目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています   作:ブンチョウ

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第8話 父は、“変化”を見逃さない

 舞踏会の翌朝。

 

 屋敷の空気は、妙に静かだった。いや、静かなのはいつものことだ。ヴァレスト侯爵家の廊下で、使用人が声を張ることはない。食器の音も、扉の開閉も、足音も、常に抑えられている。

 

 だが、今朝の静けさは違った。

 

 音がないのではない。音の下で、何かが動いている。使用人たちの所作が、ほんの少し硬い。廊下ですれ違うたび、視線がこちらへ向きかけ、すぐに伏せられる。侍女が銀盆を持つ指に、わずかに力を入れる。若い従僕が礼をする角度を、普段より深くする。

 

 誰も何も言わない。だが、屋敷全体が知っている。そういう空気だった。

 

(……絶対なんか噂になってる)

 

 ——昨夜のダンスだろう。

 

(やっぱり)

 

 ——侯爵家嫡男とベルンハルト家令嬢が、公衆の前で正式に踊った。

 

(それだけで?)

 

 ——それだけではない。

 

 ルシアンの声は淡々としていた。だが、少し疲れている。

 

 昨日の舞踏会で、彼は一曲踊っただけだ。たった一曲。それでも、この屋敷では朝の空気が変わる。社交界とは、イベント一つで政治が動く場所らしい。怖すぎる。

 

 俺の感覚では、ダンスはダンスだ。けれどこの世界では違う。誰と踊るか。どの曲で踊るか。何曲目に誘うか。手を取るまでの沈黙が何秒だったか。相手を壁際まで送る時、視線を合わせたか。

 

 そういう全部が、意味になる。

 

 そして意味になったものは、噂になり、記録になり、交渉材料になる。

 

(お前、今日ずっと見られてるな)

 

 ——いつもだ。

 

(今日は濃い)

 

 ——否定はしない。

 

 その時だった。

 

「ルシアン様」

 

 廊下の角から、執事アルヴェルトが現れた。黒い燕尾服。白手袋。銀髪。いつも通り、表情には一分の乱れもない。だがその無表情が、今朝はやけに意味深に見えた。

 

「旦那様がお呼びでございます」

 

 来た。

 

 絶対これ昨夜の件だ。

 

(怒られる?)

 

 ——分からん。

 

(お前でも分からんのか)

 

 ——父上は、読ませない。

 

 嫌なラスボス感である。

 

 アルヴェルトは一礼し、先導する。長い廊下。石壁。赤い絨毯。壁に掛けられた古い風景画。窓から差し込む朝の光は淡いのに、空気だけが重かった。

 

 ルシアンの歩幅は乱れない。だが、内側は硬い。舞踏会へ向かう時とは違う緊張だ。外敵ではない。父親。家長。自分を最もよく知り、最も厳しく測る相手。その前へ向かう緊張。

 

 案内されたのは、侯爵の執務室だった。

 

 重厚な木扉。扉の脇には、二人の従者。アルヴェルトが短く告げる。

 

「ルシアン様をお連れいたしました」

 

「入りなさい」

 

 低い声が返る。扉が開く。

 

 中は、食堂や大広間とは別の意味で重かった。古い本棚。壁に掛けられた領地図。戦役の記録らしい額装文書。剣。紋章盾。大きな窓の前には、黒い執務机。

 

 その中央で、ヴァレスト侯爵が一人、書類を読んでいた。

 

 黒ではなく、深い灰色の上着。装飾は少ない。そのせいで、かえって威圧感がある。飾らなくても、この人間が中心なのだと分かる。

 

 ルシアンは入室し、扉が閉まるのを待ってから一礼した。

 

「父上」

 

「座れ」

 

 許可されるまで座らない。これもルールだ。めんどくさい。だが今は、めんどくさいなどと軽く言えない空気だった。

 

 ルシアンが椅子へ腰を下ろす。背筋は真っ直ぐ。膝の位置も整っている。

 

 侯爵はしばらく書類を見たままだった。ペン先が紙を滑る音だけが聞こえる。会話を始める権利は、父にある。沈黙の長さすら、父が決めている。

 

 やがて侯爵が言った。

 

「昨夜の舞踏会、見ていた」

 

(うわぁ)

 

 ルシアンは無言。侯爵はペンを置く。乾いた小さな音が、執務室に響いた。

 

「ベルンハルト家との距離感。悪くなかった」

 

(褒められてる?)

