目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています   作:ブンチョウ

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第17話 侯爵家夫人たちの茶会は、国の縮図である

 侯爵家夫人たちの茶会。

 

 その言葉を聞いた時、俺は一瞬だけ油断した。

 

 夫人たちの茶会。

 

 つまり奥様方のお茶会だ。

 

 花の話。

 

 流行のドレスの話。

 

 子どもの成長の話。

 

 少し上品な世間話。

 

 そういうものを想像した。

 

 だが、もう俺も学んでいる。

 

 この世界で「茶会」と名のつくものは、たいてい危険だ。

 

(これ、また戦場?)

 

 ——戦場というより、評議会だ。

 

(お茶を飲む評議会やめろ)

 

 ——茶を飲むからこそ、本音を隠せる。

 

(最悪の茶文化)

 

 場所は、ヴァレスト侯爵家の南サロン。

 

 東棟の小サロンより広く、大広間ほど格式張ってはいない。

 

 淡い金の壁紙。

 

 白い大理石の暖炉。

 

 窓辺には季節の薔薇。

 

 低い丸卓が三つ。

 

 椅子は、花びらのように配置されている。

 

 美しい。

 

 柔らかい。

 

 華やか。

 

 そして、逃げ場がない。

 

 円形に近い席配置のせいで、誰が誰を見ているかが分かりにくい。

 

 全員の視線が、常にどこかから飛んでくる。

 

(この部屋、かわいい顔して殺意高いな)

 

 ——夫人たちの茶会に適した部屋だ。

 

(つまり殺意高いってことだろ)

 

 今日の茶会は、表向きにはこうだ。

 

 ヴァレスト家とベルンハルト家の婚約交渉が進むにあたり、親しい侯爵家夫人たちが祝意を述べに来る。

 

 祝意。

 

 良い言葉だ。

 

 柔らかい。

 

 だが実際には、確認である。

 

 侯爵家嫡男ルシアン・ヴァレストが、伯爵家令嬢クラリス・ベルンハルトを迎える。

 

 それは本気なのか。

 

 ヴァレスト家は、古い血統より南方交易を選んだのか。

 

 クラリスは侯爵家の空気に耐えられるのか。

 

 エミリアは、その婚約をどう受け止めているのか。

 

 そしてルシアンは、本当に変わったのか。

 

 そういうものを、夫人たちは茶の香りの中で測りに来る。

 

(……俺、だいぶこの世界に慣れてきてない?)

 

 ——慣れなければ死ぬ。

 

(死ぬ世界多すぎ)

 

 ルシアンは、サロンの端に控えるように座っていた。

 

 主役ではない。

 

 だが、いないわけにはいかない。

 

 婚約当事者。

 

 ヴァレスト家の嫡男。

 

 そして、この場でクラリスの反応を見る者。

 

 クラリスは、部屋の中央寄りの席にいた。

 

 今日の彼女は、淡い茶金のドレスを着ていた。

 

 ベルンハルト家の茶葉を連想させる色。

 

 だが商家めいては見えない。

 

 光を受けると、布の奥に薄い緑が沈む。

 

 上品だ。

 

 選んできたな、と分かる。

 

(クラリス、戦闘服だな)

 

 ——良い選択だ。

 

(お前が褒めるなら相当だな)

 

 ——色で家の強みを示しつつ、主張しすぎていない。

 

(ドレス一着で外交するな)

 

 ——する。

 

 エミリアも同席していた。

 

 ただし、クラリスより少し後ろ。

 

 母である侯爵夫人の近く。

 

 今日は学ぶ立場だ。

 

 淡い杏色のドレス。

 

 先日の親族茶会より、少しだけ落ち着いた装い。

 

 緊張している。

 

 だが、表には出さない。

 

 先日の親族茶会の経験が、少し彼女を強くしている。

 

 そして、今日の来客。

 

 一人目。

 

 クラウゼン侯爵夫人。

 

 古血統派の名門、クラウゼン家の夫人である。

 

 銀灰色の髪。

 

 細い首。

 

 白薔薇の意匠が入った扇。

 

 笑顔は柔らかい。

 

 だが、その柔らかさが怖い。

 

 まるで薄い絹の下に刃物を隠している。

 

