目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています 作:ブンチョウ
ヴァレスト侯爵家の沈黙には、角がある。
食卓の沈黙。
廊下の沈黙。
父の執務室の沈黙。
先祖廟の沈黙。
どれも冷たく、硬く、触れれば指を切りそうな沈黙だった。
だが、教会の沈黙は違った。
角がない。
代わりに、深い。
まるで音そのものが、天井の高い空間に吸い上げられていくようだった。
(……ここ、屋敷と全然違うな)
——当然だ。教会だ。
(そういう話じゃなくてさ)
朝の王都。
ルシアンは馬車で、中央教会へ向かっていた。
理由は、昨日ベルンハルト家を訪問した礼と、今後の婚約交渉に関わる教会記録の確認。
つまり、いよいよ教会が婚約に関わり始めたのだ。
貴族の婚約は、家同士の契約。
だが、それだけでは終わらない。
家の同意。
教会の記録。
祖霊への報告。
社交界への披露。
それぞれ別の意味を持つ。
(結婚までのチェックポイント、多すぎない?)
——婚姻は家と魂の双方に関わる。
(重い。恋愛イベントの顔して行政手続きが重い)
——恋愛イベントではない。
(はいはい)
中央教会は、王都の高台にあった。
白い石造りの尖塔。
巨大な鐘楼。
色硝子の窓。
正面扉には、絡み合う輪と天秤の意匠が刻まれている。
十字ではない。
この世界の宗教の象徴らしい。
(あの輪と天秤、何?)
——誓約と秩序の印だ。
(神様のマーク?)
——正確には、誓約神と秩序神の双印だ。
(多神教?)
——神学講義をここで始める気か。
(ちょっと興味ある)
——後にしろ。
ルシアンの声は、いつもより少し硬い。
馬車の中でも、彼はほとんど言葉を発しなかった。
俺が何度か茶化しても、返事が短い。
教会が苦手なのか。
それとも、この場所に何かあるのか。
前回、王都の鐘に反応したこともある。
俺は気になっていた。
馬車が止まる。
扉が開く。
石畳に降りた瞬間、冷たい朝の空気が頬を撫でた。
いや、俺の頬ではない。
ルシアンの頬だ。
教会の前には、平民らしき人々もいた。
身なりの良い商人。
黒服の老婦人。
幼い子どもの手を引く母親。
旅装の男。
貴族らしい馬車も数台停まっている。
ここでは身分の違う人間が、同じ入口へ向かっていた。
(ここは貴族専用じゃないんだな)
——神前では、入口は一つだ。
(お、平等?)
——席は違う。
(ですよね)
中に入る。
高い天井。
石柱。
細長い色硝子。
床には淡い光が落ちている。
赤。
青。
金。
その光の中を、参拝者たちが静かに歩く。
香の匂いがした。
甘く、少し苦い。
病院でも屋敷でもない匂い。
どこか、遠い記憶に触れるような匂いだった。
(……あれ?)
——どうした。
(いや、なんか)
既視感がある。
初めて来たはずだ。
少なくとも、俺としては。
でも、この香の匂い。
高い天井に吸われる足音。
遠くで鳴る鐘の残響。
どこかで聞いた。
どこかで嗅いだ。
(俺、ここ知ってる?)
ルシアンは答えなかった。
いや、答えられなかったのかもしれない。
彼の内側が、わずかに揺れていた。
恐怖ではない。
嫌悪でもない。
もっと複雑な感情。
思い出したくない場所へ戻ってきた人間の硬さ。
案内の助祭が近づいてきた。
まだ若い男だった。
灰色の法衣。
胸元に輪と天秤の印。
「ルシアン・ヴァレスト様。お待ちしておりました」
「案内を」
「はい。記録司祭がお待ちです」
教会にも部署があるらしい。
記録司祭。
婚約や出生、誓約の記録を扱う者だろう。
(教会も役所っぽい)
——教会は魂の役所でもある。
(言い方)
身廊を進む。
奥の祭壇の前を通る時、ルシアンの足がほんのわずかに遅れた。
本当にわずか。
俺でなければ気づかなかったかもしれない。
いや、ルシアンの中にいるから分かった。
(今、止まりかけた?)
