目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています 作:ブンチョウ
エミリアの礼法授業から数日後。
ヴァレスト侯爵家に、小さな茶会の予定が入った。
小さな、といっても、俺の感覚では十分に大ごとである。
招かれるのは親族筋の夫人が二人と、その娘たち。
目的は表向き、
「エミリア様の近況を伺うため」
だった。
だが、ルシアンはその知らせを聞いた瞬間、露骨に嫌そうな気配を出した。
(何? 親戚の集まりだろ?)
——親族ほど厄介なものはない。
(血縁に対する信頼が薄い)
——血縁だからこそ、遠慮がない。
(ああ……それは分かる)
アルヴェルトが、淡々と予定を読み上げる。
「本日は午後二時より、東棟小サロンにて、レーヴェ伯爵夫人、ミリアム卿夫人、およびご令嬢方をお迎えいたします」
「エミリアが同席するのか」
「はい。奥様のご判断でございます」
ルシアンの内側が、わずかに硬くなった。
(妹の社交デビュー?)
——デビューではない。親族内の試験だ。
(言い方)
——事実だ。
俺は、つい先日のエミリアを思い出した。
笑い方を直され、歩き方を直され、泣き方まで教えられた小さな妹。
あの子が今日、親族の夫人たちの前へ出る。
つまり、教育の成果を見られるのだ。
そして失敗すれば、エミリア本人だけでなく、教育係、母親、侍女、そしてヴァレスト家の評判にまでつながる。
(……子どもの茶会じゃないな)
——貴族の子どもに、ただの茶会はない。
嫌な言葉だった。
午後。
東棟小サロンは、いつもより明るく整えられていた。
大広間ほど重くなく、応接室ほど硬くない。
淡い花柄の壁紙。白い丸卓。小さめの椅子。窓辺には、季節の花。
子どもを交えた親族茶会にふさわしい、柔らかな空間だった。
ただし。
柔らかいから安全、というわけではない。
この世界では、柔らかい場所ほど針が隠れている。
(かわいい部屋なのに、怖く見えてきた)
——正しい認識だ。
ルシアンは、少し離れた席に座ることになっていた。
主役ではない。
だが、兄として同席する。
エミリアの支えであり、観測者であり、親族たちへの牽制でもある。
(お前、座ってるだけで仕事多いな)
——貴族は座る位置にも役目がある。
(もう椅子が役職じゃん)
やがて、客人たちが入ってきた。
レーヴェ伯爵夫人は、痩せた年配の女性だった。
薄い灰色の髪を美しくまとめ、口元には上品な微笑みを浮かべている。
だが、目が鋭い。
エドガーとは別の方向で、目が笑っていない。
その隣にいるミリアム卿夫人は、丸みのある穏やかな女性だった。笑顔も柔らかい。
ただし、柔らかい人間が安全とは限らないことを、俺はすでに学びつつある。
二人の後ろには、年若い令嬢がいた。
十三歳と十一歳ほどだろうか。
そして最後に、エミリアが入ってきた。
淡い杏色のドレス。
先日、伯母への礼状に書いた色に似ている。
髪はきちんと結われ、手袋も今日はぴったり合っていた。
顔には、少し緊張が浮かんでいる。
それでも歩幅は乱れていない。
扉口から三歩。
立ち止まり、礼をする。
顔を上げる。
笑顔。
笑いすぎず、硬すぎない。
(おお)
俺は素直に感心した。
(エミリア、ちゃんとできてるじゃん)
——ああ。
ルシアンの返事は短い。
だが、その内側には、ほんの少し安堵があった。
レーヴェ伯爵夫人が微笑む。
「まあ、エミリア様。お久しゅうございます。ずいぶん背がお伸びになりましたこと」
エミリアは一礼した。
「レーヴェ伯爵夫人におかれましても、ご健勝のご様子、嬉しく存じます」
おお。
ちゃんとしている。
十歳の子どもが言うには、やけに整っているが。
この世界では、それが正解なのだろう。
ミリアム卿夫人が笑う。
「ますます奥様に似てこられましたね」
エミリアは一瞬だけ、目を輝かせそうになった。
母に似ていると言われたのが、嬉しかったのだろう。
だが、すぐに笑みを整える。
「恐れ入ります」
(えらい)
——今のは良い。
ルシアンの声に、かすかな満足が混じった。
しかし、茶会は始まったばかりだった。
全員が席につく。
茶が出され、菓子が置かれる。
エミリアは小さな手でカップを持ち上げた。
音を立てない。
指先の角度も悪くない。
マダム・オルガの訓練が効いている。
レーヴェ伯爵夫人が、ゆっくり口を開いた。
「エミリア様は、最近礼法に励んでおられるとか」
来た。
明らかに来た。
(これ、褒める流れ?)
