東方アウトレイジ ー黒社会異変ー   作:たこ焼き 龍月

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終章 博麗の落とし前

 

 黒社会異変。

 

 射命丸文の新聞は、その名を使わなかった。

 

 表の見出しは、こうだった。

 

『幻想郷裏荷流通問題、博麗神社にて調停。人里記録制度の設置へ』

 

 つまらない見出しだ、と文自身が言った。

 

 霊夢は「その方がいい」と言った。

 

 だが、裏の見出しはすぐに広まった。

 

 こいつら、全員悪党。

 

 誰が言い始めたのかはわからない。

 博麗神社の賭場か。

 守矢の講か。

 紅魔館の夜会か。

 白玉楼の蔵か。

 地底の洗浄場か。

 あるいは、最初から幻想郷全体がそう言っていたのか。

 

 数日後、幻想郷は表向き平静を取り戻した。

 

 博麗神社の祭りは片付けられた。

 屋台の親方たちは渋い顔で、新しい場所代の帳面に署名した。

 賭場はしばらく休みになった。客たちは文句を言ったが、霊夢に睨まれると黙った。

 

 八雲の工事現場では、藍が下請け名簿を洗い直していた。河童たちは最初こそ怯えていたが、怪我人の補償記録が作られると、少しだけ声を上げるようになった。

 

 守矢の講は縮小された。早苗は人里を回り、頭を下げた。神奈子は不満そうだったが、紹介者制度を一時停止した。諏訪子だけは「面白いから様子見」と言っていた。

 

 永遠亭は偽薬の回収を進めた。永琳は必要な情報だけを慧音に渡し、鈴仙は人里で薬包の確認を手伝った。てゐは「無料相談は商売にならない」とぼやきながらも、なぜか一番人を集めるのがうまかった。

 

 紅魔館では、咲夜とパチュリーが古い契約を分類し直した。レミリアは「紅魔館の支配は変わらない」と言い続けたが、いくつかの契約を破棄した。美鈴は門の前で、以前より少しだけ人の顔を見るようになった。

 

 白玉楼では、妖夢が蔵の管理を厳しくした。幽々子は相変わらず菓子を食べていたが、貸し手側の記録をいくつか慧音へ渡した。債務者の名は伏せられた。だが、貸した側の名は残った。

 

 命蓮寺では、村紗が荷の確認を強化した。白蓮は、救済の名で曖昧にしていた物流を見直した。寺の中には反発もあったが、白蓮は静かに言った。

 

「慈悲は、目を閉じることではありません」

 

 地霊殿では、洗浄記録の仕組みが変わった。さとりは上の勢力へ、処理責任の写しを戻すようにした。お燐は「仕事が増えた」と文句を言い、お空は「燃やす量が減った」と不満そうだった。こいしは、時々人里の寺子屋の近くに現れたが、慧音に見つかると手を振って消えた。

 

 人里には、新しい帳面ができた。

 

 慧音が管理する帳面。

 

 そこには、消えた者、怪我をした者、危険な荷を運んだ者、示談で黙らされた者、名前を伏せるべき者、名前を残すべき者が記録された。

 

 すべてを公開するわけではない。

 だが、すべてを消すわけでもない。

 

 その中に、仁助の名もあった。

 

 仁助は罰を受けた。

 

 人里への危険物持ち込み、偽装、騒乱、薬物混入の疑い、各勢力記録の不正流出。軽くは済まない。だが、八雲が消すことも、紅魔館が連れていくことも、永遠亭が記憶を曖昧にすることも、白玉楼が債務にすることも許されなかった。

 

 人里で裁く。

 

 慧音がそう主張し、霊夢がそれを通した。

 

 仁助はしばらく、火消し詰所の修繕と、危険荷の記録整理を手伝うことになった。自由ではない。許されたわけでもない。だが、荷物として消されたわけでもなかった。

 

 ある日、妹紅は彼に言った。

 

「まだ怒ってるか」

 

 仁助は帳面をめくりながら答えた。

 

「怒ってる」

 

「だろうな」

 

「あんたは?」

 

「怒ってる」

 

「だろうな」

 

