テスト範囲の変更。
その情報をDクラスが知ることができたのは、櫛田たちの勉強会でCクラスとちょっとした諍いを起こしたおかげである。まぁ、つまり原作通りの展開が起きたに過ぎなかった。
「くそっ! うちの担任は何を考えているんだッ!!」
「幸村くん、落ち着こう。みんなが怖がってるから」
昼休みの教室。
怒りのままにドンッと机を叩く幸村とそれを宥める洋介。櫛田から伝えられた情報はそれなりにクラスをざわつかせていた。
「落ち着くも何もあるか! せっかくの勉強がムダになった上に、テストまであと一週間しかないんだぞ!」
「怒る気持ちもわかるよ、幸村くん。でも、これ以上机を叩くと、手が痛くなっちゃうよ?」
心配そうな表情で、櫛田が怒り続ける幸村の手を両手でそっと包み込む。
「ぐっ!? んん…………あぁ、悪い。冷静じゃなかった」
さすがの幸村も突然の櫛田の接触に驚いたのか、肩を揺らし、しかしその手を振りほどくこともできず、数秒目を瞑ると頭を下げた。
「仕方ないよ。ボクも正直、やるせない気持ちだからね」
「平田も悪い。どっちかといえば平田の方が勉強会を引っ張ってくれてるのに、俺は……」
「大丈夫だよ。幸村くんがボクの分も怒ってくれたから、それだけで十分だよ」
幸村の謝罪に爽やかに答える洋介。
もう少しばかり慌てふためくかと思ったが、あの時のやり取りで精神的な支えを手に入れたからか、そこまで動揺していないように見える。
「それで、これからどうするんだ?」
「何にしても、今日からの勉強会は、変更された後のテスト範囲の勉強をするしかないね」
様子を見ていた清隆が、今後の展開をどうするのか、洋介に尋ねると腕を組んで悩ましそうにそう言った。
実際問題、普通のテスト対策なんてこれぐらいしかないだろう。あの担任に抗議したところで、受け入れてもらえない可能性が高いし、かといって、テスト用紙を盗むなんて犯罪行為は到底無理だ。
もちろん。この場合の正解は、“先輩たちから過去問をもらう”、なのだが。
さて、どうしたものか?
俺は清隆をチラリと見る。
本来なら、彼が過去問をもらう策を思いつく。テスト範囲を言い忘れたのに平然とした茶柱、それに対して何も言わない他の職員たち。その違和感に気づいた彼が、櫛田を使って、食堂にいるDクラスの先輩に交渉する流れなのだが。
清隆はその光景を見ていない。いや、仮にそれを知ったとしても、俺というイレギュラーがいるせいで、動かない可能性が高い。
なんせ俺は二日目にして、この学校に疑問を抱き、洋介たちに共有する動きを見せてしまった。それなのに、今回の件にはまったく疑問を抱かず、動かないでいるのは清隆には通じないだろう。
仕方ない。今回も俺が動くしかないか。
「なぁ、櫛田さん。テスト範囲の変更を教えた時の茶柱先生の様子はどうだったんだ?」
「山内くん? えっと、そうだね。いつもと変わらず平然としてたというか。テスト範囲を書いた紙を渡すだけ渡したら、別の業務を始めちゃったかな?」
「春樹くん、何か気になることでもあるのかい?」
俺の質問が気になったのか、洋介が尋ねてくる。が、ここでそれを言うには人が多いため、誤魔化すことにした。
「いや、そういうわけじゃないんだけど。仮にも退学が掛かってるんだから、もうちょい慌てて欲しかったなぁって……」
「その通りだよ、まったく。とにかく昼休みの時間を使って、いまのうちに試験範囲を見直さないと」
幸いなことに、幸村が俺の言葉に続いたことで俺に対する疑念はうやむやになった。
幸村や洋介がテスト範囲を見直していると、松下が俺に視線を向けてきた。先の発言は気になったのだろう。
『ねぇ、何か策はあるの?』
松下から個人チャットが送られてきたため、俺は少し考えた後、文字を打ち込んだ。
『思いついたから、ちょっと来てくれ』
「悪い洋介、ちょっと教室出るわ」
「うん、大丈夫だよ」
断りを入れて、教室を出る。少し歩いたところで松下を待っていると、彼女も遅れてやってきた。
「おまたせ」
「よし、じゃあ食堂行くか」
「いいけど、何が思いついたの?」
「それはな……」
隣り合って歩きながら、二人で会話をする俺たち。
「Dクラスの先輩に過去問を貰いに行くんだ」
一応、周りの一年生に聞かれないように、俺は松下の耳元に顔を寄せ、少し声を潜ませて答えると、松下がピクっと震えた。
