目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています   作:ブンチョウ

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20話 詩と音楽の会は、だいたい尋問である

 アーデル公爵家の西苑邸は、王都の西端にあった。

 

 邸、と呼ばれている。

 

 だが、俺の感覚では普通に宮殿だった。

 

 白い外壁。

 

 金の縁取り。

 

 左右対称に広がる庭園。

 

 大理石の階段。

 

 噴水。

 

 剪定されすぎて逆に怖い植え込み。

 

 門から玄関までが、ちょっとした旅である。

 

(邸とは)

 

 ——公爵家の別邸だ。

 

(別邸でこれ? 本邸どうなってんの?)

 

 ——王宮の横にある。

 

(強い)

 

 馬車の窓から見える庭は、春の花で埋められていた。

 

 白百合。

 

 淡い青の小花。

 

 金色に近い低木の葉。

 

 全体が、アーデル公爵家の色で統一されている。

 

 美しい。

 

 だが、自然ではない。

 

 自然を、権威の形に整えた庭だった。

 

(庭まで公爵家の自己紹介してる)

 

 ——庭園は家の思想だ。

 

(花に思想を背負わせるな)

 

 ——背負う。

 

 ルシアンは銀灰の礼装を着ていた。

 

 先日、あれこれと選び抜いたものだ。

 

 重すぎず、軽すぎず。

 

 アーデル家の白と金の空間に沈まない。

 

 しかし、ヴァレスト家の紋章は控えめに胸元へ入っている。

 

 家を薄めない。

 

 でも、主張しすぎない。

 

 服だけで神経を使う世界である。

 

 クラリスは別の馬車で到着する手はずだった。

 

 ベルンハルト家の馬車。

 

 ただし、玄関前でほぼ同時に降りるよう調整されている。

 

 偶然のように。

 

 もちろん、偶然ではない。

 

(同時到着まで演出なの?)

 

 ——婚約候補として並ぶなら、到着の時間差にも意味が出る。

 

(数分の遅れで破局しそう)

 

 ——破局はしないが、噂にはなる。

 

(だいたい同じじゃん)

 

 馬車が止まる。

 

 扉が開く。

 

 ルシアンが降りる。

 

 足音は静か。

 

 姿勢は完璧。

 

 その数呼吸後、ベルンハルト家の馬車が到着した。

 

 クラリスが降りる。

 

 淡い青緑のドレス。

 

 銀灰のルシアンと並ぶと、色が喧嘩しない。

 

 湖面に曇り空が映るような組み合わせだった。

 

 派手ではない。

 

 だが、記憶に残る。

 

(おお、衣装合わせ成功)

 

 ——当然だ。確認した。

 

(ペアルック未満、政治以上)

 

 クラリスはルシアンを見る。

 

 ほんの一瞬。

 

 そして礼をする。

 

「ルシアン様」

 

「クラリス嬢」

 

 声は落ち着いていた。

 

 だが、俺には分かる。

 

 クラリスは緊張している。

 

 呼吸が少し浅い。

 

 手袋の指先が、いつもよりわずかに硬い。

 

 ルシアンもそれに気づいた。

 

「馬車は揺れませんでしたか」

 

 クラリスが目を瞬かせる。

 

 それから、少しだけ微笑む。

 

「はい。道はよく整っておりました」

 

「なら、足元は問題ありませんね」

 

「問題ございません」

 

 ただの挨拶に聞こえる。

 

 だが違う。

 

 先日の靴の一件を踏まえた確認だ。

 

 痛みはないか。

 

 立てるか。

 

 今日は崩れないか。

 

 それを、失礼にならない言葉で確かめている。

 

(不器用な健康確認)

 

 ——必要な確認だ。

 

(優しさだろ)

 

 ——必要な確認だ。

 

 今日は否定が頑固だ。

 

 クラリスも、その意味を受け取ったのだろう。

 

 表情がほんの少しだけ柔らかくなった。

 

「ルシアン様も、銀灰がお似合いです」

 

 ルシアンが一瞬止まる。

 

(褒められた)

 

 ——返答を考えている。

 

(そこ悩む?)