 二人はそれ以上、何も言わなかった。

 

 怒りは消えない。

 

 だが、燃やす以外の置き場所を作ることはできる。

 

 それを慧音は歴史と呼んだ。

 

 文は記録と呼んだ。

 

 霊夢は面倒事と呼んだ。

 

 紫は、新しい均衡と呼んだ。

 

 神奈子は、信仰の再設計と呼んだ。

 

 永琳は、処置と呼んだ。

 

 レミリアは、不本意な譲歩と呼んだ。

 

 幽々子は、残り物の整理と呼んだ。

 

 さとりは、上へ戻された心と呼んだ。

 

 呼び方は、それぞれ違った。

 

 だが、同じものだった。

 

 落とし前。

 

 数日後の夕方、博麗神社にはまた人が集まり始めていた。

 

 祭りではない。

 賭場でもない。

 

 新しく作られた、人里記録制度の最初の確認会だった。

 

 境内には長机が並び、慧音が帳面を開き、文が書式を整え、鈴仙が薬品関係の注意をまとめ、藍が工事関係の名簿を持参し、早苗が守矢講の修正案を持ってきた。

 

 霊夢は縁側で茶を飲んでいた。

 

「働きなさいよ」

 

 妹紅が言う。

 

「働いてるわよ。場所を貸してる」

 

「神社の境内で寝転がってるだけに見える」

 

「見えるだけよ」

 

 妹紅は呆れたように座った。

 

「殴るって話は?」

 

「忘れてないわよ」

 

「いつ殴るんだ」

 

「忘れた頃」

 

「最悪だな」

 

「火を置いて回った罰よ」

 

 妹紅は苦笑した。

 

「慧音は?」

 

「あそこで帳面と喧嘩してる」

 

 境内の中央で、慧音は文と何かを言い合っていた。

 

「この表現は軽すぎる」

 

「読まれなければ意味がありません」

 

「読ませるために軽くするな」

 

「重すぎても読まれません」

 

「なら重くても読ませる工夫をしろ」

 

「先生、無茶を言いますね」

 

 妹紅はそれを見て、小さく笑った。

 

「慧音、生き返ったみたいだ」

 

「死んでたの?」

 

「少しな」

 

 霊夢は何も言わなかった。

 

 妹紅は空を見た。

 

「私はさ、燃やすことしか考えてなかったんだと思う」

 

「知ってる」

 

「言い方」

 

「他に何て言えばいいのよ」

 

「少しは気を遣え」

 

「やだ」

 

 妹紅は笑った。

 

 それから、ぽつりと言った。

 

「でも、燃やさずに残すってのも、面倒だな」

 

「面倒よ」

 

「お前、よくこんな面倒な幻想郷を毎日相手してるな」

 

「毎日はしてないわよ。面倒になったら寝るし」

 

「それで回るのか」

 

「回ってたんでしょ。今までは」

 

 霊夢は茶を飲んだ。

 

 薄い。

 誰が淹れたのかわからないが、薄すぎる。

 

「これからは?」

 

 妹紅が訊く。

 

「知らない」

 

「おい」

 

「知らないわよ。全部うまくいくわけないでしょ。紫はまた隠す。神奈子はまた広げる。永琳はまた秘密を抱える。レミリアはまた偉そうにする。幽々子はとぼける。さとりは嫌なところを読む。文は余計な記事を書く。慧音は抱えすぎる。あんたはまた燃えそうになる」

 

「最後のは否定したい」

 

「無理ね」

 

 妹紅は肩をすくめた。

 

「じゃあ、お前は?」

 

「私は、面倒になったら殴る」

 

「結局それか」

 

「結局それよ」

 

 妹紅は笑った。

 

 その笑いは、昨夜までの刺々しいものではなかった。

 

 完全に晴れたわけではない。怒りも、後悔も、焦げ跡も残っている。だが、少なくとも今は、人里を燃やす火ではなかった。

 

 境内の端では、仁助が荷物を運んでいた。

 

 見張り付きだ。自由ではない。だが、荷車を押す背中は、以前より少しだけまっすぐだった。彼の名前は、慧音の帳面にある。文の記録にもある。霊夢も覚えた。

 

