東方アウトレイジ    作:たこ焼き 龍月

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第二章 八雲ゼネコン

 

 

 捕まえた影は、妖怪ではなかった。

 

 人間でもない。

 

 霊夢が札で縛り上げ、倉庫街の壁際に転がしたそれは、小柄な河童だった。年若い。作業着の袖は泥で汚れ、背中には工具袋を背負っている。顔は青ざめ、目だけが忙しなく左右に泳いでいた。

 

 河童は、喉の奥でひゅうひゅうと息を鳴らしていた。

 

「名前」

 

 霊夢は短く訊いた。

 

「……言えない」

 

「じゃあ、所属」

 

「……それも」

 

「じゃあ、骨の数でも数える?」

 

 霊夢が袖から針を一本抜くと、河童は情けない声を上げた。

 

「待って! 待ってください! 私はただの下請けです! 言われた場所を見てこいって言われただけで!」

 

「誰に」

 

「知らないんです、本当に! 書付だけが届いて、今夜、命蓮寺の水路を見て、博麗の巫女が来たら逃げろって」

 

「逃げろって言われて、逃げ切れると思ったの?」

 

「思ってません!」

 

「なら来るな」

 

 霊夢は、河童の工具袋を足で引き寄せた。中には工具、縄、薄い測量板、それから木札が数枚入っていた。木札には焼印が押されている。

 

 八雲の紋ではない。

 だが、八雲系列の下請け業者が使う印だ。

 

 幻想郷の大結界再整備計画。

 その現場に出入りする者に配られる通行札だった。

 

「これ、どこでもらった」

 

 霊夢が木札を見せると、河童は唇を噛んだ。

 

「……山の現場で」

 

「どこの現場」

 

「旧参道の崖下です。結界杭の打ち直しって聞いてます」

 

「誰が仕切ってる」

 

「八雲様の式の……藍様が」

 

 霊夢は河童を見下ろした。

 

 河童は震えていた。嘘をついている震えではない。喋ったら殺されると思っている震えだ。こういう震えは、賭場でよく見る。負けた者ではなく、負けさせられた者の震え。

 

「ほかに何を見た」

 

「何も……」

 

「見たでしょ」

 

「見てません」

 

「見たわね」

 

 霊夢の声は静かだった。

 

 河童は目を伏せた。しばらく黙っていたが、やがて搾り出すように言った。

 

「……現場に、守矢の連中が来てました」

 

 霊夢の眉がわずかに動いた。

 

「守矢?」

 

「神奈子様の使いです。工事に必要な信仰導線がどうとか、祈祷の権利がどうとか……私は末端なので詳しくは。でも、現場の河童たちはみんな知ってます。八雲様の仕事なのに、守矢が口を出してるって」

 

「藍は?」

 

「怒ってました。でも、止められない感じで」

 

「紫は?」

 

 その名を出した瞬間、河童の顔色がさらに悪くなった。

 

「見てません。あの方は、見えない場所にいます」

 

「便利な女ね」

 

 霊夢は札を軽く振った。河童を縛っていた霊力がほどける。

 

「行きなさい」

 

「え?」

 

「逃げていいって言ってるの」

 

 河童はしばらく霊夢を見上げていたが、次の瞬間、転がるように立ち上がった。

 

「言ったこと、誰にも」

 

「言うわけないでしょう!」

 

「違う。言ってもいいわよ」

 

 河童は足を止めた。

 

 霊夢は薄く笑った。

 

「博麗が八雲の現場に行くって、山中に言いふらしておいて」

 

 河童は震えたまま頷き、夜の奥へ消えていった。

 

 霊夢は、その背中が見えなくなるまで待った。

 

 それから振り返る。

 

「文」

 

 屋根の上から声がした。

 

「はいはい、いますよ」

 

「紫に伝えに行ったんじゃなかったの?」

 

「行きましたよ。伝えました。そして戻ってきました」

 

「早すぎる」

 

「天狗ですから」

 

 射命丸文は屋根の端にしゃがみ、カメラを手の中で弄んでいた。

 

「で、紫は何て?」

 

「笑ってました」

 

「でしょうね」

 