 

 ——婚約候補からの衣装への言及だぞ。

 

(めんどくさい)

 

 ルシアンは静かに答えた。

 

「貴女の青緑も、庭の色に合っています」

 

「ありがとうございます」

 

 クラリスは微笑む。

 

 ここまでは無事。

 

 だが玄関の奥。

 

 白い階段の上に、すでにユリウスがいた。

 

 金色に近い髪。

 

 明るい笑顔。

 

 白に淡い金を重ねた礼装。

 

 完全に自宅の空気をまとっている。

 

 彼は両手を軽く広げた。

 

「ようこそ、アーデル西苑邸へ。今日の庭は、君たちを試す気満々だ」

 

(ホストが本音言った)

 

 ルシアンが冷たく返す。

 

「せめて歓迎しろ」

 

「歓迎しているよ。試す価値のある客しか呼ばない」

 

「褒め言葉としても失礼だ」

 

「君なら許してくれる」

 

「許していない」

 

 ユリウスは笑う。

 

 クラリスへも礼を向ける。

 

「クラリス嬢。本日はお越しいただき、光栄です」

 

「お招きいただき、ありがとうございます」

 

「緊張は?」

 

「しております」

 

 クラリスは正直に答えた。

 

 ユリウスの目が楽しげに細くなる。

 

「良い。緊張を隠しきるより、扱える人の方が長く立てる」

 

 それは少しだけ意外な言葉だった。

 

 軽いようで、正しい。

 

 クラリスは一礼する。

 

「心に留めます」

 

 邸内へ入る。

 

 玄関ホールには、若い貴族たちがすでに集まっていた。

 

 人数は二十人ほど。

 

 多すぎない。

 

 だが、少ないからこそ互いの顔が見える。

 

 誰が誰と話すか。

 

 誰を避けるか。

 

 誰の近くに立つか。

 

 すべて読まれる。

 

(これで小さな集い?)

 

 ——人数は小さい。

 

(圧が大きい)

 

 会場は、庭園に面した音楽室だった。

 

 壁際には弦楽器。

 

 中央には低い卓。

 

 窓の外には、整えられた白百合の庭。

 

 詩と音楽の会らしく、机の上には薄い詩集が置かれている。

 

 だが俺はもう騙されない。

 

 これは兵器だ。

 

 詩集という名の質問票だ。

 

 参加者たちがルシアンとクラリスを見る。

 

 笑顔。

 

 礼。

 

 視線。

 

 囁き。

 

 その一つ一つが軽く突き刺さる。

 

 ユリウスが明るく紹介を始めた。

 

「まずはご存じの方も多いだろうけれど、ルシアン・ヴァレスト。王宮礼法院時代の僕の旧友だ」

 

「旧友ではない」

 

「まだ否定するのか」

 

「厄介な知人だ」

 

「ほら、仲がいい」

 

(仲良いな)

 

 ——良くない。

 

 ユリウスは続ける。

 

「そして、クラリス・ベルンハルト嬢。南方茶葉と交易で知られるベルンハルト家のご令嬢。最近、侯爵家夫人たちの茶会でなかなか鮮やかな香りを残した方だ」

 

 会場の視線がクラリスへ集まる。

 

 いきなり上げた。

 

 ただし、上げることで注目も集めた。

 

 褒め言葉で舞台に引きずり出す。

 

 ユリウス、やり方が怖い。

 

 クラリスは一礼した。

 

「過分なお言葉です。香りが残ったとすれば、場の皆様に整えていただいたおかげかと存じます」

 

 下げすぎない。

 

 逃げすぎない。

 

 良い返答だ。

 

 何人かが興味を示した。

 

 その中から、一人の青年が歩み出る。

 

 赤茶の髪。

 

 鋭い目。

 

 ロクスウェル侯爵家の嫡男、ギルベルト・ロクスウェル。

 

 軍務派の若手らしい。

 

 礼は簡潔。

 

 背筋は硬い。

 

「ルシアン殿。久しいな」

 

「ギルベルト殿。三年ぶりか」

 

「王都では君の名を聞く。最近は特に」

 

 ギルベルトの視線がクラリスへ向く。

 

「良い意味でも、騒がしい意味でも」

 

(うわ、直球)

 

 ——軍務派だ。

 

 クラリスは動じない。

 

 ルシアンが返す。

 

「騒がしいのは、周囲が音を立てているからだ」

 

「中心にいる者が静かでも、火は広がる」

 

「火元を間違えると消火に失敗する」

 

 二人の会話が硬い。

 

 軍議っぽい。

 

 見ている俺としては胃が痛い。

 

 しかしギルベルトは少し笑った。

 

「相変わらずだな。安心した」

 

「君も変わらない」

 

「それは褒め言葉か」

 

「半分は」

 

「十分だ」

 

 ユリウスが横から入る。

 

「ほら、これが侯爵家嫡男同士の挨拶だ。詩情が足りない」

 