——気のせいだ。
(また即答)
——黙れ。
祭壇には、大きな天秤の彫刻があった。
片方の皿には輪。
もう片方には開いた書物。
誓約と記録。
この世界らしい。
神様まで契約書を持っている。
(この宗教、書類好きそう)
——不敬だぞ。
(神様も役所っぽいと思っただけ)
——余計悪い。
奥の小部屋へ通される。
そこは華やかではなかった。
古い木机。
背の高い棚。
羊皮紙の束。
封蝋。
インク。
そして、壁一面の記録箱。
教会の裏側は、完全に書庫だった。
(やっぱり役所じゃん)
——だから言っただろう。
記録司祭は、六十歳前後の女性だった。
銀の髪をきっちりまとめ、法衣の袖口まで乱れがない。
顔は穏やかだが、目が鋭い。
貴族夫人とも執事とも違う種類の鋭さ。
人の嘘ではなく、言葉のズレを見る目だ。
「ルシアン・ヴァレスト様」
彼女は静かに礼をする。
「ヴァレスト侯爵家とベルンハルト伯爵家の婚約交渉に関する事前記録ですね」
「はい」
「本日は正式登録ではなく、照会と確認。間違いございませんか」
「ありません」
記録司祭は机に羊皮紙を広げた。
そこには、すでに両家の名前が書かれている。
ヴァレスト侯爵家。
ベルンハルト伯爵家。
ルシアン・ヴァレスト。
クラリス・ベルンハルト。
名前が同じ紙の上に並んでいる。
それだけで、少し空気が変わった。
(うわ、書かれると重いな)
——教会記録は残る。
(消せないの?)
——正式登録前なら修正できる。正式後は、消すのではなく、追記する。
(怖い。人生が履歴管理されてる)
記録司祭は、淡々と確認を進める。
「家格」
「血縁関係」
「既存の婚約契約の有無」
「教会上の障害」
「寄進義務」
「婚姻後の礼拝席」
出てくる項目が細かい。
特に礼拝席。
婚姻後、クラリスがどの席に座るか。
これも問題になるらしい。
(教会の席まで政治?)
——当然だ。
(当然のバーゲンセール)
記録司祭が言う。
「ベルンハルト家より、事前にご令嬢の洗礼記録、成年礼記録、礼拝証明は提出済みです」
「確認しました」
「ヴァレスト家側の祖霊儀礼との調整については」
「後日、当家の家令より提出します」
「承知しました」
教会と祖霊儀礼。
二つが並んで扱われる。
この世界では、教会がすべてを支配しているわけではない。
家には家の先祖がいる。
教会は魂と誓約を記録する。
家は血統と名を記録する。
二つの記録が重なって、婚姻が成立する。
(ダブル台帳世界)
——表現は悪いが、近い。
確認が一段落したところで、記録司祭が顔を上げた。
「ルシアン様」
「はい」
「婚約事前記録にあたり、ひとつ確認を」
空気が変わった。
ルシアンの内側が、わずかに硬くなる。
「何でしょう」
「御本人の意思確認です」
(お?)
記録司祭は穏やかだった。
だが、その声には重みがある。
「教会記録は、家同士の契約だけを記すものではございません。本人の意思を完全に問わぬ婚姻は、後に誓約不全として扱われる場合がございます」
(え、教会、そこ見るんだ)
——一応な。
(一応でも大事だろ)
記録司祭は続ける。
「ルシアン・ヴァレスト様。ベルンハルト家クラリス様との婚約交渉について、御本人として拒絶の意思はございますか」
拒絶の意思。
好きですか、ではない。
愛していますか、でもない。
拒絶しますか。
貴族社会らしい最低限の問い。
だが、最低限だからこそ重い。
ルシアンは、すぐには答えなかった。
沈黙。
長すぎれば問題になる。
短すぎれば軽く聞こえる。
だが今の沈黙は、ちゃんと考えるための沈黙だった。
クラリス。
茶会で音を立てた少女。
恋文ではない社交文書を書いた令嬢。
舞踏会で呼吸を合わせた相手。
「怖い」と言えた人。
同じ線の上に立とうとした人。
公爵家の庭で、橋を語った人。
ベルンハルト家の食卓で、少し疲れて笑った娘。
ルシアンは、その全部を思い出していたのだと思う。
「拒絶の意思はありません」
静かな声だった。
記録司祭は頷く。
「承知しました」
それだけ。
だが、紙の上に一本線が引かれた。
記録された。
(……今の、けっこう大事だったな)
——ああ。
ルシアンの声は、少し遠かった。
記録司祭はさらに問う。
「では、もうひとつ」
「はい」
「この婚約交渉において、あなたの判断を著しく損なう外的干渉はございますか」
空気が止まった。
完全に止まった。
(……え?)
ルシアンの内側も凍った。
外的干渉。
俺。
いや、まさか。
記録司祭は何も知らないはずだ。
これは形式的な確認なのだろう。
脅迫、呪詛、薬物、強制。
そういうものを問う文言なのだろう。
でも、今のルシアンには刺さる。
俺にも刺さる。
(おい)
——黙れ。
(これ、俺のこと?)
