目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています 作:ブンチョウ
貴族は、生まれつき貴族なのだと思っていた。
血筋。家名。爵位。でかい屋敷。偉そうな父親。音のしない執事。
そういうものを持って生まれたら、自動的に貴族になるのだと。
だが、どうやら違う。
貴族は、生まれるものではない。作られるものだ。
しかも、かなり早い段階から。
(……子ども相手にやる授業じゃないだろ、これ)
——初等礼法だ。
(初等の意味を辞書で引き直せ)
ヴァレスト侯爵家の東棟。日当たりの良い小さな稽古室。
床には淡い色の絨毯が敷かれ、壁際には背の低い椅子が並んでいる。窓辺には花。棚には絵本。
普通なら、子どもの遊び部屋に見える。
だが中央の床には、白い線が引かれていた。
歩幅。礼の位置。立ち止まる場所。右手を置く高さ。左足を引く角度。
また線だ。
この屋敷、床に線を引きすぎである。
(お前ら、床を譜面か何かだと思ってる?)
——身体の譜面だ。
(ちょっと上手いこと言うな)
この日の稽古室で、中央に立たされていたのはルシアンではない。
エミリアだった。
淡い桃色の練習用ドレス。髪はいつもより簡素に結ばれている。靴も柔らかい室内用で、手には小さな白手袋。
まだ少し大きく、指先が余っていた。
その姿は、どう見ても子どもだった。
十歳ほどの、明るくて、兄に焼き菓子を持ってくる妹。
なのに彼女の前に立つ礼法教師は、容赦がなかった。
マダム・オルガである。
今日も背筋が剣。声も剣。視線も剣。
「エミリア様。もう一度、入室から」
「はい」
エミリアが扉の位置へ戻る。小さく息を吸い、扉を開ける動作をする。
三歩進む。立ち止まる。礼。顔を上げる。
「違います」
マダム・オルガの声が落ちた。
エミリアの肩がぴくりと動く。
「礼の前に、視線が跳ねました」
「……はい」
「相手を見るのは結構です。ですが、探すように見てはいけません。幼く見えます」
「はい」
(幼いだろ!)
——幼さを見せてよい場と、見せてはならぬ場がある。
(十歳だぞ)
——だから学ぶ。
ルシアンは稽古室の端に立っていた。
今日は見学、という名目らしい。実際には、妹の教育進度を確認する兄として呼ばれている。
エミリアもそれを意識しているのだろう。さっきから時々、ルシアンの方を見そうになる。
だが、そのたびに我慢している。
兄に見られている。だから失敗したくない。
その気持ちが、身体に出ていた。
「もう一度」
「はい」
エミリアは扉の位置へ戻る。
今度は視線を抑えた。三歩。止まる。礼。
「浅い」
「はい」
もう一度。
「深すぎます。媚びに見えます」
「はい」
もう一度。
「足音」
「はい」
もう一度。
「息が先に出ています」
「はい」
もう一度。
何度も。何度も。
たった入室と礼だけで、稽古室の空気が少しずつ重くなる。
エミリアの頬は赤くなっていた。疲れではない。緊張と、恥ずかしさだ。
でも泣かない。
泣きそうにはなっている。
それでも泣かない。
(……これ、きついな)
——基礎だ。
(基礎がきついんだよ)
——基礎ほど、逃げられん。
ルシアンの声は静かだった。
だが、いつものような冷たい断言ではない。少しだけ、遠くを見ているような響きがあった。
(お前もやったのか)
——当然だ。
(何歳から?)
——五歳。
(五歳!?)
——立ち方からだ。
(五歳で立ち方直されるのかよ)
——貴族の子は、まず立たされる。
嫌な言葉だった。
子どもは走るものだ。転ぶものだ。笑うものだ。
そう思う俺の感覚が、この部屋では通用しない。
ここでは、子どもはまず立たされる。
正しい足の位置で。正しい背筋で。正しい顔で。
マダム・オルガが手を叩いた。
「次は挨拶です」
「はい」
「客人が、母君の古い友人であった場合」
設定が細かい。
エミリアは少し考え、両手を前で揃えた。
「お初にお目にかかります。エミリア・ヴァレストでございます。母がいつもお世話になっております」
「悪くありません」
エミリアの顔が、ぱっと明るくなった。
その瞬間。
「笑いすぎです」
明るさが、止まった。
「……はい」
「喜びを表すのはよろしい。ですが、歯を見せてはいけません。幼さ、無防備、過剰な親愛。三つの意味が出ます」
(歯を見せたら三重事故なの?)