「君の詩情は過剰だ」

 

 ルシアンが切る。

 

 会場に小さな笑いが起きた。

 

 空気が少し緩む。

 

 だがその緩みも、ユリウスの計算のうちなのだろう。

 

 次に近づいてきたのは、クラウゼン侯爵家の令嬢だった。

 

 名をイザベル・クラウゼン。

 

 白薔薇のような少女だった。

 

 十七歳ほど。

 

 銀に近い髪。

 

 淡い白のドレス。

 

 微笑みは美しい。

 

 そして、見事に冷たい。

 

「ルシアン様、お久しぶりでございます」

 

「イザベル嬢」

 

「ベルンハルト家のクラリス様にも、お目にかかれて光栄ですわ」

 

「こちらこそ、クラウゼン侯爵家のご令嬢にお目にかかれますこと、光栄に存じます」

 

 礼は完璧。

 

 しかし空気は冷たい。

 

 イザベルは微笑みながら言う。

 

「侯爵家夫人たちの茶会でのお話、母より伺いました。茶葉に例えられたお返事、とても印象深かったとか」

 

「恐縮でございます」

 

「ベルンハルト家らしいお答えですわね」

 

 刺した。

 

 らしい。

 

 つまり、商業の家らしい。

 

 侯爵家の古い言葉ではない、と言っている。

 

 クラリスは笑みを崩さない。

 

「はい。私には、まず自分の家の言葉から始めるほかございませんので」

 

 受けた。

 

 しかも否定しない。

 

 自分の家の言葉を恥じない。

 

 イザベルの目がわずかに動く。

 

 クラリスは続ける。

 

「その上で、ヴァレスト家の沈黙を学べればと存じます」

 

 ルシアンは少しだけ反応した。

 

 イザベルも気づいた。

 

 しかし、すぐには突かない。

 

「学ぶことがお好きなのですね」

 

「知らぬまま立つ方が、怖うございます」

 

「正直でいらっしゃる」

 

「恐れを知らぬ者は軽率になると、教わりました」

 

 まただ。

 

 クラリスはルシアンの言葉を使った。

 

 だが、依存ではない。

 

 自分の言葉として身につけている。

 

 イザベルは微笑む。

 

「よい教師がおいでなのですね」

 

 これはルシアンへ向けた言葉でもある。

 

 ルシアンは静かに答える。

 

「クラリス嬢は、自ら学ぶ方です」

 

 会場の空気がほんの少し変わる。

 

 ルシアンが、公の場でクラリスを立てた。

 

 守りすぎず、だが評価した。

 

 イザベルは、その意味を読んだ。

 

「そうですか」

 

 それだけ言って、優雅に引いた。

 

(今の、勝った?)

 

 ——勝ち負けではない。

 

(じゃあ?)

 

 ——崩れなかった。

 

(それは勝ちでは?)

 

 ——この場では、かなり近い。

 

 やがて音楽が始まった。

 

 弦楽の静かな曲。

 

 参加者たちは席へ移る。

 

 ユリウスが中央に立つ。

 

「さて、今日は詩と音楽の会だ。だから、ただの政治談義は無粋だね」

 

(今まで政治しかしてなかったけど)

 

 ——黙って聞け。

 

「最初の主題は、これにしよう」

 

 ユリウスは薄い詩集を手に取る。

 

「『橋』」

 

 ルシアンの内側が止まった。

 

 クラリスも、ほんの一瞬だけ反応した。

 

 橋。

 

 以前、ルシアンがクラリスを「条件ではなく橋として見るべき」と言った言葉。

 

 父にも、クラリスにも重く返された言葉。

 

 ユリウスは、もちろん知っているはずがない。

 

 いや。

 

 本当に知らないのか?

 

(偶然?)

 

 ——分からん。

 

 ユリウスは笑う。

 

「橋とは、離れたものを繋ぐものだ。けれど同時に、踏まれるものでもある。さて、若き皆様は、橋というものをどう見る?」

 

(尋問開始)

 

 ——ああ。

 

 最初に答えたのは、ギルベルトだった。

 

「橋は軍にとって要所です。守るべき場所であり、場合によっては落とすべき場所でもある」

 

 軍務派すぎる。

 

 だが、明快だ。

 

 ユリウスは楽しそうに頷く。

 

「ロクスウェルらしいね」

 

 次に、イザベルが言う。

 

「橋は、渡る者を選びません。だからこそ、誰がその橋を架けたかが重要ですわ」

 

 古血統派らしい。

 