 二人目。

 

 グランヴィル侯爵夫人。

 

 港湾と財政に強い侯爵家の夫人。

 

 豊かな栗色の髪。

 

 深緑のドレス。

 

 穏やかな笑み。

 

 こちらはクラウゼン夫人ほど刺々しくない。

 

 ただし、目が実務家の目をしている。

 

 人を値段で見るのではない。

 

 だが、価値は見る。

 

 三人目。

 

 ロクスウェル侯爵夫人。

 

 軍務派の家。

 

 背が高く、姿勢が真っ直ぐ。

 

 飾りは少ない。

 

 声も少し低い。

 

 夫人というより、退役軍人のような空気がある。

 

(奥様方の属性が濃い)

 

 ——侯爵家夫人だ。家の性質を背負う。

 

(夫人も家の看板なのか)

 

 ——当然だ。

 

 茶会が始まった。

 

 まずは挨拶。

 

 ヴァレスト侯爵夫人が穏やかに場を開く。

 

 ルシアンの母は、これまであまり前面に出ていなかった。

 

 だが、夫人たちの茶会では彼女が主役に近い。

 

 淡い青のドレス。

 

 柔らかな微笑み。

 

 声は穏やか。

 

 けれど、場の中心を静かに握っている。

 

 この人もまた、侯爵夫人なのだ。

 

「本日はお越しいただき、嬉しく存じます」

 

 クラウゼン夫人が微笑む。

 

「まあ、ヴァレスト侯爵夫人のお招きですもの。ましてや、このたびはおめでたいお話もございますし」

 

 おめでたい。

 

 最初の一撃。

 

 まだ婚約は正式決定ではない。

 

 交渉中だ。

 

 それをあえて「おめでたい」と言う。

 

 ヴァレスト家が否定すれば、婚約交渉が冷えているように見える。

 

 肯定すれば、決定前に認めたことになる。

 

(初手から面倒くさい!)

 

 ——夫人同士の茶会だ。

 

(知ってたけど!)

 

 ヴァレスト侯爵夫人は、少しも乱れない。

 

「良きご縁となるよう、家同士で言葉を重ねているところです」

 

 決定ではない。

 

 だが否定もしない。

 

 言葉を重ねている。

 

 美しい逃げ道だ。

 

 グランヴィル夫人が頷く。

 

「言葉を重ねるご縁は、強うございますわ。一時の熱だけでは、家は結べませんもの」

 

 これは実利派らしい援護に聞こえた。

 

 熱ではなく言葉。

 

 つまり交渉を評価している。

 

 クラウゼン夫人は扇で口元を隠し、静かに笑う。

 

「ええ。近頃は、熱と勢いで家格を飛び越えようとなさる方もおられますから」

 

 空気が薄く冷える。

 

 来た。

 

 家格。

 

 ベルンハルト家は伯爵家。

 

 ヴァレスト家は侯爵家。

 

 クラリスへ向けられた言葉だ。

 

 しかも直接ではない。

 

 「近頃は」と一般論にしている。

 

(うわ、刺した)

 

 ——浅く、よく切れる刺し方だ。

 

(解説が怖い)

 

 クラリスは、微笑んだままカップを置いた。

 

 音はしない。

 

 指先も乱れない。

 

「家格は、積み重ねられた責務の形と教わっております」

 

 静かな声だった。

 

「ですので、飛び越えるものではなく、まず仰ぎ見るものと存じます」

 

 クラウゼン夫人の扇が、ほんのわずかに止まる。

 

 クラリスは続けた。

 

「その上で、ベルンハルトが差し出せるものを、誠実に差し出すことができればと願っております」

 

 おお。

 

 正面から張り合わない。

 

 家格差を認めた。

 

 その上で、自分の家の価値を否定しない。

 

 これは強い。

 

(クラリス、やるな)

 

 ——ああ。

 

 ルシアンの声は短い。

 

 だが、内側に確かな評価があった。

 

 グランヴィル夫人が少し身を乗り出す。

 

「ベルンハルト家といえば、南方茶葉だけでなく、近年は香料と染料の流通も見事ですわね」

 

 クラリスは一礼する。

 

「恐れ入ります。まだ安定しきらぬ道も多くございますが、父が力を入れております」

 