——試す流れだ。
(ですよね)
エミリアはカップを置く。
音はしない。
「はい。まだ至らぬ点ばかりでございますが、日々学んでおります」
「まあ、謙虚でいらっしゃる」
伯爵夫人は微笑んだ。
「でも、あまり早く大人になってしまうのも寂しいものですわね。子どもらしさも、今だけの宝ですもの」
柔らかい声だった。
優しい言葉にも聞こえる。
だが、ルシアンの内側が警戒する。
(え、何がまずいの?)
——返答を誤れば、教育不足にも、過剰教育にも取られる。
(親戚、怖っ)
エミリアは少しだけ考えた。
その沈黙は短い。
けれど、ちゃんと考えている沈黙だった。
「子どもらしさを失わぬよう、けれどヴァレストの名に恥じぬよう、努めたく存じます」
レーヴェ伯爵夫人の目が、わずかに細くなる。
ミリアム卿夫人は穏やかに頷いた。
「立派なお答えですこと」
(セーフ?)
——セーフだ。
(よかった……)
俺がほっとしたのも束の間、今度は十三歳ほどの令嬢が口を開いた。
「エミリア様は、焼き菓子がお得意と伺いました」
エミリアの表情が、明るくなりかける。
焼き菓子。
兄に渡している、あの小さな橋だ。
彼女にとって、嬉しい話題なのだろう。
だが、ルシアンの内側がまた少し硬くなる。
(これも罠?)
——罠とは限らん。ただし、家庭的すぎる印象を与える可能性がある。
(焼き菓子で?)
——侯爵家令嬢が台所仕事に親しみすぎていると見られれば、教育方針を疑われる。
(めんどくさ!)
エミリアは一瞬、ルシアンを見そうになった。
だが、見なかった。
自分で答える。
「得意と申せるほどではございません。菓子職人の手際を学びながら、香りや焼き加減を見る練習をしております」
(うまい)
——よし。
ルシアンの心の声が低く鳴った。
得意とは言わない。
台所仕事に没頭しているとも言わない。
香りや焼き加減を見る。つまり、感性と教養の一部として処理した。
エミリア、すごい。
あの礼法授業は、無駄ではなかった。
しかし、レーヴェ伯爵夫人は微笑んだまま続ける。
「まあ。では、いつかお兄様にもお作りに?」
空気が微妙に動いた。
これは踏み込んできた。
エミリアが兄へ焼き菓子を持っていくことは、屋敷内ですでに知られている。
そして、その情報は親族筋にも漏れている。
(情報早すぎない?)
——親族は、屋敷の中より早いことがある。
(意味分からん)
この質問は、無邪気に聞こえる。
だが、意味がある。
妹が兄に親しくしている。
次期当主が妹を可愛がっている。
妹派閥。
以前、ルシアンが恐れていた言葉が頭をよぎる。
エミリアも気づいたのだろう。
ほんのわずかに、指先が緊張した。
ルシアンは動かない。
動けない。
ここで兄が助け船を出せば、それこそ親しさを認める形になる。
(自分で処理しなきゃいけないのか)
——そうだ。
エミリアは、ゆっくり笑った。
「兄様は、菓子の出来に大変厳しゅうございます」
え。
俺は一瞬、固まった。
ルシアンも固まった。
エミリアは続ける。
「ですから、兄様にお出しする時は、味よりもまず、焦げていないかを確認するようになりました」
ミリアム卿夫人が、くすりと笑う。
令嬢たちも小さく笑った。
レーヴェ伯爵夫人の目元も、少し緩む。
空気が軽くなった。
(おお……!)
——あいつ。
(妹、強いな!)
——……悪くない。
兄妹の親しさを認めすぎず、ルシアンを少し厳しい兄として笑いの対象にする。
妹が兄に甘える構図ではなく、兄が教育的に味を見る構図へ変えた。
しかも、場が和んだ。
エミリア、すごい。
ルシアンの内側には、驚きと安堵と、ほんの少しの照れが混じっていた。
レーヴェ伯爵夫人が言う。
「ルシアン様は、妹君にも厳しくていらっしゃるのですね」
ルシアンに話が飛んだ。
彼はカップを置き、静かに答える。
「エミリアは、学べば伸びます。厳しくする価値がある」
(褒めてる?)
——褒めている。
(分かりにくい!)