——黙れ。
ルシアンは表情を変えない。
だが、内側の緊張は明らかだった。
記録司祭が、じっと見る。
その目は、言葉のズレを見る目。
ルシアンは答えた。
「ありません」
短い。
しかし、内側では何かが軋んだ。
嘘なのか。
いや、俺はルシアンを支配していない。
身体も動かせない。
判断を損なうどころか、むしろ横からうるさく言っているだけ。
でも、影響はある。
確実にある。
ルシアンの変化に、俺は関わっている。
記録司祭は、しばらくルシアンを見ていた。
そして頷いた。
「承知しました」
また紙に記録される。
俺は、妙に居心地が悪かった。
(……なあ)
——後にしろ。
声が硬い。
それ以上、話せなかった。
確認が終わった後、記録司祭は言った。
「本日の照会は以上です。ただ、婚約が進む場合、近いうちに礼拝堂での事前祈誓が必要になります」
「心得ています」
「クラリス様も同席されます」
「はい」
クラリスもここへ来る。
この教会へ。
この祭壇の前へ。
その時、俺の存在はどうなるのだろう。
そんな考えが、ふと浮かんだ。
小部屋を出る。
身廊へ戻る。
朝の礼拝は終わっていたらしく、教会内はさらに静かだった。
参拝者は少ない。
色硝子の光が、石床に淡く落ちている。
ルシアンは祭壇の前で立ち止まった。
今度は、はっきりと。
(ルシアン?)
返事がない。
彼は、天秤と輪の印を見上げていた。
その目が、普段とは違う。
何かを思い出している。
いや。
思い出さないようにしている。
俺は少しだけ声を落とした。
(ここ、何かあったのか)
長い沈黙。
教会の沈黙が、二人の間に降りる。
やがてルシアンは、低く言った。
——お前の声を、初めて聞いた場所だ。
俺は黙った。
予感はあった。
でも、言葉にされると違う。
(……ここで?)
——ああ。
(最初に俺が目を覚ました、あの晩餐じゃなくて?)
——晩餐の時には、すでに聞こえていた。
(そう、だったのか)
ルシアンは祭壇を見たまま動かない。
俺は、自分の最初の記憶を探る。
銀器の音。
静かな食卓。
暖炉。
白いクロス。
パン。
でも、その前に。
遠くの鐘。
香の匂い。
高い天井。
誰かの祈り。
あった気がする。
ほんの断片だけ。
(俺、覚えてない)
——私も、はっきりとは覚えていない。
(お前が?)
——あの日のことは、断片的だ。
それは珍しい。
ルシアンの記憶は、いつも正確だ。
作法も家系も文言も、恐ろしいほど覚えている。
そのルシアンが、断片的だと言う。
(何があったんだ)
ルシアンは答えない。
いや、答える言葉を探していた。
そして、静かに言った。
——私は、この祭壇の前で祈った。
(何を)
——覚えていない。
(本当に?)
——覚えていない。
嘘ではなさそうだった。
ただし、全部ではない。
覚えていない。
あるいは、覚えたくない。
どちらかだ。
ルシアンは続ける。
——ただ、祈った後、お前の声がした。
(俺、何て言った?)
ルシアンが、ほんの少しだけ嫌そうになる。
——「ここ、どこだよ」と。
(……俺らしい)
——最初から品がなかった。
(悪かったな)
少しだけ、空気が緩んだ。
だが、すぐにまた静まる。
(お前、怖くなかったのか)
——怖かった。
即答だった。
俺は驚いた。
ルシアンが、そう簡単に怖いと言うことは少ない。
でも、ここでは言った。
教会の前だからかもしれない。
ここでは、嘘をつきにくいのかもしれない。
——悪霊か、呪いか、私の心が壊れたのかと思った。
(まあ……普通そうなるよな)
——だが、お前はあまりにもうるさかった。
(悪霊判定を逃れた理由がうるさいからなの、納得いかない)
——悪霊なら、もう少し威厳がある。
(ひどい)
ルシアンの口元が、ほんのわずかに緩みかけた。
だが、すぐに戻る。
彼は祭壇から視線を外した。
——それから、私はお前の存在を隠した。
(誰にも?)
——当然だ。
(教会にも?)
——当然だ。
記録司祭の問いが脳裏に残る。
外的干渉はございますか。
ルシアンは「ない」と答えた。
本当に、ないと言えるのか。
俺は少し黙った。
(俺は、お前の判断を損なってるのかな)
ルシアンはすぐには答えなかった。
教会の色硝子の光が、床に落ちている。
青い光が、ルシアンの手袋にかかった。
——損なってはいない。
(でも変えてはいる)
——ああ。
認めた。
静かに。
——お前は、私の判断を奪ってはいない。だが、私が見るものを増やした。
(それは……いいことなのか?)