「謙遜なさらず。港では、ベルンハルト家の荷印を見ない週の方が少ないと聞きますわ」

 

 これは褒めている。

 

 だが、同時に確認している。

 

 ベルンハルト家の実力。

 

 商業力。

 

 交易網。

 

 ヴァレスト家と結ぶ価値。

 

 クラリスは答える。

 

「荷は港に着いて初めて価値を持つものではございません。道を守る方々、通行を整える方々、記録を支える方々があってのことです」

 

 視線が一瞬、ヴァレスト家側へ向く。

 

 北西街道。

 

 軍政。

 

 通行管理。

 

 ヴァレスト家への敬意を添えた。

 

 グランヴィル夫人の目が、明らかに興味を持つ。

 

「よくご存じでいらっしゃる」

 

「学んでおります」

 

「何を?」

 

「茶葉は、水で香りを変えます。家もまた、入る先の空気を知らねば香りを損なうものかと」

 

 クラウゼン夫人が、わずかに目を細めた。

 

 グランヴィル夫人は、小さく笑った。

 

「よい例えですこと」

 

(クラリス、茶葉の話で返したな)

 

 ——自家の強みを言葉に変えた。良い。

 

(お前、めちゃくちゃ評価してるじゃん)

 

 ——黙れ。

 

 しかし、茶会はクラリスだけを試す場ではない。

 

 ロクスウェル侯爵夫人が、低い声で言った。

 

「エミリア様」

 

 エミリアの背筋が、ぴんと伸びる。

 

「はい」

 

「先日の親族茶会では、見事なお振る舞いだったとか」

 

 エミリアは一礼する。

 

「恐れ入ります。まだ学ぶことばかりでございます」

 

「学ぶことがあるのは良いことです。学ぶ必要がない子どもほど、後で大きく転ぶ」

 

 何だろう。

 

 ロクスウェル夫人の言葉は厳しいが、陰湿ではない。

 

 軍務派らしい直線的な圧がある。

 

 エミリアは慎重に答える。

 

「転ばぬよう、足元を見ることを覚えたく存じます」

 

「足元ばかり見ていると、前に進めません」

 

 追撃。

 

 エミリアが一瞬止まる。

 

 だが、すぐに答えた。

 

「では、足元を覚えてから、顔を上げます」

 

 ロクスウェル夫人の口元が、ほんの少しだけ動いた。

 

 笑ったのかもしれない。

 

「よろしい」

 

(エミリア、耐えた!)

 

 ——良い返答だ。

 

 ルシアンの内側に、兄らしい安堵が灯る。

 

 しかし、その安堵は長く続かなかった。

 

 クラウゼン夫人が、クラリスへ視線を戻す。

 

「クラリス様は、ヴァレスト家の祖霊儀礼については、もうお学びに?」

 

 重い話題だ。

 

 先祖廟でのことを思い出す。

 

 ヴァレスト家にとって、祖霊儀礼は家の核に近い。

 

 伯爵家の娘がそこへ入れるのか。

 

 そう問うている。

 

 クラリスは、すぐには答えなかった。

 

 沈黙。

 

 長すぎない。

 

 だが、軽くもない。

 

「まだ、学び始めたばかりです」

 

 正直に認めた。

 

「ですが、先祖を敬うことは、過去に縛られることだけではないと感じております」

 

 ルシアンの内側が、わずかに動いた。

 

 クラリスは続ける。

 

「受け継がれたものを、今の者がどう損なわずに次へ渡すか。その責任を知ることだと」

 

 先祖廟。

 

 誓詞。

 

 ルシアンが「誇りを持って、生きる」と言った日。

 

 その場にクラリスはいなかった。

 

 だが、この言葉はどこか通じている。

 

(お前の誓詞と似てるな)

 

 ——偶然だ。

 

(ほんとに?)

