目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています   作:ブンチョウ

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第4話 恋文には、インクの色にも意味がある

 茶会から三日後。

 

 俺はようやく、この屋敷で一つの真理を理解していた。

 

 この世界の貴族は——。

 

 全員、言葉が遠回しすぎる。

 

(なんで誰も普通に喋らないんだよ)

 

 ——普通に喋っている。

 

(嘘つけ)

 

 ——お前の言う普通とは、無防備のことだ。

 

(会話に防備とか必要?)

 

 ——必要だ。言葉は、発した瞬間に所有者を離れる。

 

 ルシアンは、さらりと言った。

 

 言葉は所有者を離れる。

 

 嫌な表現だった。

 

 でも、この屋敷にいると分かってしまう。

 

 誰かが口にした一言は、すぐに本人のものではなくなる。

 

 使用人の耳に入り、廊下を渡り、侍女の部屋で形を変え、馬車に乗り、他家の客間へ届く。

 

 そして翌日には、別の意味をまとって戻ってくる。

 

 この世界では、言葉は鳥ではない。

 

 矢だ。

 

 一度放てば、戻らない。

 

 現在、ルシアンは書斎にいた。

 

 重厚な机。

 

 壁一面の本棚。

 

 背表紙には、家系譜、紋章学、神学注釈、領地法、礼法典といった、聞くだけで眠くなりそうな文字が並んでいる。

 

 窓辺には、濃い緑の観葉植物。

 

 午後の日差しが、硝子越しに斜めへ差し込んでいた。

 

 室内には、紙と革とインクの匂いが漂っている。

 

 静かな部屋だった。

 

 けれど、落ち着ける場所ではない。

 

 机の上に置かれた一通の手紙が、やけに存在感を放っていたからだ。

 

 薄青色の封蝋。

 

 丁寧な花模様。

 

 封の端には、ごく淡い香油が染み込ませてある。

 

 近づくと、白い花の匂いがした。

 

 強くはない。

 

 むしろ、気づかせるためではなく、気づいた者だけに意味を渡すような香りだった。

 

(ラブレター?)

 

 ——違う。

 

(絶対ラブレターだろ、これ)

 

 ——社交文書だ。

 

(貴族、絶対そう言う)

 

 ルシアンは封蝋を崩さないように、紙刀で丁寧に封を開けた。

 

 動作がゆっくりだ。

 

 いや、慎重すぎる。

 

(手紙開けるだけで、そんな儀式みたいになる?)

 

 ——封蝋の崩し方で、相手への敬意が分かる。

 

(封筒も油断できねぇのか)

 

 ——返書の際、こちらの封の状態を覚えられている可能性もある。

 

(郵便物で心理戦するな)

 

 便箋が開かれる。

 

 流れるような筆跡だった。

 

 癖がない。

 

 美しい。

 

 美しすぎて、個性が見えない。

 

 たぶん、それが良い筆跡なのだろう。

 

 自分の感情を文字に乗せすぎない。

 

 それもまた、教育された手なのだ。

 

『先日の茶会では、穏やかな午後を賜り、心より御礼申し上げます』

 

『南方茶葉についてのお言葉、父も大変喜んでおりました』

 

『またお話を伺える日を、楽しみにしております』

 

 ——クラリス・ベルンハルト。

 

(ラブレターじゃん)

 

 ——違う。

 

(いやいやいや。最後、また話したいって書いてるじゃん)

 

 ——感謝状の範囲だ。

 

(範囲広いな貴族社会)

 

 ——ただし、恋愛的含意を否定しきれない。

 

(ほらラブレターじゃん)

 

 ——違う。恋文として読まれる可能性を持つ社交文書だ。

 

(もうラブレターでいいだろ)

 

 ルシアンは便箋を机へ置き、小さく呟いた。

 

「……面倒だな」

 

(お、珍しく本音)

 

 ——返事を書かねばならん。

 

(書けばいいじゃん)

 

 ——問題は、どの距離感で返すかだ。

 

 始まった。

 

 貴族の超高難度コミュニケーション。

 

 普通の手紙の返事ではない。

 

 これは、言葉で距離を測る作業だ。

 

 一歩近ければ、婚約推進。

 

 一歩遠ければ、拒絶。

 

 立ち止まれば、保留。

 

 ただし、保留にも温度がある。

 

 ぬるすぎれば侮辱。

 

 熱すぎれば約束。

 

(『こちらこそありがとうございました』でいいじゃん)

 

 ——近すぎる。

 

(じゃあ『今後ともよろしくお願いします』)

 

 ——事務的すぎる。

 

(『また機会がありましたら』)

 

 ——逃げている。

 

(めんどくせぇ!!)

