目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています 作:ブンチョウ
アーデル公爵家からの正式な招待状が届いたのは、ユリウスが去った翌々日の朝だった。
三日置く。噂の温度を見極める。早すぎれば軽率。遅すぎれば鈍重。
そういう貴族社会の謎ルールを、今回はきっちり守ってきたらしい。
(来たな)
——来た。
(嬉しそうじゃないな)
——嬉しい理由がない。
ルシアンは書斎にいた。
机の上には、白い封筒。厚みのある上質な紙。金の封蝋。封蝋には、白百合と王冠を組み合わせた紋章。
アーデル公爵家。
それだけで、部屋の空気が一段重くなる。
俺にも分かるようになってきた。封筒は、ただの紙ではない。差出人の家格をまとった物体だ。
アルヴェルトが、静かに告げる。
「アーデル公爵家より、正式なご招待でございます」
「開けろ」
「かしこまりました」
アルヴェルトが封蝋を確認する。割る。手紙を取り出す。
その動作にすら、変な緊張感があった。
(招待状開けるだけで儀式みたいだな)
——公爵家の封を割るのだから当然だ。
(封筒に負けそう)
アルヴェルトは文面を目で追い、わずかに眉を動かした。
珍しい。
この執事の眉が動くということは、何かがある。
「読み上げろ」
「はい」
アルヴェルトは、低く整った声で読み始めた。
「アーデル公爵家は、来る春月十六日、王都西苑邸にて、詩と音楽を楽しむ小さな集いを催します」
(表向き来た)
——表向きだな。
「つきましては、ヴァレスト侯爵家ご嫡男ルシアン様、ならびにベルンハルト伯爵家クラリス様に、ご臨席賜りたく存じます」
来た。
クラリスも名指しだ。
婚約成立前の二人を、並べて招いている。
これはただの招待ではない。公爵家が、二人を一組として見た、という意味を持つ。
(これ、もう断りにくいやつ?)
——断るなら、理由が必要になる。
(招待なのに)
——招待だからだ。
アルヴェルトは続ける。
「なお、若き方々の自由な歓談を重んじ、当日は過度な随行をお控えいただきたく——」
ルシアンの感情が冷えた。
(何?)
——護衛と監視を減らせと言っている。
(自由な歓談じゃなくて、逃げ場減らしじゃん)
——そうだ。
アルヴェルトも、声色は変えないが、明らかに重く読んでいる。
「詩の朗読、弦楽の演奏、庭園散策、軽い問答の席を設けます」
(問答?)
——来たか。
(何それ)
——若手貴族同士の公開会話だ。
(公開会話)
——用意された主題について、短く意見を交わす。遊びの形をした品定めだ。
(また戦場だよ)
この世界は、遊びと称して人を試すのが好きすぎる。
詩。音楽。庭園。問答。
響きだけは優雅だ。
だが中身は、次世代貴族たちの観測会。
誰が誰を見るか。誰が誰と話すか。誰がどの主題で沈黙するか。
全部、記録される。たぶん。
「差出人は、ユリウス・アーデル様でございます」
読み終わる。
書斎に沈黙が落ちた。
ルシアンは招待状を見つめる。
クラリスの名がある。自分の名がある。そして、その二つが同じ文面に並んでいる。
それだけで、もう意味になる。
(返事、どうする?)
——返すに決まっている。
(行くの?)
——行かないという選択肢は、ほぼない。
(ほぼ)
——父上が止めれば別だ。
その時、扉が叩かれた。
アルヴェルトが応じる。
「旦那様がお呼びでございます」
来た。
ルシアンは招待状を手に、父の執務室へ向かった。
廊下はいつも通り静かだった。
だが、使用人たちの空気が少し違う。
アーデル公爵家から招待状が来た。その情報は、もう屋敷全体に流れている。
誰も口にはしない。だが、空気が知っている。
(この屋敷、ほんと情報が水みたいに流れるな)
——水より速い。
父の執務室。
重い扉。古い本棚。地図。剣。
そして、ヴァレスト侯爵。
父はすでに内容を知っているようだった。
ルシアンが一礼する。
「父上」
「座れ」
椅子に座る。許可されるまで座らない。
もう慣れた。
慣れた自分が嫌だ。
父は招待状を手に取り、文面を読む。
表情は変わらない。
「ユリウス殿らしい」
短い感想だった。
(父上も知ってるの?)
