俺を孤立させた幼馴染(元男)が俺に惚れていた件、なお俺は一生気づかない   作:七支言

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久しぶり、で心臓を止めにくる女

 薫を街で見かけたのは、大学二年の秋だった。

 

 いや、見かけた、は正確じゃない。目に入った、が正しい。

 

 駅の構内、でかい広告の中に薫がいた。化粧品のポスターだ。柔らかな光の中でこっちを見て微笑む横顔。整いすぎた目鼻立ち。一目で薫だと分かった。分かってしまった。隣を歩く何人かが足を止めて見上げていた。

 

 薫は、モデルになっていた。

 

 あとで知ったが、その頃にはもうそれなりに名の知れた存在になっていたらしい。雑誌に載り、広告に起用され、SNSでは何万人もが薫の一挙一動を追いかけていた。何を着て、何を食べ、どこへ行ったか。会ったこともない誰かが、それを心待ちにしている。

 

 人を惹きつける力。生まれ持ったそれを、薫はそのまま職業に変えていた。

 

 なるほど、と思った。薫には向いている。あれだけ人目を引く容姿なら有り得る進路だ。

 

 その思考に、痛みはなかった。

 

 昔なら、薫の輝きを見るたび胸の底に薄い澱が沈んだ。敵わない、というあの感覚。けど、それすらもう湧かない。薫は薫で眩しい場所にいる。俺は俺で目立たない暗い場所にいる。ただそれだけ。比べる気持ちさえ、とっくに摩耗していた。

 

 俺はポスターから目を逸らして歩き出した。

 

 それで終わりだと思っていた。ところが世界は、ときどき意地が悪い。

 

 数日後、俺は大学近くのカフェで、本物の薫と出くわした。

 

※ ※ ※

 

 撮影の帰りだったのだろうか、私服でも薫は人目を引いた。店に入ってきた瞬間、何人もの視線が自然と吸い寄せられる。その視線の中を歩いてきた薫が、ふと俺に気づいた。

 

 時間が止まったように感じた。

 

 薫の表情が、いくつもの色をものすごい速さで通り過ぎた。驚き、戸惑い、そして――うまく名前のつけられない、熱を帯びた何か。一瞬で表れて、一瞬で隠された。

 

 次の瞬間には、薫は洗練された微笑みを浮かべて、俺の席へ近づいてきた。

 

「久しぶり。私のこと、忘れてないよね」

 

 冗談めかして、薫は言った。

 

 その声で気づいた。薫の一人称が、「私」になっていた。昔の「ぼく」じゃない。大人びた、整った「私」。仕事を通して、そういう自分を作り上げてきたんだろう。

 

「ああ、久しぶり」と俺は返した。「元気そうだな。活躍してるみたいで、よかった」

 

 我ながら驚くほど落ち着いた声が出た。

 

 昔の幼馴染と何年かぶりに再会する。普通ならもっと心が動く場面なのかもしれない。懐かしさとか、気まずさとか、複雑なやつが押し寄せる場面なのかもしれない。

 

 けど、俺の中にはそのどれも、ほとんど湧いてはこなかった。心の表面に僅かにさざなみが寄せてきた程度だ。

 

 目の前にいるのは、よく知った顔をした、もう関わりのない世界の人間。それだけだった。すれ違う有名人に、たまたま知り合いの面影を見つけた。その程度の淡い感慨しか、俺の中にはなかった。

 

 薫は俺の向かいに、断りもなく座った。

 

「……どう、してたの。ぼ――私と、会わなかったあいだ、きみは」

 

 声が、わずかに揺れた。

 

 そして俺は気づいた。

 

 いや、聞き間違いかと思った。でも薫は確かに「ぼく」と言いかけて、慌てて「私」と言い直した。世間に見せる整った「私」。なのに俺の前では、薫は昔の「ぼく」を覗かせてしまうらしかった。

 

 その小さなほつれに、しかし俺は何も感じなかった。

 

「大学で、勉強してる。それなりに忙しくやってるよ」

 

 当たり障りのないことを答えた。今、何を学んでいるか。何を目指しているか。そういう本当に大事なことは、何ひとつ話さなかった。話す必要を感じなかった。

 

 薫は俺の言葉の薄さに、戸惑っているようだった。

 

 もっと踏み込んだ言葉を待っているような。久しぶりに会えた幼馴染に、もっと心を開いてほしいような。そういうひそかな期待が、薫の表情の端々に滲んでいた。

 

 でも、俺は開かなかった。開く心が、もうなかった。

 

 あの孤独の底で、俺は人に心を開くのをやめた。薫に対しても例外じゃない。むしろ薫は――いや、それは考えないことにしていた。とにかく俺はもう、誰の前でも心の扉を開けない人間になっていた。

 

 薫はいろいろなことを話した。最近の仕事のこと。撮影で行った場所のこと。共通の昔の知り合いのこと。話題を次から次へと繰り出して、俺を会話で少しでも長く繋ぎ止めようとしているようだった。

 

 その健気さは、傍から見ればきっと胸を打つものだったんだろう。何万人にも注目される人気者が、冴えない昔の幼馴染を相手に、必死に話題を探している。奇妙で、どこか痛々しい光景だったかもしれない。

 

 けど、俺はただ相槌を打っていた。

 

「へえ」「そうなんだ」「すごいな」

 

 心のこもらない、平坦な言葉。かつて心から「すげえ」と言っていた、あの言葉の抜け殻みたいな響き。

 

 ……ここ、自分でも嫌な場面だ。昔の俺なら、薫の話の一つひとつに本気で食いついて、本気で「すげえ」と言っていた。それが俺の取り柄だった。その取り柄が、きれいに死んでいる。死体が相槌を打っている。

 

 薫の目に、だんだん焦りみたいなものが浮かんでいくのが分かった。

 

 何を話しても、俺の反応は変わらない。穏やかで、丁寧で、どこまでも遠い。分厚いガラスの向こうから相手をしているような。薫がどれだけ言葉を尽くしても、そのガラスはびくともしなかった。

 

 たぶん薫には、それがいちばん堪えたんだと思う。

 

 憎まれているなら、まだよかったのかもしれない。怒鳴られても、なじられても、それは心が動いている証拠だから。でも俺の中にあったのは、憎しみですらなかった。ただの無関心。薫は俺にとって、もう心を動かす対象ですらなくなっていた。

 

 何万人に注目されても。世界中から愛を集めても。目の前の俺一人の反応さえ、思うようにならない。薫の目の焦りは、そう言っているようにも見えた。

 

 ――もっとも、なぜそこまで焦るのか、俺には分からなかったし、分かろうとも思わなかった。

 

 頃合いを見て、俺は席を立った。

 

「じゃあ、俺そろそろ行くから。元気でな」

 

 薫は何か言いたげに口を開きかけた。けど結局、何も言えなかった。引き止める言葉を探して、見つけられなかったのか。見つけても、言う勇気が出なかったのか。

 

「……またね」

 

 かろうじて、薫は言った。

 

「ああ」と俺は返した。社交辞令だと互いに分かっている「またね」。

 

 俺は店を出た。振り返らなかった。

 

 外の空気はもう冬の匂いがした。コートの襟を立てて歩き出す。さっきの再会のことは、もう頭の片隅にも残っていなかった。

 

 薫がガラス越しのあの時間をどんな思いで過ごしていたか。店を出ていく俺の背中をどんな目で見送っていたか。

 

 俺は何も知らなかった。知ろうとも思わなかった。

 

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