「どうした?」
「な、なんでもないよ。そのまま続けて」
「お、おう」
頬が少し赤くなった松下を訝しむが、彼女の言う通り、説明を続けることにした。
「具体的に言うと、先輩たちが一年生の時に受けた入学直後の小テスト、あとは中間テストの問題を、ポイントで買おうと思ってるんだ」
「……過去問はまぁ、わかるけど。それって本当に意味あるの?」
疑問が尽きない松下。俺は原作知識を元に、順番に説明することにした。
「まず前提として、今回の試験はまともにテストを受けさせる気がないと思うんだ。俺たちDクラスは一週間さらに遅れたとはいえ、退学が掛かっている試験のテスト範囲をまるごと、二週間前に変えるなんておかしな話だろ?」
「それは、確かにそうだね」
「そこを踏まえると、茶柱先生の態度はもっと変だ。普通、こんな大事な試験でテスト範囲を忘れてたら、教師の責任問題が問われるはずなんだよ。なのに、本人どころか他の教師まで気にしてないんだぜ? つまるところ」
「なるほどね。普通にテスト勉強する以外にも、解決策が用意されてるってわけだ。もしかして、それが過去問?」
松下がそう聞くので、俺は頷いた。
「そういうこと。普通の学校の生徒なら、そんな大昔のテスト用紙を保管していることの方が珍しいけど。仮に先輩方がそれを今も大切に持っているなら、次の年以降も保管しておくだけの価値が過去問にはあるってわけだ」
「……はいはい、山内くんが私に何をさせたいのか、わかってきたよ。Dクラスの先輩ってことはポイント不足で困ってるよね? つまり、山菜定食を食べてる冴えない男子に私が交渉しろってことね」
「頭の回転が早くて助かる」
「まぁね。私、実は頭が良いんだから」
イタズラを思いついたかのように、口の端を上げて悪い顔になる松下。
やはり彼女は優秀だ。この最序盤に協力関係が築けて本当に良かった。最悪は櫛田に頼み込む必要があったので、ホッと安堵する。
「松下に15000プライベートポイントを送っといたから、それを使ってくれ。足りなかったら、後で追加するからさ」
「わかったよ」
話しながら歩いているうちに、食堂についた。時間が経っているから人は疎らだが、だからこそ人目を気にして遅れてやっきた人間。山菜定食を食べる男子を見つけた。うちのクラスで見たことのない顔だから、アレは先輩のはず。
「よろしく」
「任されたよ」
軽く目を合わせて、俺たちは二手に別れる。俺は給水器から水を手に入れ、男の斜め後ろの空いた席に座った。
「ごめんなさい、少しお時間を貰ってもいいですか?」
「……なんだ、一年か?」
「はい。実は先輩に中間テストの過去問をもらえないかと思って。5000でどうでしょうか?」
松下は先輩の前に座り、交渉を始めた。俺は周りに不審に思われないよう気をつけながら、耳を傾ける。
「少なすぎる。最低でも30000だ」
「えっ、その私、Dクラスでポイントがもう少ししかなくって。10000しかないんです……」
眉をひそめて困ったように声が尻すぼみになる松下。
先輩は一瞬黙るものの、
「……それなら、10000だ。これ以上は下げられない」
「せめて6000じゃダメですか?」
「ダメだ。納得できないなら、諦めてくれ」
「そんなぁ……」
弱々しく頭を抱える松下。しばらく悩むように黙っていた彼女は、苦々しそうな顔で、渋々と先輩の言葉に頷いた。
「……わ、わかりました。10000お支払いします」
「交渉成立だな」
「そ、その、せめてオマケで入学直後の小テストも付けてくれませんか?」
「……まぁ、その程度なら問題ない」
「ありがとうございます!」
懇願するように松下が声を震わせる。容姿の整った彼女がするからこそ、より効果的に先輩の心を揺さぶったみたいだ。
まぁ、なんにせよ。この交渉の勝者は松下のものになったわけだ。
俺は先に席を立つと食堂の入り口前で松下を待つ。少しして、彼女がやってくるのが見えた。
「ぴーす」
指をピースさせて、ドヤ顔になる松下。かわいい。
「名演技だったな」
「でしょ〜? 先輩、騙されてることに気づいてないよ」
「正直、先輩が可哀想に思えた」
「えー、これでも私頑張ったんだよー? もっと素直に、褒めてくれてもいいんじゃない?」
