目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています   作:ブンチョウ

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第7話 ダンスとは、会話より雄弁らしい

 舞踏会。

 

 その言葉を聞いた時、俺は完全に勘違いしていた。

 

 もっとこう。

 

 華やかで。

 

 優雅で。

 

 男女が音楽に合わせて踊り、恋が始まったり、悪役令嬢が扇で口元を隠したりする。

 

 そういう、分かりやすいイベントだと思っていたのだ。

 

 違った。

 

(戦場じゃねぇか!!)

 

 ——だから最初からそう言っている。

 

(お前ら何でも戦場にするな)

 

 ——何でもではない。人前に出る場が戦場なのだ。

 

(ほぼ全部じゃねぇか)

 

 ヴァレスト侯爵家の大広間は、夜の光に満ちていた。

 

 巨大なシャンデリア。

 

 磨き上げられた大理石の床。

 

 壁際には、金糸で縁取られた深紅のカーテン。

 

 楽団が奏でる弦の音が、天井の高みに吸い込まれていく。

 

 色鮮やかなドレス。

 

 黒や紺の礼装。

 

 宝石。

 

 香水。

 

 白手袋。

 

 笑顔。

 

 そして——。

 

 視線。

 

 無数の視線が、音楽より静かに飛び交っていた。

 

 誰が誰と話したか。

 

 誰が誰に近づいたか。

 

 誰が誰を避けたか。

 

 誰が誰を、何秒見たか。

 

 そのすべてが、大広間の空気へ刻まれていく。

 

 踊っている者だけが舞台にいるのではない。

 

 ここでは、立っているだけでも観測される。

 

 笑っているだけでも意味になる。

 

 沈黙していても、意思と見なされる。

 

(怖い。めちゃくちゃ怖い)

 

 ——社交とは、見られることを前提にした呼吸だ。

 

(呼吸くらい自由にさせろ)

 

 ——自由な呼吸は、寝室でしろ。

 

(寝室にも執事入ってくるじゃん)

 

 ——……否定はしない。

 

 ルシアンは今日も完璧だった。

 

 黒の礼装。

 

 銀の刺繍。

 

 青灰色の瞳。

 

 銀髪はきちんと整えられ、首元の白いクラバットには寸分の乱れもない。

 

 歩くだけで、周囲が道を開ける。

 

 本人が命じたわけではない。

 

 ただ、そうするのが自然だと、周囲が判断する。

 

 身分とは、本人が名乗る前に周囲が振る舞うものらしい。

 

(お前、完全にラスボス系貴族だな)

 

 ——褒め言葉として受け取っておく。

 

(褒めてねぇ)

 

 大広間の端を歩くと、若い貴族たちの声が耳に入った。

 

「ベルンハルト家の件、進んでいるらしいぞ」

 

「ヴァレスト家との縁談か」

 

「南方貿易と北西領が結びつけば、王都の勢力図も変わるな」

 

「クラリス嬢も、ずいぶん熱心だとか」

 

(うわ、もう噂になってる)

 

 ——当然だ。

 

(まだ茶会しかしてないだろ)

 

 ——だからだ。

 

(早ぇよ)

 

 ——社交界では、事実よりも“次に起こりそうなこと”の方が高く売れる。

 

(株式市場かよ)

 

 ルシアンは表情を変えなかった。

 

 だが内側は、ほんの少しだけ硬くなる。

 

 噂は、勝手に育つ。

 

 その怖さを、彼は知っている。

 

 茶会で一曲分にも満たない会話をしただけで、縁談は「進んでいる」ことになる。

 

 手紙の返事を出せば、「脈がある」になる。

 

 同じ舞踏会に立てば、「今夜が山場」になる。

 

 社交界は、他人の人生を娯楽にする。

 

 しかもそれを、上品な声量でやる。

 

 最悪だ。

 

 その時、ルシアンが壁際に立つクラリスを見つけた。

 

 今夜の彼女は、深青のドレスを着ていた。

 

 茶会の時よりも大人びて見える。

 

 肩には薄い銀糸のショール。

 

 髪には小さな真珠の飾り。

 

 白い首筋。

 

 伏せられた睫毛。

 

 美しい。

 

 だが、その美しさは無防備ではない。

 

 彼女もまた、装っている。

 

 緊張を。

 

 不安を。

 

 周囲の視線に晒されることへの怖さを。

 

 深青の布と微笑みの下へ、丁寧に隠している。

 

(話しかける?)

