目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています 作:ブンチョウ
教会から正式な通知が届いた。
春月二十日。
中央教会にて、ヴァレスト侯爵家ルシアン・ヴァレストと、ベルンハルト伯爵家クラリス・ベルンハルトの婚約事前祈誓を行う。
まだ結婚ではない。正式婚約の一歩手前だ。
けれど、教会の記録に二人の名が並び、神前で互いの意思を確認する。
つまり。
(逃げ道がまた一つ減ったな)
——言い方を選べ。
(じゃあ、橋の板が一枚増えた)
——まだましだ。
ルシアンは書斎で通知を読んでいた。
机の上には、教会から送られてきた祈誓文の写しが置かれている。羊皮紙に黒いインク。輪と天秤の印。
書かれている言葉は、相変わらず重い。
『我、家の名において』
『神前において』
『誓約を軽んじず』
『相手の家名を辱めず』
『両家の結びを、秩序の内に保つことを願う』
(……婚約前の確認でこれ?)
——正式婚約前だからだ。
(本番どれだけ重いんだよ)
——重い。
(でしょうね)
この世界では、誓いの言葉はただの台詞ではない。
言えば残る。記録される。
教会に。家に。社交界に。
そして、相手の記憶に。
ルシアンは祈誓文を何度も目で追っていた。
暗記するためではない。もう覚えている。
問題は、どの言葉にどの温度を載せるかだ。
声の高さ。間。視線を下げる場所。クラリスの名を呼ぶ時の距離。
全部が意味になる。
(読み上げるだけじゃ駄目なのか)
——駄目だ。
(知ってた)
アルヴェルトが静かに言う。
「本日午後、クラリス様が祈誓文の確認のためお越しになります」
「聞いている」
「教会側より、当日はお二人が並んで祈誓する形式とのことです」
「並び位置は」
「祭壇より三歩手前。ルシアン様が右、クラリス様が左。両家の証人は後方に控えます」
(歩数まで決まってる)
——神前での距離は重要だ。
(神様、細かいな)
——教会が細かい。
アルヴェルトは続けた。
「祈誓文の中に、お二人がそれぞれ名を呼ぶ箇所がございます」
ルシアンの感情が、微妙に硬くなる。
(名を呼ぶだけで緊張?)
——神前で正式に名を呼ぶのは重い。
(そういうものか)
——そういうものだ。
祈誓文には、こうあった。
『我、ルシアン・ヴァレストは、クラリス・ベルンハルトの名を軽んじぬことを誓う』
そしてクラリス側は、
『我、クラリス・ベルンハルトは、ルシアン・ヴァレストの名を軽んじぬことを誓う』
名を軽んじぬ。
それは単に、相手を大事にします、という意味ではない。
相手の家名。出自。背負ってきたもの。これから背負うもの。
それらを軽んじないという意味だ。
(これ、クラリスにとってかなり大事だな)
——ああ。
(伯爵家から侯爵家に入る側だから?)
