目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています   作:ブンチョウ

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第28話 神前では、名前の重さが逃げ場をなくす

 春月二十日。

 

 中央教会の鐘は、いつもより低く聞こえた。

 

 いや、実際に低いわけではないのだろう。聞く側の問題だ。

 

 これから神前で名前を呼ぶ。

 

 婚約ではない。まだ婚約事前祈誓だ。正式な婚姻でもない。

 

 けれど、この世界の「まだ」は信用できない。

 

 書かれる。記録される。見られる。そして、噂になる。

 

(つまり実質、本番のリハーサルを本番みたいにやるやつだな)

 

 ——言い方は悪いが、近い。

 

(嫌な文化だ)

 

 ——誓約の文化だ。

 

 ルシアンは馬車の中で、祈誓文をもう一度確認していた。

 

 覚えている。完全に覚えている。

 

 それでも読む。言葉を軽く扱わないために。

 

 今日の礼装は黒に近い深灰。胸元のヴァレスト家の紋章は控えめだが、消えてはいない。

 

 香油はほとんどない。

 

 新しいリネン。清めた髪。

 

 強い香りではなく、ほんの薄い木と石鹸に近い、清潔な匂い。

 

(よし)

 

 ——何がだ。

 

(無臭は礼儀)

 

 ——神前でそれを言うな。

 

(言わないけど、今日の勝利は俺にもある)

 

 ——祈誓に勝敗を持ち込むな。

 

 馬車が教会前に止まる。

 

 扉が開き、外気が入る。

 

 香の匂い。石の冷たさ。高い鐘楼から落ちてくる影。

 

 俺の中に、前回の記憶が蘇る。

 

 ここで、ルシアンは俺の声を初めて聞いた。

 

 ここで、彼は怖かったと言った。

 

 そして今日、彼はクラリスと並ぶ。

 

 神前で。

 

 教会の階段の下には、ベルンハルト家の馬車もすでに到着していた。

 

 クラリスが降りる。

 

 白ではない。淡い青灰色のドレス。

 

 婚礼ではないから、白すぎない。だが、教会にふさわしい静かな色だ。

 

 髪はまとめられ、飾りも控えめ。香りはほとんどしない。

 

 ただ、近づくと微かに茶葉と花の気配がある。探せば分かる程度。

 

(クラリスも無臭寄りになってる)

 

 ——余計なことを考えるな。

 

(でも通じてるじゃん)

 

 ——黙れ。

 

 クラリスはルシアンを見ると、一礼した。

 

「ルシアン様」

 

「クラリス嬢」

 

 声は落ち着いている。

 

 だが、彼女の指先はわずかに硬い。

 

 ルシアンも気づいた。

 

「寒くはありませんか」

 

「いいえ。少し、緊張しているだけです」

 

「私もです」

 

 クラリスが小さく笑った。

 

「そう言っていただけると、落ち着きます」

 

「事実です」

 

「事実だからこそ、です」

 

 よい会話だ。

 

 何気ないようで、互いの恐怖を否定していない。

 

 あの時からの続きだ。

 

 怖がってよい。その上で、声にする。

 

 教会の扉が開かれる。

 

 二人は中へ入った。

 

 高い天井。色硝子。輪と天秤。

 

 参列者は多くない。

 

 両家の証人。教会関係者。ごく限られた家臣。

 

 ヴァレスト侯爵もいる。ベルンハルト伯爵夫妻もいる。

 

 エミリアはいない。まだこの場に立つには幼いという判断だろう。

 

 だが、後で必ず聞きたがる。

 

 たぶん、香りのことまで聞く。

 

 記録司祭が祭壇前に立っていた。

 

 銀髪の老女。

 

 前回と同じ、言葉のずれを見る目。

 

 彼女が静かに言う。

 

「ルシアン・ヴァレスト様。クラリス・ベルンハルト様。祭壇の前へ」

 

 二人は進む。

 

 三歩手前。

 

 ルシアンが右。クラリスが左。

 

 距離は近い。だが触れない。

 

 同じ線の上に立つ距離だ。

 

(歩数、合ってる?)

