目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています   作:ブンチョウ

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第16話 令嬢の失敗は、家族の噂になる

 エミリアの礼法授業から数日後。

 

 ヴァレスト侯爵家に、小さな茶会の予定が入った。

 

 小さな、といっても、俺の感覚では十分に大ごとである。

 

 招かれるのは親族筋の夫人が二人と、その娘たち。

 

 目的は表向き、

 

「エミリア様の近況を伺うため」

 

 だった。

 

 だが、ルシアンはその知らせを聞いた瞬間、露骨に嫌そうな気配を出した。

 

(何? 親戚の集まりだろ?)

 

 ——親族ほど厄介なものはない。

 

(血縁に対する信頼が薄い)

 

 ——血縁だからこそ、遠慮がない。

 

(ああ……それは分かる)

 

 アルヴェルトが、淡々と予定を読み上げる。

 

「本日は午後二時より、東棟小サロンにて、レーヴェ伯爵夫人、ミリアム卿夫人、およびご令嬢方をお迎えいたします」

 

「エミリアが同席するのか」

 

「はい。奥様のご判断でございます」

 

 ルシアンの内側が、わずかに硬くなった。

 

(妹の社交デビュー?)

 

 ——デビューではない。親族内の試験だ。

 

(言い方)

 

 ——事実だ。

 

 俺は、つい先日のエミリアを思い出した。

 

 笑い方を直され、歩き方を直され、泣き方まで教えられた小さな妹。

 

 あの子が今日、親族の夫人たちの前へ出る。

 

 つまり、教育の成果を見られるのだ。

 

 そして失敗すれば、エミリア本人だけでなく、教育係、母親、侍女、そしてヴァレスト家の評判にまでつながる。

 

(……子どもの茶会じゃないな)

 

 ——貴族の子どもに、ただの茶会はない。

 

 嫌な言葉だった。

 

 午後。

 

 東棟小サロンは、いつもより明るく整えられていた。

 

 大広間ほど重くなく、応接室ほど硬くない。

 

 淡い花柄の壁紙。白い丸卓。小さめの椅子。窓辺には、季節の花。

 

 子どもを交えた親族茶会にふさわしい、柔らかな空間だった。

 

 ただし。

 

 柔らかいから安全、というわけではない。

 

 この世界では、柔らかい場所ほど針が隠れている。

 

(かわいい部屋なのに、怖く見えてきた)

 

 ——正しい認識だ。

 

 ルシアンは、少し離れた席に座ることになっていた。

 

 主役ではない。

 

 だが、兄として同席する。

 

 エミリアの支えであり、観測者であり、親族たちへの牽制でもある。

 

(お前、座ってるだけで仕事多いな)

 

 ——貴族は座る位置にも役目がある。

 

(もう椅子が役職じゃん)

 

 やがて、客人たちが入ってきた。

 

 レーヴェ伯爵夫人は、痩せた年配の女性だった。

 

 薄い灰色の髪を美しくまとめ、口元には上品な微笑みを浮かべている。

 

 だが、目が鋭い。

 

 エドガーとは別の方向で、目が笑っていない。

 

 その隣にいるミリアム卿夫人は、丸みのある穏やかな女性だった。笑顔も柔らかい。

 

 ただし、柔らかい人間が安全とは限らないことを、俺はすでに学びつつある。

 

 二人の後ろには、年若い令嬢がいた。

 

 十三歳と十一歳ほどだろうか。

 

 そして最後に、エミリアが入ってきた。

 

 淡い杏色のドレス。

 

 先日、伯母への礼状に書いた色に似ている。

 

 髪はきちんと結われ、手袋も今日はぴったり合っていた。

 

 顔には、少し緊張が浮かんでいる。

 

 それでも歩幅は乱れていない。

 

 扉口から三歩。

 

 立ち止まり、礼をする。

 

 顔を上げる。

 

 笑顔。

 

 笑いすぎず、硬すぎない。

 

(おお)

 

 俺は素直に感心した。

 

(エミリア、ちゃんとできてるじゃん)

 

 ——ああ。

 

 ルシアンの返事は短い。

 

 だが、その内側には、ほんの少し安堵があった。

 

 レーヴェ伯爵夫人が微笑む。

 

「まあ、エミリア様。お久しゅうございます。ずいぶん背がお伸びになりましたこと」

 

 エミリアは一礼した。

 

「レーヴェ伯爵夫人におかれましても、ご健勝のご様子、嬉しく存じます」

 