——分からん。
分からん。
ルシアンがそう言う。
でも、その言葉には逃げがなかった。
分からないものを、分からないと置いただけ。
ユリウスが言った「迷い方」なのかもしれない。
しばらくして、ルシアンは歩き出した。
しかし、出口ではなく、側廊へ向かった。
そこには小さな礼拝室があった。
個人祈祷用の場所らしい。
石のベンチ。
小さな祭壇。
一本の燭台。
窓は狭く、光は少ない。
ルシアンはそこで立ち止まる。
(まだ何かするのか?)
——祈る。
(お前が?)
——不満か。
(いや、意外で)
ルシアンは片膝をついた。
完璧な所作だった。
だが、社交の所作とは違う。
見せるためではない。
誰も見ていない場所での膝のつき方。
ルシアンは目を伏せた。
俺には彼の祈りの言葉は聞こえない。
口に出していないからだ。
だが、何かを抱えていることは分かった。
しばらく、沈黙が続く。
この沈黙は、屋敷の沈黙とも、先祖廟の沈黙とも違う。
裁かれる沈黙ではない。
隠していたものを、少しだけ置くための沈黙。
俺は、初めて教会という場所の意味を少し理解した気がした。
しばらくして、ルシアンが立ち上がる。
(何を祈ったんだ)
——言わん。
(まあ、そうだよな)
——ただ。
(ただ?)
ルシアンは小さな祭壇を見たまま言う。
——いつか、クラリス嬢に話す必要があるのかもしれん。
俺は黙った。
言った。
ついに。
(俺のことを?)
——ああ。
(怖くないのか)
——怖い。
また、素直に言った。
——だが、隠し続けることが、いつか彼女への不誠実になる。
その通りだった。
クラリスは、ルシアンの変化に気づき始めている。
ユリウスも気づいている。
いつまでも隠せない。
そして、クラリスが同じ線の上に立つ相手なら、その線の片側に俺がいることも、いずれ知らなければならない。
(でも、今じゃない)
——分かっている。
(今言ったら、混乱する)
——分かっている。
(それに俺、説明されても困ると思う)
——お前の説明は、確かに困る。
(ひどい)
少しだけ、いつもの調子が戻った。
教会を出る前、ルシアンはもう一度、中央祭壇を見た。
朝より光が傾いている。
天秤と輪。
誓約と秩序。
その前で、彼は小さく息を吐く。
外へ出ると、鐘が鳴った。
低く、深い音。
王都の空へ広がっていく。
その音を聞きながら、俺は思った。
俺は、どこから来たのだろう。
なぜ、ルシアンの中にいるのだろう。
偶然なのか。
祈りの答えなのか。
ただの事故なのか。
それとも、この世界の何かが、制度に適応しすぎた少年へ、外側の目を差し込んだのか。
分からない。
たぶん、今はまだ分からなくていい。
馬車に乗る。
教会が遠ざかる。
ルシアンは窓の外を見ていた。
(クラリス、教会で始まったって聞いたら、少しは怖がらずに済むかな)
——なぜそう思う。
(教会って、この世界では魂とか誓約の場所なんだろ。悪霊とか呪いってだけじゃなく、意味を考える余地ができる)
ルシアンは黙った。
長い沈黙の後、言う。
——彼女なら、そう考えるかもしれん。
(だろ)
——だが、だからこそ安易には言えない。
(なんで)
——彼女は、意味を探してしまう。
ああ。
そうか。
クラリスは、ただ恐れて終わる子ではない。
意味を探す。
ルシアンが変わった理由。
ルシアンの中にいる、俺という声の意味。
教会で始まったことの意味。
それが彼女を救うかもしれない。
同時に、縛るかもしれない。
だから、言うなら慎重に。
ちゃんと同じ線の上で。
教会の鐘が遠ざかる。
その音の残響の中で、ルシアンがぽつりと言った。
——お前は、私が呼んだのだろうか。
俺は答えられなかった。
呼ばれた記憶はない。
ただ、気づいたらここにいた。
でも。
(分からない)
俺は正直に言った。
(でも、呼ばれたんだとしたら、お前、ずいぶん面倒な奴を呼んだな)
ルシアンは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
——まったくだ。
馬車は石畳の上を進む。
王都の空には、まだ鐘の余韻が残っていた。
その音は、祝福にも、問いにも聞こえた。