 

 ——……黙れ。

 

 クラウゼン夫人は、扇を閉じた。

 

「良いお考えですわ。ただ」

 

 来る。

 

「古い家には、考えだけでは越えられぬ沈黙がございます。ベルンハルト家の方々は、沈黙をどのようにお扱いに?」

 

 鋭い。

 

 ベルンハルト家は交易の家。

 

 交渉、言葉、商談の家。

 

 ヴァレスト家は沈黙の家。

 

 そこを突いてきた。

 

 クラリスは微笑みを崩さない。

 

 だが、指先が少しだけ緊張した。

 

 ルシアンはそれに気づく。

 

 主人公である俺も、さすがに分かるようになってきた。

 

 この場では助けられない。

 

 クラリス自身が返すしかない。

 

「茶は、淹れた後にすぐ語りません」

 

 クラリスは静かに言った。

 

「香りが立つまで待ちます。沈黙も、それに似たものではないかと」

 

 サロンが静かになる。

 

 クラリスはさらに続ける。

 

「ただし、待てば必ず香るとは限りません。湯が悪ければ濁り、葉が悪ければ苦くなります。ですから沈黙を尊ぶなら、その前の手入れを怠ってはならないのだと、最近学びました」

 

 グランヴィル夫人が、明らかに感心した顔をした。

 

 ロクスウェル夫人も頷く。

 

 クラウゼン夫人は微笑んでいる。

 

 だが、その笑みの質が少し変わった。

 

 試す笑みから、見る笑みへ。

 

(クラリス、完全に一発返したな)

 

 ——ああ。

 

 ルシアンの内側に、静かな誇りのようなものがあった。

 

 本人は絶対に認めないだろうが。

 

 その時だった。

 

 ヴァレスト侯爵夫人が、穏やかに言った。

 

「クラリス様は、よく見ておいでです」

 

 場が少しだけ温まる。

 

 この一言は大きい。

 

 ヴァレスト侯爵夫人が、クラリスを立てた。

 

 つまり、当家はこの令嬢を軽く扱うつもりはない、と示した。

 

 クラウゼン夫人も、そこには踏み込まない。

 

「ええ。本当に」

 

 茶が新しく注がれる。

 

 香りが変わる。

 

 南方のものではなく、王都で好まれる淡い茶葉らしい。

 

 話題は少し軽くなる。

 

 王都の劇。

 

 春の祭礼。

 

 来月の王宮礼拝。

 

 しかし、軽い話題の中にも針はある。

 

 グランヴィル夫人が、ふと思い出したように言った。

 

「そういえば、アーデル公爵家でも、このたびのお話にご関心をお持ちだとか」

 

 空気が止まった。

 

 本当に止まった。

 

 クラウゼン夫人の扇が止まる。

 

 ロクスウェル夫人の視線が動く。

 

 エミリアの指が膝の上で固まる。

 

 クラリスも、ほんの一瞬だけ呼吸を浅くした。

 

(え、何? 名前だけで空気変わったぞ)

 

 ルシアンの内側が、露骨に嫌そうになる。

 

 疲労。

 

 警戒。

 

 そして、わずかな諦め。

 

(アーデル公爵家って、そんなにヤバいの?)

 

 ——王家に最も近い公爵家だ。

 

(うわ)

 

 ——そして、厄介な男がいる。

 

(誰)

 

 ルシアンは答えない。

 

 だがグランヴィル夫人が、答えを口にした。

 

「ユリウス様は、近く王都へ戻られるそうですわ」

 

 その名を聞いた瞬間、ルシアンの感情がさらに沈んだ。

 

(知り合い?)

 

 ——……幼い頃の知人だ。

 

(幼なじみ!?)

 

 ——厄介な知人だ。

 

(今、幼なじみを厄介な知人って言い換えたな)

 

 ——黙れ。

 

 クラウゼン夫人が微笑む。

 

「まあ、ユリウス様が。あの方は昔から、才ある方を見つけるのがお好きですものね」

 

 ロクスウェル侯爵夫人が、低く落ち着いた声で言った。

 

「アーデル公爵家のご次男でいらっしゃいますね。王宮でも、よく働く方だと聞いております」

 

 ヴァレスト侯爵夫人は、穏やかにカップを置いた。

 

「ユリウス様は、ルシアンとも幼い頃に王宮礼法院でご一緒でしたから」

 

 クラリスが、ほんの一瞬だけルシアンを見る。

 

 本当に一瞬。

 

 すぐに視線を戻す。

 

 だが、何かを知った顔だった。

 

 ルシアンの過去を知る人間。

 

 公爵家の幼なじみ。

 