——相手による。
(相手によって子どもの笑顔まで変えるのか)
——当然だ。
エミリアは口元を結び直した。
笑顔を小さくする。頬の力を抑える。目だけを少し柔らかくする。
それは、笑顔というより、笑顔の形をした礼儀だった。
さっきの自然な笑顔の方が、ずっと可愛かった。
でも、この世界では違うのだろう。
可愛いだけでは、守られない。
「もう一度」
「はい」
エミリアは挨拶を繰り返す。
今度は、笑いすぎない。声も高すぎない。視線も跳ねない。
子どもらしさが、少しずつ削られていく。
見ていて、胸の奥がむずむずした。
(なあ)
——何だ。
(お前は、これを見て何とも思わないのか)
ルシアンは答えない。
稽古室の中央では、エミリアがまた礼をしている。
小さな背筋を伸ばして。少し大きい手袋をつけて。泣かないように口元を整えて。
ルシアンは、しばらく沈黙した。
それから、低く言う。
——思うから、見ている。
(……)
意外な返事だった。
冷たい答えが返ってくると思っていた。
「必要な教育だ」と。「甘やかすな」と。
いつものように。
だが、違った。
思うから、見ている。
つまり、これはルシアンにとっても他人事ではない。
妹が削られていくのを、ただ制度として眺めているわけではないのだ。
その時、マダム・オルガが新しい課題を出した。
「次は、使用人への指示です」
エミリアが少し緊張する。
「はい」
部屋の端に控えていた若い侍女が、一歩前へ出た。練習相手らしい。
エミリアは侍女へ向き直る。
「お茶を、お願いします」
マダム・オルガが即座に言った。
「弱い」
「はい」
「願ってはいけません。命じなさい。ただし、傲慢に響かせてはいけません」
(難しすぎる)
——使用人への命令は、初等礼法の要だ。
(お願いじゃダメなのか?)
——命令系統が曖昧になる。
(でも命令しすぎたら?)
——嫌われる。
(詰みじゃん)
——だから学ぶ。
エミリアはもう一度、侍女を見る。
「お茶を用意して」
「強い」
「……はい」
「語尾を落としすぎです。苛立って見えます」
「はい」
「相手を見る時間が長い。圧迫になります」
「はい」
もう一度。
「お茶を用意してちょうだい」
「今度は柔らかすぎます。友人ではありません」
「……はい」
エミリアの目に、うっすら涙が浮かんだ。
本人も分からなくなっているのだ。
お願いしては弱い。命じすぎては強い。柔らかすぎては友人。硬すぎては傲慢。
十歳の子どもに、それを声の温度で調整しろと言う。
(さすがに……)
俺が言いかけた時、ルシアンが一歩動いた。
稽古室の空気が変わる。
エミリアが顔を上げる。マダム・オルガも視線だけを向けた。
「エミリア」
「はい、兄様」
「使用人へ命じる時、相手を動かそうとするな」
エミリアが困ったように瞬きする。
「動かそうと、しないのですか?」
「ああ。役目を渡す」
「役目を……」
「茶を用意するのは、その者の仕事だ。お前が相手を従わせるのではない。相手の役目が正しく果たされるよう、言葉を置く」
エミリアは少し考える。
侍女を見る。
今度は、睨まない。縋らない。
ただ、相手がそこにいることを認めるように見る。
「お茶の用意を、お願い」
マダム・オルガの眉がわずかに動く。
「まだ願いが強いです」
エミリアの肩が落ちかける。
だがルシアンが言った。
「語尾を少しだけ整えろ」
「はい」
エミリアは息を吸い直す。
「お茶の用意を」
短い。
だが、不思議ときつくない。
侍女も自然に頭を下げる。
「かしこまりました」
マダム・オルガが頷いた。
「よろしい」
エミリアの顔が、ぱっと明るくなりかける。
しかし、今度は自分で抑えた。笑いすぎないように。嬉しさを整えて。
「ありがとうございます」
小さな声だった。
誰に向けたのかは分からない。
マダム・オルガか。侍女か。ルシアンか。
たぶん、全部だ。
(兄っぽいじゃん)
——黙れ。
(いや、今のすごくよかったぞ)
——必要な助言をしただけだ。
(はいはい)
マダム・オルガはルシアンを一度見た。
「ルシアン様」
「はい」
「今の説明は、少し抽象的です」
「……失礼いたしました」
「ですが、悪くありません」
出た。
この世界の指導者たちは、褒める時も刃物を添える。
ルシアンは一礼した。
「恐れ入ります」
授業は続いた。
次は、書簡の練習だった。
小さな机に、便箋が置かれる。エミリアは椅子へ座る。
座る動作も直される。ペンを持つ。持ち方も直される。インクをつける。量も直される。
(書き始めるまで長い)
——書簡は、書く前に半分決まる。
(またそれ系)
