目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています   作:ブンチョウ

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第18話 公爵家の幼なじみは、笑顔で逃げ道を塞ぐ

 来なくていいものほど、必ず来る。

 

 先日の茶会で、ルシアンはそう言った。

 

 そして本当に来た。

 

 アーデル公爵家からの来訪通知である。

 

(いや、早くない?)

 

 ——早い。

 

(お前でも早いと思うんだ)

 

 ——普通なら、夫人たちの茶会で名が出てから三日は置く。

 

(三日ルールあるの?)

 

 ——ある。

 

(貴族社会、熟成期間まで決まってるのか)

 

 ——噂にも温度がある。熱いうちに動けば軽率。冷めてから動けば鈍重。三日がちょうどよい。

 

(いや、今日じゃん)

 

 ——だから早いと言っている。

 

 通知は朝に届いた。

 

 封蝋は金。白百合と王冠を組み合わせた紋章。

 

 アーデル公爵家。

 

 王家にもっとも近い血統を持つ、三公爵家の一つ。

 

 招待状ではない。

 

 訪問通知。

 

 つまり、向こうから来る。

 

 その時点で、屋敷の空気が変わった。

 

 使用人たちの動きが静かに速くなる。

 

 花が入れ替えられる。銀器が磨き直される。廊下の敷物が確認される。

 

 応接室ではなく、南翼の貴賓室が開けられる。

 

(名前だけでこれか……)

 

 ——公爵家だ。

 

(もう聞いた)

 

 ——分かっていない。

 

 ルシアンの声は苦い。

 

 彼はいつもより明らかに機嫌が悪い。

 

 いや、表情は変わらない。

 

 背筋も美しい。歩幅も正確。

 

 だが内側が重い。

 

 面倒。

 

 警戒。

 

 諦め。

 

 そして、少しだけ昔の傷に触られる前のような硬さ。

 

(ユリウスって、そんなに嫌な奴なのか?)

 

 ——嫌な奴ではない。

 

(じゃあいいじゃん)

 

 ——厄介な奴だ。

 

(この世界、厄介な知人多すぎ)

 

 ——あいつは別格だ。

 

 そこまで言うか。

 

 俺は少し身構えた。

 

 公爵家の次男。

 

 ルシアンの幼なじみ。

 

 王宮礼法院の同期。

 

 才能を見つけるのが好きな男。

 

 笑顔で逃げ道を塞ぐ男。

 

 情報だけで、すでに濃い。

 

 午後。

 

 アーデル公爵家の馬車は、定刻より半刻早く到着した。

 

(早く来るの失礼じゃないの?)

 

 ——普通はな。

 

(じゃあ)

 

 ——公爵家は、早く来ることでこちらの準備力を見ることがある。

 

(最悪の抜き打ちテスト)

 

 屋敷の正門へ、白と金の馬車が止まる。

 

 紋章入り。

 

 馬具まで美しい。

 

 御者の姿勢まで異様に整っている。

 

 ヴァレスト家の使用人たちが一斉に配置についた。

 

 アルヴェルトが玄関ホールに立つ。

 

 ルシアンもそこにいる。

 

 父侯爵は出ない。

 

 当主が次男を出迎える必要はない、ということだろう。

 

 ただし、父の気配はある。

 

 屋敷全体が見られている。

 

 扉が開いた。

 

 降りてきたのは、青年だった。

 

 二十歳前後だろうか。

 

 金に近い淡い髪。

 

 青い目。

 

 優雅な礼装。

 

 しかし、堅苦しさはない。

 

 笑っている。

 

 自然に。

 

 明るく。

 

 あまりにも場に馴染む笑顔だった。

 

 そして、怖いことに。

 

 その笑顔だけで、玄関ホールの空気が少し柔らかくなった。

 

(うわ、陽キャ公爵家だ)

 

 ——油断するな。

 

(友達だろ?)