 それで救われるのかはわからない。

 

 だが、消えるよりはましだ。

 

 霊夢はそう思った。

 

 夕方の光が、境内を赤く染めていく。

 

 そこへ、隙間が開いた。

 

 紫が現れる。

 

 霊夢は露骨に嫌そうな顔をした。

 

「また来たの」

 

「ひどい挨拶ね」

 

「用件は?」

 

「様子を見に」

 

「監視でしょ」

 

「同じようなものよ」

 

 紫は境内を見回した。

 

 人里の者、河童、兎、天狗、火消し、守矢の巫女。いつもの博麗神社とは違う顔ぶれだ。

 

「変な場所になったわね」

 

「元から変でしょ」

 

「でも、前より騒がしい」

 

「嫌?」

 

「いいえ」

 

 紫は少しだけ笑った。

 

「幻想郷は、静かすぎると腐るもの」

 

「知ってたなら、もっと早く何とかしなさいよ」

 

「私は腐らないように蓋をしていたの」

 

「蓋の下で腐ってたわよ」

 

「ええ」

 

 紫はあっさり認めた。

 

「だから、あなたが蓋を蹴飛ばした」

 

「蹴った覚えはないわ。勝手に爆発したのよ」

 

「でも、最後に立っていたのはあなた」

 

 霊夢は紫を見た。

 

「何が言いたいの」

 

「博麗霊夢。あなたはやはり、幻想郷に必要ね」

 

「気持ち悪いこと言わないで」

 

「褒めているのに」

 

「紫に褒められると、裏がありそうで嫌」

 

「裏はいつもあるわ」

 

「堂々と言うな」

 

 紫は扇で口元を隠した。

 

「今回の仕組み、長くは続かないかもしれない」

 

「でしょうね」

 

「誰かが破る。誰かが抜け道を作る。誰かが記録を改ざんする」

 

「でしょうね」

 

「それでもやるの?」

 

「やるわよ」

 

「なぜ」

 

 霊夢は少し考えた。

 

 それから、境内の端に並べられた名前の紙を見た。

 

「一度名前を見ちゃったから」

 

 紫は黙った。

 

「知らなかったら、適当に異変解決して終わったかもしれない。でも、見た。仁助の名前も、怪我した火消しの名前も、消えた人足の名前も、薬で壊れかけた奴の名前も。見た以上、なかったことにはできない」

 

「博麗の巫女らしくないわね」

 

「そう?」

 

「ええ。昔のあなたなら、もっと単純に祓って終わらせた」

 

「今でも祓って終わらせたいわよ」

 

 霊夢は茶を置いた。

 

「でも、祓う相手が多すぎる」

 

 紫は笑った。

 

「それは大変」

 

「だから、みんなに少しずつ祓わせるの」

 

「なるほど。責任の分散ね」

 

「汚い言い方」

 

「正確でしょう?」

 

「まあね」

 

 二人はしばらく黙って境内を見ていた。

 

 慧音と文はまだ書式で揉めている。早苗は人里の老人に説明している。鈴仙は薬包を確認している。妹紅は火消しの若い衆に何かを教えている。仁助は荷車を押している。藍は河童と帳面を見比べている。

 

 誰も、完全には善人ではない。

 

 だが、全員が完全な悪党でもなかった。

 

 そこが、一番面倒だった。

 

「紫」

 

「何かしら」

 

「今回の件、黒幕が仁助だけとは思ってない」

 

 紫の目が細くなる。

 

「そうね」

 

「内部協力者はまだいる。各勢力に」

 

「ええ」

 

「逃げた奴もいる」

 

「いるでしょうね」

 

「そのうち出てくるわよね」

 

「必ず」

 

 霊夢はため息をついた。

 

「本当に面倒くさい」

 

 紫は嬉しそうに笑った。

 

「それが幻想郷よ」

 

「じゃあ、幻想郷って最悪ね」

 

「でも、あなたは守るのでしょう?」

 

 霊夢は少し黙った。

 

 守る。

 

 その言葉は、昔より重く聞こえた。

 