 

 ルシアンは引き出しを開けた。

 

 中から、数本のペンと、いくつものインク瓶を取り出す。

 

 黒。

 

 青。

 

 深緑。

 

 赤茶。

 

 紫がかった灰色。

 

 同じ文字を書くための道具とは思えないほど、色がある。

 

(なんでインクそんなあるの)

 

 ——恋文だからだ。

 

(認めた!!)

 

 ルシアンの内側に、露骨な嫌悪が走る。

 

 ——正確には、恋愛的含意を持ち得る社交文書だ。

 

(役所の言い方するな)

 

 彼はしばらくインク瓶を見下ろし、青を選んだ。

 

 深すぎない青。

 

 夜ではなく、晴れた午後の影のような色。

 

(それが正解?)

 

 ——無難だ。

 

(黒は?)

 

 ——事務的。家同士の連絡に近くなる。

 

(深緑は?)

 

 ——敬意と知的親密さ。ただし相手の趣味に寄せたと取られやすい。

 

(赤茶は?)

 

 ——私的。

 

(赤は?)

 

 ——求婚級。

 

(怖っ!!)

 

 インクで人生が決まるのか、この世界。

 

 いや、実際に決まるのだろう。

 

 色は、感情の濃度。

 

 封蝋は、家の顔。

 

 香りは、手紙に許された息遣い。

 

 紙質は、相手へ割いた費用。

 

 文字の余白は、心の距離。

 

 恋愛とは何なのか。

 

 いや、恋愛ではないのだ。

 

 これは、感情を装った制度だ。

 

 ルシアンは便箋を前に沈黙した。

 

 長い。

 

 めちゃくちゃ長い。

 

(……何悩んでんの?)

 

 ——書き出し。

 

(そこ!?)

 

 ——“穏やかな午後”への返答が難しい。

 

(なんで)

 

 ——同じ表現で返せば、共有した時間への親密な同意になる。

 

(いいじゃん)

 

 ——よくない。繰り返しは合意の印だ。

 

(じゃあ別の言い方にすれば?)

 

 ——冷たすぎれば、相手の表現を退けたことになる。

 

(温度管理シビアすぎるだろ)

 

 ルシアンはペン先を青いインクに浸した。

 

 余分なインクを落とす。

 

 紙の上に、ほんの少しだけ影が落ちる。

 

 そして、慎重に書き始めた。

 

『先日は、香り高い茶葉と興味深いお話に、私も良き時間を頂きました』

 

(おお)

 

 ——無難だ。

 

(AIみたいな文章だな)

 

 ——えーあい?

 

(気にするな。褒めてはいない)

 

 文章は丁寧だった。

 

 けれど、どこか硬い。

 

 まるで、庭園の石畳の上だけを歩いているような言葉だ。

 

 美しいが、草を踏まない。

 

 泥にも触れない。

 

 安全な場所しか選んでいない。

 

 それがルシアンらしいとも思った。

 

 すると、コンコン、と扉が叩かれた。

 

 軽い音。

 

 この屋敷にしては、少しだけ素直な音だった。

 

「兄様。入ってもよろしいですか?」

 

 エミリアだった。

 

 ルシアンの感情が、ほんの少し緩む。

 

 それは彼自身も気づかない程度の変化だった。

 

「入れ」

 

 扉が開く。

 

 今日のエミリアは、淡い黄色のドレスを着ていた。

 

 春の花みたいな色だ。

 

 両手には焼き菓子の皿。

 

 最近、彼女はやたらと焼き菓子を持ってくる。

 

 たぶん、第2話のあの一件以来だ。

 

 兄が受け取った。

 

 それだけで、彼女の中に小さな道ができたのだろう。

 

(また持ってきた)

 

 ——最近多いな。

 

(嬉しいくせに)

 

 ——……。

 

 図星らしい。

 

 エミリアは机へ皿を置く。

 

 焼き菓子は、前より少し形が整っていた。

 

 焦げも少ない。

 

 努力の跡が見える。

 

 そのことにルシアンが気づいたのも分かった。

 

 だが、口には出さない。

 

 出せない。

 

 褒め言葉にも、順番と濃度がある世界だからだ。

 

 エミリアの視線が、机の上の便箋へ向いた。

 

「あ……クラリス様へのお返事ですか?」

 

「そうだ」

 

 エミリアは、ぱっと表情を明るくした。

 

「クラリス様、お綺麗ですものね」

 

 その瞬間。

 

 ルシアンが止まった。

 

 部屋の空気が、微妙に変わる。

 

(……何?)