「それから、こう言っていました。『霊夢が来るなら、お茶の準備をしておくわ』と」

 

「馬鹿にしてるわね」

 

「半分は」

 

「残り半分は?」

 

「待っている、ということでしょう」

 

 霊夢は旧参道の方を見た。

 

 夜の山は黒い。

 その黒さの中で、ところどころ不自然な灯が点っていた。祭りの提灯ではない。工事現場の灯だ。妖怪の山の斜面に、まるで傷口のように光の筋が走っている。

 

「行くわよ」

 

「同行しても?」

 

「勝手にすれば」

 

「ありがとうございます。記事の題はもう決めています」

 

「載せるな」

 

「心の中の号外です」

 

 文は笑った。

 

 霊夢はその笑いを無視して、山へ向かった。

 

 博麗神社の祭り囃子は、背後で遠ざかっていく。代わりに聞こえてきたのは、木を打つ音、石を砕く音、鉄を引きずる音だった。

 

 大結界再整備計画。

 

 その名を最初に聞いた時、霊夢は笑った。

 

 結界など、壊れたらその時に直せばいい。幻想郷はいつもそうしてきた。異変が起きれば殴る。穴が開けば塞ぐ。妖怪が暴れれば黙らせる。人間が騒げばなだめる。それで何百年も回ってきた。

 

 だが、紫は違った。

 

 彼女は壊れる前に直すと言った。

 未来のためだと言った。

 幻想郷全体の安定のためだと言った。

 

 綺麗な言葉だった。

 

 綺麗すぎる言葉の下には、たいてい濁った金が沈んでいる。

 

 山道を登るにつれ、空気が変わっていった。木々は切り開かれ、斜面には仮設の足場が組まれている。河童たちが運んだ鉄管、天狗が運んだ木材、地底から上がってきた石材。すべてに管理札が貼られていた。

 

 八雲建設。

 八雲組。

 境界工務。

 九尾管理。

 守矢安全祈祷部。

 

 霊夢は最後の札で足を止めた。

 

「守矢安全祈祷部?」

 

 文が横で肩をすくめる。

 

「最近できたそうですよ。工事現場の安全祈願、作業員の互助会、現場向けのお守り販売、事故時の補償相談。表向きは親切です」

 

「裏は?」

 

「信仰の回収です。現場に人が集まれば、祈る者も増える。祈る者が増えれば、守矢は太る」

 

「神様も現場商売する時代ね」

 

「神様ほど商売熱心なものはいませんよ」

 

 工事現場の入口には、河童の警備がいた。二人。槍を持っているが、持ち方が素人くさい。作業員に毛が生えた程度だ。

 

「止まってください。ここは関係者以外立ち入り禁止で」

 

 言い終える前に、警備の河童は霊夢の顔を見た。

 

 そして一歩下がった。

 

「関係者よ」

 

 霊夢は通行札を投げた。先ほど捕まえた河童から取った札だ。警備の河童はそれを受け取り、慌てて確認する。

 

「い、いや、しかし、この札は」

 

「博麗神社の名前が使われた。なら私は関係者」

 

「藍様に確認を」

 

「確認してる間に通るわ」

 

「待ってください!」

 

 河童が前に出た。

 

 霊夢は歩みを止めない。

 

 次の瞬間、河童の帽子に札が貼りついた。河童はその場で固まる。もう一人が声を上げようとした瞬間、文が横から口を塞いだ。

 

「静かに。記事にはしませんから」

 

「んんっ!」

 

「たぶん」

 

 霊夢は入口を抜けた。

 

 現場の中は、異様な熱気に包まれていた。

 

 夜だというのに、作業は止まっていない。提灯ではなく、河童の作った青白い灯が斜面を照らしている。地面には太い溝が掘られ、そこに巨大な杭が横たえられていた。杭には呪符と金属板が何重にも巻かれている。結界杭。幻想郷の境界を支える骨のようなものだ。

 

 河童たちは汗と泥にまみれて走り回っていた。天狗の下請けが資材を運び、山童が足場を組む。遠くでは、守矢の白い幟が風に揺れていた。

 

 その中心に、八雲藍がいた。

 