 今まで守っていたのは、異変のない日常だと思っていた。だが、その日常の下には、賭場も、利権も、薬も、契約も、債務も、処理場も、人里の怒りもあった。

 

 それでも、守るのか。

 

 霊夢は答えた。

 

「壊れると、もっと面倒だから」

 

 紫は満足そうに頷いた。

 

「あなたらしいわ」

 

「褒めないで」

 

「ええ」

 

 紫は隙間を開いた。

 

「では、私は行くわ。藍に帳簿を持たせているから、あとで確認して」

 

「逃げるなよ」

 

「逃げないわ。少し遠回りするだけ」

 

「同じよ」

 

 紫は笑いながら消えた。

 

 霊夢はまた茶を飲んだ。

 

 やはり薄い。

 

 すると、早苗が近づいてきた。

 

「あの、霊夢さん」

 

「何」

 

「お茶、淹れ直しましょうか?」

 

「これ早苗が淹れたの?」

 

「はい……薄かったですか?」

 

「薄い」

 

「すみません」

 

「でも、まあ、飲めないことはない」

 

 早苗は少しだけ笑った。

 

「ありがとうございます」

 

「褒めてない」

 

「はい」

 

 早苗は境内を見回した。

 

「守矢の講、変えます。神奈子様は不満そうですけど」

 

「神奈子は不満そうなのが普通でしょ」

 

「そうかもしれません」

 

 早苗は少し黙った。

 

「私、本当に人里のためだと思っていました」

 

「知ってる」

 

「でも、それだけじゃ駄目だったんですね」

 

「善意って、持ってるだけなら軽いけど、人に配ると重くなるのよ」

 

「霊夢さん、時々すごくまともなこと言いますね」

 

「時々って何よ」

 

「すみません」

 

 早苗は頭を下げた。

 

 霊夢はため息をついた。

 

「まあ、悪気だけで動いてる奴よりはましよ」

 

「まし、ですか」

 

「幻想郷ではかなり褒め言葉」

 

 早苗は苦笑した。

 

 その向こうで、レミリアが日傘の下から境内を見ていた。

 

 咲夜が隣に立っている。

 

「お嬢様」

 

「何」

 

「帰られますか」

 

「まだ」

 

「珍しいですね。こういう場はお嫌いかと」

 

「嫌いよ」

 

「では、なぜ」

 

 レミリアは少し考えた。

 

「所有できないものを見ているの」

 

「人里ですか」

 

「違うわ」

 

 レミリアは霊夢たちを見た。

 

「落とし前よ」

 

 咲夜は黙った。

 

 レミリアは続けた。

 

「紅魔館では、私が決めれば終わる。でもここでは、誰も一人では決められない。面倒で、遅くて、汚くて、不格好。でも、少しだけ面白い」

 

「紅魔館にも取り入れますか」

 

「嫌よ」

 

「かしこまりました」

 

「でも、咲夜」

 

「はい」

 

「古い契約を洗い直しなさい。腐ったものを持ち続けるのは、美しくない」

 

「承知しました」

 

 咲夜は深く一礼した。

 

 白玉楼の幽々子は、屋台の残り菓子を食べていた。

 

 妖夢が困った顔で言う。

 

「幽々子様、それは博麗神社のものでは」

 

「霊夢に聞いたら、払えばいいって」

 

「払うのですか?」

 

「白玉楼の帳面につけておいて」

 

「それが問題なのでは」

 

「冗談よ」

 

 幽々子は微笑み、遠くの仁助を見た。

 

「死者の名前は残りやすいけれど、生者の名前は意外と消えやすいのね」

 

 妖夢は静かに言った。

 

「はい」

 

「妖夢。蔵の整理、忙しくなるわ」

 

「承知しています」

 

「嫌?」

 

「いえ。必要なら」

 

「そう。偉いわね」

 

「……幽々子様も、少しは手伝ってください」

 

「考えておくわ」

 

「絶対に考えないお返事です」

 

 地霊殿のさとりは、こいしの手を握っていた。

 

 こいしは境内の記録紙を見つめている。

 

「お姉ちゃん、みんな心がうるさいね」

 

