東方アウトレイジ ー黒社会異変ー   作:たこ焼き 龍月

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前回作った作品より、暗黒社会を強めにして物語作ってみました。
勢力図は前回と変わらないです。

*手直し中です


第一章 博麗の賭場

 

 博麗神社の夜は、表と裏で匂いが違う。

 表の境内は、焼けた醤油と脂の匂いが立ちこめている。安酒の酸い匂い、綿菓子の砂糖が焦げる甘さ、狐面の子供が走り抜けるたびに巻き上がる土埃。赤い提灯が風に揺れ、その灯が石段の下まで橙色に滲んで、参道の砂利の一粒一粒に小さな影を落としていた。笛の音、太鼓の腹に響く低音、酔った妖怪の笑い声。人間も妖怪も、今夜だけは同じ列に並び、同じ串を食い、同じように小銭を落とす。

 そこだけ見れば、平和だった。

 

 社務所の裏、苔の生えた石畳を回り、古い倉の戸を一枚くぐった先は、別の国だ。

 まず鼻を突くのは、畳に染みた酒の匂いだった。何年もこぼされ続けた酒が藁の芯まで腐らせ、踏むたびに足の裏がわずかに沈む。壁は煙草の脂で飴色に変わり、天井の梁には煤が幾重にも層をなしている。行灯の頼りない光の中、低い卓に札束と小判が積まれ、賽の目が転がるたび、男たちの喉から笑いとも唸りともつかない音が漏れた。汗の匂い。脂の匂い。獣の体臭。妖怪は牙を隠し、人間は怯えを隠す。どちらも、負けた時だけ本性を出す。

 

 賭場の中央に、博麗霊夢は座っていた。

 赤と白の巫女服が、行灯の橙に染まってなお、妙に冷たく見える。膝を崩し、欠けた湯呑みに口をつけながら、霊夢は賽の目を見てもいない。部屋全体の空気だけを眺めている。誰が勝っているか。誰が焦っているか。誰が嘘をついたか。誰が、袖の下に刃物を呑んでいるか。

 そういうものは、賽の目よりよほど正直だった。

 

「壺振り。手、震えてるわよ」

 

 部屋が一瞬で静かになった。賽の転がる音も、銭の擦れる音も止む。

 壺を持つ河童が、ぎくりと肩を跳ねさせる。指の関節が白くなっていた。周りの男たちが、いっせいにその手元を見た。霊夢は湯呑みを置き、面倒くさそうに頬杖をついた。

 

「いまさら綺麗に遊べとは言わないけどさ。うちの場で下手打たれると、私の顔が潰れるのよ」

「い、いや、博麗さん、これは──」

「言い訳は外。ここ、空気が悪くなるから」

 

 霊夢が指を鳴らすより早く、入口脇の大柄な妖怪が動いた。丸太のような腕が河童の首根っこを掴み、畳から引き剥がす。河童は爪を立てて抵抗しかけたが、妖怪のもう一方の手が顎を下から押し上げると、首の骨が軋む音がして、それきり動かなくなった。畳に落ちた壺が、ごとりと乾いた音を立てて転がる。賽の目は、誰も見なかった。

 

「次」

 

 その一言で、賭場は何事もなかったように動き出した。

 ここでは、叫んだ者から負ける。

 

 泣いた者から毟られる。

 

 怒った者から消える。

 博麗神社の賭場は、幻想郷で一番安全で、一番危ない場所だった。

 安全なのは、霊夢がいるから。

 

 危ないのも、霊夢がいるからだ。

 隅では、屋台の親方たちが今夜の上がりを木箱に詰めていた。小判が触れ合い、ちゃり、ちゃりと鳴る。焼き鳥、射的、見世物小屋、輪投げ、酒場、茶屋。どれも表向きは祭りを盛り上げる善良な商いだが、場所代、守り代、揉め事処理代、奉納金──名目を変えて、最後は霊夢の手元に流れてくる。

 賽銭箱にはろくに金が入らない。

 

 だから神社は、別の箱で生きている。

 

「霊夢さん」

 

 背の低い狐の妖怪が、木箱を抱えて近づいた。露店を束ねる古株だ。顔は笑っているが、目は笑っていない。三角の耳が、行灯の灯を受けて先だけ光っている。

 