んー? と下から覗き込むように俺を見上げる松下。交渉が上手くいってよっぽど嬉しいのか、いつもよりテンションが高く、頬が興奮で朱に染まっていた。
そのあざとい仕草と表情に、俺は少し視線を逸らした。
「ごめんごめん。あまりにも手際が良すぎて、思ってたことが言葉にならなかったんだよ。想像以上に凄かった。ほんと、俺は松下さんと協力関係になれて幸せだよ」
「うんうん、悪くない賞賛だね」
ひとまず、それで満足してくれたのか松下は頷いてくれた。
程なくして、松下のスマホに先輩から過去問の画像が届く。二人して画像を確認すると、予想通り、小テストの方は全くの同じ内容だった。
「山内くんの予想通りだったね」
「そうだな。これを後で平田に渡せば、問題なく試験を乗り切れそうだ」
過去問をみんなに配るの前日、いや少なくとも二日前の方がいいな。全体の必死度は下がるかもしれないが、須藤の寝落ちして暗記できませんぇした、なんて事件が起きる方が問題だ。
その辺りのことを松下にも話すと、彼女もそうだねと肯定してくれた。
「ところで洋介に渡す時、松下さんも手伝ったことは伝えた方がいいか?」
「うーん。いや、山内くんだけにしてくれるとありがたいかも。たぶん、普通に目立っちゃうから、それは嫌かな」
まぁ、わかっていたことだが。それならそれで問題ない。松下の功績がなかったことになったとしても、“松下自身の思い出”にはっきりと刻まれているから。
上手くいった、興奮した、楽しかった、嬉しかったという名の“快楽”は、きっと松下の中で消えることはない。むしろ、またやってみたい、今度も上手くやってやる、と願望を膨らませてくれるだろう。
俺が松下にその機会を提供しよう。俺しかそれを提供しない状況を作ろう。頭が快楽でいっぱいいっぱいになった後、俺じゃないとダメなんだって、丁寧に刷り込んでいこう。
隣を歩く、楽しそうに鼻歌を口ずさむ松下を盗み見る。ご機嫌で、ふわふわしていて、喜びを噛み締めている彼女。
うん。その笑顔が消えることのないように、頑張らないとな。
全ては俺が退学しないため。松下に切り捨てられない未来のために。
◇
「それでは、中間テストを乗り越えた記念に、カンパーイ!」
『カンパーイ』
俺の自室に、軽井沢の乾杯の音頭が響くと、後に続くように俺たちもジュースの入ったコップを掲げた。
「いやー、にしても部屋の中ギュウギュウだね」
「仕方ないよ、一人部屋に七人もいるんだからさ」
「とはいえ、カラオケとかはポイントの少ない私たちには痛い出費だもんねー」
わいわい、がやがやと賑わう女子たち。
俺はそれをのんびりと見ながら、コップに入ったオレンジジュースをちびちび飲んだ。
「誰も退学しなくて本当に良かったよ」
「ほんと、洋介も頑張ったよなぁ」
洋介の言葉にしみじみと呟く。
中間テストは過去問を手に入れたことで、予想通り、特に問題もなく乗り越える事ができた。
須藤も原作のように英語で赤点を取るなんて事件は起きなかった。というより起こさせなかったが正しいか。
一日猶予を増やしたこと、そして俺が前日の夜に須藤に通話を掛けたおかげで、その未来は訪れることはなかった。
いや実際は、本当に危なかった。須藤のやつ、やっぱり寝てやがったし。なんなら英語だけじゃなくて理科もやってなかったみたいだし。
内心複雑な思いで櫛田に連絡先を貰っておいたのは正解だったわけだ。
「何を他人事みたいに言ってるんだい。春樹くんが過去問を見つけてくれたからこそ、退学者が出なかったんだよ」
「そうだよそうだよー、功労者はもっと胸を張らないとねー」
洋介の言葉に続くように軽井沢がニコニコとそう言った。学力に不安のある彼女は過去問に助けられた一人である。
だからこそ、過去問を持ってきた俺に、感謝しているし、以前より好印象を抱いているみたいだ。
本当は俺だけじゃなく松下の助けがあったのだが。ふと、隣の松下と目が合うと、彼女も笑みを浮かべた。
「その通りだよ、山内くん。胴上げ……はさすがにできないけどさ。ハイタッチぐらいはしようよ! いぇーい」
「い、いぇーい」
「なにその反応」
両手でパチーンとハイタッチをすると、松下はおかしそうに笑いだした。
そんな彼女を見て、俺のもう隣にいた篠原が目を丸くする。
「や、山内くん! 私も! 私ともハイタッチしよ!」
「お、おう?」
それは何の張り合いなんだ?