 

 ——だから油断するな。

 

 青年はルシアンを見るなり、嬉しそうに片手を軽く広げた。

 

「やあ、ルシアン。相変わらず葬儀のような顔だね」

 

 初手が軽い。

 

 公爵家の次男、初手が軽い。

 

 アルヴェルトの眉が動かないのが逆にすごい。

 

 ルシアンは冷ややかに一礼した。

 

「アーデル公爵家のご次男におかれましては、挨拶もずいぶん軽やかでいらっしゃる」

 

 青年は笑った。

 

「君が重すぎるだけだよ。久しぶり、ルシアン」

 

「ユリウス」

 

 名前を呼ぶ声が、いつもより低い。

 

 嫌ってはいない。

 

 でも警戒している。

 

 それが分かる。

 

 ユリウス・アーデル。

 

 アーデル公爵家次男。

 

 彼は礼をした。

 

 今度は完璧だった。

 

 さっきまでの軽さが嘘みたいに消える。

 

 首を垂れる角度。

 

 手の位置。

 

 視線の下げ方。

 

 全部が上位貴族のそれだった。

 

 軽薄ではない。

 

 軽く振る舞うことを許されるだけの礼法を、完全に身につけている。

 

(うわ、こいつできる)

 

 ——だから厄介なのだ。

 

 ユリウスは顔を上げ、にこりと笑う。

 

「突然の訪問、失礼した。けれど昨日、君の名が三つの茶会で出てね。これは待っている方が失礼だと思った」

 

(いや、それは理屈がおかしい)

 

 ——あいつの理屈は、だいたい逃げ道を塞ぐためにある。

 

 ルシアンは淡々と返す。

 

「噂を追って訪問するのは、十分に軽率だ」

 

「違うよ。噂になる前から興味があった。噂は口実だ」

 

「なお悪い」

 

「懐かしいな。その返し」

 

 ユリウスは楽しそうだった。

 

 ルシアンは全然楽しそうではない。

 

 だが、完全に拒絶してもいない。

 

 この二人、確かに昔から知っている。

 

 そんな空気がある。

 

 貴賓室へ移る。

 

 白と金を基調にした部屋だった。

 

 アーデル公爵家の客を迎えるため、普段よりも明るい花が飾られている。

 

 ユリウスは椅子へ座る前に、部屋を一瞥した。

 

 ほんの一瞬。

 

 でも、全部見た。

 

 花。

 

 茶器。

 

 椅子の位置。

 

 使用人の配置。

 

 ルシアンの立ち位置。

 

 そして、窓から入る光まで。

 

(この人、笑ってるけどめちゃくちゃ見てるな)

 

 ——昔からだ。

 

 茶が出された。

 

 ユリウスは香りを楽しむように目を細める。

 

「ヴァレスト家の茶は、いつ飲んでも静かだね」

 

「茶にまで性格をつけるな」

 

「つくよ。家の茶は、家の沈黙に似る」

 

(この人、普通に詩人だ)

 

 ——面倒なだけだ。

 

 ユリウスは一口飲んだ。

 

 そして、カップを置く。

 

 音はしない。

 

「さて」

 

 空気が変わった。

 

 笑顔はそのまま。

 

 だが、目の奥が鋭くなる。

 

「ベルンハルト家とのご縁、進んでいるそうだね」

 

「交渉中だ」

 

「君がその言い方をする時は、かなり進んでいる」

 

「勝手に読むな」

 

「読むために来たんだ」

 

(堂々と言った)

 

 ユリウスは悪びれない。

 

 ルシアンは冷たい。

 

 しかし、会話は妙に滑らかだ。

 

 遠慮がない。

 

 ただし、礼は外していない。

 

 これは幼なじみの距離だ。

 

 でも、普通の幼なじみではない。

 

 剣を鞘に入れたまま、互いの首筋に当てているような距離。

 

 ユリウスは言った。

 

「昨日、クラウゼン夫人の茶会筋から聞いたよ。ベルンハルト家の令嬢は、なかなか見事だったそうじゃないか」

 

「噂が早い」

 

「夫人たちの茶会ほど、速い伝令網はない」

 

(やっぱりそうなんだ)

 

 ——否定できん。

 

「で、その令嬢は今日いないのかな」

 

 ルシアンの感情が、ぴりりと張る。

 

「何のために会う」

 

「君を少し柔らかくした人を見てみたい」

 

「失礼だ」

 

「興味だよ」

 

「失礼な興味だ」

 

「でも、必要な興味だ」

 

 ユリウスは笑っている。

 

 だが、譲らない。

 

 その時、扉が軽く叩かれた。

 

 アルヴェルトが入ってくる。

 

「クラリス様がお越しでございます」

 

(来てるの!?)