 橋そのものより、架けた者の格を見る。

 

 次に、グランヴィル家の姪が言う。

 

「橋は、往来があってこそ価値を持ちます。渡る物、人、言葉。流れぬ橋は、ただの飾りです」

 

 商業・財政派らしい。

 

 それぞれの家風が、答えに出る。

 

 ユリウスの目が、クラリスへ向いた。

 

「クラリス嬢は?」

 

 来た。

 

 全員が見る。

 

 クラリスは一度、カップではなく、膝の上の手を整えた。

 

 呼吸を一つ。

 

 そして答える。

 

「橋は、両岸を知って初めて架けられるものと存じます」

 

 静かな声。

 

「片方の岸だけを見て架ければ、届かずに落ちます。両岸を同じものと思えば、渡った先で崩れます」

 

 ユリウスの目が細くなる。

 

 クラリスは続ける。

 

「ですから橋は、繋ぐためのものではありますが、まず違いを認めるためのものでもあるのではないかと」

 

 沈黙。

 

 良い沈黙だった。

 

 重いが、悪くない。

 

 グランヴィル家の姪が小さく頷く。

 

 ギルベルトも、興味を持った顔をする。

 

 イザベルは微笑みを深めた。

 

 ユリウスが言う。

 

「見事だ。ベルンハルト家は、橋を商いだけではなく、違いとして見るのか」

 

「商いもまた、違いがなければ成り立ちません」

 

 クラリスは返す。

 

 これも良い。

 

 自家の強みを恥じない。

 

 ユリウスは、今度はルシアンを見る。

 

「ルシアンは?」

 

 逃げられない。

 

 ルシアンは一拍置いた。

 

 昔なら即答したのだろう。

 

 正しい答えを先に置いたのだろう。

 

 だが今は待つ。

 

 周囲の答え。

 

 クラリスの言葉。

 

 自分の言葉。

 

 それらを測ってから、口を開く。

 

「橋は、架けた後にこそ責任が生じるものです」

 

 静かな声。

 

「渡る者が増えれば、橋は痛む。両岸の争いが深まれば、橋は狙われる。繋ぐことは終わりではなく、維持する責任の始まりです」

 

 ユリウスが、嬉しそうに笑った。

 

「君らしい」

 

 ルシアンは続けた。

 

「ただし、壊れることを恐れて架けなければ、岸は永遠に離れたままです」

 

 クラリスが、ほんの少しだけルシアンを見た。

 

 その言葉は、彼自身の答えだった。

 

 婚約。

 

 家格。

 

 交易。

 

 ヴァレスト家とベルンハルト家。

 

 侯爵家と伯爵家。

 

 そして、これから向かうかもしれない王宮。

 

 橋を架けるなら、守る責任がある。

 

 でも架けなければ、何も変わらない。

 

(お前、いいこと言うじゃん)

 

 ——黙れ。

 

 ユリウスが拍手した。

 

 軽い拍手。

 

 それに合わせて、会場に小さな拍手が広がる。

 

「素晴らしい。今日の主題はもう終わってもいいくらいだ」

 

「なら終われ」

 

 ルシアンが言う。

 

「終わらないよ」

 

 ユリウスは笑う。

 

 ですよね。

 

 その後も、問答は続いた。

 

 主題は「沈黙」。

 

 次に「贈り物」。

 

 さらに「境界」。

 

 どれも詩の題材のふりをして、貴族社会の核心を刺してくる。

 

 沈黙について、イザベルは「血統の深さ」と語った。

 

 ギルベルトは「命令を待つ規律」と言った。

 

 クラリスは「言葉を育てる間」と答えた。

 

 ルシアンは「誤った言葉を出さないための責任」と答えた。

 

 ユリウスはずっと楽しそうだった。

 

 参加者たちも、少しずつクラリスを見る目を変えていく。

 

 最初は、伯爵家令嬢。

 

 次に、ベルンハルト家の娘。

 

 そして今は、ルシアンの隣で言葉を返せる人間。

 

 そう変わっている。

 

(クラリス、立ってるな)

 

 ——ああ。

 

 ルシアンの声には、静かな信頼があった。

 

 休憩として庭園散策が始まった。

 

 これも、もちろん休憩ではない。

 

 庭を歩く相手。

 

 歩く順番。

 

 立ち止まる花。

 

 交わす言葉。

 

 全部見られる。

 

 ユリウスはわざとらしく明るく言った。

 

「少し庭を歩こう。室内の空気は、そろそろ言葉で重くなりすぎた」

 

