最後の一音を楽譜に刻み込む。
これでまた一曲完成した。その達成感から、ほう、と息を吐いて鏡を見る。
ARモードを起動させていたスマコンによって、瞳は橙色に輝き、さながら宇宙人のようだ。長時間使用していたこともあって、軽く熱を持つそれは、まるで徹夜明けのような軽い充血感と腫れぼったさを目元に感じさせていた。
(今日も、徹夜してしまった……)
時刻はすでに6時近くを指している。作曲を始めたのが日付を超えたあたりだったから、連続6時間近くも集中していたことになる。完璧優等生を演じるためには学校を休むと言う選択肢はないものの、作業に熱中すると睡眠を疎かにしてしまう悪癖は改善した方がいいのだろう。
そう思いながら、スマコンを眼から外し、イヤホンを耳から外す。
(でも、眠れないから仕方ない)
中学の頃からずっとだ。夜寝ようとしても寝付けない。浅い眠りと覚醒を繰り返し、朝起きた時には疲れてしまっていることが当たり前だった。布団の中で横になるものの、一睡もできずにアラームが鳴ることもしょっちゅうだ。
家を出てからも、それはあまり変わらなかった。
最初のうちは眠れないことを良いことに、夜通し勉強することもあった。だが、電気代のことを考えると夜通し電気をつけるわけにもいかない。ただでさえギリギリでカツカツな生活なのだ。節約できるところは節約すべきだろう。
ならば、電気を使わずに時間を潰せる環境は、と考えた時、わたしの手はツクヨミに伸びていた。ツクヨミにログインすれば、仮想現実の中で勉強したり、息抜きに神戦で小遣い稼ぎをしたり、ヤチヨの配信を追いかけたりも思いのままだ。それに、現実では部屋の電気を消して、目を瞑るだけでいい。
身体を休めつつ、時間を潰すには最適だった。
もちろん、きちんと寝た方がいいのはわかっている。でも、それ以上に、起きているうちは何かをしていたかった。ーーだって、何かを追いかけていなければ、自分が保てないような気がして。
そんな弱い心根だったのがいけなかったのだろう。
ーー形無しで成功するんはホンマに一握りや。楽しんでいる場合やあらへん。
ーー後悔は都合のいい言い訳や。そんな事態を招いたのはその時努力しなかった自分の責任に過ぎん。
現実でも時たま聞こえていたその声は、いつしか、ツクヨミに潜っている時でさえも、耳の奥に聞こえるようになっていた。
ヤチヨのライブを見ている時。
芦花や真実と神戦で遊んでいる時。
ツクヨミの中をぶらぶらしている時。
ふとした瞬間、耳の奥底に、母の声が響く。
幸いなのは、何かに打ち込んでいる時だけはその声が聞こえないことだろう。だからこそ、その声を断ち切るように一時は神戦にのめり込んだり、ライブや配信を追いかけたりしていた。
だが、ヤチヨも常に配信しているわけではない。神戦にしても、芦花や真実もわたしのわがままで長く付き合わせるわけにもいかない。かと言って、一人で参加しても二人といる時ほど集中できない。
そして、現実逃避に比例するかのように母のわたしを糾弾する声は大きくなっていった。それはとうとう勉強をしている時ですら、頭の中で響いたほどだ。
ーー真の一流は仕事も遊びも疎かにせえへん。仕事だけで満足した気になってる奴は話にならん。
確かにあの時のわたしは、眠れず、ただ漫然と勉強して時間を潰していた。それで満足していた気はなかったが、ただ時間を潰すことを目的にしていた自分も悪いのだろう。とは言うものの、その声には参った。
何か、勉強とは別の時間を潰す方法を見つけなければ。
そう考えた時、自然と手がキーボードに伸びていた。
いつの間にか嫌いになっていた音楽。遠ざけていたピアノ。なのに、何故か手放せず、上京の時に一緒に持ってきてしまったそれ。
最初は指がこわばった。見窄らしく感じた銀賞の記憶。母の言葉。
それでも、いざ鍵盤に指を置き、音を奏で始めると、衝動を抑えることができなかった。一音一音、積み重ねていくたびに現実の不安がほぐれていく。耳に響いていた母の声が遠ざかる。その代わりに浮かんでくるのは、朧げながらも幸福な気持ち。その正体がわからないまま、心のままに指を走らせ続ける。
最初は気分のままに演奏できるだけでよかった。音楽を奏でているうちは不安を、焦りを忘れられた。耳の奥で苛む声も遠ざかった。
だが、人間楽を覚えると欲が出てくるものだ。
そのうちに、なんとなくPCの奥底に眠っていた作りかけの曲に手を伸ばすようになった。作りかけの曲、それらは歌詞を作ることを前提に作った曲だ。そして、完成することなく日の目を見ずに、今までこうして放置していたものだ。
この曲たちを、きちんと完成させてあげたい。
何故かそう思った。
そうしてまた本格的に曲を作り始めたは良いものの、やはり長年のブランクは如何ともし難い。何せ、作曲していた時期からすでに10年以上も経っているのだ。それに、歌詞まで考える余裕はない。
いつかはきちんと完成させてあげたい。そう思うものの、続きはなかなか思い浮かばず、代わりにコードに忠実な、そして気を紛らわせるために作ったためやたらと冗長な作業用BGMに相応しい曲ばかりが完成していく。
それらをフォルダの肥やしにするのも癪だ。それに、ツクヨミではあらゆる人物が表現者となれる。どうせこんな小娘が手慰みに作った曲など聴きたがる物好きはいないだろう。
そんな軽い気持ちでツクヨミに曲を無料公開し始めた。
だが、世間はわたしが思っていたよりも寛容だったらしい。いつしか、わたしの曲は『素人の作曲』から『知る人ぞ知る曲』を経て、動画のフリー音源に活用されるようになっていた。
芦花や真実の様に本格的な運用は行なっていないため、フォロワー数は不明だが、それでも彼女らと並んでも恥ずかしくないほどの潜在的なフォロワーは居るだろう。となると、ちょうど昨夜届いていたメールの様な内容も増えてくる。
『初めまして。
XXチャンネルの〇〇と申します。
この度、iroさんに楽曲の作曲を依頼したくこうして連絡を差し上げた次第です。内容としてはーー』
その文面を最後まで見ることなく、わたしは手慣れた手つきで返信を打ち始める。
こうしてわたしを評価してくれているのはありがたい。
だが、所詮は小娘の、それも音楽を専門に学んでいるわけでもない、ただの自己満足の産物だ。
将来音楽を専門にして、それで生計を立てていくわけでも、たとえそんな道に進んだとしても大成できるかもわからない。
この流行りだって水物で、半年後には見向きもされなくなる可能性だって大いにありうるのだ。そんな人が、人様のお金を対価に仕事として請け負うべきではないだろう。
「これでよし、とーー」
丁重に断りのメールを入れ、時計を見ると、すでに家を出る時間が近づいていた。
「やばっ」
慌てて準備をする。そして、最後にルーティンとなっているヤチヨのアクスタを拝むと、家を出た。
ここから先は完璧優等生酒寄彩葉の時間だ。音楽はツクヨミや推し活と同じ様に程々に。
気持ちを入れ替えると、歩き出した。
そんなわたしの生活がひと月後には一変するなど、神ならざる身では知る由もなかった。