 

 ——父上か母上の差配だろう。

 

(お前、知らされてないの?)

 

 ——ああ。

 

 ルシアンの内側がさらに重くなる。

 

 逃げ道を塞がれた。

 

 まさに、ルシアンの言うとおりだった。

 

 ユリウスは楽しそうに微笑む。

 

「準備が良いね、ヴァレスト家は」

 

「君のせいだ」

 

「光栄だな」

 

 やがて、クラリスが入室した。

 

 今日の彼女は、淡い青磁色のドレス。

 

 茶会のように自家の色を前に出してはいない。

 

 相手が公爵家だからだろう。

 

 控えめで、慎重で、しかし貧弱には見えない。

 

 彼女はルシアンを一瞬見た。

 

 次にユリウスを見る。

 

 そして、完璧に礼をした。

 

「クラリス・ベルンハルトでございます。アーデル公爵家のユリウス様にお目にかかれますこと、光栄に存じます」

 

 ユリウスは、にこやかに礼を返す。

 

「ユリウス・アーデルです。こちらこそ。噂の方にお会いできて嬉しい」

 

 噂の方。

 

 軽い言い方だが、重い。

 

 クラリスは微笑みを崩さない。

 

「噂が実物より先に歩いておりましたら、お恥ずかしい限りです」

 

「大丈夫。噂よりずっと落ち着いている」

 

 ユリウスはさらりと言う。

 

「なるほど。君が、ルシアンを少し柔らかくした方か」

 

 空気が止まる。

 

(うわ、言った)

 

 ルシアンが低く言う。

 

「ユリウス」

 

「怒るなよ。褒めている」

 

「褒め方を選べ」

 

「選んだ結果だ」

 

 クラリスは、一瞬だけ戸惑った。

 

 しかしすぐに笑みを整える。

 

「ルシアン様が柔らかくなられたのだとすれば、それは私の力ではございません」

 

「では、誰の力?」

 

 ユリウスの問いが早い。

 

 クラリスは少し考える。

 

 短い沈黙。

 

 逃げではない。

 

 言葉を選んでいる。

 

「ルシアン様ご自身が、人をよくご覧になるようになったからかと」

 

 ルシアンの内側が揺れる。

 

 ユリウスの目が、面白そうに細くなる。

 

「へえ」

 

 その一音だけで、何かを見つけた顔をした。

 

(今ので何かバレた?)

 

 ——分からん。

 

(お前でも分からんの怖い)

 

 ユリウスはクラリスを見たまま言う。

 

「良い返答だ。相手を立てて、自分の影響を否定しすぎず、しかし押しつけない」

 

 クラリスが少しだけ目を伏せる。

 

「恐れ入ります」

 

「ルシアン、彼女は強いね」

 

「本人の前で品定めするな」

 

「本人の前だからこそ、正しく言うんだよ」

 

 ユリウスは本当に悪びれない。

 

 だが、嫌味ではない。

 

 クラリスを軽んじてはいない。

 

 むしろ、しっかり見ている。

 

 見られる側はたまったものではないが。

 

 クラリスが席につく。

 

 茶が新しく出される。

 

 ユリウスは彼女のカップの持ち方を見た。

 

 視線が一瞬だけ足元へ行く。

 

 手袋。

 

 肩。

 

 呼吸。

 

 全部見ている。

 

(この人、マダム・オルガ系の目も持ってる)

 

 ——王宮礼法院の教育を受けた者は、大抵そうだ。

 

 ユリウスは言った。

 

「ベルンハルト家の茶葉は、王宮でもよく聞く。だが、今日はずいぶん控えめな香りだ」

 

 クラリスは答える。

 

