目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています 作:ブンチョウ
「ご機嫌麗しゅうございます、ルシアン様」
玄関広間でそう言われて、ルシアンの返事はわずかに遅れた。
「……お越しいただき、ありがとうございます。クラリス嬢」
クラリスは裾をつまみ、静かに一礼した。
顔を上げた時、二人の目は一度だけ合い、それぞれ少し早く外れた。
(半拍)
——数えるな。
(返事の方だ)
——遅れていない。
そこへ、侯爵夫人が姿を見せた。
「お待ちしておりました、クラリス嬢」
「本日は、お時間を頂戴いたします」
「こちらこそ。先日のお話を、言葉だけで終わらせるわけにはまいりませんから」
侯爵夫人は微笑み、それからルシアンを見た。
「ルシアンも、ご一緒に」
「私も、ですか」
「ええ。クラリス嬢にこの家をご案内するなら、あなたもご一緒に」
侯爵夫人は、静かに言葉を継いだ。
「誰が何を担い、どのように家を支えているのか。あなた自身の目でも、改めてご覧なさい」
「……承知しました」
家令は来客帳を開いた。
夜半に使者が来た時、誰へ先に知らせるか。
客間が足りない時、どの部屋を開けるか。
家政長は鍵束を見せ、客を迎えるには寝具と炭、厨房の火まで要るのだと話した。
倉を預かる男は、薪と布、麦と薬草の帳面を広げた。
クラリスは、鍵束と帳面へ順に目を向けてから、家政長へ尋ねる。
「急な弔問が重なった場合、客間の順番はどなたが決められるのですか」
「まずは私どもから家令へお伺いいたします」
家政長が答えた。
「ですが、相手の家格や当家との関わりまで見る必要がある時は、最終的に家の方へご判断を仰ぎます」
「では、家令が決められるのではなく」
「いいえ。私どもは、決まったことを整える者です」
クラリスは小さく頷いた。
少ししてから、ルシアンを見る。
「ルシアン様でしたら、最初に何をお尋ねになりますか」
ルシアンは帳面へ目を落とした。
「……どの家を待たせることになるかです」
「急な弔問で来られた方を廊下でお待たせするのか。遠方から来られた方の部屋を後へ回すのか」
帳面の端へ指先を置く。
「そのことで、不義理になる相手が誰かを聞きます。もう近くまで来ているのか。体調を崩しておられるのか。待たせること自体が失礼になる事情があるのか」
「そこを知れば、決めることが変わるのですね」
「はい。誰を急がせるべきかも、どなたへ先に詫びを入れるべきかも」
家政長は静かに頷いた。
「そのようにお考えいただければ、私どもも準備がしやすくございます」
「……覚えておきます」
クラリスはそう言って、もう一度だけルシアンを見た。
(今のは、帳面の話だけじゃないな)
——何のことだ。
(分かってるくせに)
侯爵夫人は家政長へ、西棟の鍵を用意するよう命じた。
家政長が隣室へ向かうと、ルシアンへ言う。
「鍵を待つ間に、お庭をご案内して差し上げて」
「承知しました」
クラリスは侯爵夫人へ一礼し、ルシアンの半歩後ろへ回った。
「こちらです」
「はい」
庭へ出ると、冷たい風が頬を撫でた。
冬を越えた芝はまだ色が薄い。
低木の足元には、雪解け水が小さく残っている。
温室のそばでは庭師が鉢を並べ、土を替えていた。
ルシアンの靴音が先に進み、その後からクラリスの足音が続く。
石畳の角へ差しかかる前に、ルシアンは歩みを緩めた。
クラリスは何も言わず、隣へ並ぶ。
(今日は待て)
——普段どおりに歩いていた。
(だからだ)
藤棚の脇には、細い水路が走っていた。
枝はまだ冬のままだが、水だけは雪解けを受けて静かに流れている。
「この庭へは、よく来られるのですか」
クラリスが水路を見ながら尋ねた。
「……子供の頃は」
「意外です」
「何がですか」
「ルシアン様は、最初から書斎にいらしたような気がしておりました」
(書斎から生えてきた男扱いか)
——黙れ。
「妹が、あの水路へ葉を流すのを好んでいました」
ルシアンは、水路の中ほどにある平たい石を見た。
「船だと言って」
「エミリア様が?」
「ええ。雨上がりには、よく」
「ルシアン様もご一緒に?」
「放っておくと、石の上へ身を乗り出しますから」
「見守っておられたのですね」
「二度ほど、庭師に叱られました」
「ルシアン様が?」
「エミリアと同じだけ」
クラリスが笑った。
袖口で隠すより先に、声が小さくこぼれる。
「それは、少し安心いたしました」
「なぜですか」
「ルシアン様にも、子供らしい頃がおありだったのだと分かりましたので」
「私にも、あります」
「今もですか?」
「……今も、という意味ではありません」
「そうですか」
クラリスは笑みを残したまま、水路の先へ目を向けた。
(少しからかわれたな)
——分かっている。
「水路の先は、どこへ続くのですか」
「庭の外の溝へ。その先は、東の川へ流れます」
「エミリア様は、ご存じでしたか」