 

 ——半分だ。

 

(半分)

 

「だが」

 

 来た。

 

 “だが”が来た。この世界の“だが”は、だいたい刃物だ。

 

 侯爵は静かに視線を上げた。灰色の目が、ルシアンを正面から捉える。

 

「以前のお前なら、踊らなかった」

 

 空気が止まった。

 

 ルシアンの内側が硬くなる。

 

(……鋭っ)

 

 この父親、怖い。本当に細かい変化を見ている。舞踏会の場で、誰と踊ったかだけではない。なぜ踊ったか。以前のルシアンならどうしたか。その差分まで見ている。

 

「理由を聞こう」

 

 静かな声だった。怒鳴りもしない。詰め寄りもしない。しかし、逃げ道がない。

 

 ルシアンは数秒考え、答えた。

 

「必要な社交判断と考えました」

 

 模範解答。冷静。整っている。家の利益を考えた、次期当主らしい返答。

 

 だが、父親は即座に返した。

 

「それは理由ではない」

 

(うわぁ……)

 

 完全に見抜かれている。

 

 侯爵は椅子へ背を預けない。書類にも視線を戻さない。ただ、ルシアンを見る。

 

「お前は昔から、損得で人を助ける男だった」

 

 ルシアンの感情が揺れる。鋭い言葉だった。しかし、不思議と悪意はない。父は責めているのではない。分析している。

 

「庇うなら、庇うことで得るものを計算する。手を差し伸べるなら、手を差し伸べた後の秩序まで整える。冷たいが、間違いではない」

 

 侯爵の声は低い。

 

「だが昨夜は違った」

 

 静寂。

 

 灰色の瞳が細くなる。

 

「あれは、相手の顔を見て決めたな」

 

 ルシアンの呼吸が、ほんのわずかに乱れた。

 

(バレてる)

 

 昨夜、クラリスが視線を伏せた。断られる覚悟をした顔。それを見て、ルシアンは右手を差し出した。損得だけではなかった。家のためだけでもなかった。その一瞬を、父は見逃していなかった。

 

「何があった?」

 

 その声は穏やかだった。けれど、問いは深い。

 

 何があった。舞踏会で。茶会で。先祖廟で。使用人の処分で。あるいは、ルシアンの内側で。

 

 その瞬間、俺は初めて理解した。

 

 この人は、息子のことをめちゃくちゃ見ている。厳しい。怖い。息が詰まるほどに。でも、見ている。無関心ではない。放任でもない。ただしその見方が、あまりにも鋭すぎて、温かさより先に刃として届く。

 

 ルシアンは黙っていた。珍しく、本当に答えに困っている。

 

(……言えないよな)

 

 別人格がいます。脳内に現代人が住んでいます。たまにツッコミを入れてきます。そのせいで、最近ちょっと人間味が出てきました。

 

 無理だ。

 

 絶対無理だ。

 

 言った瞬間、医者か司祭か祓魔師を呼ばれそうである。

 

 侯爵は、深追いする前に少し目を伏せた。そして、不意に言った。

 

「最近、お前は変わった」

 

 ルシアンが僅かに息を止める。

 

「先祖廟での誓詞。南棟給仕班の娘への裁定。昨夜の舞踏会。どれも小さい。だが、同じ向きを持っている」

 

 全部見られている。怖ぇ。この家、プライバシーどころか内面の揺れまで家長の机に届くのか。

 

「以前より、人を見ている」

 

 その言葉に、ルシアンの感情が大きく揺れた。驚き。困惑。それから——少しだけ、嬉しさ。

 

(……おい)

 

 まさか。

 

 褒められ慣れてないのか?