「アーデル公爵家の方をお迎えする席で、香りが先に立ちすぎては失礼かと」

 

「公爵家は香りに弱いと思われているのかな」

 

 軽い刺し。

 

 クラリスは笑みを崩さない。

 

「いいえ。強い香りを制する方々だからこそ、こちらが先に場を満たすべきではないと考えました」

 

 ユリウスが笑う。

 

 今度は本当に楽しそうだった。

 

「いいね。ルシアン、君は退屈しない相手を見つけたらしい」

 

「物のように言うな」

 

「失礼。人として面白い」

 

「さらに悪い」

 

(この二人の会話、テンポ良いな)

 

 ——私は疲れる。

 

 ユリウスは、今度はルシアンへ向き直る。

 

「君、本当に変わったね」

 

 直球。

 

 クラリスの前で。

 

 ルシアンは無表情のまま返す。

 

「人は多少変わる」

 

「多少じゃない。昔の君なら、今のクラリス嬢の返答を評価しても、顔にも手にも出さなかった」

 

「出していない」

 

「出ているよ」

 

「どこに」

 

「待つようになった」

 

 静かだった。

 

 ユリウスの声から、軽さが少し消える。

 

「昔の君は、正解が見えたら先に置いた。相手が追いつく前に、場を整えていた。正しかったよ。美しいくらいに」

 

 ルシアンの内側が硬くなる。

 

「でも今は、相手が言葉を選ぶ半拍を待つ。クラリス嬢が自分で立つ余地を残している」

 

 クラリスが息を止める。

 

 俺も黙った。

 

 ユリウスは笑っている。

 

 だが、その目は笑っていない。

 

 見ている。

 

 ルシアンの過去と今の差を。

 

「誰が教えた?」

 

 その問いに、ルシアンの内側が一瞬だけざわついた。

 

(俺!?)

 

 ——黙れ。

 

 俺の存在を言えるわけがない。

 

 ルシアンは静かに返す。

 

「必要があっただけだ」

 

「それは答えじゃない」

 

「君に答える義務はない」

 

「あるよ」

 

「ない」

 

「友人だからね」

 

「君の友情は、だいたい尋問を伴う」

 

 ユリウスは笑った。

 

「懐かしいな。昔もそう言われた」

 

「昔から変わっていないということだ」

 

「君は変わった」

 

 また言った。

 

 逃がさない。

 

 笑顔で逃げ道を塞ぐ男。

 

 確かにそうだ。

 

 クラリスが静かに口を開いた。

 

「ユリウス様は、昔のルシアン様をご存じなのですね」

 

「うん。王宮礼法院でね。彼は有名だったよ」

 

 ルシアンの内側が嫌そうになる。

 

「余計なことを言うな」

 

「言うよ。クラリス嬢には知る権利がある」

 

「ない」

 

「ある。婚約候補だろう?」

 

 ユリウスはクラリスを見る。

 

「昔のルシアンは、誰よりも正しい子どもだった」

 

 正しい子ども。

 

 その言葉が、妙に重く響いた。

 

(……嫌な褒め言葉だな)

 

 ルシアンは何も言わない。

 

 ユリウスは続ける。

 

「礼の角度、歩幅、言葉の選び方、沈黙の長さ。全部、教師が直す前に直していた。間違えない。乱れない。泣かない。笑いすぎない」

 

 クラリスの表情が、少しだけ変わる。

 

 彼女も知っているのだ。

 

 そうやって作られる教育を。

 

 自分も受けてきたから。

 

「ただね」

 

 ユリウスはカップを持ち上げる。

 

「正しい子どもは、よく泣き方を忘れる」

 

 部屋が静かになった。

 

 ルシアンの感情が、一瞬だけ深く沈む。

 

 怒りではない。

 

 痛みに近い。

 

 クラリスが、そっとルシアンを見た。

 

 ルシアンは視線を返さない。

 

 ただ、静かに言う。

 

「君も同じ課程にいただろう」

 

「いたよ」

 

 ユリウスは笑う。

 

 明るく。

 

 しかし、その笑みの奥に何かがある。

 

