俺を孤立させた幼馴染(元男)が俺に惚れていた件、なお俺は一生気づかない 作:七支言
城を建てる話は、城が完成したところで終わる。物語というのはそういうものだ。
めでたしめでたし、で幕が下りる。その城の中で、主が何を思って暮らすのかは本筋じゃない。
俺の話も、そろそろ城が完成する。
会社を、売った。
数年かけて育てた会社を、もっと大きな会社が、丸ごと買い取った。昔の俺が聞いたら鼻で笑って信じなかったような額だった。塩むすびと薄い麦茶で生きてきた人間の口座に、桁の壊れた数字が振り込まれた。
これで、俺は晴れて自由を手に入れた。
二度と働かなくていい。二度と誰かに頭を下げなくていい。二度と人の機嫌をうかがわなくていい。金が、人間関係という不確かなものから、俺を完全に切り離してくれた。
欲しかったものが、手に入った。
誰にも依存しない、誰にも左右されない、自分だけの安全圏。あの孤独の底で夢見た城が、ついに完成した。
……はずだった。
※ ※ ※
会社を売るとき、四つの歯車は、きれいに解散した。
牧瀬、早乙女、戸塚。事前の契約どおり、それぞれに桁違いのボーナスが渡った。俺の取り分とは比べ物にならない額だが、あいつらにとっては、一生遊んで暮らせる金だ。文句の出ようがない。
別れは、あっけなかった。
牧瀬は、握手も求めずに言った。「次、面白い技術が出てきたんで。そっち行きます」。それだけ。鼻から息を抜くいつもの仕草で、もう次の計算を始めていた。湿った別れの儀式なんて、あいつには一ミリも必要なかった。
「十分稼ぎました」と早乙女は言った。「これで引退します。もう、誰とも深く関わらずに済む生活ができる」。慇懃に頭を下げて、それきりだった。あいつが何から逃げ続けていたのか、結局、俺は確かめなかった。確かめる関係じゃなかった。
戸塚は、いつもの明るい敬体で「いやー、いい仕事でした」と笑って、即、真顔に戻って去っていった。執着のかけらもない背中だった。あいつは最初から、何にも執着していなかった。
四人が、四方向に散った。
惜別の情、みたいなものはなかった。少なくとも、表向きは。
当たり前だ。俺たちは友達じゃなかった。利害で噛み合っていただけの、四つの歯車。噛み合いが終われば、ばらばらに転がっていく。それだけのことだ。
……ただ。
ばらばらに転がっていく三つの背中を見送りながら、俺はほんの少しだけ、妙な感覚を覚えた。
名前は付けなかった。付けると面倒なことになりそうだったから。
あいつらとは、信じ合ってなんかいなかった。心も通わせなかった。なのにいざ散ってみると、あの乾いた四人の時間が、思っていたより悪くなかったような気がした。
……いや。やめておこう。湿っぽい話は性に合わない。
歯車は、役目が終わればただの鉄くずだ。それでいい。
※ ※ ※
俺は、隠居した。
二十代の終わりで隠居、というと、たいていの人間は変な顔をする。普通はもっと働く。もっと欲を出す。一つ成功したら、次はもっと大きく、と。
けど、俺の目的は、最初から金儲けじゃなかった。ただの手段に過ぎなかった。
安全圏が欲しかっただけだ。誰にも頼らず、誰にも怯えずに済む場所。それが手に入った以上、もうこれ以上は要らない。次の山に挑む理由が、俺にはなかった。
静かな場所に、家を買った。
人付き合いの要らない暮らし。朝起きて、好きな時間に飯を食って、本を読んで、寝る。誰も俺を煩わせない。誰の機嫌もうかがわない。噂も、嫉妬も、裏切りも、もう俺には届かない。
激しい起伏のない植物のような平穏な暮らし。完璧だった。
あの孤独の底で設計した理想の生活が、寸分の狂いもなく、現実になっていた。
……で。
ここで、当時の俺が、絶対に認めたくなかったことを、今の俺が代わりに白状しておく。
その完璧な城の中で。
俺は、暇だった。
いや、暇、というのは、ちょっと違う。暇なら、何かで埋められる。そうじゃない。なんというか、城の中に、俺一人しかいなかった。当たり前だ。誰も入れないように設計した城なんだから。
誰も裏切らない。なぜなら、誰もいないから。
誰にも傷つけられない。なぜなら、誰も近くにいないから。
俺が手に入れた安全は、要するに、そういう種類の安全だった。何もない部屋は、確かに何も壊れない。
夜が、やたら長かった。
昔は、夜が来るのが救いだった。一人になれる時間。誰の視線も気にしなくていい時間。なのに、二十四時間全てが一人になると、その救いは、ただの長い虚無に変わった。時計の秒針の音が、やけにはっきり聞こえる家だった。
たまに、考えるとき、無意識に親指の爪で人差し指の腹を掻いていた。昔からの癖だ。何かを考え込むときに出る。最近、やたらとこの癖が出る。考えることばかり増えたからだ。話す相手はいない。だから全部、自分の頭の中だけでこね回す。こねても、答えは出ない。
誰かに「お前のそれ、すげえな」と言われることも、言うこともない。鏡として優秀だった俺の前には、もう、映すべき人間は一人もいなかった。
塩むすびを齧りながら、俺はときどき、考えた。
俺は、勝ったのか?
人を信じるのをやめて、仕組みだけを信じて、誰にも頼らない城を建てて、その中で一人で塩むすびを齧っている。これは、勝ちなのか?
……分からなかった。
分からないまま、塩むすびはいつも通り、うまかった。うまいものは裏切らない。それだけは、変わらなかった。
※ ※ ※
たまに、昔のことを思い出す。
人に囲まれていた頃のことを。誰かの良いところを見つけて、口に出して、相手が思いがけない顔をするのを見るのが、好きだった頃のことを。
あの頃の俺は、確かに何かを持っていた。金も、力も、安全もなかったけど、何かを持っていた。
今の俺は、金も、力も、安全も、全部持っている。
あの頃持っていた何かだけ、どこかに落としてきた。
いつ、どこで落としたのか。それすら、もう思い出せない。たぶん、あの孤独の底のどこかだ。人を信じるのをやめると決めた、あの夜のあたり。あそこで俺は、たぶん何か大事なものを、安全と引き換えに置いてきた。
……まあいい。
今さら取りに戻れるものでもない。戻る道も、もう分からない。
俺は、自分で選んだ城の中で、自分で選んだ静けさの中で、これからも一人で生きていく。それでいい。それを選んだのは、俺自身だ。後悔はしない。後悔できるほど、俺はもう湿っていない。
城は完成した。
俺は安全だ。
誰にも傷つけられない。誰にも裏切られない。これ以上、何を望むことがある。
俺の物語は、ここでめでたく終わる。
城の主が、その城の中で、たった一人、何を抱えて生きていくのかは――まあ、語るほどのことでもない。
欲しかったものは、全部、手に入れた。
ひとまずは、これで、めでたしめでたしだ。
ひとまず、だが。