目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています   作:ブンチョウ

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第9話 「好きな相手」と、「結婚する相手」は違うらしい

 社交界には、“暗黙の順番”がある。

 

 まず、茶会。次に、舞踏会。そして――贈答。

 

(段階制恋愛イベントみたいになってきたな)

 

 ――恋愛ではない。

 

(まだ言うか)

 

 ――社交だ。

 

(恋愛を社交で包みすぎなんだよ)

 

 ルシアンは答えなかった。

 

 現在、彼は書斎で頭を抱えていた。いや、正確には、頭を抱えてはいない。侯爵家嫡男は、人前で頭を抱えない。

 

 背筋は伸びている。表情は整っている。指先も机の上に静かに置かれている。

 

 だが内側は、完全に詰んでいた。

 

 原因は、贈り物である。

 

 書斎の机の上には、いくつもの品が並べられていた。

 

 青い宝石を収めた小箱。南方産の香水瓶。高級茶葉。革装丁の詩集。淡い刺繍布。外国製の羽ペン。銀細工の栞。小さな花模様の便箋。

 

(うわぁ……)

 

 完全にデパートのギフトコーナーだった。ただし、この世界のギフトコーナーは、一歩間違えると外交事故になる。

 

「……どれも違うな」

 

 ルシアンが低く呟く。

 

(何が違うの? 普通に良さそうだけど)

 

 ――宝石は重い。

 

(値段的に?)

 

 ――意味が。

 

(意味)

 

 ルシアンは青い宝石箱を見る。その感情は、完全に地雷を見る人のものだった。

 

 ――宝飾品は、独占欲の含意がある。未婚令嬢へ贈れば、所有の意思を示す場合がある。

 

(重っ!! プレゼントで所有を示すな)

 

 ――香水は親密すぎる。

 

(あー、それは何となく分かる)

 

 ――茶葉は無難すぎる。ベルンハルト家に茶葉を贈るのは、魚屋に魚を贈るようなものだ。

 

(急に分かりやすい)

 

 ――詩集は危険だ。

 

(なんで?)

 

 ――どの詩を選んだかで、求愛にも拒絶にもなる。相手が深読みすれば終わる。

 

(終わってるだろこの文化)

 

 ――刺繍布は、家庭的役割への期待と取られる可能性がある。

 

(もう何も贈るな)

 

 ――贈らないこともまた意味になる。

 

(詰み)

 

 ルシアンは、外国製の羽ペンへ視線を落とした。

 

 銀の軸には、細かい蔓草模様が彫られている。実用品だが、美しい。派手すぎない。だが、安物でもない。

 

(それ良くない?)

 

 ――実用品は距離感が難しい。

 

(まだ言うか)

 

 ――日常的に使うものを贈るということは、相手の日々へ入り込むという意味を持つ。

 

(羽ペン一本にどれだけ背負わせるんだ)

 

 ――だから悩んでいる。

 

 なるほど。

 

 贈り物とは、物を渡す行為ではない。距離を渡す行為なのだ。

 

 宝石は近すぎる。茶葉は遠すぎる。詩集は燃えやすい。香水は踏み込みすぎる。羽ペンは、近すぎないようで、意外と深い。

 

 貴族社会、面倒くさい。

 

 心底、面倒くさい。

 

 すると、扉が軽く叩かれた。

 

「兄様、入ってもよろしいですか?」

 

 エミリアだ。

 

「入れ」

 

 扉が開く。

 

 今日のエミリアは、淡い若草色のドレスだった。手には小さな皿。もちろん焼き菓子だ。

 

 最近の彼女は、兄の書斎へ焼き菓子を持ってくることに完全な自信を得つつある。兄が拒まない。それだけで、少女は小さな勇気を育てていた。

 

 エミリアは机の上を見るなり、ぱっと顔を輝かせた。

 

「まあ! クラリス様への贈り物ですか?」

 

 ルシアンの感情が微妙に沈む。

 

 図星らしい。

 

(妹、楽しんでんな)

 

 ――他人事だからだ。

 

(お前の恋路を応援してるんだろ)

 

 ――恋路ではない。

 

(はいはい)

 

 エミリアは机に皿を置き、並んだ品々を眺めた。それから、くすりと笑う。

 

「兄様、難しく考えすぎです」

 

「……簡単に言うな」

 

「だって兄様、“正解”を探している顔ですもの」

 

 その言葉に、ルシアンが止まった。

 

(お?)