 

 いや、たぶん違う。ルシアンは優秀だ。作法も、学問も、社交も、すべて高い水準でこなしてきたはずだ。だから褒められたこと自体はあるのだろう。

 

 だが、たぶん。

 

 “正しくできた”以外を見てもらうことに慣れていない。自分の判断の奥にあるものを、父に言葉にされたことがない。

 

 侯爵は椅子へ背を預けた。表情は変わらない。けれど、さっきまでよりほんの少しだけ、声が低く柔らかくなった。

 

「悪い変化ではない」

 

 ルシアンが目を見開く。たぶん、予想していなかった。俺もしていなかった。

 

 もっとこう、貴族らしくない、感傷に流されるな、侯爵家嫡男として軽率だ。そういう怒られ方をすると思っていた。

 

 だが、父はそうは言わなかった。

 

「家を守る者には、冷徹さが必要だ」

 

「……はい」

 

「だが、冷徹だけでは人はついて来ん」

 

 静かな声だった。説教ではない。経験談みたいだった。

 

「恐れで人は動く。規律でも動く。利益でも動く。だが、それだけで動く者は、危機の時に逃げる」

 

 侯爵は窓の外へ視線を向けた。庭の木々が、朝の風にわずかに揺れている。

 

「最後に残るのは、見られていたと感じた者だ。自分の働きも、失敗も、恐れも、家の中で見捨てられていなかったと思える者だ」

 

 俺は黙った。ルシアンも黙っていた。

 

 父親は続ける。

 

「私は、それを学ぶのに時間がかかった」

 

 その瞬間、初めて、この父親が人間に見えた。

 

 完璧な支配者ではない。生まれつき冷たい石像でもない。多分この人も、どこかで失敗してきた。誰かを恐れだけで動かして、失ったのかもしれない。誰かを見ていないことで、離れられたのかもしれない。

 

 それを語るほど、甘い人ではない。だが、言葉の底に過去の重さがあった。

 

 ルシアンは、慎重に言った。

 

「父上は、私が甘くなったとお考えではないのですか」

 

 侯爵の目が戻る。

 

「甘さだけなら、叱っている」

 

 即答だった。

 

(そこは即答なんだ)

 

「だが、お前の判断はまだ秩序の内側にある。使用人の処分は減らしたが、規律は崩していない。誓詞は変えたが、家名を否定していない。昨夜のダンスも、ベルンハルト家への過剰な接近ではなかった」

 

 父親は淡々と並べる。

 

「だから問うている。叱責ではない」

 

 重い。

 

 この人は許しているのではない。観察している。そして、許容範囲の中にあるかどうかを測っている。

 

 ただ、それでも。完全な否定ではなかった。ルシアンにとっては、それだけで十分すぎるほど珍しいのだろう。

 

 侯爵が、ふと視線を細めた。

 

「……何か、良い出会いでもあったか?」

 

 ルシアンが固まる。

 

(俺!? 俺のこと!?)

 

 ——黙っていろ!

 

 内心で怒鳴られた。だが俺は、少し笑いそうになる。半分くらい当たっているからだ。

 

 いや、良い出会いかどうかは分からない。少なくともルシアンにとって、脳内へ突然湧いた俺は、最初は寄生虫扱いだった。

 

 でも。

 

 今は少し違う。たぶん。ほんの少しは。

 

 ルシアンは表情を崩さず答えた。

 

「特には」

 

 侯爵は数秒、息子を見た。嘘を見抜こうとしているのか。それとも、これ以上聞かないと決めているのか。

 

 やがて、短く言った。

 

「そうか」

 

 深追いはしなかった。だが、ほんの少しだけ、口元が緩んだ気がした。

 