「今月分です。少しばかり、山の連中に客を取られましてね。守矢が大きな講を開いてるそうで」

「ふうん」

 

 霊夢は木箱を開け、中身を一瞥した。小判の量は、いつもより少ない。指先で一枚つまみ、灯にかざして、また落とす。

 

「山の神様は商売熱心ね。祈祷に健康札に互助会、今度は祭りの客まで持っていくわけ」

「向こうは景気がいいですからね。巫女さんも愛想がよくて、神様も金払いがいい。人里の若い衆は、あっちのほうが今風だって──」

 

 狐は最後の言葉を呑み込んだ。

 霊夢の目が、ほんの少し細くなったからだ。

 

「今風ねえ」

 

 霊夢は木箱のふたを閉じた。蝶番が軋む。

 

「なら、あっちに行けば」

「め、滅相もない。うちは昔から博麗さん一本で」

「そう。なら昔からの付き合いらしく、来月はちゃんと持ってきて」

「もちろんです」

 

 狐は深々と頭を下げた。首筋に汗が玉になって浮き、行灯の赤い光を受けてぬらりと光る。

 その時だった。

 賭場の奥で、卓がひっくり返った。

 札束が宙に舞い、酒瓶が壁に当たって砕け、ガラスの破片が行灯の光をきらきらと撒き散らす。怒号が畳を叩いた。大柄な人間の男が立ち上がり、向かいの山犬の妖怪の襟を掴んでいる。卓の角で割れた額から、血が一筋、男の頬を伝っていた。

 

「てめえ、今、牌すり替えただろうが」

「証拠もねえのに騒ぐな、人間風情が」

「俺の金を舐めやがって──」

 

 男が懐に手を入れた。鞘から抜きかけた刃物の柄が、ちらりと行灯に光る。

 部屋の空気が、一段冷えた。

 誰も止めない。

 

 止めれば、自分が巻き込まれる。男たちは賽から手を離し、ただ畳に視線を落とす。

 山犬が牙を剥いた。唇がめくれ上がり、黄ばんだ牙の間から低い唸りが漏れる。人間の男は酒で顔を赤くしていたが、目だけは据わっていた。負けが込んだ者の目だ。今、自分が何をしているのかもわからないまま、最後の一線だけは踏み越えようとしている。

 霊夢は立ち上がらなかった。

 ただ、湯呑みを持つ手を、ほんの少し動かした。

 次の瞬間、男の手元に紙札が貼りついていた。

 

「……あ?」

 

 刃物を抜こうとした手が、ぴたりと止まる。指が動かない。腕も動かない。腱が浮き、肌の下で筋肉が暴れているのに、関節がまるで石にされたように固まっている。山犬も同じだった。牙を剥いたまま、首に貼りついた札に縫い止められ、喉の奥でくぐもった唸りだけを上げている。

 

「ここで揉めるなって、入口に書いてあるでしょ」

 

 霊夢はゆっくり立ち上がった。

 下駄の歯が、酒の染みた畳に沈んで、ぐ、と鈍い音を立てる。周囲は目を伏せた。霊夢が通るために、人も妖怪も自然に道を開ける。獣の体臭と、こぼれた酒の匂いの間を、霊夢は静かに歩いた。

 男の前に立ち、顔を覗き込む。

 

「誰の場だと思ってるの」

 

 男は答えようとした。だが声が出ない。喉が震え、唇から泡混じりの息だけが漏れる。

 霊夢は男の懐から刃物を抜き取り、刃を行灯にかざした。安物だが、刃先まで丁寧に研がれている。脂を拭った跡もない。殺す気があったかは知らない。だが、抜けば同じことだ。

 

「外に出して」

 

 用心棒たちが両脇から動いた。札で固められた二人を、荷物のように小脇に抱える。男のつま先が畳を擦り、引きずられた跡に血の点々が残った。

 

「博麗さん、待ってくれ。こいつが先に──」

「どっちが先でも同じ」

「金を返してくれ。頼む、あれは家の──」

「賭けた時点で、あんたの金じゃない」

 