なぜか篠原にもハイタッチをすることになり、俺は絶賛困惑する。
基本的に周りに気を遣い、配慮しているつもりの元社会人だが、俺にだって分からないことはあるのだ。
「ぷ、ふふっ! あはは!」
「よ、洋介ぇ?」
「平田くん!?」
突然の二人の寄行に頭を悩ましていると、今度は洋介が珍しく吹き出すように笑い始めた。
普段は爽やかにサラッと笑みを浮かべる彼が、お腹を押さえて、おかしそうに年相応に笑うその姿は、さすがのみんなもビックリしたのか、視線が彼に集まった。
普段、無表情のあの清隆でさえ、目をぱちくりさせて、洋介に何が起きたのかを観察している。
「だ、大丈夫か?」
「ご、ごめんね。その、なんていうのかな? こうやってみんなでわいわいと、今日が迎えられたのが嬉しくて、つい」
ある程度落ち着いたのか、笑いすぎで溢れた目尻の涙を拭いながら、洋介はそう言葉にした。
本心からの言葉なんだろう。原作ではこんな洋介を見たことがないから確実にとは言えないけど、なんとなくそう思った。
「もう、なにそれ。洋介くんちょっと照れくさい発言だよー」
「でも、平田くんの気持ちもわかるなー」
「えー、松下さんも?」
軽井沢が照れくさそうに笑っていると、松下も続くようにそう言った。
「先生から、Dクラスが落ちこぼれの不良品って言われて、クラスもギスギスしてた時。正直、私の高校生活終わっちゃったかなー、って絶望しちゃったもん」
「まぁ、たしかに」
この学校の真実を知ったあの日、天国から地獄へと変わった日を思い返しているのか、目を瞑る松下。
そしてゆっくりと瞼を開けた時、最初に瞳に映っていたのは誰だろうか?