(その原因ほぼお前)

 

 ルシアンとクラリスは並んで庭へ出た。

 

 距離は、以前、二人で確かめた距離に近い。

 

 触れない。

 

 だが遠すぎない。

 

 同じ線の上。

 

 白百合の庭を歩く。

 

 風が少し冷たい。

 

 クラリスの肩が、ほんのわずかに下がる。

 

 疲れたのだ。

 

 当然だ。

 

 問答の間、ずっと全員に見られていた。

 

 ルシアンは気づく。

 

 しかし露骨に気遣わない。

 

「白百合の香りは、やや強いですね」

 

 クラリスが一瞬遅れて理解する。

 

「ええ。少し、風下へ参りましょうか」

 

 香りを理由に、少し人の少ない場所へ移動する。

 

 休ませる。

 

 だが、疲れたからとは言わない。

 

(うまい)

 

 ——必要な調整だ。

 

 庭の端。

 

 白い石の欄干の近くで、二人は立ち止まった。

 

 少しだけ人目が薄い。

 

 完全に消えるわけではない。

 

 だが、息を整えるには十分だった。

 

 クラリスが小さく息を吐く。

 

「ありがとうございます」

 

「香りが強かっただけです」

 

「はい」

 

 クラリスは微笑む。

 

「そういうことにしておきます」

 

 ルシアンは黙る。

 

(通じてるな)

 

 ——……。

 

 その時、背後からユリウスの声がした。

 

「上手い逃げ方だね」

 

 出た。

 

 どこからでも出てくる。

 

 クラリスがすぐに姿勢を戻す。

 

 ルシアンは振り向き、冷たく言った。

 

「盗み聞きとは趣味が悪い」

 

「違うよ。観察だ」

 

「なお悪い」

 

 ユリウスは欄干にもたれず、きちんと立ったまま笑う。

 

「クラリス嬢、今日の問答は良かった」

 

「ありがとうございます」

 

「でも、まだ少し、ルシアンの言葉を支柱にしている」

 

 クラリスの表情がわずかに硬くなる。

 

 ルシアンの内側も冷える。

 

「ユリウス」

 

「怒るな。これは必要な指摘だ」

 

 ユリウスはクラリスを見る。

 

「彼の言葉は便利だ。正確で、硬く、場に耐える。でも、そのまま使い続けると、君の言葉ではなくなる」

 

 痛いところを突いた。

 

 クラリスは黙る。

 

 だが逃げない。

 

「承知しております」

 

「ならいい」

 

 ユリウスはにこりと笑った。

 

「君自身の言葉が出た時の方が、場は動いた。橋の答えは良かったよ」

 

「恐れ入ります」

 

「恐れなくていい。評価だ」

 

(この人、褒め方も逃げ場塞ぐな)

 

 ——そういう奴だ。

 

 ルシアンが静かに言う。

 

「クラリス嬢は、すでに自分の言葉で立っている」

 

「分かってる」

 

 ユリウスは即答した。

 

「だから、もっと立てると言っている」

 

 沈黙。

 

 悪意はない。

 

 むしろ期待だ。

 

 だが期待もまた重い。

 

 クラリスは、それを受け止める。

 

「ユリウス様」

 

「はい」

 

「でしたら、次に問われた時は、私の家の言葉だけでなく、私自身の言葉でお返しできるよう努めます」

 

 ユリウスは笑った。

 

「楽しみにしている」

 

 そして今度はルシアンへ目を向ける。

 

「君もだよ」

 

「何がだ」

 

「彼女を待つだけでは足りない。時には、君自身が先に迷う必要がある」

 

 ルシアンの表情は動かない。

 

 だが内側が揺れた。

 

「意味が分からない」

 

「分かるだろう」

 

「分からない」

 

「君は正解を見つけるのが早すぎる。だから周囲は、君の迷いを見ない」

 

 ユリウスの声が少し低くなる。

 

「でも人は、正解だけを見る者についていくとは限らない。迷い方を見て、ようやく信じることもある」

 

 それは、これまでのルシアンにとって痛い言葉だった。

 

 正しくあること。

 

 迷わないこと。

 

 それが貴族としての強さだと教えられてきた。

 

 でも、今は違う。

 

 人を見るなら、迷いも隠しすぎてはいけない。

 

(ユリウス、厄介だけど鋭いな)

 

 ——だから厄介なのだ。

 

 庭園散策の後、最後の音楽が始まった。

 

 短い弦楽曲。

 

 その間、参加者たちは会話を控える。

 