 九本の尾を背に広げ、作業台の前で帳面を見ている。周囲の者たちに指示を飛ばす声は落ち着いていたが、目元には疲れが滲んでいた。完璧な式神。八雲紫の腹心。幻想郷で最も有能な雑用係。

 

 霊夢は、その藍の前に立った。

 

「いい夜ね」

 

 藍は顔を上げた。

 

 目が合う。

 

 一瞬だけ、現場の音が遠ざかったように感じた。

 

「博麗霊夢」

 

「呼び捨て?」

 

「この時間に、許可なく現場へ入ってくる者を客とは呼べない」

 

「じゃあ、踏み込まれたくない物を隠してる現場ってことね」

 

 藍は帳面を閉じた。

 

「ここは大結界再整備計画の重要区域だ。結界の不安定化を防ぐため、夜間も作業している。邪魔をしないでほしい」

 

「命蓮寺の船荷が消えた」

 

「知っている」

 

「博麗の印が出た」

 

「それも知っている」

 

「なら話が早いわ。誰がやったの?」

 

「私が知っているなら、あなたがここへ来る前に処理している」

 

 藍の声は冷静だった。

 

 だが、霊夢はその冷静さが嫌いだった。紫の周りにいる者は、いつもこうだ。自分たちは全体を見ているという顔をする。汚れた水に足を突っ込んでいるくせに、靴だけは綺麗なままに見せようとする。

 

「処理ね」

 

 霊夢は現場を見回した。

 

「得意そうね、そういうの」

 

「何が言いたい」

 

「八雲は昔からそうでしょ。境界を動かす。土地を動かす。人を動かす。都合の悪いものは見えない場所に落とす。今回は何を落としたの? 船荷? 帳簿? それとも人?」

 

 藍の尾がわずかに揺れた。

 

 周囲の河童たちが、作業の手を止めている。空気が固まり始めた。

 

「言葉を選べ、霊夢」

 

「選んでるわよ。まだ優しい方」

 

 文は少し離れた足場の上で、手帳を開いていた。藍がそれを睨む。

 

「射命丸、ここで見たものを書くことは許さない」

 

「ご心配なく。許可を取って書いたことなんて、ほとんどありません」

 

「今すぐ山へ帰れ」

 

「ここも山です」

 

 藍が一歩踏み出した。

 

 その瞬間、現場の奥から別の声がした。

 

「やめておけ、藍」

 

 空間が裂けた。

 

 黒い隙間が開き、その中から八雲紫が現れた。薄紫の衣をまとい、扇で口元を隠している。まるで茶会にでも来たような顔だった。泥も、騒音も、現場の殺気も、彼女の周りだけ避けて通っているように見える。

 

 霊夢は眉をひそめた。

 

「出たわね、管理者様」

 

「ずいぶんな挨拶ね。せっかくお茶を用意しようと思っていたのに」

 

「泥水なら間に合ってる」

 

 紫は微笑んだ。

 

 その笑顔は美しい。

 そして、何も信用できない。

 

「命蓮寺の件でしょう?」

 

「そう」

 

「残念だけれど、こちらも被害者よ」

 

「被害者?」

 

「消えた荷の中には、八雲の重要書類もあった。結界工事の工程表、資材台帳、各勢力との覚書。あれが外に出れば、無用な混乱を招く」

 

「無用ねえ」

 

 霊夢は紫を睨んだ。

 

「無用かどうか、誰が決めるの?」

 

「私」

 

 紫は当然のように答えた。

 

 その一言で、現場の空気がさらに冷えた。

 

 藍は目を伏せた。文は口元だけで笑った。河童たちは息を潜めた。

 

 霊夢は一歩近づいた。

 

「あんたのそういうところ、本当に嫌い」

 

「あら、私はあなたのそういうところ、嫌いではないわ」

 

「茶化すな」

 

「茶化していない。あなたが怒るのは当然よ。博麗の印が使われた。あなたの名前で、誰かが幻想郷に火をつけようとしている」

 

「なら、あんたは何を隠してる?」

 

 紫は扇を閉じた。

 

 ぱちん、という音が現場に響く。

 

「隠していないわ。整理しているだけ」

 

「同じよ」

 