——それもある。
クラリスは、ベルンハルト家の娘だ。
侯爵家に入るとしても、その名は消えない。消してはいけない。
ルシアンは、それを神前で口にする。
クラリス・ベルンハルトの名を軽んじない、と。
これはかなり重い。
午後。クラリスがヴァレスト家に到着した。
今日の装いは控えめだった。
淡い生成りのドレス。装飾は少ない。香りも軽い。
教会関係の確認だからだろう。祈誓文に合わせた、少し静かな装い。
だが、彼女の表情は硬かった。
いつもの緊張とは違う。もっと内側にある緊張だ。
ルシアンはそれに気づく。
「クラリス嬢」
「ルシアン様」
礼を交わす。
南サロンではなく、今日は小礼拝室に近い書見室が使われた。
ヴァレスト家の中にも、簡易の祈祷空間がある。
小さな祭壇。白い布。銀の燭台。
壁にはヴァレスト家の紋章と、教会の輪と天秤。
家と教会が同じ部屋にいる。
(この部屋、圧が複合してる)
——家と神の間の部屋だ。
(説明が重い)
二人は向かい合って座る。
間には祈誓文。アルヴェルトとベルンハルト家の侍女が控える。
完全な二人きりではない。だが、会話の中心は二人だ。
クラリスが祈誓文を見つめる。
「教会の言葉は、家の言葉とはまた違いますね」
「ええ」
「逃げ場が少ないように感じます」
ルシアンは少しだけ考えた。
「教会の言葉は、曖昧さを嫌います」
「貴族の言葉は、曖昧さで生きているのに」
「だから、神前では皆、少し緊張する」
クラリスが小さく微笑む。
「ルシアン様も?」
「します」
即答だった。
クラリスが目を上げる。少し驚いた顔。
以前のルシアンなら、たぶん言わなかった。緊張する、と。
(お前、素直になったな)
——必要な事実だ。
(はいはい)
クラリスは、少しだけ肩の力を抜いた。
「安心しました」
「私が緊張することに?」
「はい。私だけではないのだと」
ルシアンは静かに言う。
「貴女だけではありません」
その言葉は、何度目かの確認だった。
クラリス一人が試されているのではない。
ベルンハルト家だけが上へ差し出されているのではない。
ヴァレスト家も、ルシアンも、同じ席に立つ。
同じ線の上に。
クラリスは祈誓文へ目を戻した。
「この箇所が、少し怖いです」
彼女が指したのは、名前の部分だった。
『クラリス・ベルンハルトの名を軽んじぬこと』
ルシアンは黙る。
クラリスは続けた。
「侯爵家へ嫁げば、いずれ私はヴァレストの名を名乗ることになります」
「はい」
「でも、ベルンハルトであったことは、消えません」
「消すべきではありません」
クラリスの指先が止まる。
ルシアンは、はっきりと言った。
「貴女の言葉は、ベルンハルト家から始まってよい。茶葉でも、港でも、香りでも。そこから先へ進むのは、消すことではない」
クラリスが顔を上げる。
「母の言葉を、覚えていらしたのですか」
「良い言葉でしたので」
少しの沈黙。
クラリスの頬に、ほんのわずかに色が差した。
(お前、自然に褒めたな)
——黙れ。
クラリスは静かに言う。
「では、私もこの言葉を怖がるだけではいけませんね」
「怖がってもよいと思います」
「え?」
「怖がった上で、声にすればよい」
ルシアンの内側で、教会の記憶が少し揺れた。
あの祭壇。
外的干渉の問い。
祈り。
俺の声を、ルシアンが初めて聞いた場所。
怖いと言ったルシアン。
それを俺に隠さなかったルシアン。
彼は今、その経験をクラリスへ渡しているのかもしれない。
全部ではない。
だが、恐れを否定しない言葉として。
クラリスは祈誓文を見つめたまま、静かに頷いた。
「声に出してみてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
クラリスは息を整える。
そして、ゆっくり読み始めた。
「我、クラリス・ベルンハルトは——」
声は少し硬い。
でも、逃げていない。
「ルシアン・ヴァレストの名を軽んじぬことを誓う」
部屋に沈黙が落ちる。
小さな書見室なのに、声が少しだけ響いた。
神前の言葉ではない。まだ練習だ。
だが、それでも重い。
ルシアンは静かに聞いていた。
クラリスが目を伏せる。
「……名を口にするだけで、重いのですね」
「ええ」
「ルシアン様も、読んでいただけますか」
「はい」
ルシアンは祈誓文へ目を落とす。
覚えている。だが、あえて紙を見る。
言葉を軽く扱わないために。
「我、ルシアン・ヴァレストは——」
その瞬間、俺は少しだけ緊張した。
自分が言うわけではない。
身体を動かしているのはルシアンだ。
それでも、この声の中に俺もいる。
それが急に分かった。
ルシアンが変わった理由の一部に、俺がいる。
その彼が、クラリスの名を軽んじないと誓う。
俺には関係ない、とはもう言えなかった。
「クラリス・ベルンハルトの名を軽んじぬことを誓う」
静かな声だった。
低く、澄んでいた。
クラリスが息を止める。
それから、ゆっくり息を吐いた。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることでは」
「いいえ」
クラリスは小さく首を振る。
「今のルシアン様のお声は、私の名をきちんと持ってくださいました」
ルシアンの内側が、わずかに揺れた。
(すごい表現だな)
——ああ。
クラリスは、本当に言葉の重さを見る人だ。
名前を呼ぶ。
それを持つ。
軽んじない。
ただ読むだけではなく、声で扱う。
それを彼女は感じ取った。
練習は続いた。
礼の角度。祭壇へ向かう歩数。並ぶ距離。
互いに名を呼ぶ時の視線。祈誓文を司祭へ返す手順。
全部、細かい。
(これ、リハーサルだな)
——祈誓の失敗は記録に残る。
(神様の前で噛んだらどうなるの?)
