

 クラリスは、最後まで姿勢を崩さなかった。

 

 足が痛いはずなのに。疲れているはずなのに。

 

 笑顔のまま、完璧に礼をした。

 

 馬車に乗る直前。

 

 ほんの一瞬だけ、彼女の重心が揺れる。

 

 ルシアンが動いた。

 

 だが、支えない。

 

 代わりに、馬車の段の位置へ視線を向ける。

 

 クラリスもそれに気づき、足を置く場所を変えた。

 

 揺れは消えた。

 

 誰にも分からない。

 

 たぶん、伯爵夫人とマダム・オルガ以外には。

 

 クラリスは馬車に乗り込む直前、ルシアンへ微笑んだ。

 

「本日は、ありがとうございました」

 

「こちらこそ」

 

「次回までに、靴を直してまいります」

 

「その方がよろしい」

 

 一見、ただの実務的な会話。

 

 でも違う。

 

 痛みを共有した者同士の会話だった。

 

 馬車の扉が閉まる。車輪が動く。ベルンハルト家の馬車が遠ざかっていく。

 

 大広間に戻る途中、ルシアンはいつも通り静かだった。

 

 だが、内側は少し重い。

 

(どうした)

 

 ——考えている。

 

(何を)

 

 ——私は、彼女の痛みに気づくのが遅かった。

 

(いや、普通気づかないだろ)

 

 ——気づくべきだった。

 

(完璧主義すぎ)

 

 ——婚約者候補として並ぶなら、相手の崩れは私の崩れでもある。

 

(それだけ?)

 

 ルシアンは黙った。

 

 そして少ししてから、低く言った。

 

 ——それだけではない。

 

 俺はそれ以上、茶化さなかった。

 

 ルシアンは、クラリスの痛みを見た。

 

 そして、それをただの失点として処理しなかった。

 

 制度の中で、彼女が崩れずに済むよう調整した。

 

 それは小さなことだ。

 

 けれど、この世界では小さな調整が人を救う。

 

 椅子を一寸引く。歩幅を半歩詰める。礼の間を半拍伸ばす。手を強くしすぎず、弱くしすぎず差し出す。

 

 それだけで、誰かが泣かずに済む。

 

 誰かが失態を記録されずに済む。

 

 俺は、今日初めてはっきり理解した。

 

 貴族の優雅さは、余裕ではない。

 

 訓練だ。我慢だ。痛みを姿勢で隠す技術だ。

 

 身体を、自分のものではなく、家名の筆として使う技術だ。

 

 ルシアンは廊下の途中で、ふと立ち止まった。

 

 窓硝子に、自分の姿が映っている。

 

 真っ直ぐな背筋。整った肩。乱れない呼吸。

 

 次期侯爵として仕上げられた身体。

 

(お前も痛い時、そうやって隠してきたのか)

 

 ——貴族なら、誰でもそうする。

 

(誰でも、じゃなくて。お前は?)

 

 ルシアンはしばらく黙った。

 

 やがて、窓硝子から目を逸らす。

 

 ——痛みは、姿勢で隠せと教わった。

 

 その声には、怒りも悲しみもなかった。

 

 ただ、事実としてそこに置かれた。

 

 だから余計に重かった。

 

(……そっか)

 

 俺は、それ以上何も言えなかった。

 

 この世界では、言葉だけが制度化されているのではない。

 

 空気だけでもない。

 

 身体まで、制度にされている。

 

 背筋。歩幅。呼吸。指先。涙。痛み。

 

 それらすべてが、家名の一部として読まれる。

 

 そして、読まれるからこそ、隠される。

 

 隠されるからこそ、誰も気づかない。

 

 ルシアンは再び歩き出した。

 

 足音は静かだった。歩幅は正確だった。姿勢は美しかった。

 

 いつもの侯爵家嫡男。

 

 けれど俺には、少しだけ違って見えた。

 

 その美しさの中に、今日初めて、痛みの輪郭が見えたからだ。

 

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