「違う。隠すのは自分のため。整理するのは幻想郷のため」

 

「汚い言い換えね」

 

「必要な言葉よ」

 

 霊夢は笑った。

 

「で、その幻想郷のために、どれだけ抜いたの?」

 

 紫の目が細くなった。

 

「何を?」

 

「金よ。資材。土地。人足。山の技術。命蓮寺の船。守矢の祈祷。全部、結界のためって名目で集めてる。集めれば流れる。流れれば漏れる。漏れた分は、誰の懐に入るの?」

 

 河童たちがざわついた。

 

 藍が声を上げる。

 

「霊夢、それ以上は」

 

「図星?」

 

「現場を乱すなと言っている」

 

「乱れて困るほど綺麗な現場には見えないけど」

 

 紫はしばらく霊夢を見ていた。

 

 やがて、静かに笑った。

 

「あなたは賭場で生きているくせに、建設の金にはうるさいのね」

 

「賭場の金は負けた奴が置いていく。あんたの金は、皆に綺麗な顔で出させてる」

 

「本質は同じよ」

 

「違うわ。私は自分が汚いって知ってる」

 

 その言葉に、紫の笑みが少しだけ薄くなった。

 

 霊夢は言った。

 

「あんたたちは、自分の汚れを大義で隠す。それが気に入らない」

 

 現場の奥で、鉄管が軋んだ。風が山を渡り、守矢の白い幟がばたばたと鳴った。

 

 紫は、初めて霊夢から目を逸らした。

 

「守矢がこの現場に入り込んでいる」

 

 唐突に、紫が言った。

 

 霊夢は黙った。

 

「神奈子は、大結界再整備計画を信仰の再配分と見ている。工事が進めば、結界に近い土地の価値が変わる。参道が変われば、人の流れも変わる。人の流れが変われば、信仰の流れも変わる」

 

「それで?」

 

「守矢は、博麗の古い利権を削ろうとしている」

 

「そんなこと、今さら聞かなくてもわかってる」

 

「でも、あなたはまだ本気で潰す気がない」

 

「潰す?」

 

「ええ」

 

 紫の声は柔らかかった。

 

「守矢は若い。商売がうまい。人里に入り込むのも早い。信仰を売るだけでなく、生活に入り込む。互助会、祈祷、講、現場安全、医療相談、結婚相談まで。人は便利な神を選ぶわ」

 

「私に、守矢を叩けって言ってるの?」

 

「私は何も言っていない。ただ、事実を並べているだけ」

 

「嘘つき」

 

 紫は微笑んだ。

 

「あなたが守矢を疑えば、私は助かる。あなたが命蓮寺を疑えば、私は時間を稼げる。あなたが妹紅を追えば、誰かが喜ぶ。今回の件は、そういう作りになっている」

 

 霊夢は紫を見た。

 

「わかってるなら、犯人もわかってるんじゃないの」

 

「わからないわ」

 

「本当に?」

 

「ええ」

 

 紫の返事は、驚くほど素直だった。

 

 その素直さが、逆に不気味だった。

 

「今回は、境界の外側から石を投げられた気分よ。誰が投げたか見えない。けれど、波紋だけは広がっている」

 

「幻想郷の中に、あんたの見えない場所なんてあるの?」

 

「あるわ」

 

 紫は目を伏せた。

 

「怒りの中よ」

 

 霊夢は何も言わなかった。

 

 紫は続ける。

 

「欲望は読める。恐怖も読める。損得も読める。けれど、積もり積もった怒りは、時々こちらの計算を超える。妹紅と慧音が絡んでいるなら、なおさらね」

 

「やっぱり知ってるじゃない」

 

「名前が浮かんでいるだけよ」

 

「その名前を消したいの?」

 

「消したいのではなく、燃え広がる前に囲いたい」

 

「火消しみたいなこと言うのね」

 

「火事は好きではないもの」

 

 その時、現場の奥で怒号が上がった。

 

 河童たちが一斉に振り返る。足場の向こう、資材置き場の方で白い煙が上がっていた。火ではない。粉塵だ。何かが崩れた音が、山肌に遅れて響いた。

 

「資材庫だ!」

 

 誰かが叫んだ。

 