「ええ」

 

「でも、地底にいた時より、少し軽い」

 

「上に戻されたからでしょう」

 

「また落ちてくる?」

 

「きっと」

 

「じゃあ、また洗うの?」

 

 さとりは少し考えた。

 

「今度は、洗う前に返すかもしれません」

 

「めんどくさいね」

 

「ええ。上の世界は面倒です」

 

 お燐が横で笑う。

 

「さとり様までそんなこと言うんだ」

 

「本当のことですから」

 

 お空は屋台の焼け残りを見ながら言った。

 

「これ燃やしていい?」

 

「駄目です」

 

「ちぇ」

 

 命蓮寺の白蓮は、村紗とともに荷の記録を確認していた。

 

 村紗は悔しそうに言う。

 

「うちの船を便利に使われた」

 

「ええ」

 

「腹が立つ」

 

「その怒りは、正しく使いましょう」

 

「白蓮はすぐ綺麗に言う」

 

「綺麗に言わなければ、私はすぐに怖くなりますから」

 

 村紗は白蓮を見た。

 

 白蓮は静かに笑っていたが、その目には強い疲れがあった。

 

「慈悲の名で目を逸らしたものがありました。これからは、見なければなりません」

 

「大変だな」

 

「ええ」

 

「でも、やるんだろ」

 

「はい」

 

 村紗は少し笑った。

 

「じゃあ、船の底から洗うか」

 

「お願いします」

 

 夕方の確認会は、夜まで続いた。

 

 途中で何度も揉めた。

 

 神奈子は「そこまで出す必要はない」と言い、永琳は「患者保護が先」と反論し、レミリアは「紅魔館の権利」と言い出し、紫は「幻想郷全体の均衡」と言った。

 

 そのたびに霊夢は札を一枚出した。

 

 それだけで、話は少し進んだ。

 

 暴力的だが、効果はあった。

 

 夜になる頃、最初の合意文ができた。

 

 名前は、慧音がつけた。

 

『人里荷流通および危険処理記録に関する暫定取り決め』

 

 文は「堅すぎる」と言った。

 

 霊夢は「眠くなる」と言った。

 

 慧音は「眠くても残る方がいい」と言った。

 

 それで決まった。

 

 最後に、各勢力の代表が署名した。

 

 八雲紫。

 八坂神奈子。

 八意永琳。

 レミリア・スカーレット。

 西行寺幽々子。

 聖白蓮。

 古明地さとり。

 上白沢慧音。

 藤原妹紅。

 射命丸文。

 そして、博麗霊夢。

 

 霊夢は自分の名前を書いた後、筆を置いた。

 

「これで?」

 

 慧音が言う。

 

「始まりだ」

 

「面倒くさい」

 

「私もそう思う」

 

 二人は顔を見合わせ、少しだけ笑った。

 

 その夜、博麗神社には久しぶりに静けさが戻った。

 

 人々は帰り、各勢力も去り、屋台の残骸も片付けられた。境内には、提灯の跡と、長机の跡と、踏み固められた土だけが残った。

 

 霊夢は本殿の前に座っていた。

 

 月が出ている。

 

 昨日と同じ月だ。

 だが、昨日より少しだけ遠く見えた。

 

 文が隣に降りてきた。

 

「お疲れ様です」

 

「まだいたの」

 

「最後まで見るのが記者ですから」

 

「記事、どうするの」

 

「書きます。派手なものと、残すものと、二種類」

 

「派手な方は控えめに」

 

「努力します」

 

「努力じゃなくて結果を出しなさい」

 

「はいはい」

 

 文は少し黙った。

 

 それから言った。

 

「霊夢さん」

 

「何」

 

「今回、本当に誰も勝っていませんね」

 

「そうね」

 

「誰も綺麗になっていない」

 

「そうね」

 

「でも、少し変わった」

 

「たぶんね」

 

 文は夜空を見上げた。

 

「全員悪党、ですか」

 

 霊夢は鼻で笑った。

 

「そうよ」

 

「でも、全員が少しずつ必要でもある」

 

「そこが最悪なのよ」

 