 男の顔が歪んだ。怒りと恐怖の混ざった、子供のような表情だった。だが、霊夢はもう見ていない。

 戸が開き、外の祭り囃子が一瞬だけ流れ込む。太鼓、笛、笑い声、夜風。次の瞬間、戸が閉まる、その直前に、倉の外で何かが鈍く畳まれる音と、押し殺した呻きが聞こえた。それきり、音はまた遠くなった。

 賭場は再び静かになる。

 

「続けて」

 

 誰かがぎこちなく笑った。それを合図に、賽がまた振られる。割れた酒瓶の破片を、誰も片付けなかった。

 幻想郷の平和とは、こういうものだった。面倒なことは戸の外へ出し、畳に残った金だけを数える。流れた血は、そのうち酒の染みと見分けがつかなくなる。

 霊夢は奥の部屋に戻り、帳簿を開いた。筆跡は乱れているが、数字だけは妙に正確だ。屋台の上がり、賭場の取り分、用心棒代、異変後の仲裁料、八雲からの修繕費、守矢への対抗費。赤字と黒字が入り乱れ、最後はどうにか黒で終わっている。

 博麗神社は貧乏だ。

 

 少なくとも、表向きは。

 

「相変わらず、地獄みたいな帳簿ですねえ」

 

 声は、天井の方からした。

 霊夢は顔を上げない。

 

「文。入る時は戸から入りなさい」

「戸から入ったら、入場料を取られるじゃないですか」

 

 射命丸文は梁の上に腰掛けていた。煤けた梁に黒い翼を畳み、煤の中に溶け込むように。片手に手帳、もう片手に古いカメラ。笑顔は軽い。だが、その目は帳簿の数字よりも細かく物を見ている。

 天狗は情報を食って生きる。

 

 文はその中でも、とびきり腹を空かせた女だった。

 

「取材なら帰って。今日は忙しいの」

「知ってますよ。外で二人ほど運ばれていきましたし。さっきも一人、戸の外で静かになりましたね。博麗神社の夜祭り、大盛況です」

「記事にしたら落とすわよ」

「どこへ?」

「地面より下」

 

 文は楽しそうに笑った。

 

「怖い怖い。ですが今夜の私は、売り込みに来たんです」

「情報?」

「ええ。鮮度抜群、火傷注意。腐る前に買っておいたほうがいいネタです」

「値段は」

「博麗さん次第ですね」

 

 霊夢は帳簿を閉じた。

 文がただの噂話でここまで来ることはない。わざわざ血と酒の匂う賭場の奥まで潜り込む時は、誰かが泣く話を持ってきた時だ。

 

「言いなさい」

「命蓮寺の船荷が消えました」

 霊夢は眉を動かした。

「船荷?」

「ええ。表向きは寺の法具と救援物資。実際には、各勢力の荷が混じっていたようで。山の部品、永遠亭の薬箱、白玉楼の金庫、紅魔館の封印箱、それから八雲の建材書類」

「命蓮寺が運んでたなら、命蓮寺が揉めればいいでしょ」

「それだけなら、私も山でお茶を飲んでますよ」

 

 文は梁から軽く飛び降りた。羽が一枚、ふわりと遅れて落ちる。足音はほとんどしない。懐から一枚の紙片を取り出し、霊夢の前に置く。

 端が焼け焦げ、黒い灰がぱらりと畳に落ちた。文字は一部しか読めない。だが、残っていた朱印だけははっきりしている。

 博麗の印。

 霊夢の表情が消えた。

 

「どこで拾ったの」

「命蓮寺の水路近くです。正確には、そこで拾った者から買いました。さらに正確に言うなら──拾った者は、喉を裂かれて水路に浮いていましたので、もう値段の交渉はできませんでした。情報としては、私が最初の買い手です」

「悪趣味ね」

「情報屋ですから」

 

 霊夢は紙片を指で押さえた。確かに博麗の印だ。だが、こんな書類に判を押した覚えはない。

 いや、覚えがないだけで、押していないとは言い切れない。

 幻想郷では、誰もが他人の名前を使う。

 

 神も、妖怪も、人間も、必要なら平気で判を偽る。

 

「これ、何の書類」

「おそらく、大結界再整備計画の裏帳簿の一部です」

 