——公爵家次男だ。知らぬわけがない。
侯爵は紙を机へ置いた。
「行け」
即断。
ルシアンの内側が、わずかに硬くなる。
「よろしいのですか」
「断る理由がない」
「婚約はまだ正式決定前です」
「だからこそだ」
父の声は静かだった。
「正式に決まった後では、クラリス嬢への評価は家への評価になる。今ならまだ、彼女個人の器を見る場として処理できる」
(怖い理屈だけど、合理的)
ルシアンも理解している。
理解しているが、納得は別だ。
父は続ける。
「クラリス嬢は行くべきだ」
「はい」
「お前も行け」
「はい」
「ただし、守りすぎるな」
ルシアンの感情が止まった。
父の灰色の目が、鋭くなる。
「公爵家の場では、お前が彼女を庇うたびに、彼女の力が疑われる」
「……はい」
「だが、放置すれば、ヴァレスト家の判断が疑われる」
まただ。
この世界の優しさは、常に針の穴を通される。
守りすぎるな。放置するな。支えろ。だが、支えているように見せるな。
「分かるな」
「はい」
「ならば、返事を書け」
父はそれで話を終えようとした。
だが、ルシアンは一拍置いた。
その一拍を父は見逃さない。
「何だ」
ルシアンは静かに言った。
「クラリス嬢には、事前に場の性質を伝えるべきかと」
「当然だ」
「ベルンハルト家へ、当家からも説明を送ります」
父が目を細める。
「当家から?」
「はい」
「ベルンハルト家が、アーデル公爵家の招待の意味を読めぬと?」
「そうではありません」
ルシアンの声は落ち着いていた。
「ただ、王宮若手社交の細部は、家によって温度が違います。特にアーデル家は、軽さの中で測る。あれは知らなければ避けにくい」
父はしばらくルシアンを見る。
静寂。重い。
だが、ルシアンは視線を落とさなかった。
「クラリス嬢を守るためか」
直球だった。
俺ならうっと詰まる。
だがルシアンは答える。
「ヴァレスト家の判断を守るためです」
(出た)
——事実だ。
(半分な)
父は目を逸らさない。
「それだけか」
また逃げ道を塞ぐ。
親子揃って怖い。
ルシアンの内側が、少し揺れる。
そして、静かに言った。
「……それだけではありません」
空気が変わった。
父の表情は動かない。
だが、聞いている。
「クラリス嬢は、すでに何度も公の場で試されています。次の場が何であるかを伝えずに立たせるのは、不公平です」
不公平。
ルシアンが、その言葉を使った。
以前なら、言わなかっただろう。
制度に適応しすぎた少年は、不公平ではなく「当然」と言ったはずだ。
父は少し沈黙した。
「不公平、か」
「はい」
「貴族社会に公平を求めるか」
「いいえ」
ルシアンは即座に否定する。
「ですが、試験であるなら、少なくとも何を試されるかを知る余地は与えられるべきです」
(お前、エミリアにも同じこと言ってたな)
間違え方を覚えろ。
何を間違えたのか分かれば、次は怖がる時間が減る。
それと同じだ。
ルシアンはクラリスにも、それを渡そうとしている。
父は長く黙った。
そして、低く言う。
「送れ」
「ありがとうございます」
「ただし、甘い文にするな」
「心得ています」
「説明は刃物だ。渡し方を誤れば、相手を臆病にする」
「はい」
父の言葉は厳しい。
だが、許した。
ルシアンは深く一礼して退室した。
書斎に戻る途中、俺は言った。
(不公平って言ったな)
——言った。
(昔のお前なら言わなかったんじゃないか)
——うるさい。
(父上も驚いてたぞ)
——黙れ。
否定しない。
最近のルシアンは、否定しないことが増えた。
それが変化なのだろう。
書斎へ戻ると、まず返事を書くことになった。
公爵家への返書。
当然、これもただの出欠確認ではない。
便箋の質。インクの色。書き出し。言葉の温度。同伴者の扱い。
すべてが意味になる。
(もうさ、「行きます」でいいじゃん)
——公爵家へそんな返事を出したら、家ごと滅ぶ。
(滅びの基準が軽い)
ルシアンは青黒いインクを選んだ。
黒より柔らかい。青より重い。
招待への敬意と、過度な親密さを避ける色らしい。
ペンを取る。
書き出しで止まる。
(出た、書き出し地獄)
——黙れ。
しばらく沈黙。
そして書き始めた。
『アーデル公爵家ユリウス様』
『このたびは、春月十六日の御集いへお招き賜り、厚く御礼申し上げます』
綺麗。
無難。
だがルシアンはここで一度止まった。
(何?)