 

 ——面倒な質問だ。

 

(褒めるだけでいいじゃん)

 

 ——不用意な肯定は噂になる。

 

(ここ屋敷の中だろ!?)

 

 ——屋敷の中だからだ。

 

 ルシアンの声は冷静だった。

 

 だが、その冷静さが嫌だった。

 

 この屋敷では、壁に耳がある。

 

 比喩ではない。

 

 実際に、廊下には使用人がいる。

 

 隣室には侍女がいる。

 

 扉の向こうには、茶器を運ぶ者がいる。

 

 彼らは敵ではない。

 

 だが、沈黙のまま情報を運ぶ。

 

 誰が誰を褒めたか。

 

 誰が何色のインクを選んだか。

 

 誰が手紙を何度読み返したか。

 

 そういう細かな事実が、やがて誰かの判断材料になる。

 

(スパイ組織かよ)

 

 ——家とは、情報の器だ。

 

(嫌な器だな)

 

 エミリアは無邪気に続けた。

 

「兄様は……クラリス様のこと、お好きなのですか?」

 

 沈黙。

 

 ルシアンは答えない。

 

 その沈黙だけで、エミリアの表情が少し曇った。

 

 質問してはいけないことを聞いたのかもしれない。

 

 兄を困らせたのかもしれない。

 

 幼い顔に、そんな不安が浮かぶ。

 

(おい)

 

 ——何だ。

 

(答えてやれよ)

 

 ——どう答えても問題になる。

 

(なんでだよ)

 

 ——好意を認めれば、ベルンハルト家との婚約推進。

 

(うん)

 

 ——否定すれば、ベルンハルト家への侮辱。

 

(地獄か)

 

 ——沈黙すれば、迷いと取られる。

 

(じゃあもう詰みじゃん)

 

 ルシアンは静かに息を吐いた。

 

 そして、言った。

 

「……良い令嬢だ」

 

 曖昧。

 

 完璧に曖昧。

 

 人柄を認めるが、好意は認めない。

 

 価値を下げず、距離も詰めない。

 

 これが正解なのだろう。

 

 エミリアは、しばらく兄を見ていた。

 

 それから、ふふ、と笑った。

 

「兄様らしいです」

 

 その笑顔は、茶会の笑顔とは違った。

 

 値段がついていない。

 

 意味を計算していない。

 

 ただ、兄の答えが兄らしかったから笑った。

 

 その笑顔だけで、書斎の空気が少し柔らかくなった気がした。

 

「お邪魔いたしました。焼き菓子、今日は少しだけ蜂蜜を増やしましたの」

 

「……そうか」

 

「はい。では、兄様」

 

 エミリアは一礼して、部屋を出ていった。

 

 扉が閉まる。

 

 紙とインクの匂いが戻る。

 

 机の上には、青い文字の途中で止まった返書。

 

 それから、蜂蜜の香りがする焼き菓子。

 

 しばらくして、俺は聞いた。

 

(なあ)

 

 ——何だ。

 

(お前、恋愛したことあんの?)

 

 数秒の沈黙。

 

 ルシアンはすぐに答えなかった。

 

 いつものように鼻で笑うと思った。

 

 平民の発想だ、と切って捨てると思った。

 

 けれど、そうしなかった。

 

 やがて彼は、静かに言った。

 

 ——貴族にとって恋愛は、“起きるもの”ではない。

 

(え?)

 

 ——管理するものだ。

 

 その答えは、妙に寂しかった。

 

 恋愛が起きるものではない。

 

 管理するもの。

 

 それはつまり、感情より先に家名があるということだ。

 

 好きになる前に、相手の家格を見る。

 

 惹かれる前に、母方の血筋を確認する。

 

 手紙を書く前に、インクの色を選ぶ。

 

 目が合っただけで、噂の可能性を計算する。

 

(……つまんなくない?)

 

 ルシアンは少し考えた。

 

 そして、静かに返す。

 

 ——楽しいかどうかで婚姻を決めるほど、我々は自由ではない。

 

 重い言葉だった。

 

 でも同時に、諦めにも聞こえた。

 

 ルシアンは、自分が不自由だと知っている。

 

 けれど、その不自由を嘆くことすら、作法の外にあるのだろう。

 

 彼はそれを不満として言わない。

 

 制度として受け入れる。

 

 受け入れすぎている。

 

 だから、痛々しい。

 

 その時、ルシアンの手が止まった。

 

 便箋を見つめたまま、動かない。

 

(どうした)

 

 ——結辞が決まらん。

 

(まだそこ悩んでたの!?)