エミリアは少しだけ嬉しそうに目を伏せた。
喜びを隠しきれてはいない。
その表情を見て、俺は胸の奥が少し温かくなった。
茶会は続いた。
話題は花、天候、親族の近況、来月の礼拝、王都で流行している絹の色へ移る。
一見、穏やかだった。
だが、どの話題もエミリアを試している。
花の名前を知っているか。
天候を領地の作柄へ繋げられるか。
親族の名前を間違えないか。
流行色へ飛びつきすぎないか。
子ども相手のはずなのに、まるで子ども扱いではない。
(エミリア、疲れるだろ、これ)
——疲れる。
(なのに笑ってる)
——笑うのも仕事だ。
その時、十一歳ほどの令嬢が、何気なく言った。
「エミリア様は、クラリス様にもお会いになったのでしょう? 未来のお義姉様になる方ですものね」
空気が止まった。
ほんの一瞬。
だが、確かに止まった。
(うわ)
子どもの発言。
だが、子どもだからこそ危険だ。
婚約は、まだ正式決定ではない。
交渉中だ。
それを「未来のお義姉様」と言い切るのは、踏み込みすぎる。
令嬢本人に悪気はない。
むしろ無邪気な興味なのだろう。
だが、周囲の大人たちは全員、その意味を理解していた。
エミリアの顔が、一瞬白くなる。
レーヴェ伯爵夫人が孫娘を軽く見る。
叱りはしない。
だが、その視線だけで十分だった。
場に小さな亀裂が入る。
(どうする)
——エミリア次第だ。
(きついな……)
エミリアはカップに手を伸ばした。
すぐには飲まない。
まず持つ。
香りを確かめるように、一呼吸置く。
それで考える時間を作った。
ルシアンの内側が、わずかに反応する。
よくやった。
声には出さない。
だが、そう思ったのが分かった。
エミリアはカップを静かに戻した。
「クラリス様は、とても丁寧な方です」
まず、人格を褒めた。
婚約には触れない。
義姉とも言わない。
未来とも言わない。
「先日、兄様への返礼の品を拝見しました。細やかなお心遣いをなさる方だと感じました」
いい。
クラリス本人を立てる。
だが、関係を確定しない。
兄との距離も濃くしない。
十一歳の令嬢は、少し物足りなさそうだった。
「でも、お義姉様になられたら素敵ではありませんか?」
追撃。
子どもは怖い。
大人が言えないことを、平気で言う。
エミリアの指が、膝の上でわずかに握られる。
ルシアンの内側が硬くなった。
今度は、助けるべきか。
だが、彼が口を開く前に、エミリアが微笑んだ。
笑いすぎない。
けれど、温かい笑みだった。
「そうなれば、きっと多くを学ばせていただけると思います」
義姉になるかどうかは肯定しない。
ただ、そうなった場合の礼を述べる。
未来を確定させず、可能性だけを丁寧に扱う。
レーヴェ伯爵夫人が、わずかに目を細めた。
ミリアム卿夫人は穏やかに頷く。
「まあ、よくお分かりでいらっしゃる」
空気が戻る。
(エミリア……!)
俺は心の中で拍手した。
(すごいぞ、今の)
——ああ。
ルシアンの声は、本当に静かだった。
だが、その静けさの中には、深い安堵があった。
茶会は無事に進んだ。
エミリアは最後まで崩れなかった。
笑いすぎず。
黙りすぎず。
答えすぎず。
逃げすぎず。
十歳の子どもが、親族たちの柔らかな針の間を歩き切った。
終わりの礼。
退室。
扉が閉まる。
廊下へ出た瞬間、エミリアの肩がほんの少しだけ落ちた。
本当に少しだけ。
だが、ルシアンは気づいた。
「エミリア」
「はい、兄様」
「よく処理した」
エミリアの顔が、ぱっと明るくなる。
だが、笑いすぎないように一度止めた。
それを見て、ルシアンがわずかに眉を動かす。
「今は笑ってよい」
エミリアが目を丸くした。
「よろしいのですか?」
「廊下には誰もいない」
(いや、使用人いるけど)
——見ないことにしている。
(便利な制度だな)
エミリアは今度こそ笑った。
歯が少し見える、子どもらしい笑顔だった。
ルシアンは何も言わなかった。
注意もしなかった。
ただ、静かに見ていた。
「兄様」
「何だ」
「私、間違えませんでしたか?」
「いくつか危うかった」
「……はい」
「だが、崩れなかった」
エミリアは、その言葉を大切そうに受け取った。
「はい」
「特に、クラリス嬢の件はよかった」
「本当ですか?」
「ああ。未来を確定せず、相手への敬意を示した。親族茶会としては十分だ」
(褒め方が業務評価)
——黙れ。
エミリアは嬉しそうだった。
業務評価でも、兄からの評価は嬉しいらしい。
「兄様に教えていただいたからです」
「私は何も教えていない」
「間違え方を覚えろ、と教えてくださいました」
ルシアンが少し黙る。