——クラリス嬢の名の扱いだ。
(あー)
招待状には、ルシアンとクラリスの名が並んでいた。
返事でそれをどう扱うか。
ルシアン一人の返事として書けば、クラリスを軽く見ることになる。
しかし、二人を一組として書きすぎれば、婚約前に距離を詰めすぎる。
また針の穴だ。
ルシアンは静かにペンを走らせる。
『ベルンハルト家クラリス嬢にも、御心遣いのほど伝わるものと存じます』
(うまい)
——まだ足りん。
『当日は、若き方々との言葉を通じ、王都の春にふさわしい学びを得られますことを楽しみにしております』
(学び)
——遊びではなく、学びとして受ける。
(問答会への牽制?)
——そうだ。
楽しむが、軽んじない。
試されることは分かっている。
しかし怯えてはいない。
そういう返事。
最後に、
『貴家の御厚情に、ヴァレスト家として深く感謝申し上げます』
と結ぶ。
ルシアンはしばらく文面を見た。
そして封をする。
青黒い封蝋。ヴァレスト家の紋章。
完璧。
だが、まだ終わらない。
次はベルンハルト家への書簡だ。
こちらの方が難しかった。
公爵家への返事は、格式の問題。
クラリスへの説明は、感情の問題が混じる。
ルシアンは別の便箋を出した。
少し柔らかい白。
インクは青。
(クラリス宛?)
——ベルンハルト家宛だ。
(でも実質クラリスに読むやつ?)
——そうだ。
彼は書き始めた。
『ベルンハルト伯爵家におかれましては、先日の侯爵家夫人方との茶会にて、クラリス嬢の御振る舞いを深く印象づけられましたこと、まずお伝え申し上げます』
(褒めから入った)
——事実だ。
『このたび、アーデル公爵家より春月十六日の集いへの招待がございました』
ここからが本題。
ルシアンの手が少しだけ遅くなる。
『表向きは詩と音楽を楽しむ席とされておりますが、若き貴族方の言葉と所作が互いに測られる場となることは避けられぬものと存じます』
直球。
ただし失礼ではない。
『とりわけ、アーデル家の集いは、軽やかな歓談の中に問いを置くことを好みます』
(ユリウスの説明だ)
——家風の説明だ。
『ご令嬢におかれましては、必要以上に構えられることなく、しかし、沈黙もまた返答の一つとして扱われることをご承知おきいただければ幸甚に存じます』
いい。
怖がらせすぎない。
でも、何が来るかは伝える。
説明は刃物。
父の言葉を思い出す。
ルシアンは慎重に刃を包んでいる。
最後に少し止まった。
(どうした)
——余計かどうかを考えている。
(何を?)
ルシアンは沈黙した。
そして、ゆっくり書いた。
『なお、当日の場においては、クラリス嬢お一人が試されるものではございません。当家もまた、同じ席にて問われる立場にございます』
おお。
これを入れた。
つまり、あなた一人の試験ではない。
ヴァレスト家も同じ場に立つ。
そう伝えている。
かなり踏み込んでいる。
(これは優しさだろ)
——必要な説明だ。
(今日は否定が弱いぞ)
——黙れ。
書簡は封じられた。
アルヴェルトに渡される。
彼は文面を確認しない。
ただ、封を受け取る。
「至急、ベルンハルト家へ」
「かしこまりました」
アルヴェルトが去った後、ルシアンは椅子へ背を預けなかった。
貴族は簡単に背を崩さない。
ただ、指先だけが少し疲れていた。
(疲れた?)
——返書二通で疲れるわけがない。
(嘘つけ)
——疲れた。
(素直)
——お前のせいで、最近無駄な問答が増えた。
(それ俺のせいか?)