 

 ——合っている。

 

(俺が気にすることじゃないけど、緊張する)

 

 ——黙って見ていろ。

 

(今日は腕を縛らない)

 

 ルシアンの内側が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

 ——頼む。

 

 頼む。

 

 ルシアンが俺にそう言った。

 

 小さなことだ。でも、少し驚いた。

 

 前なら「黙れ」だけだった。

 

 今は、頼むと言う。

 

 俺は本当に、この身体の同乗者になりつつあるのかもしれない。

 

 記録司祭が祈誓文を開いた。

 

 香の煙が薄く上がる。

 

 教会の沈黙が広がる。

 

 屋敷の沈黙とは違う。先祖廟の沈黙とも違う。

 

 ここでは、名が家だけでなく、魂の方へ引き出される。

 

「本日の祈誓は、婚約成立の宣言ではありません」

 

 司祭の声が響く。

 

「両家の交渉が、神前において秩序を損なわぬこと。本人の意思が軽んじられぬこと。互いの名が、契約の道具としてのみ扱われぬこと。その確認でございます」

 

(契約の道具としてのみ、か)

 

 ——教会らしい言い方だ。

 

 貴族の婚約は契約だ。

 

 だが、契約だけではない。

 

 それを教会が確認する。

 

 この世界の教会は、甘い恋愛の味方ではない。

 

 しかし、家の暴力をそのまま通すだけの機関でもない。

 

 秩序を守る。

 

 同時に、誓約が誓約として成立する最低限を守る。

 

 記録司祭の目が、二人を順に見る。

 

「まず、本人の意思を確認いたします」

 

 来た。

 

 前回、ルシアンだけが問われたもの。

 

 今日はクラリスもいる。

 

「ルシアン・ヴァレスト様。クラリス・ベルンハルト様との婚約交渉について、拒絶の意思はございますか」

 

「ございません」

 

 ルシアンの声は揺れなかった。

 

 次に司祭がクラリスを見る。

 

「クラリス・ベルンハルト様。ルシアン・ヴァレスト様との婚約交渉について、拒絶の意思はございますか」

 

 クラリスは、一呼吸置いた。

 

 短すぎない。長すぎない。

 

 怖さを腹に置くような間だった。

 

「ございません」

 

 静かな声。

 

 だが、そこにクラリス本人の意思があった。

 

 ベルンハルト家の娘としてではなく、クラリス・ベルンハルトとして。

 

 ベルンハルト伯爵夫人が、ほんのわずかに目を伏せた。

 

 父伯爵は表情を変えない。

 

 だが、手元の杖を握る指が少し強くなった。

 

 娘を出す家の親の顔だった。

 

 記録司祭が頷く。

 

「では、祈誓へ」

 

 祈誓文がルシアンへ渡される。

 

 紙の重さ。羊皮紙の手触り。

 

 ルシアンはそれを両手で受け取る。

 

 手袋越しでも、少し硬い。

 

 緊張している。

 

 でも、腕は縛られていない。

 

 俺は黙っていた。

 

 見る。聞く。邪魔しない。

 

 今日の俺の役割は、それだ。

 

 ルシアンが口を開く。

 

「我、ルシアン・ヴァレストは、神前において誓います」

 

 声が教会に広がる。

 

 食堂の声でも、茶会の声でもない。

 

 もっと低く、奥へ沈む声。

 

「クラリス・ベルンハルトの名を軽んじぬことを」

 

 クラリスの指先が、ほんのわずかに動いた。

 

 でも、逃げない。

 

 聞いている。

 

「その家が背負う交易、言葉、香り、記録を、ヴァレスト家の名の下に消さぬことを」

 

 あれ。

 

(……台本と違わない?)

 

 ——少し足した。

 

(少し!?)