 

 ——必要最低限は。

 

(営業か)

 

 ——社交だ。

 

(似たようなもんだろ)

 

 ルシアンが近づく。

 

 その瞬間、周囲の視線が一気に集まった。

 

 分かりやすい。

 

 露骨ではない。

 

 だが、分かる。

 

 扇の角度。

 

 グラスを持つ手の停止。

 

 会話の間。

 

 全員が見ている。

 

 見ていないふりをしながら。

 

「今夜は冷えますね、クラリス嬢」

 

 ルシアンの声は穏やかだった。

 

「ええ。ですが、音楽は温かく感じます」

 

 クラリスも微笑んで答える。

 

 すごい。

 

 会話が完全に訓練済みだ。

 

 寒いですね。

 

 そうですね。

 

 ではない。

 

 気候に触れながら、場を褒め、主催家にも礼を示している。

 

(社交辞令が高度すぎる)

 

 ——今のは無難だ。

 

(無難のレベルが高い)

 

 するとその時、楽団の曲調が変わった。

 

 弦が伸びる。

 

 低いチェロが下支えし、上からヴァイオリンが柔らかく重なる。

 

 ゆったりとした三拍子。

 

 広間の空気が、わずかに動いた。

 

(何?)

 

 ——ダンス曲だ。

 

(おお)

 

 その瞬間。

 

 周囲の貴族たちが、一斉にこちらを見た。

 

(……なんで?)

 

 ルシアンの感情が、僅かに沈む。

 

 嫌そうだ。

 

 そして、クラリスが小さく息を呑んだ。

 

 あ。

 

 分かった。

 

 これ、誘わなきゃいけない流れだ。

 

(行けよ)

 

 ——断りたい。

 

(なんで!?)

 

 ——踊れば、婚約が近いと噂される。

 

(またそれか!!)

 

 ——今夜の一曲目ではないが、曲調が穏やかすぎる。親密さを演出しやすい。

 

(曲にも罠があるのか)

 

 ——当然だ。

 

 クラリスも困っていた。

 

 たぶん、彼女も分かっている。

 

 ここで踊れば、社交界は騒ぐ。

 

 しかし踊らなければ、それはそれで角が立つ。

 

 ルシアンが彼女を避けた、と見なされる。

 

 ベルンハルト家の面子にも触れる。

 

 地獄。

 

 完全に地獄。

 

 近くで誰かが囁く。

 

「ヴァレスト卿は、やはり慎重ですな」

 

「ベルンハルト家も焦れておられるでしょう」

 

「今夜、手を取られるかどうかで分かりますね」

 

 煽っている。

 

 完全に外野が煽っている。

 

(お前ら暇か)

 

 ——社交界は他人の人生が娯楽だ。

 

(最悪だな)

 

 ——しかも高級な娯楽だ。金も時間もかかっている。

 

(もっと自分の人生を生きろ)

 

 その時だった。

 

 クラリスが、ほんの少しだけ視線を伏せた。

 

 一瞬だった。

 

 だが、その表情は見えた。

 

 断られる覚悟をした顔だった。

 

 受け入れる準備。

 

 傷つかないように身構えるための、静かな諦め。

 

 あの茶会で、ティースプーンの音を立てた時と似ていた。

 

 失敗する前から、失敗した後の顔をしている。

 

 その瞬間。

 

 ルシアンの内側が揺れた。

 

(……おい)

 

 ——分かっている。

 

(お前、ああいう顔に弱いだろ)

 

 ——黙れ。

 

 数秒の沈黙。

 

 長すぎない。

 

 短すぎない。

 

 この場で許される、ぎりぎりの沈黙。

 

 そして。

 

 ルシアンは静かに右手を差し出した。

 

「……一曲、お願いできますか」

 

 大広間の空気が、わずかにざわついた。

 

 音としては小さい。

 

 だが、確実に広がった。

 

 扇の陰で誰かが笑う。

 

 若い貴族が目配せする。

 