 おお。

 

 ちゃんとしている。

 

 十歳の子どもが言うには、やけに整っているが。

 

 この世界では、それが正解なのだろう。

 

 ミリアム卿夫人が笑う。

 

「ますます奥様に似てこられましたね」

 

 エミリアは一瞬だけ、目を輝かせそうになった。

 

 母に似ていると言われたのが、嬉しかったのだろう。

 

 だが、すぐに笑みを整える。

 

「恐れ入ります」

 

(えらい)

 

 ——今のは良い。

 

 ルシアンの声に、かすかな満足が混じった。

 

 しかし、茶会は始まったばかりだった。

 

 全員が席につく。

 

 茶が出され、菓子が置かれる。

 

 エミリアは小さな手でカップを持ち上げた。

 

 音を立てない。

 

 指先の角度も悪くない。

 

 マダム・オルガの訓練が効いている。

 

 レーヴェ伯爵夫人が、ゆっくり口を開いた。

 

「エミリア様は、最近礼法に励んでおられるとか」

 

 来た。

 

 明らかに来た。

 

(これ、褒める流れ?)

 

 ——試す流れだ。

 

(ですよね)

 

 エミリアはカップを置く。

 

 音はしない。

 

「はい。まだ至らぬ点ばかりでございますが、日々学んでおります」

 

「まあ、謙虚でいらっしゃる」

 

 伯爵夫人は微笑んだ。

 

「でも、あまり早く大人になってしまうのも寂しいものですわね。子どもらしさも、今だけの宝ですもの」

 

 柔らかい声だった。

 

 優しい言葉にも聞こえる。

 

 だが、ルシアンの内側が警戒する。

 

(え、何がまずいの?)

 

 ——返答を誤れば、教育不足にも、過剰教育にも取られる。

 

(親戚、怖っ)

 

 エミリアは少しだけ考えた。

 

 その沈黙は短い。

 

 けれど、ちゃんと考えている沈黙だった。

 

「子どもらしさを失わぬよう、けれどヴァレストの名に恥じぬよう、努めたく存じます」

 

 レーヴェ伯爵夫人の目が、わずかに細くなる。

 

 ミリアム卿夫人は穏やかに頷いた。

 

「立派なお答えですこと」

 

(セーフ?)

 

 ——セーフだ。

 

(よかった……)

 

 俺がほっとしたのも束の間、今度は十三歳ほどの令嬢が口を開いた。

 

「エミリア様は、焼き菓子がお得意と伺いました」

 

 エミリアの表情が、明るくなりかける。

 

 焼き菓子。

 

 兄に渡している、あの小さな橋だ。

 

 彼女にとって、嬉しい話題なのだろう。

 

 だが、ルシアンの内側がまた少し硬くなる。

 

(これも罠?)

 

 ——罠とは限らん。ただし、家庭的すぎる印象を与える可能性がある。

 

(焼き菓子で?)

 

 ——侯爵家令嬢が台所仕事に親しみすぎていると見られれば、教育方針を疑われる。

 

(めんどくさ!)

 

 エミリアは一瞬、ルシアンを見そうになった。

 

 だが、見なかった。

 

 自分で答える。

 

「得意と申せるほどではございません。菓子職人の手際を学びながら、香りや焼き加減を見る練習をしております」

 

(うまい)

 

 ——よし。

 

 ルシアンの心の声が低く鳴った。

 

 得意とは言わない。

 

 台所仕事に没頭しているとも言わない。

 

 香りや焼き加減を見る。つまり、感性と教養の一部として処理した。

 

 エミリア、すごい。

 

 あの礼法授業は、無駄ではなかった。

 

 しかし、レーヴェ伯爵夫人は微笑んだまま続ける。

 

「まあ。では、いつかお兄様にもお作りに?」

 

 空気が微妙に動いた。

 

 これは踏み込んできた。

 

 エミリアが兄へ焼き菓子を持っていくことは、屋敷内ですでに知られている。

 

 そして、その情報は親族筋にも漏れている。

 

(情報早すぎない?)