 その名前が出た瞬間、部屋の空気が重くなった。行灯の炎が、理由もなく一度、大きく揺れる。

 大結界再整備計画。

 幻想郷の結界を安定させるための大事業。表向きは八雲紫が中心となり、博麗神社と各勢力が協力する公共事業。だが、霊夢は知っている。

 あれは、金になる。

 結界の補修には土地が動く。資材が動く。人が動く。妖怪の山の技術、命蓮寺の物流、守矢の信仰、人里の労働力、地底の処理場。すべてが動けば、金も動く。

 そして金が動けば、必ず血の気が増える。

 

「紫は」

「まだ表には出ていません。でも、藍さんが山と人里を走り回っています。かなり慌てているようで」

「紫が慌てる?」

「珍しいでしょう」

「嘘くさい」

「ええ。たぶん、慌てているように見せているだけです」

 

 霊夢は文を睨んだ。

 

「で、あんたは何が欲しいの」

「博麗さんの一言です」

「は?」

「この件、異変にしますか。それとも、ただの盗難で済ませますか」

 

 霊夢は答えなかった。

 異変。

 

 その言葉は便利だった。

 異変にしてしまえば、霊夢はどこにでも踏み込める。守矢だろうが永遠亭だろうが紅魔館だろうが、相手が何を言おうと「異変解決」の名で叩き潰せる。

 だが、異変にすれば表沙汰になる。

 

 表沙汰になれば、博麗の印が出た理由を問われる。

 それはまずい。

 霊夢は自分が清廉だなどとは思っていない。だが、自分だけが悪者にされるのは我慢ならなかった。幻想郷で綺麗な顔をしている連中ほど、裏ではもっと汚い水を飲んでいる。

 

 神は信仰を売る。

 医者は沈黙を売る。

 寺は救いを売る。

 天狗は真実を売る。

 妖怪は恐怖を売る。

 博麗は平和を売る。

 売り物が違うだけだ。

 

「文」

「はい」

「その紙、誰に見せた」

「まだ誰にも。高く売るなら、最初の客は選びます」

「私を選んだ理由は」

「一番怒りそうだったからです」

 

 霊夢は小さく笑った。

 

「いい性格してるわね」

「よく言われます」

 

 その時、部屋の隅が裂けた。

 空間が、薄い布のようにめくれる。その裂け目の奥に、無数の赤い目がぎっしりと並んでこちらを覗いていた。一瞬で閉じる。そこから一枚の封筒が落ちた。紫の気配だ。姿は見えない。ただ、嫌になるほど上品な香の匂いだけが、血と酒の匂いを押しのけて残る。

 霊夢は封筒を拾った。中には短い文が一枚。

 

『余計なことはしないで。これは幻想郷の管理案件です』

 

 霊夢は文を握り潰した。紙の繊維が指の中で千切れる。

 

「管理案件、ね」

 

 文が横から覗き込む。

 

「これはこれは。八雲様もお早い」

「見た?」

「見えました」

「忘れなさい」

「天狗にそれを言います?」

 

 霊夢は立ち上がり、壁に掛けた御札の束を取った。さらに、袖の中に細い針を数本滑り込ませる。針先が指の腹を軽く撫で、薄く血が滲んだのを、霊夢は気にもしなかった。

 

「どちらへ」

「外」

「お供しましょうか」

「いらない」

「でも、道案内は必要では。命蓮寺の水路は夜になると少し面倒ですし、何より死体……いえ、喋れない方々が増える前に、現場を見たほうがいい」

 

 霊夢は足を止めた。

 

「文」

「はい」

「今、わざと言い直したでしょ」

「職業病です」

 

 霊夢は舌打ちした。

 

「ついてくるなら、邪魔しないで」

「もちろん。私は撮るだけです」

「撮ったら壊す」

「カメラを?」

「あんたを」

 

 文は笑った。冗談として受け取った顔をしていたが、目は少しも笑っていなかった。

 倉の戸を開けると、外の祭りはまだ続いていた。赤い提灯、人の波、酔った妖怪の笑い声。先ほど放り出された男の姿はもうない。石段の脇に、割れた酒瓶と──その横に、まだ乾いていない黒い染みが、石畳に滲んで広がっていた。用心棒が砂をかけて隠そうとした跡があったが、隠しきれていない。