 

 ルシアンは続ける。

 

「両家の結びを、秩序の内に保つことを願います」

 

 教会の空気が、わずかに揺れた。

 

 祈誓文の本筋は崩していない。

 

 だが、彼はクラリスの名に、彼女の家の言葉を添えた。

 

 交易。言葉。香り。記録。

 

 ベルンハルトのもの。

 

 それを消さぬと、神前で言った。

 

 クラリスが、息を止めた。

 

 司祭は止めない。

 

 記録司祭の目は鋭い。

 

 だが、咎める目ではなかった。

 

 むしろ、記録する目だった。

 

 この一文は残る。

 

 たぶん、教会の記録に正確には残らない。

 

 だが、ここにいた人間の記憶には残る。

 

 クラリスは祈誓文を受け取った。

 

 手元が、ほんの少し震えている。

 

 だが、すぐ整えた。

 

 彼女はルシアンを見た。

 

 その目には、驚きと何か言葉にならない感情があった。

 

 そして、読み始める。

 

「我、クラリス・ベルンハルトは、神前において誓います」

 

 声は静かだった。

 

 だが、さっきより強い。

 

「ルシアン・ヴァレストの名を軽んじぬことを」

 

 ルシアンの内側が、わずかに硬くなる。

 

 自分の名を呼ばれる重さ。

 

 本人が一番、逃げられない。

 

「その家が背負う沈黙、剣、祖霊、責務を、ベルンハルトの言葉で薄めぬことを」

 

 今度はルシアンが息を止めた。

 

(返してきた……)

 

 ——ああ。

 

 クラリスも足した。

 

 沈黙。剣。祖霊。責務。

 

 ヴァレストのもの。

 

 そして、剣。

 

 クラリスは分かっている。

 

 侯爵家へ嫁ぐとは、茶会と礼服だけではない。

 

 剣を持つ家へ入ることでもある。

 

 戦場へ出るかもしれない男の隣に立つことでもある。

 

 まだ彼女は知らないことも多い。

 

 だが、逃げてはいない。

 

「両家の結びを、秩序の内に保つことを願います」

 

 最後まで言い切った。

 

 教会が静まり返る。

 

 鐘は鳴っていない。

 

 だが、鳴ったような重さがあった。

 

 記録司祭が祈誓文を受け取り、二人を見た。

 

「神前にて、両名の意思と祈誓を確認いたしました」

 

 そう告げる。

 

「記録に残します」

 

 記録に残す。

 

 その一言で、空気がまた変わる。

 

 言葉はもう、二人だけのものではない。

 

 家のもの。教会のもの。未来のもの。

 

 祈誓は終わった。

 

 だが、すぐに動いてはいけない。

 

 祭壇への礼。司祭への礼。証人への礼。

 

 両家の視線。

 

 全部、順番がある。

 

 ルシアンとクラリスは並んで礼をした。

 

 歩幅は合っている。

 

 呼吸も。

 

 完璧ではない。

 

 だが、同じ線の上にあった。

 

 式後、小さな控室へ移った。

 

 ここで両家の代表が短く挨拶を交わす。

 

 ヴァレスト侯爵は、ベルンハルト伯爵へ向かって言った。

 

「本日の祈誓、良きものでした」

 

「恐れ入ります」

 

 父侯爵の視線が、クラリスへ向く。

 

「クラリス嬢」

 

「はい」

 

「ヴァレストの沈黙と剣を、よく見ておられる」

 

 これはかなり大きな評価だ。

 

 クラリスは深く一礼した。

 

「まだ、見始めたばかりでございます」

 

「見始めているなら、十分です」

 

 ベルンハルト伯爵夫人の目が、少しだけ柔らかくなる。

 

 伯爵は、今度はルシアンへ言った。

 

「ルシアン様。交易と言葉と香りを消さぬと仰っていただいたこと、父として感謝いたします」

 

「消せるものではありません」

 

 ルシアンは答える。

 

「クラリス嬢が、そこから立たれているものですから」

 

 クラリスは少し目を伏せた。

 

 頬がわずかに赤い。

 

(お前、今日けっこう踏み込むな)

 

 ——神前で曖昧にしすぎる方が失礼だ。

 