「僕は泣く前に笑うことを覚えた。君は泣く前に黙ることを覚えた。王宮礼法院は、実に教育熱心だったね」

 

(この人も、同じ檻の出身か)

 

 俺は初めて、ユリウスの笑顔が少し違って見えた。

 

 ただ軽いのではない。

 

 笑うことで、色々なものを隠している。

 

 ルシアンが沈黙で隠すように。

 

 クラリスが微笑みで隠すように。

 

 エミリアが今まさに笑顔を整えられているように。

 

 ユリウスもまた、作られた人間なのだ。

 

 ただし、公爵家の空気で。

 

 さらに上の圧力で。

 

 ユリウスは、ふっと軽さを戻した。

 

「さて。昔話はこのくらいにしよう。今日の本題だ」

 

「まだあったのか」

 

「もちろん」

 

(ここまで前置き!?)

 

 ——だから厄介だと言った。

 

 ユリウスは背筋を伸ばす。

 

 その姿勢だけで、部屋の格が変わる。

 

 公爵家の次男。

 

 軽薄に笑う青年ではなく、王宮に近い血の代理人。

 

「ルシアン。近くアーデル公爵家で、若手貴族の小さな集まりを開く」

 

「聞いていない」

 

「今言った」

 

「断る」

 

「まだ招待していない」

 

「なら言うな」

 

「君とクラリス嬢を招きたい」

 

 来た。

 

 招待。

 

 ただし、断れないタイプのやつだ。

 

(招待状なのに拒否権なさそう)

 

 ——公爵家からの招待は、柔らかい命令だ。

 

(前に聞いたやつ!)

 

 クラリスの表情が少し硬くなる。

 

 公爵家の集まり。

 

 若手貴族。

 

 そこに、伯爵家令嬢であるクラリスが招かれる。

 

 これは名誉だ。

 

 同時に試験だ。

 

 ユリウスはその反応を見ていた。

 

「心配しなくていい。表向きは詩と音楽の会だ」

 

(絶対表向きだけだ)

 

 ——当然だ。

 

「実際は?」

 

 ルシアンが冷たく聞く。

 

 ユリウスは嬉しそうに笑う。

 

「次世代の温度を見る会」

 

「なお悪い」

 

「君にはちょうどいい」

 

「私に何をさせる気だ」

 

「座っていればいい」

 

「嘘をつくな」

 

「半分は本当だよ。君は座っているだけで、周囲が勝手に反応する」

 

(人間リトマス紙扱い)

 

 ——不快だ。

 

 ユリウスは少しだけ身を乗り出す。

 

「君は侯爵家の食卓で終わる人間じゃない」

 

 空気が変わった。

 

 クラリスも、俺も、その言葉の重さを感じた。

 

「王宮の沈黙を読める人間だ」

 

 ルシアンの内側が、冷える。

 

「私にはヴァレスト家がある」

 

「だからだよ」

 

 ユリウスは即座に返した。

 

「家を背負える人間でなければ、国の席には座れない」

 

 重い。

 

 これは勧誘だ。

 

 ただの茶会の招待ではない。

 

 ユリウスはルシアンを、上へ引っ張ろうとしている。

 

 侯爵家の嫡男としてではなく、王宮で使える才能として。

 

 友人として。

 

 そして、公爵家の人間として。

 

「君が昔のままなら、僕はまだ待った」

 

 ユリウスは言う。

 

「正しいだけの君は、王宮では便利すぎる。便利すぎる人間は、早く削れる」

 

 ルシアンが沈黙する。

 

「でも今の君は、人を見る。相手の半拍を待つ。なら、少し長く持つかもしれない」

 

(人材登用の言い方が怖い)

 

 ——あいつは昔からこうだ。

 

 クラリスが静かに言った。

 

「ユリウス様」

 

「はい」

 

「ルシアン様を王宮へお連れになるために、私も招かれるのですか」

 

 強い。

 

 かなり踏み込んだ。

 

 ルシアンの内側が反応する。

 

 ユリウスは、少し驚いたようにクラリスを見る。

 

 そして笑った。

 