 年配の婦人が、何かを覚えておくように顎を引く。

 

 クラリスも驚いていた。

 

 けれど、すぐに表情を整える。

 

 そして、優雅に礼を返した。

 

「喜んで」

 

 彼女の指が、ルシアンの手に乗る。

 

 白手袋越しの接触。

 

 ただそれだけで、周囲の視線がさらに鋭くなる。

 

(うわぁ……)

 

 ——だから嫌だったんだ。

 

(でも誘ったじゃん)

 

 ——……。

 

 図星らしい。

 

 二人は広間の中央へ進む。

 

 床は鏡のように磨かれていた。

 

 シャンデリアの光が、二人の足元で揺れる。

 

 ほかの組も踊り始める。

 

 だが、視線の多くはこちらへ残っていた。

 

 ダンスが始まる。

 

 ルシアンの動きは、驚くほど綺麗だった。

 

 無駄がない。

 

 滑るように進む。

 

 背筋は伸びているのに硬すぎない。

 

 手の位置は高すぎず、近すぎず。

 

 クラリスを導くが、支配しない。

 

 合わせるが、流されない。

 

(うっま)

 

 ——当然だ。

 

(ダンスも貴族教育?)

 

 ——政治技術だ。

 

(怖いって)

 

 ——誰を誘うか。何曲踊るか。どの距離で踊るか。どの程度相手を立てるか。すべて意味になる。

 

(意味にならないものがない)

 

 クラリスも見事だった。

 

 彼女はルシアンに合わせている。

 

 だが、ただ従っているのではない。

 

 一歩下がる時の重心。

 

 回る時の首の角度。

 

 視線を上げるタイミング。

 

 そのすべてで、相手を信頼していることを示しながら、同時に自分の品位も保っている。

 

 二人が踊るだけで、周囲が少し静かになった。

 

 さっきまでの噂のざわめきが、音楽の向こうへ薄れていく。

 

 けれど途中で、俺は気づいた。

 

(……お前ら、全然喋ってなくね?)

 

 本当に最低限しか言葉を交わしていない。

 

 なのに、妙に空気が柔らかい。

 

 茶会の時のような営業感が薄い。

 

 恋文のような遠回しの距離でもない。

 

 もっと直接的で。

 

 けれど、言葉よりずっと静かなもの。

 

(何これ)

 

 ルシアンは、少しだけ考えてから答えた。

 

 ——ダンスは、相手の呼吸を見る。

 

(呼吸?)

 

 ——歩幅。重心。間合い。ためらい。信頼。

 

 クラリスが一歩下がる。

 

 ルシアンが合わせる。

 

 彼女が回る。

 

 彼が支える。

 

 視線は長すぎず、短すぎず。

 

 触れる手は、強すぎず、弱すぎず。

 

 そこに言葉はない。

 

 でも、噛み合っている。

 

 なるほど。

 

 これは会話なのだ。

 

 ただし、口ではなく身体で行う会話。

 

 言葉なら嘘をつける。

 

 笑顔なら整えられる。

 

 手紙なら推敲できる。

 

 けれど、ダンスでは一瞬の迷いが相手に伝わる。

 

 相手を信じていない手。

 

 相手を急かす足。

 

 相手を見下す重心。

 

 そういうものが、全部出る。

 

 だからこそ、貴族は踊るのだ。

 

 自分を隠すためではない。

 

 隠しきれるかどうかを、見せるために。

 

 その時、クラリスが小さく笑った。

 

「ルシアン様は、本当にお上手ですね」

 

「貴女こそ」

 

 定型句。

 

 だが、声は少しだけ柔らかかった。

 

 次の回転で、クラリスのドレスの裾が深青の波のように広がる。

 

 彼女は前を向いたまま、少しだけ悪戯っぽく言った。

 

「……でも、今日は少し踊りやすいです」

 

 ルシアンの内側が止まる。

 

(お?)