それは、前回の言葉だった。
エミリアは覚えていた。
「今日は、間違えそうになった時、少しだけ分かりました。あ、ここを踏んだら危ないのだな、と」
ルシアンの内側が、静かに揺れた。
嬉しさ。
たぶん、嬉しさだ。
ただし本人は認めないだろう。
「そうか」
短い返事。
だが、エミリアは満足そうだった。
その時、廊下の角からアルヴェルトが現れた。
「ルシアン様。エミリア様」
いつもの無表情。
だが、目元が少しだけ柔らかいような気がした。
「奥様より、本日の茶会について報告を受けたいとのことです」
エミリアの顔が少し緊張する。
母への報告。
つまり、まだ終わっていない。
茶会は終わったが、評価が残っている。
貴族の子どもは、失敗だけでなく成功も報告される。
それが次の教育になる。
「分かりました」
エミリアは一礼した。
歩き出す前に、ルシアンが言う。
「エミリア」
「はい」
「報告では、危うかった箇所を先に言え」
「先に、ですか?」
「ああ。褒められるのを待つな。自分で分かっていると示せば、次の指導が軽くなる」
(めちゃくちゃ実用的)
——必要な助言だ。
エミリアは真剣に頷いた。
「はい。クラリス様の件で、少し答えに迷ったと申します」
「それでいい」
「兄様」
「何だ」
「ありがとうございます」
エミリアは笑いすぎず、それでも柔らかく笑った。
そして侍女とともに、母のもとへ向かった。
その背中は疲れていた。
だが、前回の礼法授業の後よりも、少しだけ強かった。
廊下に残ったルシアンは、しばらく何も言わなかった。
(エミリア、頑張ったな)
——ああ。
(親族茶会、子どもにはきつすぎるだろ)
——だから親族内でやる。外で失敗するよりはいい。
(まあ、理屈は分かる)
——エミリアは、今日はよく耐えた。
耐えた。
その言葉が、この世界らしいと思った。
楽しんだ、ではない。
うまく話した、でもない。
耐えた。
茶会とは、子どもにとっても耐えるものなのだ。
でも、ただ耐えただけではなかった。
エミリアは学んだ。
踏んではいけない言葉の線を。
笑っていい場と、笑ってはいけない場を。
答えるべきことと、答えすぎてはいけないことを。
そして、兄が見ていることを。
(お前さ)
——何だ。
(妹の教育、案外向いてるんじゃないか)
——向いていない。
(いや、向いてるって)
——私は優しくない。
(優しさだけで教育できる世界じゃないんだろ)
ルシアンは黙った。
俺は続ける。
(でも、怖さを減らすことはできる)
前に、ルシアン自身が言ったことだ。
間違えたから直す。
直したから、次は少し楽になる。
どう間違えたのか分かれば、怖がる時間は減る。
ルシアンは、しばらく沈黙した。
それから、静かに言う。
——私が受けた教育よりは、少しだけましにできるかもしれん。
それは小さな言葉だった。
でも、大きな変化だった。
ルシアンは制度を否定していない。
礼法も必要だと思っている。
貴族としての教育も、家を守るためには必要だと理解している。
けれど。
同じ教育を、同じ痛みで渡す必要はない。
そう考え始めている。
俺は、少しだけ胸が熱くなった。
(いいじゃん)
——何がだ。
(いい兄貴じゃん)
——黙れ。
いつもの返事。
でも、声は柔らかかった。
東棟の廊下には、午後の光が差し込んでいた。
遠くで、エミリアの声が少しだけ聞こえる。
母へ報告しているのだろう。
その声は緊張していた。
だが、震えてはいなかった。
俺は思った。
貴族の失敗は、本人だけのものではない。
令嬢の笑いすぎは、母の教育不足になる。
子どもの無邪気な一言は、家の噂になる。
兄への焼き菓子ですら、派閥の種にされる。
だから子どもたちは、早くから作られる。
歩き方を直される。
笑い方を直される。
言葉を遠回しにされる。
涙を布で押さえることを覚える。
それは残酷だ。
でも、その教育がなければ、この社会で傷つく。
では、どうすればいいのか。
答えは、まだ分からない。
ただ、今日ひとつだけ分かった。
ルシアンは、エミリアを制度に差し出すだけの兄ではない。
制度の中で、妹が壊れないための道を探している。
自分が昔、誰にも教えてもらえなかったことを。
少しずつ、渡そうとしている。
それは、派手な反逆ではない。
優しい抱擁でもない。
ただの助言。
ただの視線。
ただの一言。
――今は笑ってよい。
この世界では、それだけで救いになることがある。
ルシアンは踵を返した。
背筋は真っ直ぐ。
歩幅は正確。
いつもの侯爵家嫡男。
だが、その足取りは少しだけ軽かった。
たぶん、エミリアほどではないけれど。