 

 ——親族は、屋敷の中より早いことがある。

 

(意味分からん)

 

 この質問は、無邪気に聞こえる。

 

 だが、意味がある。

 

 妹が兄に親しくしている。

 

 次期当主が妹を可愛がっている。

 

 妹派閥。

 

 以前、ルシアンが恐れていた言葉が頭をよぎる。

 

 エミリアも気づいたのだろう。

 

 ほんのわずかに、指先が緊張した。

 

 ルシアンは動かない。

 

 動けない。

 

 ここで兄が助け船を出せば、それこそ親しさを認める形になる。

 

(自分で処理しなきゃいけないのか)

 

 ——そうだ。

 

 エミリアは、ゆっくり笑った。

 

「兄様は、菓子の出来に大変厳しゅうございます」

 

 え。

 

 俺は一瞬、固まった。

 

 ルシアンも固まった。

 

 エミリアは続ける。

 

「ですから、兄様にお出しする時は、味よりもまず、焦げていないかを確認するようになりました」

 

 ミリアム卿夫人が、くすりと笑う。

 

 令嬢たちも小さく笑った。

 

 レーヴェ伯爵夫人の目元も、少し緩む。

 

 空気が軽くなった。

 

(おお……!)

 

 ——あいつ。

 

(妹、強いな!)

 

 ——……悪くない。

 

 兄妹の親しさを認めすぎず、ルシアンを少し厳しい兄として笑いの対象にする。

 

 妹が兄に甘える構図ではなく、兄が教育的に味を見る構図へ変えた。

 

 しかも、場が和んだ。

 

 エミリア、すごい。

 

 ルシアンの内側には、驚きと安堵と、ほんの少しの照れが混じっていた。

 

 レーヴェ伯爵夫人が言う。

 

「ルシアン様は、妹君にも厳しくていらっしゃるのですね」

 

 ルシアンに話が飛んだ。

 

 彼はカップを置き、静かに答える。

 

「エミリアは、学べば伸びます。厳しくする価値がある」

 

(褒めてる?)

 

 ——褒めている。

 

(分かりにくい!)

 

 エミリアは少しだけ嬉しそうに目を伏せた。

 

 喜びを隠しきれてはいない。

 

 その表情を見て、俺は胸の奥が少し温かくなった。

 

 茶会は続いた。

 

 話題は花、天候、親族の近況、来月の礼拝、王都で流行している絹の色へ移る。

 

 一見、穏やかだった。

 

 だが、どの話題もエミリアを試している。

 

 花の名前を知っているか。

 

 天候を領地の作柄へ繋げられるか。

 

 親族の名前を間違えないか。

 

 流行色へ飛びつきすぎないか。

 

 子ども相手のはずなのに、まるで子ども扱いではない。

 

(エミリア、疲れるだろ、これ)

 

 ——疲れる。

 

(なのに笑ってる)

 

 ——笑うのも仕事だ。

 

 その時、十一歳ほどの令嬢が、何気なく言った。

 

「エミリア様は、クラリス様にもお会いになったのでしょう? 未来のお義姉様になる方ですものね」

 

 空気が止まった。

 

 ほんの一瞬。

 

 だが、確かに止まった。

 

(うわ)

 

 子どもの発言。

 

 だが、子どもだからこそ危険だ。

 

 婚約は、まだ正式決定ではない。

 

 交渉中だ。

 

 それを「未来のお義姉様」と言い切るのは、踏み込みすぎる。

 

 令嬢本人に悪気はない。

 

 むしろ無邪気な興味なのだろう。

 

 だが、周囲の大人たちは全員、その意味を理解していた。

 

 エミリアの顔が、一瞬白くなる。

 

 レーヴェ伯爵夫人が孫娘を軽く見る。

 

 叱りはしない。

 

 だが、その視線だけで十分だった。

 

 場に小さな亀裂が入る。

 

(どうする)

 

 ——エミリア次第だ。

 

(きついな……)

 

 エミリアはカップに手を伸ばした。

 

 すぐには飲まない。

 

 まず持つ。

 

 香りを確かめるように、一呼吸置く。

 

 それで考える時間を作った。

 

 ルシアンの内側が、わずかに反応する。

 

 よくやった。

 

 声には出さない。

 

 だが、そう思ったのが分かった。

 

 エミリアはカップを静かに戻した。

 

「クラリス様は、とても丁寧な方です」

 

 まず、人格を褒めた。

 

 婚約には触れない。

 

 義姉とも言わない。

 

 未来とも言わない。

 

「先日、兄様への返礼の品を拝見しました。細やかなお心遣いをなさる方だと感じました」

 

 いい。

 

 クラリス本人を立てる。

 

 だが、関係を確定しない。

 

 兄との距離も濃くしない。

 

 十一歳の令嬢は、少し物足りなさそうだった。

 

「でも、お義姉様になられたら素敵ではありませんか?」

 