 

 クラリスは視線を落とさずに続ける。

 

「以前より、柔らかくなられました」

 

 沈黙。

 

 ステップは乱れない。

 

 だが、ルシアンの感情が揺れる。

 

 戸惑い。

 

 警戒。

 

 それから、ほんの少しの照れ。

 

(言われてるぞ)

 

 ——……気のせいだ。

 

(絶対俺の影響じゃん)

 

 ——黙れ。

 

(いや、前のお前なら、相手に合わせるんじゃなくて、正解の型に押し込んでただろ)

 

 ——黙れと言っている。

 

 だが、その否定は前ほど強くなかった。

 

 クラリスは、それ以上踏み込まなかった。

 

 たぶん、分かっている。

 

 この場では、言葉を重ねすぎると意味が濃くなる。

 

 だから彼女は、黙った。

 

 けれど、その沈黙は冷たくなかった。

 

 二人のステップが、音楽に溶ける。

 

 ルシアンは彼女を支え、クラリスはその導きに応える。

 

 ほんの一曲。

 

 それだけなのに、何かが変わっていくように見えた。

 

 噂は広がるだろう。

 

 ベルンハルト家は期待するだろう。

 

 ヴァレスト家は計算するだろう。

 

 社交界は勝手に物語を作るだろう。

 

 けれど、その全部とは別に。

 

 この一曲の中だけでは、二人は少しだけ普通だった。

 

 少なくとも、俺にはそう見えた。

 

 曲が終わる。

 

 最後の音が、広間の高い天井へ吸い込まれる。

 

 二人は礼を交わした。

 

 クラリスは指を離す前に、ほんのわずかだけ目を伏せた。

 

 感謝。

 

 安堵。

 

 それから、他人に見せられない小さな嬉しさ。

 

 言葉にはならない。

 

 してはいけない。

 

 だから彼女は、完璧な礼の中にそれを隠した。

 

 拍手が起こる。

 

 大きすぎず。

 

 控えめすぎず。

 

 噂の熱を隠した、上品な拍手。

 

(うわ、全員見てたな)

 

 ——当然だ。

 

(やっぱり踊るって危険じゃん)

 

 ——危険だ。

 

(でも、悪くなかったろ)

 

 ルシアンは答えなかった。

 

 ただ、クラリスを壁際まで送る。

 

「ありがとうございました、クラリス嬢」

 

「こちらこそ、ルシアン様」

 

 それだけ。

 

 たったそれだけの会話。

 

 けれど、さっきより少し空気が違う。

 

 クラリスの表情は、茶会の時より柔らかかった。

 

 ルシアンの声も、ほんの少しだけ穏やかだった。

 

 その変化は、小さい。

 

 けれど、この世界では小さな変化ほど危険だ。

 

 なぜなら、皆がそれを読むから。

 

 読んで、意味にして、噂にするから。

 

 そして。

 

 俺は気づいた。

 

 広間の奥。

 

 人々の輪から少し離れた場所。

 

 ヴァレスト侯爵が立っていた。

 

 黒い礼装。

 

 灰色の目。

 

 片手にはグラス。

 

 表情は動いていない。

 

 だが、その視線だけが鋭かった。

 

 ルシアンを見ている。

 

 クラリスを見ているのではない。

 

 二人の縁談を見ているのでもない。

 

 たぶん、ルシアンの変化を見ている。

 

 柔らかくなったこと。

 

 予定より一歩踏み込んだこと。

 

 断るべき場面で、相手の顔を見て判断を変えたこと。

 

 父親の目には、それがどう映ったのだろう。

 

 成長か。

 

 弱さか。

 

 それとも、危険な揺らぎか。

 

(……見られてるぞ)

 

 ——分かっている。

 

 ルシアンの声は静かだった。

 

 だが、内側に細い緊張が戻っている。

 

 舞踏会の音楽は続く。

 

 笑顔も続く。

 

 噂も続く。

 

 大広間は相変わらず美しかった。

 

 けれど俺には、その美しさが少し怖く見えた。

 

 この世界では、ダンスとは会話より雄弁だ。

 

 誰を選ぶか。

 

 どう触れるか。

 

 どれだけ合わせるか。

 

 どこで離れるか。

 

 すべてが、言葉より速く広がっていく。

 

 そして今夜。

 

 ルシアンは一曲だけ、正解ではなく、相手を選んだ。

 

 それは小さなことだった。

 

 けれど、社交界という巨大な耳には、十分すぎるほど大きな音だった。

 

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