「幻想郷らしいですね」

 

「本当に最悪」

 

 二人はしばらく黙っていた。

 

 やがて、文は翼を広げた。

 

「では、私は記事を書きます」

 

「変なこと書いたら」

 

「落とす、ですね」

 

「わかってるならいい」

 

 文は飛び去った。

 

 霊夢は一人になった。

 

 境内の隅に、風で飛ばされかけた紙片があった。

 

 霊夢はそれを拾った。

 

 そこには、慧音の字で一文だけ書かれていた。

 

『名前を残すことは、火を消すことに似ている』

 

 霊夢はしばらくそれを見つめた。

 

「先生らしいわね」

 

 紙片を折り、袖にしまう。

 

 賽銭箱を見る。

 

 相変わらず、中身は少ない。

 

 だが、今日は不思議と腹が立たなかった。

 

 霊夢は立ち上がり、境内の灯を消して回った。

 

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 

 最後の灯を消す前に、彼女は人里の方を見た。

 

 遠く、火消し詰所に小さな灯がともっている。慧音と妹紅は、まだ記録を整理しているのだろう。仁助もそこにいるかもしれない。

 

 火は消えた。

 でも、灯は残った。

 

 それなら、今夜はそれでいい。

 

 霊夢は最後の灯を消した。

 

 博麗神社が闇に沈む。

 

 だが、それは昨日までの闇とは違った。

 

 隠すための闇ではない。

 眠るための闇だった。

 

 霊夢は社務所へ戻りながら、ぽつりと呟いた。

 

「こいつら、全員悪党」

 

 そして、少しだけ笑う。

 

「私も含めてね」

 

 戸が閉まる。

 

 幻想郷の夜は、また静かになった。

 

 だが、地底へ流れ落ちる水の音は、以前より少しだけ小さかった。

 

 どこかで誰かが、流す前に記録を残している。

 

 どこかで誰かが、燃やす前に名前を呼んでいる。

 

 どこかで誰かが、荷物ではなく人として数えられている。

 

 それで幻想郷が救われたわけではない。

 

 悪党たちは、明日も悪党のままだ。

 神は信仰を集める。

 妖怪は利権を握る。

 医者は秘密を抱える。

 吸血鬼は支配を語る。

 亡霊は帳簿を閉じる。

 天狗は記事を書く。

 巫女は賽銭箱を覗く。

 

 何もかもが綺麗に変わることはない。

 

 だが、落とし前はついた。

 

 完全ではない。

 美しくもない。

 誰も満足していない。

 

 それでも、昨日まで消されていた名前が、今日からどこかに残る。

 

 幻想郷の平和とは、善意ではなく、悪党同士の均衡によって保たれている。

 

 ならば、その均衡の下敷きになる者の名前くらい、残してやらなければならない。

 

 それが、博麗霊夢の出した答えだった。

 

 朝になれば、また面倒事が来るだろう。

 

 紫が隙間から顔を出すかもしれない。

 神奈子が条件を変えろと言いに来るかもしれない。

 永琳が薬包の扱いで文句を言うかもしれない。

 レミリアが契約の解釈で揉めるかもしれない。

 幽々子が帳面をお茶菓子代わりに持ってくるかもしれない。

 さとりが嫌な心を読みに来るかもしれない。

 文の記事で誰かが怒鳴り込んでくるかもしれない。

 妹紅がまた火消しの半纏を脱ぎ捨てて怒っているかもしれない。

 慧音が疲れた顔で記録を抱えてくるかもしれない。

 

 全部、面倒だ。

 

 霊夢は布団に転がり込んだ。

 

 眠る直前、彼女は思った。

 

 面倒なら、また叩けばいい。

 

 叩いて、聞いて、記録して、残す。

 

 幻想郷は、たぶんそうやって続く。

 

 綺麗ではない。

 正しくもない。

 全員悪党のまま。

 

 それでも、続く。

 

 博麗神社の外で、夜風が吹いた。

 

 提灯の紐が小さく揺れる。

 

 その音は、遠くで誰かが帳面をめくる音に似ていた。

 

 そして幻想郷は、また一日を始める。

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