「でも、私たちまだ終わってないんだなって。まだまだやっていける気がして、そう考えると嬉しくなっちゃうよね」
「も、もうやめようよ! 恥ずかしくて顔から火が出ちゃいそう!」
必死に、両手でパタパタと扇ぎ、羞恥心によって熱くなった頬を冷やそうとする軽井沢を見て、自然とみんなも笑い出す。
「もう、なんなのさ! 山内くん! 早くご飯作ってよ!」
「え、そこで俺ッ!?」
「山内くんの料理初めて食べるからさ、結構楽しみにしてたんだよー!」
「あ、私も気になってたんだよねー」
急に話題を変えた軽井沢に思わずツッコむも 、佐藤も便乗してきた。
よくよく周りを見れば、清隆や松下も言葉にはしないものの、早く食べたいなー、なんて顔をしてやがる。
なんだコイツら。
「お願いしてもいいかな、春樹くん」
「はいはい、わかりましたよー。今から作るから待ってろよなー」
最後に洋介からお願いをされ、俺は肩を竦めながら、よいしょっと立ち上がる。
「あ、山内くん、私も料理手伝うよ」
「ほんとうか? 篠原さんありがとよ」
「これぐらい気にしなくていいよ。私も料理部なんだからね」
キッチンに向かうと、篠原がパタパタと俺に近づいてきた。この状況を予想していたのか、篠原は持参していた可愛らしいエプロンを身に付け、ふんすと気合いを入れている。
俺もさっさとエプロンを付けて、支度を始めようか、なんて考えているとズボンのポケットに入れていたスマホが揺れた。
スマホを手に取り、何気なく画面を見て、——俺は固まった。
「どうしたの、山内くん?」
「……いや、なんでもない。ほら、腹ぺこさんたちがたくさんいるから、さっさと作っちゃおうぜ」
誰にも見られないよう、俺は送られてきた個人チャットにすぐ返信をして、スマホをポケットにしまう。
俺はそのまま、不思議そうに首を傾げる篠原に笑みを返した。
夜はまだまだ長い。みんなが喜ぶようなそんな料理を作るために、俺はあらかじめ買っておいた0ポイント食材に手を伸ばした。
◇
夜。遅い時間になる前にグループは解散した。
今は俺一人で、ベッドに腰掛け、スマホの個人チャットをぼんやり眺めている。
さっきまであった賑やかさが嘘のように、今の室内はシンと静まり返っていた。どこか不穏で、陰湿なほどに不気味なのは俺の心境の表れなのだろうか。
チャイムが鳴る。
改めて送った俺の返信を見て、すぐに来たのだろう。
一度深呼吸してから立ち上がると、のぞき窓を見ることなく、ドアを開けた。
目の前には個人チャットの送り主、櫛田が立っていた。
「こんな時間にごめんね、山内くん」
「大丈夫。ちょうどさっきお疲れ様会も終わったわけだしさ」
申し訳なそうに眉をひそめる櫛田に大丈夫だと無難に返す。
「そっか。まだ誰か残ってたりするのかな?」
櫛田は部屋の中が気になるのか、ひょこっと俺の後ろを眺めている。
「いや、誰もいないよ。あー、そうだな。せっかくなら中で話すか? ここだと邪魔になるかもだし」
「うん! そうさせてもらえると嬉しいな」
そう提案すれば、嫌がる様子もなく「お邪魔しまーす」と元気に部屋の中に入った。
とりあえず俺は来客用のコップにお茶を注いだ。
「悪い、櫛田さん。今、お茶しかなくてさ」
「ううん、全然問題ないよ。ありがたく頂きます!」
受け取ったコップを両手で支え、コクコクとあざとく飲んでいる。
その間に俺は対面に座った。
「それで、用件って何だったんだ? 結構、急ぎな感じもしたけど」
「その、急ぎの用ってわけじゃないんだけどね。山内くんには直接、ちゃんとしたお礼が言いたくてっ!」
櫛田は、俺の手を両手で包み込むとパッと花が咲いたように笑った。
「本当にありがとう! 山内くんが過去問を見つけてくれたおかげで、須藤くんと池くんが退学しなくて済んだんだ!」
「いや、別に俺は過去問を見つけただけで。信頼された洋介が説明してくれたから、みんな信じて受け取ってくれたんだよ」
「そんなことないよ! 少なくとも、私は山内くんのことをちゃんと信じてるから」
真っ直ぐに俺を見て、頬を染めながらも、櫛田はそう断言してくれた。
それが例え“偽りの仮面”なんだとしても、やっぱり櫛田は美少女なので、こんなにマジマジと見られてしまうと、視線を逸らしてしまう。
「俺なんかよりも櫛田さんの方が凄いよ。堀北さんでも諦めたような問題児二人を見捨てないで、勉強会を続けたんだからさ。……その、やっぱり大変だったんだろ?」
「あ、あはは……」
俺がそう言うと、櫛田は苦笑いして、何て言おうか悩んでいた。 いや、まぁ、表櫛田でもフォローが難しいのはわかるけどね。