 藍の顔色が変わった。

 

「結界杭の保管庫だ。全員、持ち場を離れるな!」

 

 しかし、現場の者たちは既に浮き足立っていた。河童が走り、天狗の下請けが空へ上がり、守矢の幟が倒れる。紫は目を細めた。

 

 霊夢は走り出した。

 

「霊夢!」

 

 藍の制止を無視し、霊夢は資材置き場へ向かった。文が後を追う。

 

 保管庫は、斜面を削った奥にあった。大きな木組みの建屋で、内部には結界杭と呪符、金属部品が積まれているはずだった。

 

 だが、その扉は内側から吹き飛ばされていた。

 

 火は出ていない。

 しかし、内部は滅茶苦茶だった。

 

 杭は倒れ、呪符は引き裂かれ、金属板は泥にまみれている。壁には黒い焦げ跡が走っていた。まるで、炎そのものではなく、炎の記憶だけが通り抜けたような跡だった。

 

 霊夢はその焦げ跡に触れた。

 

 熱はない。

 

「普通の火じゃない」

 

 文が低く言った。

 

「妹紅さん?」

 

「決めつけるには早い」

 

 霊夢は奥へ進んだ。

 

 床に、何かが落ちていた。

 

 白い羽根。

 

 鳥の羽根ではない。燃え残りのようにも見えるが、灰にはなっていない。霊夢はそれを拾い上げた。

 

 文が息を呑む。

 

「また、白い鳥」

 

「露骨すぎる」

 

 霊夢は羽根を睨んだ。

 

「妹紅に見せかけたい奴がいる」

 

「あるいは、妹紅さん本人が、そう思わせたいか」

 

「どっちにしても、趣味が悪い」

 

 その時、背後から藍が入ってきた。

 

 続いて紫も。

 

 藍は内部を見るなり、表情を硬くした。

 

「これは……」

 

「保管庫の管理は?」

 

 霊夢が訊く。

 

「八雲側だ」

 

「鍵は?」

 

「三つ。私、現場主任、それから守矢の安全祈祷部が一本預かっている」

 

 霊夢は藍を振り返った。

 

「守矢が鍵を持ってるの?」

 

「安全祈願の札を定期的に貼り替えるためだ」

 

「便利な理由ね」

 

 紫は壊れた扉を見た。

 

「内側から開いているわね」

 

「中に誰かがいたってこと?」

 

「あるいは、中へ入れる者が、外から入って内側を壊した」

 

「言い方が回りくどい」

 

「あなたに似てきたのかしら」

 

「やめて」

 

 文が床にしゃがんだ。

 

「これ、見てください」

 

 文が指した先には、泥の足跡があった。河童の足ではない。天狗のものでもない。人間に近い。だが、足運びが妙に静かだ。まるで、歩いたことを後から貼りつけたように不自然だった。

 

「偽装ね」

 

 霊夢は言った。

 

 紫は頷いた。

 

「ええ。雑ではないけれど、上手すぎる」

 

「上手すぎる?」

 

「本当に現場を荒らす者は、こんなに綺麗に証拠を残さない。これは見つけてほしい証拠よ」

 

 霊夢は羽根を握った。

 

「妹紅の名前を出して、守矢の鍵を見せて、八雲の現場を壊す」

 

「そして、あなたをここへ呼ぶ」

 

 紫が言った。

 

「私を?」

 

「博麗が八雲の現場で騒ぐ。天狗がそれを見る。山に噂が流れる。守矢が動く。命蓮寺が黙れなくなる。永遠亭も、紅魔館も、白玉楼も、神霊廟も、自分の荷を守るために走り出す」

 

 文が楽しそうに言う。

 

「見事な導火線ですね」

 

「笑うな」

 

 霊夢が睨むと、文は肩をすくめた。

 

 藍は壊れた杭を調べていた。その手が、途中で止まる。

 

「紫様」

 

「何?」

 

「一本、ない」

 

 紫の笑みが消えた。

 

 霊夢もすぐに理解した。

 

「結界杭?」

 

「試験用の小型杭だ。まだ本設置前だが、呪符と金属板は本物と同じ構造をしている」

 

「危ないの?」

 