 ようやく本当に音楽を聴く時間だった。

 

 クラリスは隣で静かに座っている。

 

 疲れている。

 

 だが崩れていない。

 

 ルシアンも同じだ。

 

 ユリウスは少し離れた場所で、こちらを見ている。

 

 笑顔だ。

 

 やはり怖い。

 

 曲が終わる。

 

 拍手。

 

 会は閉じられた。

 

 帰り際、イザベルがクラリスへ近づいた。

 

「クラリス様」

 

「はい」

 

「本日の橋のお答え、印象に残りましたわ」

 

「ありがとうございます」

 

「次は、茶葉ではない言葉も聞かせてくださいませ」

 

 また刺した。

 

 しかし、今度は単なる嫌味ではない。

 

 認めた上での要求だ。

 

 クラリスは一礼する。

 

「はい。次までに、私自身の言葉を育てておきます」

 

 イザベルは一瞬だけ目を細めた。

 

「楽しみにしております」

 

 ギルベルトはルシアンへ短く言った。

 

「王宮に来るなら、早めに知らせろ」

 

「行くとは言っていない」

 

「なら、来ることになった時だ」

 

「気が早い」

 

「橋は架け始めた時点で、向こう岸からも見える」

 

 軍務派なのに、今日は詩的だった。

 

 ルシアンは少しだけ眉を動かす。

 

「君まで橋か」

 

「今日の主題だ」

 

 ユリウスが最後に二人を見送る。

 

「今日はありがとう。二人とも、思ったより崩れなかった」

 

「その評価は失礼だ」

 

「褒めてる」

 

「やはり失礼だ」

 

 ユリウスは笑い、クラリスへ向く。

 

「クラリス嬢。また会おう」

 

「はい」

 

「次は、君自身の言葉をもう少し聞きたい」

 

「心得ました」

 

 そしてルシアンへ。

 

「君には、次に王宮の沈黙を見せたい」

 

「断る」

 

「招待状は後日送る」

 

「断ると言った」

 

「招待状は後日送る」

 

(会話が成立してない)

 

 ——いつものことだ。

 

 馬車に乗る。

 

 帰路。

 

 夕方の光が窓から差し込む。

 

 ルシアンは無言だった。

 

 疲れている。

 

 クラリスは別の馬車だ。

 

 だが玄関前で別れる時、彼女は確かに言った。

 

「同じ線の上に立つ、という意味が、少し分かりました」

 

 ルシアンは答えた。

 

「私もです」

 

 短い。

 

 でも、たぶん今日の二人には十分だった。

 

(今日はかなり進んだな)

 

 ——そうか。

 

(クラリス、ちゃんと立ってた)

 

 ——ああ。

 

(お前も、迷う必要があるって言われてたな)

 

 ——余計なことを。

 

(でも刺さっただろ)

 

 ルシアンは答えない。

 

 馬車の車輪が石畳を進む音だけが続く。

 

 しばらくして、彼は静かに言った。

 

 ——正しくあるだけでは、足りないのかもしれん。

 

 その声は、弱くはなかった。

 

 ただ、少しだけ迷っていた。

 

 そして、その迷いを俺に隠さなかった。

 

(いいんじゃないか)

 

 ——何がだ。

 

(迷ってるの、悪くない)

 

 ——雑な慰めだ。

 

(でも正しいだろ)

 

 長い沈黙。

 

 やがて、ルシアンは小さく息を吐く。

 

 ——腹立たしいほどにな。

 

 アーデル公爵家の詩と音楽の会。

 

 それは、やはり尋問だった。

 

 詩は問いになり。

 

 音楽は沈黙を作り。

 

 庭園は逃げ場に見せかけた観測場所になった。

 

 だが、それだけではなかった。

 

 クラリスは、自分の言葉で立ち始めた。

 

 ルシアンは、自分の迷いを少しだけ認め始めた。

 

 そしてユリウスは、それを見てさらに上へ引っ張ろうとしている。

 

 公爵家の庭で、橋という言葉が置かれた。

 

 たぶん偶然ではない。

 

 たとえ偶然でも、もう意味を持ってしまった。

 

 橋は架けた後に責任が生じる。

 

 そして、向こう岸からも見える。

 

 ルシアンは窓の外を見た。

 

 王都の空は、夕暮れに沈みかけている。

 

 その先にある王宮の尖塔が、遠く薄く見えた。

 

 まだ遠い。

 

 だが、見えてしまった。

 

 見えてしまったものは、もう無かったことにはできない。

 

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