 

 ——“また会いたい”は近すぎる。

 

(うん)

 

 ——“ご健勝を祈る”は遠すぎる。

 

(中間ないのかよ)

 

 ——ある。だから難しい。

 

(名言っぽく言うな)

 

 長い沈黙。

 

 青いインクが、ペン先で乾きかけている。

 

 ルシアンは、本気で悩んでいた。

 

 この数行が、家同士の距離になる。

 

 クラリスの立場にも影響する。

 

 ベルンハルト家の期待値も変わる。

 

 ヴァレスト家の返答として記録される。

 

 そしてたぶん、ルシアン自身の感情も、そこに少しだけ混じってしまう。

 

 俺は、半分冗談で言った。

 

(『次の紅茶も楽しみにしてます』でいいじゃん)

 

 ルシアンが止まった。

 

 完全に止まった。

 

(……おい?)

 

 数秒後。

 

 彼は静かにペンを走らせた。

 

『次回のお茶会でも、お話を伺えることを楽しみにしております』

 

(採用した!?)

 

 ——……自然だ。

 

(めっちゃ悩んでたくせに)

 

 ——紅茶ではなく、話に焦点を移した。茶葉への過剰な接近を避けつつ、相手本人の知性を尊重する形になる。

 

(急に解説するな。照れてるのか?)

 

 ——違う。

 

(いや、今の間は照れだろ)

 

 ——違う。

 

 ルシアンは返書を読み返した。

 

 青い文字が、白い紙の上に静かに並んでいる。

 

 熱すぎない。

 

 冷たすぎない。

 

 けれど、完全な事務文書でもない。

 

 たぶん、この世界では、それがちょうどいい距離なのだろう。

 

 俺には、まだ分からない。

 

 ただ、少しだけ分かったこともある。

 

 この世界の恋文は、心をそのまま書くものではない。

 

 心があるかもしれない、と相手に思わせながら。

 

 しかし、決して証拠は残さない。

 

 そういう文書だ。

 

 ややこしい。

 

 面倒くさい。

 

 でも、その面倒くささの中でしか守れないものもある。

 

 クラリスの立場。

 

 ベルンハルト家の面子。

 

 ヴァレスト家の距離。

 

 そして、ルシアン自身のわずかな自由。

 

 手紙を書き終えると、ルシアンは封蝋を選んだ。

 

 濃紺ではない。

 

 黒でもない。

 

 薄い灰青。

 

(それにも意味ある?)

 

 ——当然だ。

 

(聞くんじゃなかった)

 

 ——落ち着いた敬意。強い親密さは避ける。

 

(封蝋って、もっと雑にロウ垂らすもんじゃないの?)

 

 ——雑に垂らすな。

 

 ルシアンは封を閉じた。

 

 印章を押す。

 

 ヴァレスト侯爵家の紋章。

 

 翼を広げた鷹と、剣を抱く月。

 

 その印が紙に刻まれた瞬間、ただの返事が、家名を背負った文書へ変わる。

 

 恋文かどうかは分からない。

 

 少なくとも、本人は認めないだろう。

 

 けれど。

 

 青いインクの最後の一文には、ほんの少しだけ、ルシアンの呼吸が残っている気がした。

 

(なあ、ルシアン)

 

 ——何だ。

 

(俺の言葉、役に立った?)

 

 少し間があった。

 

 そしてルシアンは、視線を逸らすような気配で言った。

 

 ——お前の言葉は、妙に作法の外側にいる。

 

(悪口?)

 

 ——時々、便利だ。

 

 その言い方は。

 

 ほんの少しだけ、笑っているように聞こえた。

 

 俺はそれ以上、何も言わなかった。

 

 机の上では、蜂蜜入りの焼き菓子が冷めかけている。

 

 その横に、薄青の封蝋で閉じられた返書が置かれている。

 

 片方は妹からの、不器用な好意。

 

 もう片方は令嬢への、整えられた距離。

 

 どちらも、この世界では簡単に受け取れない。

 

 好意は、意味になる。

 

 意味は、噂になる。

 

 噂は、制度へ組み込まれる。

 

 だから貴族は、感情を直接渡さない。

 

 香りに隠す。

 

 余白に沈める。

 

 インクの色で薄める。

 

 そして、相手が気づくかどうかを待つ。

 

 この世界では、恋文にすら、空気が封じられている。

 

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