課題は、親族の伯母へ贈る礼状らしい。
エミリアは一生懸命書いた。
『親愛なる伯母様』
マダム・オルガが即座に言う。
「親愛は強すぎます」
「……はい」
「伯母君との距離なら、“尊き伯母様”が妥当です」
(親愛すら許可制か)
——親愛は軽く使うものではない。
エミリアは書き直す。
『尊き伯母様』
次の文。
『先日は美しいリボンをありがとうございました。とても嬉しかったです』
「嬉しかった、は幼い」
「はい」
「“ありがたく拝受いたしました”へ」
「……はい」
(どんどん感情が消えていく)
——消すのではない。整える。
(整えすぎて見えなくなってるだろ)
——見える者には見える。
エミリアは唇を結び、書き直す。
『先日は美しいリボンを賜り、ありがたく拝受いたしました』
綺麗な文だ。
でも、さっきの「とても嬉しかったです」の方が、彼女らしかった。
俺はそう思った。
するとルシアンが、静かに言った。
「エミリア」
「はい」
「最後に一文、色について触れろ」
「色?」
「ああ。リボンをただ受け取ったのではなく、見ていると伝わる」
「どのように書けばよろしいでしょう」
ルシアンは少し考える。
「“淡い杏色は、春の装いに合わせやすく、大切に用いたく存じます”」
エミリアが目を輝かせる。
「それなら、嬉しい気持ちも伝わりますか?」
「伝わる。ただし、騒がしくない」
「はい!」
その笑顔は、少しだけ明るすぎた。
マダム・オルガの視線が飛ぶ。
エミリアは慌てて笑みを抑える。
「……はい」
ルシアンが、ほんのわずかに目を伏せた。
今の笑顔を、止めたくなかったのだろう。
たぶん。
(お前、今ちょっと悔しかった?)
——何がだ。
(妹が笑うのを抑えたこと)
——……必要なことだ。
(必要でも、嫌なものは嫌だろ)
ルシアンは答えなかった。
授業の最後は、歩行だった。
床の白線に沿って歩く。
急がない。遅れない。裾を揺らしすぎない。靴音を立てすぎない。視線を落としすぎない。正面を見すぎない。
エミリアは疲れていた。
小さな肩が、ほんの少し下がっている。
だが彼女は続けた。
兄が見ているから。マダム・オルガが見ているから。侍女が見ているから。ヴァレスト家の令嬢だから。
子どもなのに。
いや、子どもだからこそ。
今から作られている。
「足が遅れています」
「はい」
「視線」
「はい」
「手」
「はい」
「呼吸が浅い」
「はい」
エミリアが立ち止まった。
目に涙が溜まっていた。
今度こそ、こぼれそうだった。
稽古室が静かになる。
マダム・オルガは何も言わない。侍女も動かない。ルシアンも動かない。
(おい)
——待て。
(泣きそうだぞ)
——ここで声をかければ、泣く。
(じゃあどうすんだよ)
ルシアンは、ゆっくりとエミリアの前へ歩いていった。
近すぎない距離で止まる。
しゃがまない。抱きしめない。頭を撫でない。
ただ、同じ高さではなく、兄としての高さで言った。
「エミリア」
「……はい」
「私も、八歳の頃に同じところで泣いた」
稽古室の空気が止まった。
エミリアが目を見開く。
俺も驚いた。
(お前が?)
ルシアンは俺を無視した。
エミリアだけを見る。
「歩幅を直され、礼を直され、笑い方を直され、最後に呼吸を直されて、分からなくなった」
「兄様も……?」
「ああ」
「泣かれたのですか?」
「泣いた」
即答だった。
それが少し可笑しかったのか、エミリアの涙が止まる。
唇が震える。泣き笑いみたいな顔。
「兄様が……」
「誰でも最初は間違える」
ルシアンは静かに言った。
「間違えたから、直す。直したから、次は少し楽になる」
「楽に、なりますか?」
「なる」
少し間を置いて、ルシアンは付け足した。
「少なくとも、どう間違えたのか分からずに怖がる時間は減る」
優しい言葉ではない。
でも、ルシアンらしい言葉だった。
痛みを消すとは言わない。楽しいとも言わない。
ただ、怖さが少し減ると言う。
この世界では、それだけで救いになるのかもしれない。
エミリアは、袖で涙を拭おうとした。
マダム・オルガの視線が動く。
しかしその前に、ルシアンが言った。
「涙は、布で押さえろ。擦ると赤くなる」
エミリアは、はっとして侍女から差し出された布を受け取る。
目元を押さえる。擦らない。
泣く時すら、作法がある。
でも今は、その作法が彼女を守っているようにも見えた。
泣いた跡を残さないために。
あとで笑われないために。
マダム・オルガが静かに言った。
「よろしいでしょう。本日はここまで」
エミリアが驚いて顔を上げる。
「よろしいのですか?」
「泣き方も、学びの一つです」
厳しい。