 藍は答えなかった。

 

 代わりに紫が言った。

 

「使い方によるわ」

 

「どう使えば?」

 

「結界を安定させるために使えば、薬になる。逆に使えば、毒になる」

 

「つまり危ないのね」

 

「ええ」

 

 霊夢は舌打ちした。

 

「命蓮寺の荷だけじゃなく、ここからも盗ったわけね」

 

「盗ったというより、選んで抜いた」

 

 紫の声は低かった。

 

「帳簿、印、薬箱、結界杭。欲しいものがはっきりしている」

 

「幻想郷を揺らす道具ばかり」

 

「そう」

 

 現場の外で、河童たちのざわめきが大きくなっていた。崩れた資材、消えた杭、守矢の名、妹紅の羽根。噂になるには十分すぎる。

 

 霊夢は紫を見た。

 

「あんた、まだこれを管理案件で済ませる気?」

 

 紫は答えなかった。

 

「異変よ」

 

 霊夢は言った。

 

「これはもう盗難じゃない。誰かが幻想郷中の汚いところを突いて回ってる。放っておけば、あんたの大事な均衡が崩れる」

 

「異変にすれば、表に出る」

 

「もう出てる」

 

「出し方を間違えれば、幻想郷が割れる」

 

「最初から割れてたんでしょ。あんたが紙を貼って隠してただけで」

 

 紫は霊夢を見た。

 

 その目に、わずかな怒りがあった。

 

 霊夢は怯まなかった。

 

「博麗の印を使った。命蓮寺の荷を消した。八雲の杭を抜いた。次は守矢か、永遠亭か、紅魔館か。どこでもいいけど、私の縄張りで勝手に火をつけた奴は祓う」

 

「祓うだけで済めばいいけれど」

 

「済ませるのが私の仕事」

 

「今回は、殴って終わる相手ではないかもしれない」

 

「なら、殴ってから考える」

 

 文が小さく笑った。

 

 藍は頭を抱えたくなるような顔をした。

 

 紫だけが、じっと霊夢を見ていた。

 

 やがて紫は、扇を開いた。

 

「藍」

 

「はい」

 

「現場を封鎖。河童には余計なことを喋らせないように」

 

「難しいかと」

 

「なら、喋る内容をこちらで用意してあげなさい」

 

「承知しました」

 

 霊夢が横から言う。

 

「情報操作?」

 

「混乱防止よ」

 

「同じ」

 

「言葉は大事よ、霊夢」

 

「汚い言葉遊びは嫌い」

 

 紫は微笑んだ。

 

「あなたはこれから守矢へ行くの?」

 

「行く理由ができたからね」

 

「神奈子は簡単には認めないわよ」

 

「認めさせる必要はない。顔を見ればだいたいわかる」

 

「野蛮ね」

 

「便利でしょ」

 

 霊夢は保管庫を出た。

 

 外では、河童たちが不安そうにこちらを見ていた。彼らは何も知らない末端だ。だが、末端ほど噂に敏い。上が隠したいことほど、下から漏れる。

 

 文は既に数人に話を聞いていた。藍が鋭い視線を向けると、文は涼しい顔で手帳を閉じた。

 

「では、私はこの辺で」

 

「射命丸」

 

 紫が呼び止める。

 

「はい?」

 

「記事にするなら、題だけは選びなさい」

 

「ご希望は?」

 

「幻想郷を壊さない題」

 

 文はにっこり笑った。

 

「それは読者受けが悪そうですね」

 

 黒い翼が広がり、文は夜空へ舞い上がった。

 

 霊夢も山道を下りようとした。

 

 その背中に、紫の声がかかる。

 

「霊夢」

 

「何」

 

「あなたは、妹紅をどう見る?」

 

 霊夢は立ち止まった。

 

「まだ見てない」

 

「もし彼女が本当に火をつけたのだとしたら?」

 

「理由を聞く」

 

「聞いて、納得したら?」

 

「殴る」

 

「納得しなかったら?」

 

「もっと殴る」

 

 紫は少しだけ笑った。

 

「変わらないわね、あなたは」

 

「変わったら困るんでしょ」

 

 霊夢は振り返らずに言った。

 