(なるほど、開き直った貴族は強い)

 

 控室の隅で、記録司祭が書類を整えていた。

 

 その目が、ルシアンへ向く。

 

 一瞬だけ。

 

 あの問いを思い出す。

 

 外的干渉はございますか。

 

 俺はいる。

 

 今日もいる。

 

 ルシアンの声を聞き、クラリスの名を聞き、彼の内側で黙っていた。

 

 俺は外的干渉なのか。

 

 それとも、彼の一部なのか。

 

 まだ分からない。

 

 だが、少なくとも今日、俺は腕を縛らなかった。

 

 それだけで、少しだけ胸を撫で下ろす。

 

 控室を出る前、クラリスがルシアンへ近づいた。

 

 両家の大人たちは少し離れている。

 

 完全な二人きりではない。

 

 けれど、小さな会話なら許される距離。

 

「ルシアン様」

 

「はい」

 

「本日の言葉、驚きました」

 

「勝手に足しました」

 

「はい」

 

 クラリスは微笑む。

 

「私も、勝手に足しました」

 

「聞きました」

 

「お叱りになりますか」

 

「まさか」

 

 ルシアンは静かに言う。

 

「貴女の言葉でした」

 

 その一言で、クラリスの表情が少し揺れた。

 

 ユリウスに言われたこと。

 

 母に言われたこと。

 

 借りた言葉を、自分の言葉に育てること。

 

 今日、クラリスはそれを少しやった。

 

 ヴァレストの言葉を、ベルンハルトの娘として受け止め、自分の声で返した。

 

「ありがとうございます」

 

 クラリスは小さく言う。

 

「でも、剣という言葉を入れた時、少し怖かったです」

 

「なぜ」

 

「まだ、私はその重さを知りません」

 

 ルシアンは答えない。

 

 クラリスは続ける。

 

「けれど、知らぬまま嫁ぐ方が、もっと怖いと思いました」

 

 俺は思わず黙った。

 

 最近、恐怖の話ばかりしている。

 

 知らない恐怖。

 

 意味のある重さ。

 

 馬上の恐怖。

 

 名の重さ。

 

 全部、ここにつながる。

 

 ルシアンは静かに言った。

 

「知る機会はあります」

 

「教えていただけますか」

 

 クラリスは、真っ直ぐに聞いた。

 

 戦場に出たいという意味ではない。

 

 剣を振りたいという意味でもない。

 

 ヴァレスト家に入る者として、剣の意味を知りたいということだ。

 

 ルシアンは少し考える。

 

「私だけでは足りません」

 

「では」

 

「騎士長や、父上にも聞くべきでしょう。母上にも」

 

 クラリスは頷いた。

 

「はい」

 

「怖い話になるかもしれません」

 

「怖くない話だけ聞いて、隣に立つとは言えません」

 

 強い。

 

 クラリスはやはり強い。

 

 いや、強くあろうとしている。

 

 ベルンハルト伯爵夫人の言葉を思い出す。

 

 娘は強くあろうとします。

 

 強く見える日ほど、帰ってから疲れております。

 

 ルシアンも思い出しているのだろう。

 

「無理はしないでください」

 

 クラリスが少し笑う。

 

「支えすぎず、見落としすぎず、ですか」

 

 ルシアンが一瞬固まる。

 

(母親の言葉、伝わってる)

 

 ——当然だ。

 

「そうです」

 

「では、無理をする前に言葉にします」

 

「私も、見落とさぬよう努めます」

 

 良い。

 

 すごく良い。

 

 この二人は、恋愛より先に信頼を積んでいる。

 

 それが、この二人の強さなのだと思う。

 

 教会を出る。

 

 階段の上で、二人は並んだ。

 

 馬車が待っている。

 

 参列者たちが控えている。

 

 外は晴れていた。

 

 白い石が光を返す。

 

 鐘楼の影が長く伸びる。

 

 その時、鐘が鳴った。

 

 低く、深い音。

 

 ルシアンの内側が、少しだけ揺れる。

 

