目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています 作:ブンチョウ
朝は、鐘の音で始まった。
——ゴォン……ゴォン……。
低く、重い音だった。
空気を震わせるというより、石造りの屋敷そのものを内側から叩いているような響き。
学校のチャイムではない。
寺の鐘とも違う。
もっと冷たい。
もっと厳しい。
目覚めを促す音ではなかった。
命令だった。
起きよ。
整えよ。
今日も、家名にふさわしく振る舞え。
薄いカーテン越しに、朝日が差し込んでいる。
暖炉には、昨夜の火の名残が灰となって沈んでいた。
磨き上げられた床。
重厚な天蓋付きの寝台。
壁に掛けられた剣と紋章。
机の上には、封蝋のされた書簡が整然と並んでいる。
豪奢だ。
だが、落ち着かない。
この部屋には生活の匂いが薄かった。
寝室というより、身分を保管する箱に近い。
(……朝から圧がすごい)
俺がそう思った瞬間。
「ルシアン様。お目覚めのお時間でございます」
扉が音もなく開いた。
本当に、音がしなかった。
蝶番の軋みもない。
ノックの余韻もない。
そこに、最初から立っていたみたいに。
黒い燕尾服の男が入ってくる。
初老。
白手袋。
銀糸のような髪。
背筋は、定規で引いた線のように真っ直ぐだった。
歩幅には一切の迷いがない。
昨日、食堂にいた老執事だった。
その姿を見た瞬間、ルシアンの内側が、ほんのわずかに硬くなった。
緊張ではない。
警戒だ。
(え。お前、執事に警戒してんの?)
——アルヴェルトは父上付きだ。
(だから?)
——つまり、この屋敷で最も油断してはならない人間だ。
(朝イチで聞く情報じゃない)
アルヴェルトは一礼した。
深すぎない。
浅すぎない。
相手を敬いながら、自分の役目の重さも崩さない角度。
礼だけで、立場の説明が終わっていた。
「本日のご予定を申し上げます」
ルシアンの身体は、すでに起き上がっていた。
俺は何もしていない。
だが、身体は滑らかに動く。
寝台から足を下ろす。
床へ触れる。
立つ。
洗面台へ向かう。
銀盆に張られた水で顔を洗う。
差し出された布で水気を取る。
そのすべてに、音が少ない。
動作が美しい。
というより、美しくあるように削られている。
シャツへ腕を通す角度。
袖口を整える指先。
椅子へ腰を下ろす姿勢。
顎の高さ。
視線の置き場。
朝起きるだけで、すでに演目だった。
(お前、人生ずっと撮影されてんの?)
——貴族とは、常に見られる職業だ。
(アイドルかよ)
——“あいどる”とは何だ。
(人気商売みたいなもん。見た目と振る舞いで評価される)
ルシアンは少し考えた。
そして、妙に真面目に言う。
——なら、近い。
(近いのかよ)
アルヴェルトの手が、首元へ伸びる。
白い布が巻かれた。
クラバットだ。
ネクタイというより、拘束具に近い。
布は複雑に折られ、結ばれ、形を整えられていく。
ほんの少し歪めば、それだけで人柄まで疑われそうなほど、首元には意味が詰め込まれていた。
「午前は神学講義。続いて紋章史。午後は舞踏作法。その後、ベルンハルト家との茶会がございます」
その瞬間、ルシアンの感情が露骨に沈んだ。
(嫌なんだ)
——ベルンハルト家の娘が来る。
(昨日の赤いドレスの子?)
——あれはクラウゼン家だ。ベルンハルトは別口だ。
(別口とか言うな。婚活市場みたいに)
——候補者名簿は実際に存在する。
(あるの!?)
——当然だ。
当然ではない。
少なくとも俺の常識では、十代の少年の朝支度中に婚約候補の家名が業務連絡として読み上げられる世界は、かなり終わっている。
鏡の中に、ルシアンの顔が映った。
銀髪。
青灰色の瞳。
整いすぎた輪郭。
薄く閉じた唇。
絵画の中の少年貴族そのものだった。
顔がいい。
腹が立つくらい顔がいい。
(うわ、お前ほんと顔いいな)
——当然だ。
(即答すんな)
自覚がある。
そして、それを悪びれもしない。
最悪だ。
だが、鏡の中の顔は、驚くほど無表情だった。
美しい。
けれど、若さがない。
少年というより、少年の形をした家名だった。
アルヴェルトがクラバットの結び目を整えながら、静かに言った。
「本日の茶会では、笑顔をお控えください」
(は?)
思わず声が漏れた。
もちろん、内心で。
だがルシアンは、当然のように答える。
「承知している」
(いや待て。笑顔禁止って何? 校則でももう少し人道的だぞ)
——ベルンハルト家は、こちらへ娘を強く押し込みたがっている。
(押し込みたがっている、という表現がもう嫌)
——そこで好意的態度を見せれば、前向きと解釈される。
(笑っただけで?)