「あんたたちがどれだけ裏で汚れても、最後に私が出てきて異変って名前をつける。そうすれば、幻想郷はまだ平和って顔ができる」

 

 紫は答えなかった。

 

「でも今回は違うかもね」

 

「何が?」

 

「私が片付ける前に、誰かが全部ぶちまけるかもしれない」

 

 風が吹いた。

 

 守矢の白い幟が、倒れたまま泥を吸っていた。そこに書かれた安全祈願の文字は、半分ほど汚れて読めなくなっている。

 

 霊夢は山道を下り始めた。

 

 足元には、工事で削られた土が流れていた。そこに結界札の切れ端、煙草の吸い殻、割れた酒瓶、誰かの落とした小銭が混じっている。

 

 幻想郷の未来のため。

 

 そう書かれた看板の下で、幻想郷の今が腐っている。

 

 霊夢は思った。

 

 紫は嘘をついている。

 藍も何かを隠している。

 守矢は食い込んでいる。

 命蓮寺は沈黙している。

 妹紅の名は、わざと置かれている。

 

 誰も潔白ではない。

 

 それでも、まだ誰かが一番悪い。

 

 その一番悪い奴を引きずり出すまで、今夜は終わらない。

 

 山道の途中で、文が木の上に降りてきた。

 

「博麗さん」

 

「今度は何」

 

「先ほどの河童、もう喋っていますよ。山中に広まるのも時間の問題です。博麗が八雲の現場に殴り込んだ、と」

 

「殴ってない」

 

「まだ、ですね」

 

「記事にした?」

 

「まだ」

 

「珍しい」

 

「大きな記事は、火が十分に回ってから出すものです」

 

 霊夢は文を睨んだ。

 

「本当にいい性格ね」

 

「ありがとうございます」

 

「褒めてない」

 

「知ってます」

 

 文は木の枝に腰掛け、夜の山を見下ろした。

 

「守矢へ行くなら、早い方がいいですよ」

 

「なぜ」

 

「神奈子様はもう動いています」

 

 霊夢は足を止めた。

 

「どこへ」

 

「人里です。今夜、守矢の講が開かれています。安全祈願と互助会の説明会。場所は寺子屋近くの集会所」

 

「寺子屋?」

 

「ええ」

 

 文の目が光った。

 

「上白沢慧音の縄張りです」

 

 霊夢はしばらく黙っていた。

 

 八雲の現場。

 守矢の鍵。

 妹紅の羽根。

 慧音の縄張り。

 

 線が一本、また別の場所へ伸びた。

 

「文」

 

「はい」

 

「先に行って見てきて」

 

「取材ですか?」

 

「偵察」

 

「同じようなものです」

 

「違うわ。記事にするな」

 

「難しい注文ばかりですね」

 

「じゃあ、落とす」

 

「承りました」

 

 文は翼を広げ、夜空へ消えた。

 

 霊夢はひとり、山道に残された。

 

 遠く、人里の方角に明かりが見える。祭りの灯ではない。集会所の灯だ。人が集まり、神が語り、金が動く場所の灯。

 

 神奈子がそこにいる。

 慧音の近くで。

 妹紅の影がちらつく中で。

 

 偶然のはずがない。

 

 霊夢は歩き出した。

 

 山の上では、八雲の現場が騒ぎ続けている。紫は今頃、笑いながら火消しをしているだろう。藍は帳簿を抱え、河童を黙らせ、守矢に釘を刺し、命蓮寺へ使いを出すはずだ。

 

 だが、火はもう別の場所に移っている。

 

 幻想郷の悪党たちは、全員、自分だけは火元ではないと思っている。自分の手は汚れていない、自分の悪事は必要悪だ、自分の利権は秩序のためだと信じている。

 

 その信じ込みが、一番よく燃える。

 

 霊夢は夜の人里へ向かった。

 

 懐の中には、焼けた紙片。

 袖の中には、御札と針。

 頭の中には、紫の笑顔。

 

 そして鼻の奥には、消えない焦げた匂いが残っていた。

 

 幻想郷の裏側で、何かが燃え始めている。

 

 まだ炎は見えない。

 だが、煙はもう上がっていた。

 

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