目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています 作:ブンチョウ
教会から戻った翌朝。
俺は、重大な問題に気づいてしまった。
(なあ、ルシアン)
——何だ。
(お前、昨日、教会行っただろ)
——行ったな。
(馬車にも乗った)
——乗った。
(ベルンハルト家にも行った)
——一昨日だ。
(アーデル公爵家の庭園も歩いた)
——その前日だ。
(つまり、だ)
俺は厳粛な気持ちで告げた。
(そろそろ風呂に入れ)
沈黙。
長い沈黙。
ルシアンは朝の支度中だった。
侍従が差し出した清潔なリネンへ腕を通し、髪を整え、薄い香油をほんの少しだけ馴染ませる。
鏡の中の銀髪の少年は、相変わらず絵画みたいに美しい。
だが、美しければよいというものではない。
問題は、頭皮だ。
皮脂だ。
汗だ。
自分の匂いは、自分では分からない。
これは現代人の魂に刻まれた真理である。
ルシアンは、冷ややかに返した。
——身体は清めた。
(拭いただけだろ)
——リネンも替えた。
(服を替えても頭皮は替わらない)
——香油も控えめにした。
(香りを足すな。まず落とせ)
鏡の中で、ルシアンの眉がほんのわずかに動いた。
侍従は気づかない。
さすがプロ。
だが俺には分かる。
苛立っている。
——君の世界の人間は、どれほど水に執着しているのだ。
(毎日だ)
——毎日?
(毎日)
——病か。
(文明だ)
——水の無駄だ。
(清潔の投資だ)
——貴族は香りを整える。
(現代人は臭いの元を断つ)
ルシアンは、完全に聞き流す構えに入った。
くそ。
こいつは都合が悪くなると、貴族の顔で黙る。
俺は追撃した。
(いいか。現代人の清潔とは、香ることではない。臭わないことだ)
——名言のつもりか。
(名言だ)
——却下する。
(無臭は礼儀である)
——語感だけは悪くないな。
(採用しろ)
——しない。
その時、侍従が小さな香油瓶を手に取った。
淡い琥珀色。
南方産の香油らしい。
良い香りだ。
たぶん高い。
だが俺は譲らない。
(それ以上つけるな)
——控えめだ。
(香水で勝つな。無臭で引き分けろ)
ルシアンが止まった。
本当に一瞬、指先が止まった。
侍従が不思議そうに目を上げる。
「ルシアン様?」
「……いや。香油はそれでよい」
「かしこまりました」
侍従が瓶を下げる。
勝った。
文明が一歩前進した。
(ようこそ、無臭の世界へ)
——黙れ。
だが、この時点ではまだルシアンは本気で聞いていなかった。
問題が起きたのは、その日の午後である。
クラリスからの来訪予定が入っていた。
内容は、アーデル公爵家の会に関する礼状と、次回以降の社交予定の確認。
つまり、昨日今日の流れを受けた、かなり大事な打ち合わせだった。
場所は南サロン。
距離は近い。
茶を挟むとはいえ、婚約候補としての会話だ。
互いの表情も、呼吸も、香りも届く距離。
そこで俺は、脳内で静かに囁いた。
(なあ、ルシアン)
——何だ。
(頭皮、大丈夫か?)
ルシアンの内側が、盛大に乱れた。
顔には出ない。
出ないが、内側は揺れた。
(襟元は?)
——黙れ。
(香油、汗と混ざってないか?)
——黙れ。
(クラリスが半歩引いたら終わりだぞ)
——黙れと言っている。
南サロンの扉が開く。
クラリスが入ってきた。
淡い白茶のドレス。
髪は丁寧に結われ、香りはごく控えめ。
昨日ベルンハルト家で飲んだ軽い茶に似た、柔らかい香りがした。
彼女は一礼する。
「ルシアン様。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、クラリス嬢」
ルシアンの返答は完璧だった。
だが内側は違う。
完全に俺のせいで、距離を意識している。
クラリスが席に着く。
茶が出る。
彼女がカップを持ち上げる。
指先は静か。
呼吸も落ち着いている。
しかし。
クラリスが、ほんのわずかに首を傾けた。
何かを感じ取るように。
(ほら! 今、匂い確認されたぞ!)
——違う。
(絶対された)
——違う。
ルシアンの内側が、じわじわ焦り始める。
面白い。
いや、かわいそうだが面白い。
クラリスは静かに言った。
「ルシアン様」
「はい」
「本日の香油は、いつもより控えめでいらっしゃいますね」
終わった。
いや、終わってはいない。
むしろ始まった。
ルシアンの感情が一瞬、完全に停止する。
(気づかれてるじゃん!!)