「海まで行くと仰っていました」
「では、行かれたのですね」
「葉が、です」
クラリスはまた笑った。
「ルシアン様は、海を見たことがおありですか」
「一度だけ」
「どちらで?」
「北の港です。父に連れられて」
「北の港……」
クラリスが、その名を口の中で確かめるように繰り返した。
「北方がお好きなのですか」
「好きというほどでは」
「そうですか」
「ただ、父の書庫にあった北方の街道図は、よく見ていました」
「街道図を?」
「戦のためのものではありません。宿場や橋、川の流れが描かれたものです」
「なぜ、お好きだったのですか」
ルシアンは庭の外壁の向こうを見た。
「……行ったことのない場所へ、行った気になれますから」
クラリスは、温室の硝子へ視線を移した。
「私も、父の帳場へ時々入れてもらっておりました」
「帳場へ」
「帳簿を読むためではありません」
ルシアンが待つと、クラリスは少しだけ目を伏せた。
「荷札を見るのが好きでした」
「荷札を?」
「木箱や布の包みには、出どころと行き先が書かれております」
クラリスは、指先をそっと重ねた。
「遠い土地の名が並んでいるだけで、箱を開ける前から、少し知らない場所を覗いた気がしました」
「荷札だけで、ですか」
「茶葉の箱には乾いた匂いが残ります。布には、積んでいた船の匂いが移ることもあります」
「それで、香りに詳しいのですね」
「詳しいわけではありません。ただ……好きでした」
「今も、帳場へ行かれるのですか」
「時々です。ですが、兄に見つかると帳簿を渡されます」
「お好きではない?」
「嫌いではありません。けれど、荷札を読む方が好きです」
「父上には、何と言われましたか」
「子供の頃の癖だと」
「……私も、地図を見ていると、役に立つものを見ろと言われました」
クラリスがルシアンを見る。
「役に立つ地図を?」
「軍道図です」
「北方の街道図ではなく」
「ええ」
少し歩いた後、クラリスが尋ねた。
「北方の地図には、どのような町が描かれていたのですか」
「川が多いのです」
「川が?」
「橋が多くて、町も川沿いに並んでいました。道より、川に沿って辿る方が、遠くまで行ける気がしました」
「荷札でも、川を越えた品は紙が傷んでいることがあります」
「そうなのですか」
「ええ。雨に当たることが多いのでしょう」
ルシアンは水路へ目を落とした。
「では、北方の荷札も見たことが?」
「ございます。青い染料の箱によく付いております」
「青い染料」
「北の方は、布の色が少し冷たく見えるのです」
「冷たく」
「冬が長いからでしょうか」
「……分かりません」
「私もです」
庭の中央には、小さな石造りの噴水があった。
冬の間は水を止めていたのだろう。
浅い器には落ち葉が数枚残り、風が通るたび乾いた音を立てる。
クラリスはその脇で足を止めた。
「先日の書簡のことなのですが」
ルシアンも止まる。
「はい」
「最後の一文だけ、何度も読み返してしまいました」
温室の戸が開き、湿った土の匂いが冷たい風に混じって届いた。
「『私は、貴女の手を離しません』と」
(来たな)
——黙れ。
「……はい」
「ひとつだけ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
クラリスは噴水の縁を見たまま言った。
「あれは、私へ書いてくださったのですか」
ルシアンは、すぐには答えなかった。
(手紙なら書けた。今は逃げるな)
「クラリス嬢へ、書きました」
クラリスの指先が、膝の前で静かに重なる。
「いずれヴァレスト家へ入る方へ、ではなく?」
「……クラリス嬢へです」
風が吹き、噴水の底の落ち葉が少し動いた。
「そうですか」
クラリスは、ゆっくり頷いた。
それから顔を上げる。
「では、北方の地図のお話も、また伺わせてください」
「……承知しました」
「荷札のことも、お尋ねください」
「はい」
庭の入口から、侯爵夫人の声が届いた。
「ルシアン、クラリス嬢」
二人が振り向く。
家政長の腕には、西棟の鍵束が抱えられていた。
その隣で、侯爵夫人は見慣れない封書を手にしている。
「王都から、招請状が届きました」
「招請状、ですか」
「隣国の使節団が入京するそうです。王宮で晩餐会が開かれます」
侯爵夫人は封書を開いた。
「ヴァレスト家と、ベルンハルト伯爵家へ。ご両家とも出席を願う、と」
クラリスの顔から、先ほどの笑みが静かに消えた。
「父も、でしょうか」
「ええ。通商に関する話も予定されているようです」
ルシアンは、封書の蝋印を見た。
王家の印の横に、見慣れない鳥の紋が押されている。
「いつですか」
「十日後です」
クラリスは、藤棚の向こうを一度だけ見た。
「北方の地図は、王都からお戻りになってからですね」
「……はい」
「楽しみにしております」
(今度は、地図どころじゃなくなるぞ)
——分かっている。
(でも、さっきの約束は忘れるな)
ルシアンは返さなかった。