 

 エミリアは羽ペンを手に取る。

 

「クラリス様、本を読むのがお好きでしょう?」

 

「……ああ」

 

「でしたら、良いと思います。綺麗ですし、使えますし、重すぎません」

 

 ルシアンは少し考える。

 

(いいじゃん)

 

 ――実用品は距離感が難しい。

 

(そこはもう聞いた)

 

 エミリアは兄を見上げ、少しだけ首を傾げた。

 

「兄様は、クラリス様にどう思われたいのですか?」

 

 ルシアンの思考が固まる。

 

(直球)

 

 ――子どもは時に残酷だ。

 

(逃げるな)

 

 エミリアは続ける。

 

「好きだと思われたいのですか? それとも、礼儀正しい方だと思われたいのですか?」

 

 沈黙。

 

 長い沈黙。

 

 ルシアンは机の上の品々を見る。宝石、香水、茶葉、詩集、羽ペン。それらは全部、クラリスにどう見られるかを計算した候補だった。

 

 近すぎず。遠すぎず。軽すぎず。重すぎず。

 

 だがエミリアの問いは、その前提を少しずらした。

 

 どう見られるべきか、ではなく。

 

 どう思われたいのか。

 

(ほんとその質問弱いなお前)

 

 ――黙れ。

 

 ルシアンはようやく答えた。

 

「……誤解されたくはない」

 

(不器用!!)

 

 エミリアが目を瞬かせる。そして、ぷっと吹き出した。

 

「兄様、それでは政治会議です」

 

「事実だ」

 

「女の子は、もう少し曖昧で、もう少し温かい言葉を期待します」

 

(分かる)

 

 ――分からん。

 

(だろうな)

 

 エミリアは羽ペンを机に戻した。

 

「私は、これが良いと思います」

 

「理由は」

 

「クラリス様が、それを使って兄様へお手紙を書けるからです」

 

 ルシアンの内側が、わずかに揺れた。

 

 それは不意打ちだった。

 

 贈り物とは、こちらの意思を示すもの。ルシアンはそう考えていた。だがエミリアは違う。

 

 相手が返せるもの。

 

 相手が次の言葉を持てるもの。

 

 そう考えていた。

 

(妹、強いな)

 

 ――……。

 

 ルシアンは反論しなかった。

 

 エミリアは少し笑った後、ぽつりと言う。

 

「でも兄様、以前より優しくなりました」

 

 ルシアンの眉が、僅かに動く。

 

「そうか?」

 

「はい。前は、“正しいこと”しか見ていませんでした」

 

 その言葉は、意外と鋭かった。柔らかな声だったのに、まっすぐ刺さる。

 

「今は、少しだけですけれど……相手がどう感じるかを、見ている気がします」

 

 ルシアンは何も言わない。

 

 だが感情は揺れている。思い当たることがあるのだろう。

 

 茶会のクラリス。廊下のリズ。先祖廟での自分自身。父の執務室。

 

 彼は最近、ずっと見ている。

 

 制度だけではなく。

 

 制度の中で息をしている人間を。

 

 その時だった。

 

 再び扉が叩かれる。

 

 今度は軽くない。正確で、抑えられた音。

 

「失礼いたします」

 

 入ってきたのは、アルヴェルトだった。

 

 その顔を見た瞬間、ルシアンの感情が引き締まる。

 

「何だ」

 

「ベルンハルト家より使者が参っております」

 

 空気が変わった。

 

 エミリアの笑みが、すっと消える。

 

 アルヴェルトは続けた。

 

「クラリス様の縁談について、正式な打診がございました」

 

 静寂。

 

 書斎の中の空気が、紙のように薄くなる。

 

(……正式って)

 

 ――婚約交渉開始だ。

 

 早い。

 

 いや、この世界では普通なのかもしれない。

 

 茶会。舞踏会。贈答。そして縁談。

 

 順番としては、むしろ整っているのだろう。だが俺には、急に見えた。

 

 つい先日まで、クラリスは茶会でティースプーンを震わせていた少女だった。舞踏会で、少しだけ悪戯っぽく笑った少女だった。

 

 それが今、家同士の契約として、机の上に置かれようとしている。

 

 ルシアンの感情は、妙に静かだった。

 

 驚いていない。むしろ、考えている。計算しているのではない。立ち止まっている。

 

 その時、エミリアが小さく聞いた。

 

「……兄様は、それで良いのですか?」

 

 ルシアンは答えない。

 

 俺も、何となく黙っていた。

 

 この問いは、さっきの贈り物よりずっと重い。

 

 どう思われたいか。

 

 それで良いのか。

 

 エミリアは、時々とんでもなく大事なところを無邪気に突いてくる。

 

 アルヴェルトが静かに言った。

 

「貴族の婚姻は、家同士の契約です」

 

 淡々とした声。

 

「感情は、後から育てるものかと」

 

 それは、この世界では正論なのだろう。むしろ、優しい言葉なのかもしれない。

 

 最初から愛していなくてもよい。共に過ごし、役割を果たし、時間の中で情を育てればよい。そういう考え方。

 

 現代人の俺には、冷たく聞こえる。だが、この世界の貴族にとっては、現実的で、安定した思想なのだろう。

 

 家は恋では守れない。領地は胸の高鳴りでは維持できない。血統は個人の好みだけでは繋げない。

 

 それは分かる。

 

 分かるけれど。

 

 ルシアンが、不意に呟いた。

 

「……本当にそうか?」

 

 部屋が静まり返った。

 