——笑えない。
(笑わないけど)
途中で、クラリスが一度だけ言葉に詰まった。
『両家の結びを、秩序の内に保つことを——』
そこで止まった。
ほんの一瞬。
だが、ルシアンは見逃さない。
「その箇所ですか」
クラリスは少し困ったように笑う。
「はい」
「秩序、という言葉が重い?」
「ええ。秩序の内に保つ、というのは、時々、人の気持ちを閉じ込める言葉にも聞こえます」
これは、かなり踏み込んだ言葉だった。
アルヴェルトも、ベルンハルト家の侍女も表情を変えない。
だが、場の空気が少しだけ硬くなった。
教会の文言への違和感。
婚約前の令嬢が口にするには、危うい。
でも、クラリスは言った。
ルシアンはしばらく黙る。
そして、静かに返した。
「秩序は、閉じ込めるためだけにあるのではないと思います」
「はい」
「ただ、閉じ込めるために使われることはある」
クラリスの目が、少し大きくなる。
アルヴェルトの視線も、ほんのわずかにルシアンへ向いた。
(お前、結構なこと言ったぞ)
——分かっている。
ルシアンは続ける。
「だから、その言葉をどう使うかは、私たちの側にも責任がある」
教会での記録司祭の問い。
外的干渉。
誓約不全。
そして、神は答えではなく問いを置くのかもしれないという考え。
それらが、ルシアンの中でまだ整理されていない。
けれど、今の言葉は本音だった。
クラリスは祈誓文を見つめる。
「では、秩序の内に保つ、とは」
「互いを黙らせるためではなく、互いの名を壊さずに立つため、と読めばよいのではないでしょうか」
クラリスはゆっくり頷いた。
「それなら、声にできます」
そしてもう一度読んだ。
「両家の結びを、秩序の内に保つことを願います」
今度は止まらなかった。
声も少し落ち着いていた。
ルシアンは聞いていた。
たぶん、彼自身も同じ言葉を自分に通していた。
秩序。
家。
誓約。
それは人を守る。
同時に、人を閉じ込める。
ならば、どう使うか。
それは、これから先の二人にとって、かなり大きな問いになりそうだった。
練習が終わる頃には、夕方近くになっていた。
窓の外から、遠い教会の鐘が聞こえる。
低い音。
ルシアンの内側が、ほんのわずかに揺れる。
クラリスがそれに気づいた。
本当に、わずかな変化だった。
目の動き。
呼吸。
沈黙の質。
彼女は静かに尋ねる。
「ルシアン様は、教会の鐘がお苦手ですか」
来た。
俺は内心で固まった。
ルシアンも、少しだけ動きを止める。
「なぜそう思われますか」
「以前から、鐘の音がすると、少しだけ遠くをご覧になるので」
(見られてる……)
——黙れ。
クラリスは急いで言い足した。
「失礼でしたら、お答えいただかなくて構いません」
ルシアンは沈黙した。
長い。
だが、逃げる沈黙ではない。
答えるかどうかを選ぶ沈黙。
「苦手、というほどではありません」
「はい」
「ただ、教会には少し思うところがあります」
クラリスは、深く聞きすぎない。
ただ受け取る。
「そうでしたか」
それだけ。
しかし、彼女の目には何かが残った。
この人は、覚えておくだろう。
鐘。
教会。
ルシアンの遠い目。
いつか、その点がつながる。
俺には分かった。
ルシアンも分かっている。
それでも、彼は否定しなかった。
これもまた、変化だ。
クラリスが祈誓文を畳む。
「本日はありがとうございました。少し、怖さが減りました」
「それはよかった」
「ただ」
「ただ?」
「言葉の重さは増えました」
クラリスは微笑む。
「怖さが減って、重さが増えるのは、不思議ですね」