「いいね。とてもいい」

 

 クラリスは表情を崩さない。

 

「お答えを」

 

「半分はそうです」

 

 ユリウスは正直に言った。

 

「もう半分は、君を見るためだ」

 

「私を」

 

「ルシアンが半拍待つ相手が、どんな人なのか。公爵家の場で崩れるのか、立つのか。見てみたい」

 

 クラリスの指が、わずかに動く。

 

 だが、彼女は逃げない。

 

「崩れた場合は?」

 

「ルシアンがどうするかを見る」

 

 ひどい。

 

 笑顔で、ひどいことを言う。

 

 でも、これが公爵家の視点なのだ。

 

 人を場に置き、その反応を見る。

 

 家、才能、関係性、弱点。

 

 すべてを配置して測る。

 

 ルシアンが低く言う。

 

「ユリウス」

 

「怒るな。落とし穴ではないよ」

 

「試験ではある」

 

「もちろん」

 

 あっさり認めた。

 

「試さずに人を上げるほど、公爵家は優しくない」

 

(うわぁ)

 

 クラリスは、しばらく沈黙した。

 

 そして、静かに言った。

 

「では、試される前に一つだけ申し上げます」

 

 ユリウスが目を細める。

 

「どうぞ」

 

「私は、ルシアン様を王宮へ押し上げるための飾りにはなれません」

 

 空気が止まる。

 

 ルシアンも、内側で息を止めた。

 

 クラリスは続ける。

 

「けれど、ルシアン様が家と国の間に立たれるなら、その隣で自分の足で立つ努力はいたします」

 

 静かな声だった。

 

 震えていない。

 

「試されるのであれば、私個人ではなく、ベルンハルト家と、私が学んできたものごと試してください」

 

 ユリウスが黙った。

 

 初めて、すぐには笑わなかった。

 

 そして、ゆっくり笑った。

 

 今度の笑みは、さっきまでより少し深い。

 

「ルシアン」

 

「何だ」

 

「やはり、退屈しない相手だ」

 

 ルシアンはクラリスを見た。

 

 ほんの一瞬。

 

 だが、その視線には明らかな敬意があった。

 

(クラリス、強いな)

 

 ——ああ。

 

 短い返事。

 

 しかし、その「ああ」は重かった。

 

 ユリウスは立ち上がった。

 

「招待状は正式に送る。断るなら、君の父上を通して断るといい」

 

「卑怯だな」

 

「公爵家だからね」

 

「開き直るな」

 

「開き直れるのも家格のうちだ」

 

(最悪の名言)

 

 ユリウスはクラリスへ礼をする。

 

「クラリス嬢。今日は良い返答を聞けた。次は、もう少し広い場所で」

 

「お招き、謹んでお待ちいたします」

 

「怖くは?」

 

「怖くないと言えば嘘になります」

 

 クラリスは微笑む。

 

「ですが、恐れを知らぬ者は軽率になると、教わりましたので」

 

 それは、以前ルシアンが言った言葉だった。

 

 ルシアンの内側が揺れる。

 

 ユリウスはそれに気づいた。

 

 絶対に気づいた。

 

 楽しそうに笑う。

 

「なるほど」

 

 彼は何も言わなかった。

 

 でも、その沈黙だけで十分だった。

 

 また何かを見抜いた顔だ。

 

 玄関ホールまで見送りに出る。

 

 ユリウスは馬車に乗る前、ルシアンにだけ聞こえる声で言った。

 

「君、昔より危うくなったね」

 

「褒め言葉か」

 

「もちろん」

 

「なら礼は言わない」

 

「それでいい」

 

 ユリウスは笑う。

 

「正しいだけの君より、今の君の方が面白い。だから、逃がさないよ」

 

 そう言って、馬車に乗った。

 

 扉が閉まる。

 

 白と金の馬車が動き出す。

 

 車輪の音が遠ざかる。

 

 屋敷の空気が、ようやく少し軽くなった。

 

(……嵐みたいな男だったな)

 

 ——だから厄介だと言った。

 

(でも、悪い奴ではなさそう)

 

