俺を孤立させた幼馴染(元男)が俺に惚れていた件、なお俺は一生気づかない 作:七支言
成功というやつには、地味な副作用がある。
会いたくない人間にばかり会うようになる、という副作用だ。
会社が少しずつ大きくなって、業界の端っこに名前が引っかかりはじめると、招かれる場所が増えてくる。交流会、勉強会、なんとか協会の懇親会。要するに、大人が名刺を交換しながら互いの値踏みをする品評会だ。
俺はそういう場が、心の底から苦手だった。
苦手だが、出る。仕事だからだ。人を信じないと決めた人間にも、取引先はいる。むしろ人を信じないからこそ、取引は契約と数字でかっちり固める必要があって、その入り口がこういう場だったりする。皮肉なものだ。馴れ合いが嫌で選んだ生き方の入り口に、馴れ合いの見本市が立っている。
だから俺は、最小限の労力で場をやり過ごす技術を身につけた。
名刺を渡す。当たり障りのない話を三十秒する。相手のメリットになりそうな情報を一つだけ置いて、次へ流れる。笑顔は貼る。中身は入れない。営業の戸塚が見たら「及第点ですね、心がこもってないところは加点しときましょう」と張り付いた、いつもの笑顔で褒めてくれそうな立ち回りだ。
その夜の会合も、いつも通りだった。
ホテルの宴会場、眩いシャンデリア、ごちゃごちゃした人混み。あちこちで響くグラスの触れ合う音と、誰のものか分からない笑い声。俺は壁際で、薄いウーロン茶を片手に、頃合いを見て帰ることだけを考えていた。
そこに、向こうから知った気配が近づいてきた。
※ ※ ※
薫だった。
いや、ここで薫が出てくるのは、もう様式美みたいなものだ。俺の人生の節目には毎回こいつが立っている。神社の狛犬かよ。
その夜の薫は、ひときわ目立っていた。髪を結い上げてイブニングドレスでめかしこんだその姿は、雑誌などで見る姿よりも更にもう一段、人目を吸い寄せる魔力を漂わせているようだった。
会場の人間が、半分くらいさりげなく薫のほうを気にしている。モデル、インフルエンサーとして、もうそういう次元の有名人になっていた。商品を一つ紹介すれば、翌日には店頭から消える。そういう力を持った人間が、業界の交流会にいれば、そりゃ視線も集まる。
薫はいくつかのグループに囲まれ、笑顔で受け答えをしていた。完璧な「私」の顔で。仕事用に磨き上げた、隙のない微笑み。
俺と目が合った。
一瞬、薫の動きが止まった。囲んでいた連中に何か断りを入れて、まっすぐこっちへ歩いてくる。人波が自然に割れて道ができるあたり格が違う。モーセかお前は。
「久しぶり」と薫は言った。「来てたんだ」
「ああ。仕事でな」
「元気そう」
「ぼちぼちな」
会話が、ほどけない。
昔なら、ここから薫はあれこれ話を広げようとした。必死に、健気に、俺との時間を引き延ばそうとした。再会のたびに毎回そうだった。
でも、その夜の薫は違った。
「そっか」
それだけ言って、薫は薄く笑った。引き止めるでもなく、踏み込むでもなく。当たり障りのない距離を、向こうから保っていた。
俺はそれを正直、楽だと思った。
ようやく薫も、俺との適切な間合いを学習したらしい。昔みたいに食い下がられると、こっちもあしらうのに地味に体力を使う。お互い大人になった。けっこうなことだ。
そう、処理した。
薫が囲みのほうへ戻っていく。その背中を、何人もの視線が追いかけていく。愛されている、というのはああいうことなんだろう。立っているだけで、空気がそっちへ傾く。
俺は逆だ。
その頃には、俺の会社も小さくない数字を出すようになっていた。安くて、そこそこ使えるものを、世界の隅々まで配る商売。一件あたりの儲けは、缶ジュース一本分にもならない。けど、それが何百万、何千万と積もると笑えない額になる。塵も積もれば、というやつを俺は文字通り金で実演していた。