だが、突き放してはいない。
「涙を見せるなとは申しません。ただし、涙に場を支配させてはいけません。今日は、それを学びました」
「……はい」
「次回は、呼吸から始めます」
「はい」
授業が終わった。
侍女たちが道具を片づける。白い線は、まだ床に残っている。
エミリアは疲れ切っていたが、最後まで礼をした。
小さな身体で。
精一杯、貴族令嬢として。
マダム・オルガが退出すると、稽古室の空気が少し緩んだ。
エミリアはルシアンを見上げる。
「あの、兄様」
「何だ」
「兄様も、本当に泣かれたのですか?」
「言っただろう」
「想像できません」
「想像しなくていい」
ルシアンは少しだけ目を逸らした。
(照れてる)
——黙れ。
エミリアは、ようやく少し笑った。
今度は歯を見せない。
でも、先ほどより自然だった。
「兄様も、最初は間違えたのですね」
「ああ」
「では、私も大丈夫でしょうか」
ルシアンはすぐには答えなかった。
いつものように「当然だ」とは言わなかった。
少し考えてから、静かに言う。
「間違え方を覚えろ」
「間違え方、ですか?」
「ああ。何を間違えたのか分かれば、次は直せる。分からぬまま怯えるな」
エミリアは、その言葉を大事そうに受け取った。
「はい」
そして、少し迷ってから言う。
「兄様」
「何だ」
「今日の焼き菓子は、少し遅くなります」
「なぜだ」
「呼吸の練習をしてから作ります」
ルシアンが止まる。
俺は笑いそうになった。
(焼き菓子にも礼法を持ち込むな)
——……。
エミリアは真面目だった。
「焦ると、粉をこぼしますので」
「……そうか」
「はい」
ルシアンは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
本当に少し。
普通の人間なら気づかない程度。
でもエミリアは気づいた。
ぱっと顔を明るくする。
今度は、笑いすぎる前に自分で止めた。
その様子を見て、俺は少しだけ胸が痛くなった。
子どもは、まず笑い方を直される。
それがこの世界の貴族教育なのだ。
けれど。
全部が削られているわけではない。
少なくとも今、エミリアの笑顔は消えたのではない。
少しだけ形を変えて、そこに残っている。
それを守れるかどうかは、周りの大人次第なのだろう。
いや。
兄次第でもある。
エミリアが侍女と一緒に稽古室を出ていく。
その背中は疲れていた。
でも、入ってきた時より少しだけまっすぐだった。
ルシアンは、床の白い線を見下ろしていた。
(お前、昔のこと話すの珍しいな)
——必要だった。
(妹のため?)
——教育のためだ。
(はいはい)
ルシアンは黙る。
それから、ぽつりと言った。
——私が泣いた時、誰も「最初は間違える」とは言わなかった。
俺は言葉を失った。
その声は、責めているわけではなかった。
ただ、過去を事実として置いただけ。
五歳で立ち方を直され。八歳で歩幅を直され。笑い方を直され。泣き方も直され。
そうやってルシアンは作られた。
完璧な侯爵令息として。
制度へ適応しすぎた少年として。
(……だから言ったのか)
——エミリアには、知っておいた方がいい。
(何を)
——間違えても、世界は終わらんということを。
それは、ルシアン自身が昔、誰かに言ってほしかった言葉なのかもしれない。
稽古室には、まだ午後の光が残っていた。
床に引かれた白い線。小さな足跡。机に残るインクの匂い。少しだけ歪んだ練習用の礼。
この部屋で、貴族の子どもは作られていく。
歩き方を整えられ。笑い方を薄められ。言葉を遠回しにされ。涙の拭い方を教えられ。
身体と感情を、家名にふさわしい形へ折りたたんでいく。
それは残酷だ。
でも、ただの残酷ではない。
この社会で傷つかないための鎧でもある。
問題は、その鎧が重すぎることだ。
幼い身体には。
幼い心には。
ルシアンは、白い線の上を一歩だけ歩いた。
正確な歩幅。音のしない足取り。完璧な姿勢。
その美しさの向こうに、俺はようやく少しだけ見た。
この少年が、どれだけ直されてきたのかを。
そして今、彼が妹に同じ道を歩かせながらも、少しだけ違うものを渡そうとしていることを。
正しさだけではなく。
怖さを減らす言葉を。
失敗しても終わらないという余白を。
(ルシアン)
——何だ。
(お前、いい兄貴になってきたな)
——黙れ。
いつもの返事。
だが、その声は少しだけ柔らかかった。
窓の外では、午後の光がゆっくり傾いている。
ヴァレスト侯爵家の長い廊下のどこかで、エミリアの小さな足音が聞こえた気がした。
走ってはいない。
でも、以前より少しだけ軽い足音だった。