 それが、突然この茶会の空気の中に投げ込まれた。

 

(これ、次に来るやつだ)

 

 ——来なくていい。

 

(来るだろ)

 

 ——来るだろうな。

 

 諦めが早い。

 

 グランヴィル夫人が、柔らかく続ける。

 

「ユリウス様は、ルシアン様のことを昔から高く買っておられましたもの。今回のお話にも、ご興味を持たれるのでは?」

 

 それはただの噂ではない。

 

 通告に近かった。

 

 公爵家の目が、この婚約へ向いた。

 

 ユリウスという男が、ルシアンへ向いている。

 

 茶会の温度が、一段上がった。

 

 いや、下がったのかもしれない。

 

 どちらにせよ、空気の密度が変わった。

 

 クラリスは静かに聞いていた。

 

 エミリアも、表情を崩さないよう懸命に耐えている。

 

 ヴァレスト侯爵夫人が微笑む。

 

「ご縁とは、思いがけぬ場所で重なるものですわね」

 

 それだけ。

 

 肯定も否定もしない。

 

 だが、この話題はそこで閉じられた。

 

 閉じられた、というより、箱に入れられた。

 

 ただし、その箱は部屋の中央に残ったままだ。

 

 茶会はその後も続いた。

 

 だが、俺にはもう分かっていた。

 

 今日の本当の結論は二つ。

 

 一つ。

 

 クラリスは、侯爵家夫人たちの針を受けても崩れなかった。

 

 伯爵家令嬢としてではなく、ベルンハルト家の言葉で立った。

 

 二つ。

 

 アーデル公爵家のユリウスという男が、こちらへ目を向け始めた。

 

 茶会が終わる。

 

 夫人たちが立ち上がる。

 

 礼。

 

 微笑み。

 

 別れの言葉。

 

 どれも美しい。

 

 美しすぎて、少し疲れる。

 

 クラウゼン夫人は、クラリスへ最後に言った。

 

「クラリス様。本日は良き香りを楽しませていただきました」

 

 クラリスは一礼する。

 

「恐れ入ります」

 

「香りは、長く残るものです。どうぞ、お大切になさいませ」

 

 褒め言葉。

 

 助言。

 

 牽制。

 

 全部だ。

 

 クラリスは、静かに返した。

 

「はい。濁らせぬよう、努めます」

 

 クラウゼン夫人は満足そうに微笑んだ。

 

 夫人たちが退出する。

 

 扉が閉まる。

 

 南サロンに、ようやく息をする余地が戻った。

 

 エミリアが小さく息を吐く。

 

「……兄様」

 

 ルシアンが視線を向ける。

 

「何だ」

 

「侯爵家夫人の茶会とは、親族茶会より難しいのですね」

 

「当然だ」

 

「……はい」

 

 エミリアは素直に頷いた。

 

 だが、目には少し怯えもあった。

 

 今日、彼女は未来を見たのだ。

 

 自分がいつか立つかもしれない場所。

 

 笑顔で刺され、笑顔で返す場所。

 

 その中で、クラリスが立っていた。

 

 クラリスはまだ椅子の横にいた。

 

 姿勢は崩れていない。

 

 けれど、疲れている。

 

 ルシアンは近づいた。

 

 距離は近すぎない。

 

 だが、声は少し低い。

 

「クラリス嬢」

 

「はい」

 

「よく受けられました」

 

 クラリスが目を伏せる。

 

「……ありがとうございます」

 

 それは、いつもの礼より少しだけ深かった。

 

 ルシアンは続ける。

 

「特に、沈黙の返答は良かった」

 

 クラリスが、ほんの少し微笑む。

 

「茶葉に助けられました」

 

「貴女の言葉です」

 

 クラリスが顔を上げる。

 

 その表情に、一瞬だけ素の驚きが出た。

 

 すぐに整えたが、もう遅い。

 

 ルシアンにも、俺にも見えた。

 

(お前、今かなり真っ直ぐ褒めたな)

 

 ——事実を述べた。

 

(はいはい)

 

 クラリスは少し黙った後、静かに言った。

 

「アーデル公爵家のユリウス様とは、親しい方なのですか?」

 

 来た。

 

 ルシアンの内側が、分かりやすく沈む。

 