夕方。
ベルンハルト家から返事が届いた。
早い。
ただし、早すぎない。
こちらの説明を受け取り、内容を読み、家内で確認し、返す。
その最短。
アルヴェルトが封書を運んでくる。
薄茶の封蝋。ベルンハルト家の印。
ルシアンが自ら封を開ける。
(自分で開けるんだ)
——見るべき返事だからな。
文面は丁寧だった。
まず、招待の件への感謝。
ヴァレスト家からの説明への礼。
ベルンハルト家として準備を整える旨。
そして最後に、クラリス本人の一文が添えられていた。
『ルシアン様より、同じ席にて問われる立場とお示しいただきましたこと、深く心に留めました』
ルシアンの手が止まる。
『当日は、私一人の足元のみを見るのではなく、同じ線の先を見るよう努めます』
礼拝堂で交わした、あの言葉だ。
同じ線。
クラリスは覚えていた。
ルシアンは、しばらくその一文を見ていた。
(届いたな)
——ああ。
短い返事。
でも十分だった。
その夜、今度は服装の確認が始まった。
公爵家の若手会。
詩と音楽。庭園散策。問答。
服装にも当然、意味がある。
ルシアンの衣装候補が三つ並べられる。
黒。深青。銀灰。
(もう全部似合うだろ)
——そういう問題ではない。
(ですよね)
黒はヴァレスト家らしいが重すぎる。
深青は落ち着いているが、アーデル家の金白に対して少し沈む。
銀灰は公爵家の場に馴染むが、柔らかく見えすぎる。
アルヴェルトが淡々と説明する。
「黒は、やや構えすぎに見えるかと」
「深青は」
「公爵家の庭園では、夕刻以降ならよろしいかと。昼の集いにはやや重い印象がございます」
「銀灰か」
「はい。ただし、装飾を抑える必要がございます」
(服も返答なんだな)
——当然だ。
結局、銀灰の礼装に、ヴァレスト家の紋章を控えめに入れることになった。
公爵家の場に敬意を払う。
しかし、家名を薄めすぎない。
その調整。
次に問題になったのは、クラリスの衣装との調和だった。
(え、そこまで合わせるの?)
——婚約候補として同席するなら、完全に無関係ではいられない。
(ペアルック?)
——黙れ。
ベルンハルト家へ、衣装の色味について遠回しな確認が送られる。
直接「何色を着ますか」とは聞かない。
季節の花。庭園の光。アーデル家の好む色。
そういう言葉を使って探る。
面倒くさい。
だが、必要らしい。
返ってきた答えから、クラリスは淡い青緑系を選ぶ可能性が高いと分かった。
ルシアンの銀灰とは合う。
主張しすぎず、並んだ時に浮かない。
(もう二人で舞台衣装合わせしてるじゃん)
——社交は舞台だと言った。
準備はさらに続く。
詩の題材。最近の流行曲。庭園に植えられている花。参加予定の若手貴族。各家の関係。
誰と話すべきか。
誰と長く話してはいけないか。
誰の前でクラリスの名を出すべきでないか。
情報が机に積み上がる。
(公爵家の小さな集い、全然小さくない)
——小さいのは人数だけだ。
(圧が大きい)
その中に、参加者名簿があった。
ユリウス・アーデル。
もちろん主催側。
クラウゼン侯爵家の令嬢。
ロクスウェル侯爵家の嫡男。
グランヴィル侯爵家の姪。
アルデン侯爵家の若手書記官。
名前が並ぶだけで、胃が痛くなる。
そして、ベルンハルト家クラリス。
その名は、明らかに一段違う場所に置かれていた。
伯爵家令嬢。
だが、ヴァレスト家嫡男の婚約候補。
注目される。
必ず。
(クラリス、大丈夫かな)
——分からん。
(お前が分からんって言うと怖い)
——だが、以前よりは立てる。
その言い方には、信頼があった。
ルシアンはクラリスを弱い存在として見ていない。
試される相手。
同じ線の上に立つ相手。
そう見ている。
その変化が、俺には嬉しかった。
夜も更けた頃。
エミリアが焼き菓子を持ってきた。
「兄様、まだお仕事ですか?」
「準備だ」
「アーデル公爵家の集いの?」
「ああ」
エミリアは少し緊張した。
ユリウスの話を聞いているからだろう。
「ユリウス様は、本当に笑顔で逃げ道を塞ぐ方なのですか?」
「本当にそうだ」
「……怖いです」
「怖がるだけなら、会わない方がいい」