 笑みと呼ぶには小さい。たぶん、他人なら気づかない。だが、ルシアンの内側がかすかに揺れた。

 

 この少年は、そのわずかな変化を見逃さなかった。見逃せないのだ。父親の表情を読み続けて生きてきたから。

 

「ルシアン」

 

「はい」

 

「変化を恐れるな」

 

 侯爵は言った。

 

「ただし、変化が何を壊すかは常に見ろ」

 

 優しいだけの言葉ではなかった。自由に変われ、という意味でもない。それがこの父らしいと思った。

 

 変わってもいい。だが、無責任に変わるな。家を背負う者として、変化の影まで見ろ。そういう言葉だった。

 

 けれど、その奥に確かにあった。息子の変化を、ただ潰すつもりはないという意思が。

 

「お前は、まだ硬い」

 

 侯爵は続けた。

 

「だが、硬さだけが器の強さではない」

 

 ルシアンは何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。

 

 父は書類へ視線を戻す。会話は終わりだ。それすら、明確だった。

 

「下がれ」

 

「はい。失礼いたします」

 

 ルシアンは立ち上がり、深く一礼した。扉へ向かう。背後で、ペンが再び紙を走る音がした。

 

 執務室を出る。扉が閉まる。

 

 長い廊下。朝の光。静かな足音。

 

 アルヴェルトはいつの間にか少し離れた場所に控えていたが、何も言わなかった。ただ、一礼する。その礼が、いつもよりほんの少し深かった気がした。

 

 気のせいかもしれない。この世界では、その“気のせい”すら意味を持つから困る。

 

 ルシアンはしばらく黙っていた。内側も静かだった。怒りでもない。安堵でもない。もっと複雑なもの。長い間、固く閉じていた箱を少しだけ開けられて、中に何が入っていたか本人も分からず戸惑っているような感情。

 

 俺は、何となく聞いた。

 

(……お前、親父のこと嫌いじゃないだろ)

 

 数秒の沈黙。

 

 それから、ルシアンは少しだけ苦笑するような気配を見せた。

 

 ——苦手なだけだ。

 

 その答えが、なんだか妙に本当の親子っぽかった。

 

 嫌ってはいない。けれど、怖い。認められたい。でも近づけない。理解されたい。でも見透かされるのは嫌だ。

 

 そういう、ひどく面倒で、人間くさい距離。

 

(さっきの、けっこう嬉しかった?)

 

 ——黙れ。

 

(否定しないんだ)

 

 ——黙れと言っている。

 

 声はいつも通り冷たい。だが、刺すような冷たさではなかった。

 

 廊下の窓から、庭が見えた。朝露に濡れた芝生。剪定された薔薇。規則正しく並ぶ石畳。この屋敷は、相変わらず美しく、息苦しい。

 

 だが今日は、その息苦しさの中に、ほんの少しだけ別のものが混じっていた。

 

 父は、変化を見逃さない。

 

 それは怖いことだ。でも同時に、見ている、ということでもある。

 

 ルシアンが制度の中で少しずつ変わっていることを。人を見始めたことを。作法の内側に、人間の逃げ道を作り始めたことを。

 

 この家の頂点にいる男は、ちゃんと見ていた。許すかどうかは別として。利用するかどうかも別として。

 

 それでも、見ていた。

 

 ルシアンは窓の外を一瞬だけ見た。そして、何事もなかったように歩き出す。背筋は真っ直ぐ。歩幅は正確。表情は涼しい。いつもの侯爵家嫡男。

 

 けれど俺には、少しだけ違って見えた。

 

 この少年は、父親に恐れられているのではない。試されている。そして、たぶん、期待もされている。

 

 その事実に気づいた時、ルシアンの内側で何かが小さく揺れた。

 

 それは、喜びと呼ぶには硬すぎて。安心と呼ぶには不慣れすぎる。

 

 でも確かに、冷たい屋敷の廊下で、かすかに温度を持っていた。

 

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