——笑っただけで。
(顔面外交じゃん)
——貴族の笑顔は、貨幣より重い。
(重すぎるだろ)
——だから管理する。
怖い。
感情が資産扱いされている。
笑顔は支払い。
沈黙は保留。
視線は署名。
うなずきは仮契約。
この世界では、気軽にニコッとするだけで、人生のレールが敷かれるらしい。
アルヴェルトは淡々と続ける。
「また、紅茶を先に口へ運ばれませんよう」
(またルール増えた!)
——ベルンハルト家は南方貿易で財を成した家系だ。
(うん)
——茶葉への誇りが異常に強い。
(嫌な予感しかしない)
——先に飲めば、待てぬ田舎者。
(うわぁ)
——遅すぎれば、毒を警戒している。
(詰んでるだろ、そのゲーム)
——相手方の令嬢が一口目を飲み、母親が香りに触れ、こちらの家の代表が天候を挟んだ後、二呼吸置いてから飲む。
(もう茶を飲むな)
——飲まねば侮辱だ。
(本当に詰んでる!)
アルヴェルトは、まるで天気を告げるように言う。
「ベルンハルト夫人が茶葉の産地に触れられた場合は、南方港の霧について一言添えるのがよろしいでしょう。直接の賞賛は避け、保存状態への理解を示す程度に」
「分かった」
「令嬢が刺繍に触れられた場合は、作品そのものではなく、針目の忍耐を褒めてください」
「分かった」
「目を合わせる時間は、長くとも三呼吸まで」
「分かった」
(分かるな!)
俺ならメモを取っても無理だ。
だがルシアンは、本当に分かっているらしい。
どのタイミングで笑うか。
どの沈黙を返すか。
誰を何秒見るか。
紅茶を口へ運ぶ温度まで。
全部、染みついている。
身体に。
骨に。
たぶん、恐怖にも。
(お前、よくメンタル壊れないな)
一瞬。
ルシアンが黙った。
それは、いつもの呆れた沈黙ではなかった。
不意に、奥へ落ちるような静けさだった。
——壊れても、続けるんだ。
その返答だけ、妙に重かった。
俺は何も言えなくなる。
鏡の中のルシアンは、相変わらず美しい顔をしていた。
だがその表情が、少し違って見えた。
こいつは高慢だ。
嫌味だ。
性格も、たぶん相当悪い。
けれど、それだけじゃない。
この少年は、壊れないように育てられたのではない。
壊れても動けるように、仕立てられている。
その時だった。
廊下の向こうから、小さな足音が聞こえた。
軽い。
速い。
そして、あまりにも素直だった。
この屋敷の足音ではない。
石の廊下に、感情がそのまま跳ねている。
直後。
扉が勢いよく開いた。
「兄様!」
飛び込んできたのは、十歳ほどの少女だった。
蜂蜜色の髪。
白い寝間着。
頬は朝の寒さで赤く、片手には小さな箱を抱えている。
彼女は一直線にこちらへ駆け寄ろうとした。
だが。
ルシアンの内側が、一瞬で冷えた。
(……え?)
少女も、それを察した。
足が止まる。
まるで見えない壁にぶつかったみたいに。
「……お、おはようございます、兄様」
さっきまでの明るさが、しぼんだ。
声が小さくなる。
肩が縮こまる。
それを見たアルヴェルトは、表情を変えなかった。
だが、その沈黙が怖かった。
見ている。
記録している。
この部屋で起きたことは、すべて屋敷のどこかへ流れていく。
そんな気配があった。
ルシアンは数秒置いてから、静かに言った。
「廊下を走るな、エミリア」
「……はい」
少女——エミリアは俯いた。
小さな指が、箱の角をぎゅっと握る。
(いや怖っ! もっと優しく言えよ!)
——甘やかせば、侮られる。
(妹だろ!?)
——侯爵家の令嬢だ。
(小学生くらいじゃねぇか!)
——だから教育する。
(教育と威圧を混ぜるな)
——混ざっているのではない。分けられないのだ。
嫌な言葉だった。
この世界では、親愛と教育が分かれていない。
愛情を示すには、まず相手の立場を守らなければならない。
抱きしめる前に、廊下を走るなと言わなければならない。
そうしなければ、本人が傷つく。
たぶん、そういう理屈なのだ。
でも。
だからといって。
目の前の少女が傷ついていないことにはならない。
エミリアは、おずおずと箱を差し出した。
「あの、兄様に……その……焼き菓子を」
箱は少し歪だった。
高価な菓子職人の包装ではない。
布の端が少し曲がっている。
リボンの結び目も、左右で長さが違う。
たぶん、自分で結んだのだ。
精一杯、丁寧に。
子どもの不器用さを、貴族の礼儀で隠そうとしている。
その瞬間。
ルシアンの感情が曇った。
警戒。
困惑。
ためらい。
それから、もっと奥にある、柔らかいもの。
けれどそれは、すぐに押し込められた。
(お前まさか、受け取らない気か?)
——今ここで親しげにすれば、使用人たちが誤解する。
(何を!?)