「親しい、という表現は適切ではありません」

 

(適切じゃないんだ)

 

「幼少期、王宮礼法院で同じ課程におりました」

 

「幼なじみでいらっしゃるのですね」

 

「厄介な知人です」

 

 クラリスが、少しだけ目を瞬かせた。

 

 そして、ほんの少し笑った。

 

「ルシアン様がそのように仰る方は、少し気になります」

 

「気にしない方がいい」

 

「それは無理かと存じます」

 

「なぜ」

 

「公爵家の方で、ルシアン様の過去をご存じで、なおかつ本日の茶会で名が出た方ですもの」

 

 完全に正論だった。

 

 ルシアンは黙る。

 

(クラリス、情報整理がうまい)

 

 ——ああ。

 

 エミリアが、おずおずと聞いた。

 

「兄様。ユリウス様は、怖い方なのですか?」

 

 ルシアンは少し考えた。

 

 そして答える。

 

「笑顔で逃げ道を塞ぐ男だ」

 

(その紹介、怖すぎる)

 

 エミリアが少し青ざめる。

 

 クラリスは静かにその言葉を受け止めた。

 

「では、笑顔を見て安心してはならないのですね」

 

「そうです」

 

「覚えておきます」

 

 クラリスの声は落ち着いていた。

 

 けれど、緊張はある。

 

 公爵家。

 

 ルシアンの幼なじみ。

 

 上位貴族社会。

 

 次の階段が、もう見えている。

 

 ヴァレスト侯爵夫人が、穏やかに言った。

 

「皆、今日はよく務めました。少し休みなさい」

 

 その一言で、場が解かれた。

 

 エミリアはようやく肩の力を抜く。

 

 クラリスも、ほんの少しだけ息を吐く。

 

 ルシアンは、その二人を見る。

 

 何も言わない。

 

 ただ見ている。

 

 人を見るようになったルシアン。

 

 その変化は、もう家の中だけでは済まない。

 

 親族に見られた。

 

 侯爵家夫人たちに見られた。

 

 そして今度は、公爵家の幼なじみが来る。

 

 サロンの窓から、午後の光が差し込んでいた。

 

 薔薇の香り。

 

 冷めかけた茶。

 

 伏せられた扇。

 

 空になった椅子。

 

 そこには、さっきまで王国の縮図が座っていた。

 

 古血統。

 

 交易。

 

 軍務。

 

 侯爵家の均衡。

 

 公爵家の影。

 

 クラリスの家格。

 

 エミリアの未来。

 

 ルシアンの変化。

 

 全部が、一つの茶会に詰め込まれていた。

 

(……侯爵家夫人たちの茶会、重すぎる)

 

 ——これでも穏やかな方だ。

 

(嘘だろ)

 

 ——本当だ。

 

 ルシアンは窓の外を見た。

 

 その横顔には、いつもの冷たさが戻っている。

 

 だが、内側には別のものがあった。

 

 警戒。

 

 面倒。

 

 そして、少しだけ過去を見たくない気配。

 

(ユリウスって、そんなに厄介なのか)

 

 ——あいつは、人の才能を見つけると配置したがる。

 

(配置?)

 

 ——駒のように。

 

(友達じゃないの?)

 

 ——友人だからこそ、厄介なのだ。

 

 その答えは、よく分からないようで、この世界らしかった。

 

 貴族の友情は、温かいだけではない。

 

 評価し、試し、引き上げ、使う。

 

 それでも友人なのだろう。

 

 たぶん。

 

 俺にはまだ、よく分からない。

 

 ただ一つ、確かなことがある。

 

 次に来るのは、侯爵家の茶会よりさらに上の空気だ。

 

 公爵家。

 

 王家に近い血。

 

 ルシアンの過去を知る男。

 

 笑顔で逃げ道を塞ぐ幼なじみ。

 

 ルシアンは、小さく息を吐いた。

 

 そして、珍しく本音に近い声で呟く。

 

 ——来なくていいものほど、必ず来る。

 

(貴族社会あるある?)

 

 ——人生だ。

 

 俺は少し笑いそうになった。

 

 でも、笑えなかった。

 

 たぶん次の茶会は、もっと面倒くさい。

 

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