——黙れ。
ルシアンは平静を装って答える。
「強すぎる香りは、場を先に満たしますので」
お。
言い訳にしては、なかなか上品だ。
クラリスは少し目を瞬かせた。
そして微笑む。
「それは、ベルンハルト家の食卓でお感じになったことですか?」
「一部は」
ルシアンは間を置いた。
俺の方へ意識が向く。
来た。
翻訳する気だ。
「香りは、身を飾るものです。ですが近くに立つ相手にとっては、時に返答の前に届いてしまう」
クラリスの表情が、少しだけ真剣になる。
「はい」
「ならば、香りで己を示す前に、相手の呼吸を妨げぬこと。それもまた、礼ではないかと思いました」
(俺の“香水で勝つな”が、貴族語になった……)
変換精度が高い。
恐ろしい。
クラリスは、カップを静かに置いた。
音はしない。
「興味深いお考えです」
「そうでしょうか」
「はい。殿方は時折、強い香りを威厳や余裕と勘違いなさいます」
お。
クラリスの声に、わずかに実感が混じった。
「ですが近くで話す相手からすれば、香りが先に席へ入ってくることもございます。時にそれは、言葉より無礼です」
(分かってる! この人、分かってる!)
——静かにしろ。
「ベルンハルト家では、香りは商品でもあります」
クラリスは続ける。
「ですから、香りが人の気分をどう動かすか、幼い頃から学びました。良い香りでも、多すぎれば押しつけになります」
「では、余分なものを落とすことも、香りの作法に含まれますか」
「含まれると思います」
クラリスは、少しだけ楽しそうに言った。
「香りを選ぶ前に、香りを載せる場所を整える。茶器を洗わずに茶を注がないのと同じですもの」
(茶器! そう、それ! 頭皮は茶器!)
——絶対に口に出すな。
(出すわけないだろ)
ルシアンは静かに頷いた。
「では、私の考えも全く的外れではなかったようですね」
「いいえ。むしろ、近くに立つ者への礼として、よい考えだと思います」
クラリスがそう言った瞬間、ルシアンの内側がほんの少し緩んだ。
勝った。
俺の風呂理論が、クラリスに認められた。
ただし、俺の名前は出ない。
いや、出なくていい。
今のところは。
するとクラリスは、ふとルシアンを見た。
少し探るような目だった。
「ただ」
「ただ?」
「ルシアン様は、以前はそのようなお考えではなかったように思います」
空気が変わった。
来た。
小さな違和感。
クラリスは見ている。
ルシアンの変化を。
言葉の質を。
どこから来たか分からない新しい視点を。
ルシアンは平然と答える。
「人は学びます」
「ええ」
クラリスは微笑む。
しかし、その目はまだ見ている。
「ルシアン様は、最近、ときどきご自分の外側から物を見るようになられますね」
俺は黙った。
ルシアンも、内側で一瞬だけ沈黙した。
「外側、ですか」
「はい」
クラリスは言葉を探すように、視線を少し伏せる。
「ヴァレスト家の廊下ではなく、もっと遠い場所の窓が開くような」
(詩的にバレかけてる)
——黙れ。
ルシアンは静かに返す。
「ベルンハルト家の影響かもしれません」
「そうであれば、光栄です」
クラリスはそこで引いた。
それ以上は踏み込まない。
だが、残った。
違和感が。
ルシアンもそれを分かっている。
俺も分かっている。
この人は、いつか気づく。
たぶん、かなり近いところまで来る。
その後の打ち合わせは無事に終わった。
クラリスは帰り際、少しだけ笑って言った。
「本日の香りは、話しやすうございました」
それは最高評価だった。
ルシアンは一礼する。
「覚えておきます」
クラリスが退出する。
扉が閉まる。
南サロンに沈黙が落ちた。
俺は勝利宣言した。
(な?)
——何がだ。
(無臭は礼儀)
——調子に乗るな。
(クラリスも認めた)
——彼女が認めたのは、香りの節度だ。君の雑な風呂信仰ではない。
(でも根は同じだろ)
ルシアンは返事をしなかった。
これは負けを認めた沈黙である。
翌朝。
ルシアンは湯浴みの予定を入れた。
勝った。
完全勝利である。
(ようこそ、文明へ)
——体調管理だ。
(風呂だ)
——身支度の改善だ。
(風呂だ)
——社交上の配慮だ。
(風呂だ)
——黙れ。
だが、ここで俺は初めて知った。
侯爵家の湯浴みは、現代の風呂とは違う。
蛇口をひねれば湯が出る、などという甘いものではない。
まず湯殿の準備。
水を運ぶ。
湯を沸かす。
薪を使う。
大桶を整える。
布を用意する。
香草を選ぶ。
使用人の動線を組む。
濡れた布を洗い、干す者も必要になる。
つまり、侯爵令息が「湯浴みをする」と言っただけで、屋敷の家政が動く。
(……思ったより大事業だな)
——だから言っただろう。
(言ってたっけ)
——言わずとも分かれ。
湯殿へ向かう廊下で、使用人たちが静かに動いていた。
桶を運ぶ若い下男。
布を抱える侍女。
薪の確認をする家政係。
香草を選別する年配の女中。
誰も不満そうな顔はしない。
だが、仕事が増えているのは明らかだった。
俺は、少し黙った。
(俺の“さっぱりしたい”って、この屋敷では誰かの労働なんだな)
ルシアンは、ほんの少しだけ歩みを緩めた。
——そうだ。
(現代だと、あんまり考えなかった)
——便利とは、労働が見えなくなることなのかもしれんな。
その言葉は、妙に刺さった。
ルシアンは湯殿へ入る前、家政係の女性へ言った。
「今後、湯浴みの回数を増やす場合、湯と薪と布の負担を一覧にして出せ」
家政係が一瞬だけ驚く。
「かしこまりました」
「無理に急がせる必要はない。通常業務を圧迫するなら、時間を調整する」
「承知いたしました」
(お前……)
——何だ。
(ちゃんと考えてるじゃん)
——当然だ。家政を乱せば、身支度どころではない。
(そこまでが礼儀?)