 だが、前ほどではない。

 

 俺は黙っていた。

 

 腕も縛らない。

 

 余計な言葉も出さない。

 

 ただ、鐘を聞く。

 

 クラリスが、ちらりとルシアンを見た。

 

 気づいている。

 

 教会の鐘。

 

 ルシアンの遠い目。

 

 彼女はそれを覚えている。

 

 でも、今日も問わない。

 

 まだその時ではないと分かっているのだ。

 

 代わりに、彼女は小さく言った。

 

「鐘の音は、問いのように響きますね」

 

 ルシアンが彼女を見る。

 

「問い?」

 

「はい。答えを急かすのではなく、忘れぬように鳴る問いです」

 

 教会で始まった声。

 

 神が答えではなく、問いを置くのかもしれないという考え。

 

 ルシアンの中で、何かが静かに動いた。

 

 俺も黙る。

 

 クラリスは知らない。

 

 知らないはずだ。

 

 でも、近いところを撫でてくる。

 

 この人は本当に、空気の奥を見る。

 

 ルシアンは答えた。

 

「そうかもしれません」

 

 それ以上は言わない。

 

 クラリスも聞かない。

 

 ただ、鐘を聞いた。

 

 帰りの馬車の中。

 

 ルシアンは無言だった。

 

 俺も、しばらく無言だった。

 

 祈誓は終わった。

 

 正式婚約へ、また一歩近づいた。

 

 だが今日残ったのは、手続きが進んだという感覚だけではない。

 

 名前の重さ。

 

 恐怖の置き場所。

 

 クラリスの言葉。

 

 剣という言葉。

 

 鐘の問い。

 

 そして、俺自身の居場所。

 

(なあ、ルシアン)

 

 ——何だ。

 

(今日、俺、邪魔しなかったよな)

 

 ルシアンは少し沈黙した。

 

 そして言う。

 

 ——ああ。

 

(腕も縛らなかった)

 

 ——縛らなかった。

 

(ちょっと成長した?)

 

 ——調子に乗るな。

 

(でも?)

 

 ——だが、よく黙っていた。

 

 褒められた。

 

 たぶん。

 

 ルシアン基準では。

 

(ありがとう)

 

 ——礼を言うほどではない。

 

(いや、なんか言いたかった)

 

 ルシアンは窓の外を見る。

 

 教会が遠ざかる。

 

 鐘の余韻がまだ空に残っている。

 

 しばらくして、彼は言った。

 

 ——今日、クラリス嬢は剣と言った。

 

(うん)

 

 ——いずれ、彼女にも話す必要がある。ヴァレスト家が何を背負っているか。

 

(戦場の話?)

 

 ——ああ。

 

(怖い話になるな)

 

 ——そうだ。

 

(でも、知らないままの方が怖い)

 

 ルシアンは、少しだけ口元を緩めた。

 

 ——君も学んだな。

 

(生徒ですから)

 

 ——出来の悪いな。

 

(そこは余計)

 

 馬車は石畳を進む。

 

 王都の街が流れる。

 

 商人。巡礼者。貴族の馬車。兵士。教会の尖塔。

 

 それぞれが、この国の秩序の一部だった。

 

 その秩序の中で、ルシアンとクラリスの名前が今日、少しだけ並んだ。

 

 まだ結ばれてはいない。

 

 まだ始まったばかりだ。

 

 けれど、神前で互いの名を軽んじないと誓った。

 

 名前は重い。

 

 逃げ場をなくす。

 

 だが、逃げ場がないからこそ、支えにもなるのかもしれない。

 

 俺はふと、自分の名前を思い出そうとした。

 

 やはり、霧がかかっていた。

 

 まだ見えない。

 

 でも、以前より少しだけ怖くなかった。

 

 いつか思い出す。

 

 その時、俺も自分の名の重さを知るのだろう。

 

 今はまだ、ルシアンの中の声でいい。

 

 見えないまま。

 

 聞こえるまま。

 

 誰よりも近くで、彼らの名前が重くなっていくのを見ている。

 

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