目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています 作:ブンチョウ
社交界には、“暗黙の順番”がある。
まず、茶会。次に、舞踏会。そして――贈答。
(段階制恋愛イベントみたいになってきたな)
――恋愛ではない。
(まだ言うか)
――社交だ。
(恋愛を社交で包みすぎなんだよ)
ルシアンは答えなかった。
現在、彼は書斎で頭を抱えていた。いや、正確には、頭を抱えてはいない。侯爵家嫡男は、人前で頭を抱えない。
背筋は伸びている。表情は整っている。指先も机の上に静かに置かれている。
だが内側は、完全に詰んでいた。
原因は、贈り物である。
書斎の机の上には、いくつもの品が並べられていた。
青い宝石を収めた小箱。南方産の香水瓶。高級茶葉。革装丁の詩集。淡い刺繍布。外国製の羽ペン。銀細工の栞。小さな花模様の便箋。
(うわぁ……)
完全にデパートのギフトコーナーだった。ただし、この世界のギフトコーナーは、一歩間違えると外交事故になる。
「……どれも違うな」
ルシアンが低く呟く。
(何が違うの? 普通に良さそうだけど)
――宝石は重い。
(値段的に?)
――意味が。
(意味)
ルシアンは青い宝石箱を見る。その感情は、完全に地雷を見る人のものだった。
――宝飾品は、独占欲の含意がある。未婚令嬢へ贈れば、所有の意思を示す場合がある。
(重っ!! プレゼントで所有を示すな)
――香水は親密すぎる。
(あー、それは何となく分かる)
――茶葉は無難すぎる。ベルンハルト家に茶葉を贈るのは、魚屋に魚を贈るようなものだ。
(急に分かりやすい)
――詩集は危険だ。
(なんで?)
――どの詩を選んだかで、求愛にも拒絶にもなる。相手が深読みすれば終わる。
(終わってるだろこの文化)
――刺繍布は、家庭的役割への期待と取られる可能性がある。
(もう何も贈るな)
――贈らないこともまた意味になる。
(詰み)
ルシアンは、外国製の羽ペンへ視線を落とした。
銀の軸には、細かい蔓草模様が彫られている。実用品だが、美しい。派手すぎない。だが、安物でもない。
(それ良くない?)
――実用品は距離感が難しい。
(まだ言うか)
――日常的に使うものを贈るということは、相手の日々へ入り込むという意味を持つ。
(羽ペン一本にどれだけ背負わせるんだ)
――だから悩んでいる。
なるほど。
贈り物とは、物を渡す行為ではない。距離を渡す行為なのだ。
宝石は近すぎる。茶葉は遠すぎる。詩集は燃えやすい。香水は踏み込みすぎる。羽ペンは、近すぎないようで、意外と深い。
貴族社会、面倒くさい。
心底、面倒くさい。
すると、扉が軽く叩かれた。
「兄様、入ってもよろしいですか?」
エミリアだ。
「入れ」
扉が開く。
今日のエミリアは、淡い若草色のドレスだった。手には小さな皿。もちろん焼き菓子だ。
最近の彼女は、兄の書斎へ焼き菓子を持ってくることに完全な自信を得つつある。兄が拒まない。それだけで、少女は小さな勇気を育てていた。
エミリアは机の上を見るなり、ぱっと顔を輝かせた。
「まあ! クラリス様への贈り物ですか?」
ルシアンの感情が微妙に沈む。
図星らしい。
(妹、楽しんでんな)
――他人事だからだ。
(お前の恋路を応援してるんだろ)
――恋路ではない。
(はいはい)
エミリアは机に皿を置き、並んだ品々を眺めた。それから、くすりと笑う。
「兄様、難しく考えすぎです」
「……簡単に言うな」
「だって兄様、“正解”を探している顔ですもの」
その言葉に、ルシアンが止まった。
(お?)