 追撃。

 

 子どもは怖い。

 

 大人が言えないことを、平気で言う。

 

 エミリアの指が、膝の上でわずかに握られる。

 

 ルシアンの内側が硬くなった。

 

 今度は、助けるべきか。

 

 だが、彼が口を開く前に、エミリアが微笑んだ。

 

 笑いすぎない。

 

 けれど、温かい笑みだった。

 

「そうなれば、きっと多くを学ばせていただけると思います」

 

 義姉になるかどうかは肯定しない。

 

 ただ、そうなった場合の礼を述べる。

 

 未来を確定させず、可能性だけを丁寧に扱う。

 

 レーヴェ伯爵夫人が、わずかに目を細めた。

 

 ミリアム卿夫人は穏やかに頷く。

 

「まあ、よくお分かりでいらっしゃる」

 

 空気が戻る。

 

(エミリア……!)

 

 俺は心の中で拍手した。

 

(すごいぞ、今の)

 

 ——ああ。

 

 ルシアンの声は、本当に静かだった。

 

 だが、その静けさの中には、深い安堵があった。

 

 茶会は無事に進んだ。

 

 エミリアは最後まで崩れなかった。

 

 笑いすぎず。

 

 黙りすぎず。

 

 答えすぎず。

 

 逃げすぎず。

 

 十歳の子どもが、親族たちの柔らかな針の間を歩き切った。

 

 終わりの礼。

 

 退室。

 

 扉が閉まる。

 

 廊下へ出た瞬間、エミリアの肩がほんの少しだけ落ちた。

 

 本当に少しだけ。

 

 だが、ルシアンは気づいた。

 

「エミリア」

 

「はい、兄様」

 

「よく処理した」

 

 エミリアの顔が、ぱっと明るくなる。

 

 だが、笑いすぎないように一度止めた。

 

 それを見て、ルシアンがわずかに眉を動かす。

 

「今は笑ってよい」

 

 エミリアが目を丸くした。

 

「よろしいのですか?」

 

「廊下には誰もいない」

 

(いや、使用人いるけど)

 

 ——見ないことにしている。

 

(便利な制度だな)

 

 エミリアは今度こそ笑った。

 

 歯が少し見える、子どもらしい笑顔だった。

 

 ルシアンは何も言わなかった。

 

 注意もしなかった。

 

 ただ、静かに見ていた。

 

「兄様」

 

「何だ」

 

「私、間違えませんでしたか?」

 

「いくつか危うかった」

 

「……はい」

 

「だが、崩れなかった」

 

 エミリアは、その言葉を大切そうに受け取った。

 

「はい」

 

「特に、クラリス嬢の件はよかった」

 

「本当ですか?」

 

「ああ。未来を確定せず、相手への敬意を示した。親族茶会としては十分だ」

 

(褒め方が業務評価)

 

 ——黙れ。

 

 エミリアは嬉しそうだった。

 

 業務評価でも、兄からの評価は嬉しいらしい。

 

「兄様に教えていただいたからです」

 

「私は何も教えていない」

 

「間違え方を覚えろ、と教えてくださいました」

 

 ルシアンが少し黙る。

 

 それは、前回の言葉だった。

 

 エミリアは覚えていた。

 

「今日は、間違えそうになった時、少しだけ分かりました。あ、ここを踏んだら危ないのだな、と」

 

 ルシアンの内側が、静かに揺れた。

 

 嬉しさ。

 

 たぶん、嬉しさだ。

 

 ただし本人は認めないだろう。

 

「そうか」

 

 短い返事。

 

 だが、エミリアは満足そうだった。

 

 その時、廊下の角からアルヴェルトが現れた。

 

「ルシアン様。エミリア様」

 

 いつもの無表情。

 

 だが、目元が少しだけ柔らかいような気がした。

 

「奥様より、本日の茶会について報告を受けたいとのことです」

 

 エミリアの顔が少し緊張する。

 

 母への報告。

 

 つまり、まだ終わっていない。

 

 茶会は終わったが、評価が残っている。

 

 貴族の子どもは、失敗だけでなく成功も報告される。

 

 それが次の教育になる。

 

「分かりました」

 

 エミリアは一礼した。

 

 歩き出す前に、ルシアンが言う。

 

「エミリア」

 

「はい」

 

「報告では、危うかった箇所を先に言え」

 

「先に、ですか?」

 

「ああ。褒められるのを待つな。自分で分かっていると示せば、次の指導が軽くなる」

 