 霊夢は染みを一瞥し、それ以上は見なかった。境内を横切る。

 屋台の連中が一斉に頭を下げる。客たちはそれを見て、不思議そうに道を開けた。表の霊夢しか知らない者には、巫女が通るだけに見えただろう。だが、商売人たちは知っている。今の霊夢は、賽銭を数えに行く顔ではない。

 誰かの首根っこを掴みに行く顔だ。

 石段を下り、人里へ続く道に出ると、祭りの音は背中で遠ざかった。夜風が竹林の匂いを運んでくる。湿った土、古い木、苔、そしてどこかで燃えた紙の匂い。月は雲に半ば隠れ、道の両脇の竹が、青白い光の中で骨のように細く立ち並んでいた。

 文は霊夢の少し後ろを歩いていた。足音はない。だが、視線だけがうるさい。

 

「何」

「いえ。博麗さん、怒っているなあと」

「怒ってないわよ」

「怒ってない人は、そんな歩き方をしません」

「じゃあ黙って歩きなさい」

 

 道の先に、人里の外れが見えてきた。昼間は荷車が行き交う道だが、夜は別の顔になる。問屋の倉庫、火消しの詰所、使われなくなった井戸、古い札の貼られた門。どの建物も窓に明かりはなく、ただ黒い塊として夜に沈んでいる。表の商いが寝静まった後、裏の商いが目を覚ます場所だ。

 命蓮寺の水路へ続く横道には、縄が張られていた。

 だが、見張りはいない。

 

「妙ね」

 

 霊夢は縄をまたいだ。

 

「見張りを置く余裕もなかったか、置いた見張りが帰ったか」

 

 文が言う。

 

「帰っただけならいいけどね」

 

 水路に近づくにつれ、匂いが変わった。淀んだ水の匂いに、鉄錆のような臭いが混じる。血の匂いだ。それも、一人分ではない。

 水路のそばには、壊れた荷車が残っていた。車輪が砕けて軸が泥に突き刺さり、積み荷を覆っていた布が黒い水に半ば沈んでいる。辺りには割れた木箱、濡れてふやけた紙、踏み荒らされた草。そして、草の上に点々と続く、乾きかけた黒い飛沫。争いの跡はあるが、派手ではない。むしろ、手際が良すぎる。

 騒ぐ前に黙らせた。

 

 燃やす前に運んだ。

 

 残すものと消すものを、誰かが冷静に選り分けている。

 霊夢はしゃがみ込み、泥の中から小さな木片を拾った。焼け焦げた端に、薄く寺の印が残っている。木片の裏に、乾いた血が爪の形にこびりついていた。誰かがこれを掴んで、引きずられていったのだ。

 

「命蓮寺の箱ね」

「ええ。ですが、中身は寺のものだけではありません」

 

 文が別の紙片を差し出した。永遠亭の薬印が、かすかに残っている。

 

「薬箱」

「たぶん」

「たぶん?」

「中身はありませんでした。箱だけです。まるで、ここで中身を抜き取ったみたいに」

 

 霊夢は水路を見た。黒い水が、雲間から漏れる月明かりを細く揺らしている。水面に、何か白いものが浮いて、流れに引かれて遠ざかっていった。布か、紙か、あるいは。霊夢は確かめなかった。

 

「船は」

「下流で見つかりました。空でした。船頭は行方不明──いえ、正確には、片腕だけが葦に引っかかっていたそうです」

「命蓮寺は」

「表向きは沈黙。村紗さんは探し回っているようですが、白蓮さんはまだ動いていません」

「動けないのか、動かないのか」

「どちらに見えます」

「後者」

 

 霊夢は立ち上がった。膝についた泥を払う。

 その時、遠くで小さな物音がした。

 倉庫の裏。

 

 何かが倒れ、ずるりと引きずられるような音。

 霊夢は文を見る。文は既にカメラを構えていた。

 

「撮るな」

「習性で」

 