 ——悪くないから厄介なのだ。

 

 ルシアンは、しばらく馬車の去った方を見ていた。

 

 その横顔は硬い。

 

 でも、完全な拒絶ではない。

 

 昔を見られた痛み。

 

 才能を見抜かれる不快。

 

 上へ引っ張られる警戒。

 

 そして、友人と再会したわずかな懐かしさ。

 

 全部が混ざっている。

 

 クラリスが隣に立った。

 

 距離は近すぎない。

 

 しかし、以前より遠くもない。

 

「ルシアン様」

 

「はい」

 

「ユリウス様は、恐ろしい方ですね」

 

「だから言ったでしょう」

 

「でも」

 

 クラリスは、馬車の消えた門の方を見る。

 

「ルシアン様のことを、とてもよくご存じです」

 

「余計なことまで」

 

「はい」

 

 クラリスは少しだけ笑った。

 

「余計なことまで」

 

 ルシアンは黙る。

 

 俺は、何となく言った。

 

(お前、昔のこと知られるの嫌なんだな)

 

 ——誰でもそうだろう。

 

(まあな)

 

 でも、たぶんそれだけではない。

 

 ユリウスが知っているのは、昔の失敗だけではない。

 

 昔の正しさ。

 

 昔の硬さ。

 

 昔のルシアンが、どれだけ完璧な子どもとして作られていたか。

 

 そして今のルシアンが、そこから少し外れ始めていること。

 

 それを、最も正確に見抜く。

 

 だから厄介なのだ。

 

 クラリスが静かに言った。

 

「私は、アーデル公爵家の会に出るべきでしょうか」

 

 ルシアンはすぐには答えなかった。

 

 逃げるなら、ここだ。

 

 断る理由はいくらでも作れる。

 

 家格差。

 

 婚約前。

 

 準備不足。

 

 公爵家の場は早い。

 

 だが、逃げれば、それも意味になる。

 

 ベルンハルト家の令嬢は公爵家の場に耐えられない。

 

 ヴァレスト家はクラリスを守る名目で隠した。

 

 そう読まれる。

 

 ルシアンは、静かに答えた。

 

「出るべきです」

 

 クラリスの指が、わずかに動く。

 

「はい」

 

「ただし、一人で受ける必要はありません」

 

 クラリスが顔を上げる。

 

 ルシアンは前を向いたまま言う。

 

「公爵家の場では、私も試される。貴女だけの試験ではない」

 

 その言葉に、クラリスの表情が少し柔らかくなる。

 

「では、同じ線の上に立つのですね」

 

 婚約披露の練習で、彼女が言った言葉だった。

 

 ルシアンは少しだけ沈黙した。

 

 そして答える。

 

「そうなります」

 

(不器用だけど、いい返事)

 

 ——黙れ。

 

 空は少し曇っていた。

 

 白と金の馬車はもう見えない。

 

 だが、ユリウスの残したものは屋敷に残っている。

 

 公爵家の招待。

 

 王宮への匂い。

 

 ルシアンの過去。

 

 クラリスへの試験。

 

 そして、俺にも分かった。

 

 俺たちが立つ場所が、一段上へ移った。

 

 侯爵家の中で空気を読む話では、もう済まない。

 

 公爵家。

 

 王宮。

 

 次世代の貴族たち。

 

 もっと広い場所で、もっと重い沈黙を読むことになる。

 

 ルシアンは、小さく息を吐いた。

 

 その息は、疲れと覚悟が混ざっていた。

 

 ——面倒なことになった。

 

(うん)

 

 俺は素直に頷いた。

 

(でも、面白くなってきた)

 

 ——お前は気楽でいいな。

 

(まあ、身体動かすのお前だし)

 

 ——本当に腹立たしい。

 

 その声に、以前ほどの棘はなかった。

 

 たぶん、ルシアンも分かっている。

 

 逃げられないなら、読むしかない。

 

 読んで、選んで、立つしかない。

 

 クラリスと同じ線の上に。

 

 家と国の間に。

 

 そして、笑顔で逃げ道を塞ぐ幼なじみの前に。

 

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