——そうだ。
湯殿に入る。
湯気。
石床。
木桶。
香草の淡い匂い。
現代の風呂とは違う。
だが、湯がある。
温かい湯がある。
俺はちょっと感動した。
(おお……風呂だ)
——湯浴みだ。
(風呂だ)
——湯浴みだ。
ルシアンは侍従を下がらせた。
完全に一人ではないが、最低限の人払いをした形だ。
理由は分かる。
俺と会話するためだ。
湯気の中で、ルシアンは低く言った。
「……これで満足か」
(まだ頭を洗ってない)
「本当に君は」
(頭皮だ。文明は頭皮から始まる)
「絶対に違う」
ルシアンは湯を手に取り、髪を濡らした。
銀の髪が水を含み、少し重くなる。
普段は完璧に整えられた貴公子の髪が、ただの濡れた髪になる。
それが少し面白い。
だが、同時に人間らしくもあった。
ルシアンは、湯気の中でぽつりと言う。
「クラリス嬢は、気づいていたな」
(香油のこと?)
「それだけではない」
(外側から物を見るってやつか)
「ああ」
俺は少し黙った。
(いつか、話すのか)
ルシアンも黙った。
湯の音だけが響く。
「まだ早い」
(うん)
「だが、隠し続けられるとも思わない」
(クラリス、鋭いもんな)
「彼女は、人の言葉の温度を見る」
(匂いも見る)
「……そうだな」
ルシアンが、少しだけ苦笑した気配があった。
湯殿の外では、誰かが布を用意する音がした。
静かだが、完全な無音ではない。
働いている人の音。
この湯も、この布も、この清潔も、誰かが整えたものだ。
俺は改めて思う。
現代人の当たり前は、この屋敷では当たり前ではない。
でも、だからこそ意味がある。
ただ風呂に入れ、ではない。
誰かの労働を使ってまで、相手に不快を与えない身支度をする。
それをどう制度にするか。
どう礼に変えるか。
そこまで考えなければ、この世界では続かない。
(なあ、ルシアン)
「何だ」
(俺、ただ風呂入りたかっただけなんだけどさ)
「知っている」
(でも、なんか大ごとになったな)
「君の雑な欲求を礼法に翻訳すると、大体こうなる」
(便利だな、貴族語)
「面倒なだけだ」
湯浴みが終わる頃には、ルシアンの髪は清められ、肌の血色も少し良くなっていた。
香油はさらに控えめ。
リネンは新しい。
強い香りはない。
ただ、湯上がりの清潔な匂いがした。
(完璧だ)
——うるさい。
(これでクラリスの隣に立てる)
——そのためだけではない。
(じゃあ何のため?)
ルシアンは少し考えた。
そして言った。
——相手の呼吸を妨げぬためだ。
俺は笑いそうになった。
勝った。
俺の雑な現代衛生観が、ついに侯爵家嫡男の礼法になった瞬間である。
その日の夕方。
侍女長が、廊下でアルヴェルトへ小さく報告していた。
「ルシアン様、近頃、湯浴みのご希望が増えておりますね」
「そのようだ」
「香油も、以前より控えめに」
「そのようだ」
「何か、心境の変化でもおありでしょうか」
アルヴェルトは少しだけ沈黙した。
そして言った。
「ルシアン様は、最近よく人をご覧になる」
侍女長は納得したように頷いた。
だが、その目にはまだ少し疑問が残っていた。
当然だ。
急に湯浴みを増やす。
湯殿で人払いをする。
香油の好みが変わる。
身支度の基準が変わる。
周囲は気づく。
クラリスも気づく。
いつか、誰かが問うだろう。
その変化は、どこから来たのかと。
ルシアンは、廊下の角でその会話を聞いていた。
聞こえないふりをして、静かに歩き出す。
(噂になるな)
——なるだろうな。
(どうする?)
——今は、身支度の改善で通す。
(便利な言葉)
——実際そうだ。
俺は少し笑った。
(でもさ)
——何だ。
(無臭は礼儀だろ?)
ルシアンは、しばらく答えなかった。
長い沈黙。
そして、ものすごく不本意そうに言った。
——……一理ある。
俺は勝利の鐘を脳内で鳴らした。
もちろん、ルシアンにはうるさいと怒られた。