 二人は音の方へ向かった。足音を殺し、倉庫の壁伝いに角を回る。

 倉庫の裏には、倒れた灯籠と、積まれた空箱があった。その陰に、ひとりの男が倒れている。命蓮寺の下働きだろう。衣の端に寺の紋がある。腹を押さえた手の指の間から、黒いものがゆっくりと滲み出し、地面に小さな池を作っていた。顔は泥と汗と血で汚れていたが、胸はまだ、浅く上下している。

 霊夢は男のそばに膝をついた。血溜まりが下駄の歯を濡らす。

 

「聞こえる?」

 

 男のまぶたが震えた。

 

「博麗……さん……」

「何があった」

 

 男は唇を動かした。声がかすれ、泡混じりの息に途切れる。霊夢は耳を寄せた。男の口から、鉄の匂いがした。

 

「荷が……違った……」

「違った?」

「聞いてた……中身と……違う……あれは……ただの金じゃ……」

 男の目が、何かを思い出したように大きく見開かれた。瞳に、月が小さく映る。

 

「帳簿……名前……全部……」

 

 文の表情が変わった。

 霊夢は低く言う。

 

「誰がやった」

 

 男は震える指を、ゆっくりと持ち上げた。爪の先まで血に濡れた指は、水路の方ではない。人里でもない。もっと奥、竹林と山道の境目を指している。

 

「火……白い……鳥……」

「鳥?」

「燃えない……女……」

 

 言い終える前に、指が落ちた。腹を押さえていた手から力が抜け、傷口から流れ出た血が、ひときわ大きく地面に広がる。男の胸は、もう動かなかった。

 霊夢はしばらく動かなかった。

 文も、珍しく口を閉じている。カメラを構えた手が、わずかに下りた。

 

 火。

 白い鳥。

 燃えない女。

 藤原妹紅。

 

 人里の自警組。火消し、問屋、人足の手配、揉め事の仲裁。表向きは人里を守る者たち。だが実際には、幻想郷中の汚れ仕事を下請けしている連中でもある。

 霊夢は男のまぶたを指で閉ざしてやり、立ち上がった。

 

「文」

「はい」

「今の、誰にも言うな」

「それは難しい相談ですね」

「言うな」

 

 霊夢の声には、札よりも強い圧があった。

 文は少しだけ目を細めた。

 

「博麗さんは、妹紅さんを庇うんですか」

「まだ決めてない」

「では、何を」

「誰に利用されたのかを決める」

 

 霊夢は倒れた男を見下ろした。もう、命はない。語れることは、これで全部だ。

 

「妹紅が単独でこんな真似をするとは思えない。慧音が絡んでいるなら、なおさらよ。あいつらは馬鹿じゃない。火をつけるなら、燃え広がる場所を選ぶ」

「つまり?」

「この荷は、盗まれたんじゃない」

 

 霊夢は焼け焦げた紙片を握った。灰が指の間からこぼれる。

 

「爆弾として置かれたのよ。幻想郷中の悪党が、互いに疑い合うように」

 

 文は小さく息を吐いた。

 

「いい見出しですね」

「書いたら祓う」

「では、心の中だけに」

 

 霊夢は水路へ戻った。黒い水が静かに流れている。その向こうには、命蓮寺へ続く道。さらに奥には妖怪の山。別の方角には永遠亭の竹林、紅魔館の湖、守矢の山道、白玉楼へ続く冥界の入口。

 どこへ行っても、汚れた金と、乾いた血の匂いがした。

 紫は「余計なことをするな」と言った。

 

 つまり、余計なことをされると困るのだ。

 守矢は客を奪っている。

 

 つまり、博麗の縄張りを削っている。

 命蓮寺は沈黙している。

 

 つまり、喋れない理由がある。

 永遠亭の箱は空だった。

 

 つまり、中身はどこかで使われる。

 そして、妹紅の名が出た。

 幻想郷の底に溜まった火種が、誰かの手でひとつに集められている。

 

「面倒くさい」

 

 霊夢は呟いた。

 

「本当に面倒くさい」

 

 文が隣に立つ。

 

「でも、嫌いではないでしょう」

 

 霊夢は答えなかった。

 祭りの方角から、遠く太鼓の音が聞こえた。どん、どん、と腹に響く。まるで誰かが、地面の下から戸を叩いているようだった。あるいは、土の下に埋められた誰かが、まだ生きていて、出してくれと叩いているような。