エミリアは羽ペンを手に取る。
「クラリス様、本を読むのがお好きでしょう?」
「……ああ」
「でしたら、良いと思います。綺麗ですし、使えますし、重すぎません」
ルシアンは少し考える。
(いいじゃん)
――実用品は距離感が難しい。
(そこはもう聞いた)
エミリアは兄を見上げ、少しだけ首を傾げた。
「兄様は、クラリス様にどう思われたいのですか?」
ルシアンの思考が固まる。
(直球)
――子どもは時に残酷だ。
(逃げるな)
エミリアは続ける。
「好きだと思われたいのですか? それとも、礼儀正しい方だと思われたいのですか?」
沈黙。
長い沈黙。
ルシアンは机の上の品々を見る。宝石、香水、茶葉、詩集、羽ペン。それらは全部、クラリスにどう見られるかを計算した候補だった。
近すぎず。遠すぎず。軽すぎず。重すぎず。
だがエミリアの問いは、その前提を少しずらした。
どう見られるべきか、ではなく。
どう思われたいのか。
(ほんとその質問弱いなお前)
――黙れ。
ルシアンはようやく答えた。
「……誤解されたくはない」
(不器用!!)
エミリアが目を瞬かせる。そして、ぷっと吹き出した。
「兄様、それでは政治会議です」
「事実だ」
「女の子は、もう少し曖昧で、もう少し温かい言葉を期待します」
(分かる)
――分からん。
(だろうな)
エミリアは羽ペンを机に戻した。
「私は、これが良いと思います」
「理由は」
「クラリス様が、それを使って兄様へお手紙を書けるからです」
ルシアンの内側が、わずかに揺れた。
それは不意打ちだった。
贈り物とは、こちらの意思を示すもの。ルシアンはそう考えていた。だがエミリアは違う。
相手が返せるもの。
相手が次の言葉を持てるもの。
そう考えていた。
(妹、強いな)
――……。
ルシアンは反論しなかった。
エミリアは少し笑った後、ぽつりと言う。
「でも兄様、以前より優しくなりました」
ルシアンの眉が、僅かに動く。
「そうか?」
「はい。前は、“正しいこと”しか見ていませんでした」
その言葉は、意外と鋭かった。柔らかな声だったのに、まっすぐ刺さる。
「今は、少しだけですけれど……相手がどう感じるかを、見ている気がします」
ルシアンは何も言わない。
だが感情は揺れている。思い当たることがあるのだろう。
茶会のクラリス。廊下のリズ。先祖廟での自分自身。父の執務室。
彼は最近、ずっと見ている。
制度だけではなく。
制度の中で息をしている人間を。
その時だった。
再び扉が叩かれる。
今度は軽くない。正確で、抑えられた音。
「失礼いたします」
入ってきたのは、アルヴェルトだった。
その顔を見た瞬間、ルシアンの感情が引き締まる。
「何だ」
「ベルンハルト家より使者が参っております」
空気が変わった。
エミリアの笑みが、すっと消える。
アルヴェルトは続けた。
「クラリス様の縁談について、正式な打診がございました」
静寂。
書斎の中の空気が、紙のように薄くなる。
(……正式って)
――婚約交渉開始だ。
早い。
いや、この世界では普通なのかもしれない。
茶会。舞踏会。贈答。そして縁談。
順番としては、むしろ整っているのだろう。だが俺には、急に見えた。
つい先日まで、クラリスは茶会でティースプーンを震わせていた少女だった。舞踏会で、少しだけ悪戯っぽく笑った少女だった。
それが今、家同士の契約として、机の上に置かれようとしている。
ルシアンの感情は、妙に静かだった。
驚いていない。むしろ、考えている。計算しているのではない。立ち止まっている。
その時、エミリアが小さく聞いた。
「……兄様は、それで良いのですか?」
ルシアンは答えない。
俺も、何となく黙っていた。
この問いは、さっきの贈り物よりずっと重い。
どう思われたいか。
それで良いのか。
エミリアは、時々とんでもなく大事なところを無邪気に突いてくる。
アルヴェルトが静かに言った。
「貴族の婚姻は、家同士の契約です」
淡々とした声。
「感情は、後から育てるものかと」
それは、この世界では正論なのだろう。むしろ、優しい言葉なのかもしれない。
最初から愛していなくてもよい。共に過ごし、役割を果たし、時間の中で情を育てればよい。そういう考え方。
現代人の俺には、冷たく聞こえる。だが、この世界の貴族にとっては、現実的で、安定した思想なのだろう。