というか、櫛田さんや。そろそろ手を離してもらえないだろうか? 女の子の手ってあんまり触れることなんてないから、ぷにぷにして柔らかいんだな、とか、温もりを感じる、とか変なことを考えてしまう。
そんな煩悩を振り払うために、やんわりと断りを入れようとして、
「ほんと、山内くんの言う通りだよ。須藤はバカだし、池は視線が鬱陶しいし。堀北なんて私の頑張りを十分も掛からずにムダにしたんだよ? ——あんなクソビッチ、死ねばいいのにね」
「…………え?」
俺の口から声が漏れた。
最初、櫛田が何を言ったのか理解できなくて、頭が真っ白になったからだ。
逸らしていた視線を戻すと、そこにはニコニコと笑い続ける櫛田がいた。ただただ素敵な、見惚れてしまうような美少女の笑顔。
「ごめんね、ビックリしちゃったかな? 急にこんなこと言っちゃって、山内くんも困っちゃうよね?」
いつもの櫛田の笑顔がそこにあった。
しかし俺の手を掴む手に力が入る。絶対に離さないと、そう言っているかのように。
「でも、あれだね。思ってたよりビックリしてないや。ふーん……やっぱり、私のこと分かってんだ」
ようやくそこで笑うことをやめた櫛田が、目付きを鋭くした。
「っ」
ヒュっと息を呑む。
呼吸を思い出したかのように、心臓がバクバクと早鐘を打ち始めた。
「あ、今度こそ驚いてくれた。それとも私のことが怖いのかな?」
「なんで……」
「なんでわかるのかって? そんなの簡単なことだよー。だって、私たち“同類”なんだもん」
「同類?」
「うん!」
微笑む櫛田の表情はいつもの愛らしいものとは違い、どこか艶めいていた。
「自分の目的のために良い人を演じて、笑顔を振りまいて、周りに好かれる。その裏では、秘密がバレたらどうしようって、嫌われたらどうしようって、日々ストレスを抱える、そんな同類」
にぎにぎと俺の手を握りしめながら、ふっとため息を吐く櫛田。その行為が妙に色っぽくて、顔が青ざめていく感覚に陥る。
俺は彼女に何か言い返そうと思って、口を開くが、声が掠れて、出てくれない。
「今の立場を失いたくないんだよね? わかるよ、必死になって築き上げたんだもんね。それが簡単に崩れちゃうものだとわかっていても、ね」
鏡のように、こちらを覗き込んでくる闇。
櫛田の瞳の中には、ドロドロと淀んだ、粘っこい何かが蠢いている気がした。
「私は自分の秘密が、過去が知られるだけで苦しくなる。いつだってナイフを首に突きつけられているような、そんな窮屈な息苦しさがずっと、私を脅かしてくる。……山内くんは、ずっと“何かに怯えてる”んだね」
……その通りだ。
櫛田の言う通り、俺は常に退学の危機に“怯えている”。原作のような惨めな最後を迎えたくない、その一心で今を生きている。
俺は今、平田グループの一員、Dクラスにおいてそれなりの立場に立っていると言える。
しかし、それは本当にそうなのか?
松下は俺を実力のある協力者として見てくれている。
でも、もしそれ以上の実力者が現れたら? 綾小路清隆が本当の実力を見せ始めたら、彼女はきっと彼のことを選ぶだろう。原作知識しかない俺では、勝つ未来なんてない。
篠原や軽井沢はどうだろうか? 彼女たちともそれなりに仲を深められていると思う。特に篠原の方は、俺に対して原作以上の優しさを見せてくれるくらいだ。
でも、それも薄氷の上。
もし無人島試験で、伊吹が軽井沢の下着を俺のカバンの中に入れたら? 今日までの関係は一瞬で崩れ去ってしまうだろう。たとえ、それが伊吹による冤罪だと後で分かったとしても、割れたヒビは簡単には直ってくれないのだ。
洋介一人に好かれたところでクラス内投票では救ってもらえない。清隆に実力がないと判定された時点で、それまで延命できたとしても、切り捨てられる。
俺はいつだって媚びる立場なのだ。相手は残すか捨てるか、好きに選ぶ自由がある中、祈るように縋るように、嫌われない道を進むしかないなのだ。
山内のスペックでは何も足りない。元一般人が物語の中の登場人物に能力で叶うわけがない。
この実力至上主義で最初にいなくなる人間は、『実力』のない者。『信用』を失った者なのだから。
そして、今、目の前には俺を退学の危機に脅かそうとする人間がいる。
このままいけば、俺は退学させられるかもしれない。
そんな現実に今、襲われている。
「…………」
「あはっ! 山内くんってそういう顔もするんだ。ちょっと、意外かもー」
無言で恨めしく睨みつけると、櫛田はなぜか嬉しそうに笑みを深めた。
理解できない。結局、彼女は何がしたいんだ?