 霊夢は袖の中の針を確かめた。御札の束を握り直す。夜風が髪を揺らし、赤いリボンが闇の中で、裂けた炎のように翻った。

 

「文」

「はい」

「紫に伝えて」

「何と」

「管理案件だろうが何だろうが、博麗の名前を使った時点で、これは私の件よ」

 

 文は笑った。

 

「そのまま載せたいくらいです」

「載せるな。伝えろ」

「かしこまりました」

 

 文の翼が広がった。夜気を孕んで、ばさりと一つ羽ばたく。黒い羽が夜に溶ける寸前、彼女は振り返った。

 

「博麗さん」

「何」

「今回、たぶん皆さん嘘をつきますよ」

 

 霊夢は鼻で笑った。

 

「いつものことでしょ」

「今回は、嘘をついた順に死ぬかもしれません」

「じゃあ、幻想郷はすぐ静かになるわね」

 

 文は一瞬だけ黙り、それから嬉しそうに、夜空へ跳ね上がって消えた。

 霊夢はひとり残された。

 水路のそば。焼けた箱。泥に沈んだ紙片。冷たくなった下働き。引きちぎられた船頭の腕。消えた船荷。博麗の偽印。八雲の封書。妹紅の影。

 全部が一本の線で繋がっているようで、まだ何も見えない。

 だが、ひとつだけわかることがあった。

 誰かが、幻想郷の均衡を壊そうとしている。そして、そのために、もう何人も殺している。

 

 霊夢は夜空を見上げた。

 月は薄い雲に半ば隠れ、境界の向こう側で、腐った銀貨のように鈍く光っていた。幻想郷は美しい。美しいものほど、裏返せば汚れが目立つ。神社も、寺も、館も、山も、地底も、冥界も、どこも同じだ。

 綺麗な顔をした連中が、綺麗な言葉で、汚いものを包んでいる。

 その包み紙が、今夜一枚破れた。下から覗いたのは、血の色だった。

 

「異変、ね」

 

 霊夢は笑った。

 その笑いは、巫女のものではなかった。

 

 賭場の胴元の笑いでもない。

 

 もっと乾いていて、もっと冷たい。

 面倒事を片付ける者の笑いだった。

 霊夢は踵を返し、人里の奥へ歩き出した。まずは火消しの詰所。次に問屋。妹紅がいなければ慧音を当たる。慧音が喋らなければ、歴史のほうを叩く。紫が邪魔をするなら、隙間ごと祓う。守矢が絡んでいるなら山を降ろす。永遠亭が薬瓶を隠しているなら竹林をひっくり返す。紅魔館が笑っているなら、その夜会を血で台無しにしてやる。

 誰が上だろうが関係ない。

 

 誰が神だろうが関係ない。

 

 誰が妖怪だろうが関係ない。

 博麗の名前を使った。

 それだけで、十分だった。

 道の先で、提灯の灯がひとつ、ふっと消えた。

 その暗がりの向こうで、誰かがこちらを見ている気配がした。人間か、妖怪か、天狗か、式か。霊夢にはわからない。わからないが、息を呑む音と、踵を返して逃げる足音だけは、はっきり聞こえた。

 霊夢は袖から札を一枚抜いた。

 逃げた影が角を曲がる。

 

 指が、軽く振られる。

 

 札が飛ぶ。

 

 夜気が、紙一枚の厚みで縦に裂ける。

 肉を打つ鈍い音。

 

 短い悲鳴が、倉庫街の奥で、喉を潰されたように途切れた。何かが崩れ落ち、それきり静かになる。

 霊夢は歩みを止めない。

 捕まえた相手が誰かなど、後で見ればいい。生きていればの話だが。

 

 今夜は、長くなる。

 遠くで祭り囃子が続いている。笑い声も、太鼓も、笛も、まだ止まらない。表の幻想郷は、足元で人が死んでいることも知らずに浮かれている。

 その足元で、裏の幻想郷が、ゆっくりと目を覚ました。

 霊夢は暗がりの中で呟いた。

 

「さあ、誰から落とし前つける?」

 

 返事はなかった。

 ただ、夜の奥で、何かが燃える匂いと、鉄錆の匂いだけが、風に乗って流れてきた。

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