(めちゃくちゃ実用的)

 

 ——必要な助言だ。

 

 エミリアは真剣に頷いた。

 

「はい。クラリス様の件で、少し答えに迷ったと申します」

 

「それでいい」

 

「兄様」

 

「何だ」

 

「ありがとうございます」

 

 エミリアは笑いすぎず、それでも柔らかく笑った。

 

 そして侍女とともに、母のもとへ向かった。

 

 その背中は疲れていた。

 

 だが、前回の礼法授業の後よりも、少しだけ強かった。

 

 廊下に残ったルシアンは、しばらく何も言わなかった。

 

(エミリア、頑張ったな)

 

 ——ああ。

 

(親族茶会、子どもにはきつすぎるだろ)

 

 ——だから親族内でやる。外で失敗するよりはいい。

 

(まあ、理屈は分かる)

 

 ——エミリアは、今日はよく耐えた。

 

 耐えた。

 

 その言葉が、この世界らしいと思った。

 

 楽しんだ、ではない。

 

 うまく話した、でもない。

 

 耐えた。

 

 茶会とは、子どもにとっても耐えるものなのだ。

 

 でも、ただ耐えただけではなかった。

 

 エミリアは学んだ。

 

 踏んではいけない言葉の線を。

 

 笑っていい場と、笑ってはいけない場を。

 

 答えるべきことと、答えすぎてはいけないことを。

 

 そして、兄が見ていることを。

 

(お前さ)

 

 ——何だ。

 

(妹の教育、案外向いてるんじゃないか)

 

 ——向いていない。

 

(いや、向いてるって)

 

 ——私は優しくない。

 

(優しさだけで教育できる世界じゃないんだろ)

 

 ルシアンは黙った。

 

 俺は続ける。

 

(でも、怖さを減らすことはできる)

 

 前に、ルシアン自身が言ったことだ。

 

 間違えたから直す。

 

 直したから、次は少し楽になる。

 

 どう間違えたのか分かれば、怖がる時間は減る。

 

 ルシアンは、しばらく沈黙した。

 

 それから、静かに言う。

 

 ——私が受けた教育よりは、少しだけましにできるかもしれん。

 

 それは小さな言葉だった。

 

 でも、大きな変化だった。

 

 ルシアンは制度を否定していない。

 

 礼法も必要だと思っている。

 

 貴族としての教育も、家を守るためには必要だと理解している。

 

 けれど。

 

 同じ教育を、同じ痛みで渡す必要はない。

 

 そう考え始めている。

 

 俺は、少しだけ胸が熱くなった。

 

(いいじゃん)

 

 ——何がだ。

 

(いい兄貴じゃん)

 

 ——黙れ。

 

 いつもの返事。

 

 でも、声は柔らかかった。

 

 東棟の廊下には、午後の光が差し込んでいた。

 

 遠くで、エミリアの声が少しだけ聞こえる。

 

 母へ報告しているのだろう。

 

 その声は緊張していた。

 

 だが、震えてはいなかった。

 

 俺は思った。

 

 貴族の失敗は、本人だけのものではない。

 

 令嬢の笑いすぎは、母の教育不足になる。

 

 子どもの無邪気な一言は、家の噂になる。

 

 兄への焼き菓子ですら、派閥の種にされる。

 

 だから子どもたちは、早くから作られる。

 

 歩き方を直される。

 

 笑い方を直される。

 

 言葉を遠回しにされる。

 

 涙を布で押さえることを覚える。

 

 それは残酷だ。

 

 でも、その教育がなければ、この社会で傷つく。

 

 では、どうすればいいのか。

 

 答えは、まだ分からない。

 

 ただ、今日ひとつだけ分かった。

 

 ルシアンは、エミリアを制度に差し出すだけの兄ではない。

 

 制度の中で、妹が壊れないための道を探している。

 

 自分が昔、誰にも教えてもらえなかったことを。

 

 少しずつ、渡そうとしている。

 

 それは、派手な反逆ではない。

 

 優しい抱擁でもない。

 

 ただの助言。

 

 ただの視線。

 

 ただの一言。

 

 ――今は笑ってよい。

 

 この世界では、それだけで救いになることがある。

 

 ルシアンは踵を返した。

 

 背筋は真っ直ぐ。

 

 歩幅は正確。

 

 いつもの侯爵家嫡男。

 

 だが、その足取りは少しだけ軽かった。

 

 たぶん、エミリアほどではないけれど。

 

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