——次期当主が妹を重んじている、と。
(いいことじゃん)
——違う。エミリアの周囲に人が集まる。
(え?)
——彼女を通じて私へ近づこうとする者が増える。母上の侍女、教育係、外戚、下級使用人。すべてだ。
(……)
——妹派閥が生まれる。
(家族だろ)
——貴族にとって家族とは、最も近い政治単位だ。
俺は何も言えなくなった。
また、この言葉だ。
家族。
政治。
本来、別々であってほしいものが、この世界では同じ皿に盛られている。
エミリアは箱を差し出したまま、不安そうに兄を見上げていた。
拒絶されるかもしれない。
怒られるかもしれない。
迷惑だったかもしれない。
その全部を想像して、それでも持ってきた顔だった。
慣れているのだ。
兄が冷たいことに。
でも、諦めきれていない。
(……受け取れよ)
ルシアンは黙った。
(その顔、泣きそうじゃん)
——感情で判断するな。
(感情で持ってきた菓子だろ)
——だから危うい。
(でも、断ったらもっと危うい)
——何がだ。
(その子が、お前を諦める)
ルシアンの内側が、わずかに止まった。
俺は続ける。
(政治がどうとか、派閥がどうとか、俺には分からん。でも今断ったら、それ一生覚えてる顔だぞ)
沈黙。
アルヴェルトが見ている。
朝の光が、銀盆に反射している。
エミリアの小さな手が、箱を差し出したまま震えている。
長い。
たぶん、実際には数秒だ。
でも俺には、妙に長く感じた。
やがて、ルシアンはほんのわずかに息を吐いた。
「……置いていけ」
冷たい言い方だった。
優しくはない。
礼もない。
褒めてもいない。
けれど。
エミリアの顔が、ぱっと明るくなった。
「はいっ!」
朝の部屋に、花が咲いたみたいだった。
彼女は机の上に箱を置く。
その時、リボンの端を少し直した。
見栄えをよくするために。
兄に、少しでもちゃんとしたものを渡したかったのだろう。
「神学講義、頑張ってくださいませ、兄様」
「……お前も、家庭教師に遅れるな」
「はい!」
エミリアは嬉しそうに一礼し、今度は走らずに部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静けさが戻る。
朝の光。
冷えた床。
机の上の、少し歪な焼き菓子の箱。
アルヴェルトがそれを見た。
ほんの一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
そして、何事もなかったように視線を戻す。
「お支度を続けます」
「ああ」
ルシアンの声は平静だった。
だが、内側はそうでもない。
何かがざわついていた。
ほんの小さな波。
怒りではない。
後悔でもない。
たぶん、安堵に近い。
(お前)
——何だ。
(妹には弱いな)
——違う。
(違わないだろ)
——侯爵家の令嬢として、最低限の礼を受ける権利を認めただけだ。
(言い訳が貴族すぎる)
——黙れ。
(でも受け取ったじゃん)
——置いていけと言っただけだ。
(ほぼ受け取ってる)
——違う。
(じゃあ食べないの?)
ルシアンは黙った。
(食べるんだ)
——毒味の後だ。
(そこは現実的!)
思わず突っ込む。
だが、ルシアンは珍しく言い返さなかった。
鏡の中の少年は、相変わらず無表情だった。
けれど、その視線が一度だけ、机の上の箱へ向いた。
ほんの一瞬。
誰にも気づかれない程度に。
たぶん、アルヴェルト以外には。
そして俺は、その一瞬で少しだけ分かった。
ルシアンは妹を嫌っているわけではない。
むしろ、逆だ。
大事だからこそ遠ざけている。
守るために冷たくしている。
でも、その冷たさが彼女を傷つけていることも、どこかで分かっている。
分かっていて、どうすればいいか知らない。
貴族としての正解は知っている。
兄としての正解を、知らない。
アルヴェルトが最後に上着を差し出した。
深い紺色の上着。
銀糸でヴァレスト家の紋章が縫い込まれている。
ルシアンはそれに袖を通す。
少年が、また家名の器になっていく。
「ルシアン様」
アルヴェルトが静かに言った。
「本日の茶会では、どうか笑顔を」
「分かっている。控える」
「よろしゅうございます」
俺は思わず、心の中でため息をついた。
(その笑顔、減点対象だぞ、ってわけか)
——正確には、過剰な好意表示として記録される。
(もっと嫌な言い方だった)
——事実だ。
この世界では、笑顔一つが外交文書になる。
紅茶一口が忠誠の表明になる。
焼き菓子一箱が、派閥の種になる。
そして兄妹の会話ですら、使用人の沈黙を通って家中に意味を持つ。
俺はようやく理解し始めていた。
貴族社会とは、豪華な服を着て美味い飯を食う場所ではない。
空気が制度化された世界だ。
息を吸うにも、順番がある。
笑うにも、理由がいる。
優しくするにも、許可がいる。
その中でルシアンは、完璧に振る舞っている。
完璧すぎるほどに。
だからこそ。
机の上の歪な焼き菓子だけが、妙にまぶしく見えた。