「それで? 櫛田さんは人に秘密が知られたくないのに、なんで裏の顔を俺に見せたんだよ。クラスのみんなに俺の悪口をいつでも言えるからか?」
「うーん。別に、そういうつもりで言ったわけじゃないんだけどね。……気づいてた? 私ね、これでも山内くんのこと結構評価してるんだよ」
俺の手を包んだまま、顔をズイっと近付けた櫛田はどこか楽しそうに、話を続けた。
「他の男子みたいに不快な視線を向けてこないしさ、私がちょうど求めてる言葉をいつも言ってくれるし。……今だって、ほら。私のことが憎いだろうに、胸を見ないように配慮してくれてる。そういう紳士的な振る舞いを“徹底している”ところ。私としてはポイント高いんだよねー」
片手を離して自分の胸を持ち上げる櫛田。
俺はそれを見ないように、視線を逸らすと、彼女はやっぱりとほくそ笑んだ。
「ねぇ? 私たちはこれでお互いに、人にバレたくない一面を知った、“秘密を共有したもの同士”って、関係じゃない? そういうのって絆というか、信頼関係が生まれると思うんだよね。何言っても気にしない、バラさないっていう特別な関係」
「……つまり、櫛田が俺に求めているのはストレスが溜まった時、発散するための、愚痴相手、ってことか?」
「ふふ、頭の回転が早くて助かるよ」
……なるほどな。
清隆の不在により、櫛田への負担が増したことでストレス量が増加したのか。そして、そんなところに自分と同類の人間が、弱みを抱えて突っ立っていた、と。
櫛田からしたらちょうど良かったのだろう。俺が絶対に裏切れない状況になってさえしまえば、自分の望んだ関係性を築くことができるから。
それに対して俺はどうするべきか?
考えるまでもない。俺に選択肢というものは与えられていない。櫛田の要望を叶える。それ一択しかないのだから。
俺は櫛田に視線を戻す。
もう、きっと俺の顔は青ざめてないと思う。
「わかった。その話乗ってやる」
「うん! 嬉しい返事がもらえて何よりだよ!」
「だけど。もし、俺のことを裏切ったら。——絶対に櫛田さんの足、引っ張ってやるからな?」
再度、俺は櫛田を睨みつけながら、そう告げた。
洋介たちには見せたことのない。そんな想いを込めて。
「ふふ。大丈夫だよ、山内くん。どっちかが終わるその時は、——一緒に地獄に落ちるだけだからね♪」
櫛田が最後にそう言った時の笑顔は、それはもう退廃的で、とても美しかった。
その時々の、Dクラスメンバーの心の声
綾小路(一瞬のアイコンタクト、それにおそらく個人チャットによる情報の伝達。……春樹と松下にはグループの枠では収まらない繋がりがあるのか? そして、櫛田の話を聞いたこのタイミングで動いたということは、春樹は過去問という答えにたどり着いた可能性がある。そういうことなら、今回もオレは静観させてもらおうか)
松下(ふふん! もっと褒めてもいいんだよ? 山内くん)→交渉が上手くいってご機嫌。山内からの褒め褒め気持ちいい。
佐藤(わ、綾小路くんとこんなに近くに……、肩とか当たっても大丈夫かな…///)
篠原(えっ! 山内くんと松下さん、いつの間にあんな仲良くなったの!?)
軽井沢(山内くん、女子力たっか……。どれも美味しいんだけど!)→パクパクですね。
平田(こんな楽しい日常を、今度こそボクは守りたい。そのためなら……)
綾小路2(……これが“普通”の高校生活、ってやつなのか? オレにはまだよく分からないが。……でも、そうだな。こういうのも悪くはないな)ぼんやりとご飯を食べながら。ぽかぽか。
櫛田(あー、スッキリしたー!)ニコニコ櫛田。