 アルヴェルトすら、一瞬だけ目を見開く。エミリアも息を呑んだ。

 

 俺も驚いた。

 

 今までのルシアンなら、絶対に言わない言葉だった。

 

 婚姻は家同士の契約。感情は後から育てるもの。彼は、その言葉を疑わなかったはずだ。

 

 いや。

 

 疑わないようにしていた。

 

 ルシアン自身も、それに気づいたらしい。ほんの僅かに目を伏せる。

 

 だが、もう遅い。

 

 言葉は出た。

 

 この世界では、出た言葉は戻らない。

 

 エミリアが、少しだけ嬉しそうに笑う。

 

 アルヴェルトは沈黙した後、静かに頭を下げた。

 

「……お変わりになられましたな、ルシアン様」

 

 その言葉に、ルシアンは否定しなかった。ただ静かに、机の上の羽ペンを見つめていた。

 

 銀の軸。蔓草模様。実用品。重すぎず、軽すぎず。相手が返事を書くための道具。

 

(なあ)

 

 ――何だ。

 

(クラリスのこと、嫌いじゃないんだろ)

 

 ルシアンは答えない。

 

(好きかどうかは、まだ分からなくても)

 

 ――……。

 

(でも、“契約だから”で済ませたくないんだろ)

 

 長い沈黙。

 

 そしてルシアンは、心の奥で小さく息を吐いた。

 

 ――分からん。

 

 それは、逃げではなかった。

 

 たぶん、今の彼に出せる一番正直な答えだった。

 

 分からない。

 

 クラリスを好きなのか。婚姻を望んでいるのか。家のためなら受け入れるべきなのか。自分の感情をどこまで考えてよいのか。

 

 そもそも、貴族である自分に、そんな問いを持つ資格があるのか。

 

 分からない。

 

 けれど、分からないと言える場所まで来た。

 

 それは、ルシアンにとって大きな変化だった。

 

 アルヴェルトが静かに問う。

 

「旦那様へは、どのようにお伝えいたしましょう」

 

 ルシアンは羽ペンを手に取った。少し考える。そして言った。

 

「正式な返答は父上の判断を仰ぐ。ただし、贈答品はこちらから先に送る」

 

「品は」

 

 ルシアンは銀軸の羽ペンを見下ろした。

 

「これにする」

 

 エミリアの顔が明るくなる。

 

 アルヴェルトは羽ペンを見る。その目に、わずかな理解がよぎった。

 

「……実用品でございますな」

 

「ああ」

 

「重すぎず、しかし手元に残る」

 

「そうだ」

 

「返書を促す形にもなります」

 

 ルシアンは少しだけ沈黙した。

 

「促すのではない」

 

 アルヴェルトが目を伏せる。

 

「では」

 

「返す余地を残す」

 

 静かな声だった。

 

 その言葉に、エミリアが微笑む。

 

 アルヴェルトは深く一礼した。

 

「承知いたしました」

 

 返す余地。

 

 それは、この世界では珍しい優しさなのかもしれない。

 

 押しつけない。だが拒まない。近づきすぎない。でも、道は閉ざさない。

 

 クラリスが自分の言葉で返せるように、道具を渡す。

 

 ルシアンらしい。

 

 不器用で、遠回しで、制度の中から一歩も出られない。

 

 それでも、確かに相手を見ている。

 

 アルヴェルトが退出すると、書斎には三人分の沈黙が残った。

 

 俺。ルシアン。エミリア。

 

 いや、俺は数に入っていないけれど。

 

 エミリアは、兄を見上げた。

 

「兄様」

 

「何だ」

 

「クラリス様に、良い贈り物だと思います」

 

「……そうか」

 

「はい。きっと、お喜びになります」

 

 ルシアンは答えなかった。ただ、羽ペンを丁寧に箱へ戻す。

 

 その手つきは、いつものように美しい。だが、少しだけ慎重だった。

 

 まるで、ただの品ではなく、まだ形のない何かを扱っているみたいに。

 

 好きな相手。

 

 結婚する相手。

 

 この世界では、それは同じとは限らない。むしろ、違うものとして教えられる。

 

 好きは感情。結婚は契約。

 

 好きは個人のもの。結婚は家のもの。

 

 好きは揺れる。結婚は残る。

 

 だから貴族は、好きだけで結婚しない。結婚だけで好きにもならない。

 

 その間に、手紙や贈り物や舞踏会や沈黙を積み重ねて、どうにか折り合いをつけていく。

 

 俺には、まだ納得できない。

 

 たぶん、完全にはできない。

 

 でも。

 

 ルシアンが今、初めてその間に立ったことだけは分かった。

 

 家のための結婚。自分の感情。クラリスという一人の令嬢。ベルンハルトという家。

 

 それらを、全部同じ机の上に置いて。

 

 初めて、本当に迷っている。

 

 その迷いは、弱さかもしれない。貴族としては、余計なものかもしれない。

 

 でも俺には。

 

 それが、少しだけ人間らしく見えた。

 

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