家は恋では守れない。領地は胸の高鳴りでは維持できない。血統は個人の好みだけでは繋げない。
それは分かる。
分かるけれど。
ルシアンが、不意に呟いた。
「……本当にそうか?」
部屋が静まり返った。
アルヴェルトすら、一瞬だけ目を見開く。エミリアも息を呑んだ。
俺も驚いた。
今までのルシアンなら、絶対に言わない言葉だった。
婚姻は家同士の契約。感情は後から育てるもの。彼は、その言葉を疑わなかったはずだ。
いや。
疑わないようにしていた。
ルシアン自身も、それに気づいたらしい。ほんの僅かに目を伏せる。
だが、もう遅い。
言葉は出た。
この世界では、出た言葉は戻らない。
エミリアが、少しだけ嬉しそうに笑う。
アルヴェルトは沈黙した後、静かに頭を下げた。
「……お変わりになられましたな、ルシアン様」
その言葉に、ルシアンは否定しなかった。ただ静かに、机の上の羽ペンを見つめていた。
銀の軸。蔓草模様。実用品。重すぎず、軽すぎず。相手が返事を書くための道具。
(なあ)
――何だ。
(クラリスのこと、嫌いじゃないんだろ)
ルシアンは答えない。
(好きかどうかは、まだ分からなくても)
――……。
(でも、“契約だから”で済ませたくないんだろ)
長い沈黙。
そしてルシアンは、心の奥で小さく息を吐いた。
――分からん。
それは、逃げではなかった。
たぶん、今の彼に出せる一番正直な答えだった。
分からない。
クラリスを好きなのか。婚姻を望んでいるのか。家のためなら受け入れるべきなのか。自分の感情をどこまで考えてよいのか。
そもそも、貴族である自分に、そんな問いを持つ資格があるのか。
分からない。
けれど、分からないと言える場所まで来た。
それは、ルシアンにとって大きな変化だった。
アルヴェルトが静かに問う。
「旦那様へは、どのようにお伝えいたしましょう」
ルシアンは羽ペンを手に取った。少し考える。そして言った。
「正式な返答は父上の判断を仰ぐ。ただし、贈答品はこちらから先に送る」
「品は」
ルシアンは銀軸の羽ペンを見下ろした。
「これにする」
エミリアの顔が明るくなる。
アルヴェルトは羽ペンを見る。その目に、わずかな理解がよぎった。
「……実用品でございますな」
「ああ」
「重すぎず、しかし手元に残る」
「そうだ」
「返書を促す形にもなります」
ルシアンは少しだけ沈黙した。
「促すのではない」
アルヴェルトが目を伏せる。
「では」
「返す余地を残す」
静かな声だった。
その言葉に、エミリアが微笑む。
アルヴェルトは深く一礼した。
「承知いたしました」
返す余地。
それは、この世界では珍しい優しさなのかもしれない。
押しつけない。だが拒まない。近づきすぎない。でも、道は閉ざさない。
クラリスが自分の言葉で返せるように、道具を渡す。
ルシアンらしい。
不器用で、遠回しで、制度の中から一歩も出られない。
それでも、確かに相手を見ている。
アルヴェルトが退出すると、書斎には三人分の沈黙が残った。
俺。ルシアン。エミリア。
いや、俺は数に入っていないけれど。
エミリアは、兄を見上げた。
「兄様」
「何だ」
「クラリス様に、良い贈り物だと思います」
「……そうか」
「はい。きっと、お喜びになります」
ルシアンは答えなかった。ただ、羽ペンを丁寧に箱へ戻す。
その手つきは、いつものように美しい。だが、少しだけ慎重だった。
まるで、ただの品ではなく、まだ形のない何かを扱っているみたいに。
好きな相手。
結婚する相手。
この世界では、それは同じとは限らない。むしろ、違うものとして教えられる。
好きは感情。結婚は契約。
好きは個人のもの。結婚は家のもの。
好きは揺れる。結婚は残る。
だから貴族は、好きだけで結婚しない。結婚だけで好きにもならない。
その間に、手紙や贈り物や舞踏会や沈黙を積み重ねて、どうにか折り合いをつけていく。
俺には、まだ納得できない。
たぶん、完全にはできない。
でも。
ルシアンが今、初めてその間に立ったことだけは分かった。
家のための結婚。自分の感情。クラリスという一人の令嬢。ベルンハルトという家。
それらを、全部同じ机の上に置いて。
初めて、本当に迷っている。
その迷いは、弱さかもしれない。貴族としては、余計なものかもしれない。
でも俺には。
それが、少しだけ人間らしく見えた。