名前は売れない。顔も売れない。薫みたいに街で振り返られることは、一生ない。
それでよかった。むしろそれがいい。
薫は人の心の中に居場所を作ることで大きくなった。俺は人の心から降りることで大きくなった。同じ会場に立って、同じように「成功者」と呼ばれて、向いている方向は、ちょうど真逆。
愛を集める人間と、愛を要らないと決めた人間。
その二人が、たまたま同じシャンデリアの下で、ウーロン茶とシャンパンを片手に立っている。よくできた皮肉だ。誰が書いた台本か知らないが、趣味が悪い。
……今ここで言っておく。この夜の俺の考えは、全部誤りである。文字通り一つ残らず。
※ ※ ※
そのあと俺は、何人かと名刺を交換した。
大手企業の部長。投資の話をしたがる男。やたら距離の近い同業者。みんな笑っていて、みんな目だけは笑っていなかった。この場の全員が、相手を品物として値踏みしている。誰がいくらの価値か。組んで得か、損か。
居心地は悪くなかった。
ここには好意がない。代わりに利害がある。利害は裏切らない。損得の計算で動く相手は、気まぐれで背を向けたりしない。むしろこういう、感情の抜けた場のほうが、俺には呼吸がしやすかった。
胸ポケットで電話が震えた。戸塚からだ。メッセージの内容は「例の件、先方が乗りました」とだけ。あいつのそういうところは信用できる。よけいな温度がない。
俺はグラスを置いて、帰ることにした。
※ ※ ※
帰り際のことだ。
俺はコートを受け取って、会場の出口へ向かっていた。その途中、少し離れたところで、薫がまた別の人間に囲まれているのが見えた。
薫がふと顔を上げて、俺に気づいた。
そして、小さく頭を下げた。
会釈、というほどでもない。ほんの少し、顎を引くくらいの動き。囲んでいる連中に気づかれないくらい、ささやかな。それでいて、はっきりと俺に向けられた、何かの仕草。
俺はそれに、軽く手を上げて応えた。じゃあな、の代わりに。そして、そのまま会場を出た。
その会釈が何だったのか、俺は考えなかった。
別れの挨拶だろう、くらいに思った。社交辞令の延長。知り合いが帰るのを見送る、ただそれだけの動き。深い意味なんてあるわけがない。
考える必要を、感じなかった。
……ここだ。何度でも言うが、俺の人生は、こういう「考えなかった」の積み重ねでできている。あのとき、ほんの少しでも立ち止まって、あの会釈の意味を考えていたら。何かが違ったのかもしれない。いや、たぶん違わなかった。けど、ゼロではなかった。その可能性ごと、俺は考えずに踏み潰した。いつも通り。
あの会釈が、二十年分の何かに、静かに打たれた句点だったことを。
俺は、知らなかった。
※ ※ ※
帰り道、夜の空気は冷たかった。
ビルの谷間の、細く切り取られた空に、星がいくつか光っていた。都会の星にしては、やけにくっきりしていた。
俺はタクシーを拾って、その夜のことはもう忘れた。翌日には次の仕事のことで頭がいっぱいになり、薫の顔も、あの会釈も、記憶のいちばん浅い層からするりと抜け落ちていった。
俺にとって、その夜はただの、退屈な交流会の一つだった。何百とこなしてきた品評会の、変わり映えしない一回。
でも、薫にとってはどうだったのか。
あの夜、薫が何を抱えてあの会場に立っていたのか。俺に向けたあの微笑みの薄さが、引き止めなかったあの距離が、最後の会釈が、何を意味していたのか。
俺は、何も知らなかった。
知ろうともしなかった俺は、軽く手を上げて、背を向けて、自分の乾いた世界へ帰っていった。
薫が、俺の手の届かない高みへ――いや、違うな。俺が薫の手を、とっくに振り払っていた、そのもっと先の場所へ。
二人の距離は、もう二度と交わらない高みへと、別々に昇っていく。
その片方が、何を諦めたあとの昇り方だったのかも知らないまま。