「では、どうすれば?」
ルシアンは少し考えた。
「笑顔に気を取られるな。問いがどこに置かれているかを見る」
エミリアは真剣に頷く。
「問いの置き場所……」
「そうだ。相手が何を聞いたかではなく、何を答えさせたいのかを見る」
エミリアは、むむ、と小さく眉を寄せる。
「難しいです」
「難しい」
「兄様も、難しいですか?」
ルシアンは少し黙った。
そして答える。
「ユリウス相手なら、今でも難しい」
エミリアの顔が、少しだけ明るくなった。
兄でも難しい。
それが安心になるらしい。
「では、クラリス様も難しいと感じてよいのですね」
「ああ」
「兄様が、そうお伝えしたのですか?」
「近いことは伝えた」
エミリアは嬉しそうに笑った。
笑いすぎる前に止める。
だが、ルシアンはまた言った。
「今は笑ってよい」
エミリアは、ぱっと笑った。
「兄様、最近そのように仰ることが増えました」
「そうか」
「はい」
「……焼き菓子を置いていけ」
「はい!」
エミリアは嬉しそうに皿を置く。
そして、去り際に言った。
「兄様」
「何だ」
「クラリス様と、同じ線の上に立てますように」
ルシアンが固まる。
エミリアは一礼して出ていった。
扉が閉まる。
静寂。
(妹、いいこと言うな)
——余計なことを覚えている。
(覚えてほしかったくせに)
——黙れ。
ルシアンは皿の上の焼き菓子を見る。
焦げていない。形も悪くない。少しだけ不揃い。
でも、それがエミリアらしい。
彼は一つ手に取った。
口へ運ぶ。
静かに噛む。
(どう?)
——悪くない。
(最高評価来ました)
——黙れ。
翌朝。
アーデル公爵家への返書が出された。
ベルンハルト家への説明書簡も、すでに届いている。
衣装の調整も始まった。
参加者名簿の確認も進む。
詩の主題も整理される。
何も起きていない。
まだ公爵家の邸にも行っていない。
ユリウスにも再会していない。
若手貴族たちとも会っていない。
それなのに、もう戦いは始まっていた。
招待状が届いた時点で。
返事を書く前から。
服の色を選ぶ前から。
クラリスに何を伝えるかを決める前から。
この世界では、準備もまた社交なのだ。
そして準備の仕方で、すでに人は読まれる。
ルシアンは、机の上に置かれた参加者名簿を見つめていた。
ユリウス・アーデル。
その名の横に、何も書き込みはない。
必要ないのだろう。
知りすぎている相手だから。
(なあ)
——何だ。
(怖い?)
ルシアンはすぐには答えなかった。
窓の外では、朝の光が庭を照らしている。
白い花が揺れていた。
彼は静かに言う。
——怖いというより、面倒だ。
(それ、怖いって意味では?)
——違う。
(本当に?)
長い沈黙。
そして、小さく。
——少しは。
認めた。
ルシアンが、怖さを認めた。
それだけで、かなり大きなことに思えた。
(クラリスにも言ってたな。怖いと思うこと自体は失態じゃないって)
——言った。
(じゃあ、お前も失態じゃない)
ルシアンは、ほんの少しだけ息を吐いた。
笑ったわけではない。
でも、どこか緩んだ。
——お前は時々、腹立たしいほど雑に正しい。
(褒めてる?)
——不本意ながら。
その返事に、俺は少し笑った。
アーデル公爵家の招待状。
それは、ただの紙だった。
けれど、その紙一枚が、屋敷を動かし、父を動かし、クラリスを動かし、エミリアの言葉まで動かした。
公爵家の招待状は、命令に似ている。
いや、もっと厄介だ。
命令なら従えばいい。
だが招待状は、従い方まで試される。
どう返すか。
どう備えるか。
誰を同じ線の上に立たせるか。
そこまで見られる。
次は、公爵家の庭園。
若手貴族たちの集い。
詩と音楽という名の品定め。
ユリウスの笑顔。
クラリスの試験。
ルシアンの過去。
そして、おそらく王宮への最初の匂い。
ルシアンは、参加者名簿を閉じた。
背筋を伸ばす。
いつもの侯爵家嫡男の顔へ戻る。
だが俺には、もう分かる。
その内側には、少しの怖さと、それを認めた上で立とうとする覚悟がある。
完璧な少年ではなくなった。
だからこそ、今のルシアンは強いのかもしれない。