「意味が分かったからでしょう」
「そうかもしれません」
彼女は少し考えた。
「意味が分からないものは怖い。意味が分かるものは、重い」
良い言葉だった。
俺は、少し感心した。
(クラリス、たまに核心を刺すな)
——たまにではない。
(お前も評価高いな)
——事実だ。
帰り際。
クラリスはルシアンへ一礼した。
「春月二十日、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
「当日は、緊張すると思います」
「私もです」
クラリスが少し笑う。
「では、同じ線の上で緊張いたしましょう」
「ええ」
同じ線の上で緊張する。
それは、なかなか良い関係だと思った。
クラリスが去った後、ルシアンは小礼拝室に一人残った。
いや、一人ではない。
俺がいる。
最近、そのことをルシアンも俺も、少し違う重さで感じるようになっていた。
机の上には、祈誓文の写しが残っている。
ルシアンはその中の一文を見つめた。
『相手の名を軽んじぬこと』
(なあ)
——何だ。
(俺は、お前の名を軽んじてないかな)
ルシアンは、しばらく黙った。
自分でも意外なことを聞いたと思う。
俺はルシアンの中にいる。
彼の視界を借り、感覚を借り、人生に口を出している。
そのことを、教会以降、少し重く感じる。
ルシアンは静かに答えた。
——最初は、かなり軽んじていた。
(そこ正直に言う?)
——パンと風呂で私の人生を測る者を、どう評価しろと。
(すみません)
ルシアンは、ほんの少しだけ息を吐く。
——だが、今は違う。
(違う?)
——君は、私の名が背負うものを知ろうとしている。
その言葉は、不意打ちだった。
俺は黙った。
ルシアンは続ける。
——ならば、軽んじているとは言わん。
(……そうか)
——ただし、頭皮の話は別だ。
(そこは大事だろ)
——黙れ。
少し笑いそうになった。
でも、胸の奥は少し温かかった。
ルシアンも、もう俺をただの寄生虫とは思っていない。
俺も、ルシアンの人生をただの異世界見物とは思えなくなっている。
同じ線の上。
クラリスとの言葉だったはずなのに、今は少し、俺たちにもかかっている気がした。
窓の外で、また鐘が鳴る。
今度はルシアンの内側が大きく揺れなかった。
ただ、静かに聞いていた。
教会の鐘。
祈誓文。
クラリスの名。
ルシアンの名。
そして、まだ名を持たない俺。
いつか、クラリスに話す日が来るのかもしれない。
その時、俺は何と呼ばれるのだろう。
同居人。
声。
外側の目。
それとも。
ルシアンが、ふと小さく呟いた。
——君にも、名はあるのだろうな。
俺は答えようとして、止まった。
自分の名。
現代での名前。
あるはずだ。
あったはずだ。
けれど、霧がかかっている。
(……ある、と思う)
ルシアンの内側が静かになる。
責めない。
急かさない。
ただ、待つ。
昔の彼なら、正解を求めただろう。
今は待っている。
俺が思い出す半拍を。
クラリスを待つように。
エミリアを待つように。
自分自身の迷いを待つように。
(いつか思い出したら言う)
——ああ。
(でも今は、まだ無理だ)
——それでいい。
その返事に、俺は少し救われた。
誓いの言葉は、声に出す前から重い。
名前も同じだ。
名乗る前から、その人の人生を背負っている。
ルシアンは祈誓文を畳んだ。
白い布の上に置く。
そして静かに部屋を出た。
春月二十日。
教会で、彼とクラリスは互いの名を声に出す。
俺はその場にいる。
見えないまま。
聞こえるまま。
たぶん、誰よりも近くで。