捕まえた影は、妖怪ではなかった。
人間でもない。
霊夢が札で縛り上げ、倉庫街の壁際に転がしたそれは、小柄な河童だった。年若い。作業着の袖は泥で汚れ、背中には工具袋を背負っている。顔は青ざめ、目だけが忙しなく左右に泳いでいた。
河童は、喉の奥でひゅうひゅうと息を鳴らしていた。
「名前」
霊夢は短く訊いた。
「……言えない」
「じゃあ、所属」
「……それも」
「じゃあ、骨の数でも数える?」
霊夢が袖から針を一本抜くと、河童は情けない声を上げた。
「待って! 待ってください! 私はただの下請けです! 言われた場所を見てこいって言われただけで!」
「誰に」
「知らないんです、本当に! 書付だけが届いて、今夜、命蓮寺の水路を見て、博麗の巫女が来たら逃げろって」
「逃げろって言われて、逃げ切れると思ったの?」
「思ってません!」
「なら来るな」
霊夢は、河童の工具袋を足で引き寄せた。中には工具、縄、薄い測量板、それから木札が数枚入っていた。木札には焼印が押されている。
八雲の紋ではない。
だが、八雲系列の下請け業者が使う印だ。
幻想郷の大結界再整備計画。
その現場に出入りする者に配られる通行札だった。
「これ、どこでもらった」
霊夢が木札を見せると、河童は唇を噛んだ。
「……山の現場で」
「どこの現場」
「旧参道の崖下です。結界杭の打ち直しって聞いてます」
「誰が仕切ってる」
「八雲様の式の……藍様が」
霊夢は河童を見下ろした。
河童は震えていた。嘘をついている震えではない。喋ったら殺されると思っている震えだ。こういう震えは、賭場でよく見る。負けた者ではなく、負けさせられた者の震え。
「ほかに何を見た」
「何も……」
「見たでしょ」
「見てません」
「見たわね」
霊夢の声は静かだった。
河童は目を伏せた。しばらく黙っていたが、やがて搾り出すように言った。
「……現場に、守矢の連中が来てました」
霊夢の眉がわずかに動いた。
「守矢?」
「神奈子様の使いです。工事に必要な信仰導線がどうとか、祈祷の権利がどうとか……私は末端なので詳しくは。でも、現場の河童たちはみんな知ってます。八雲様の仕事なのに、守矢が口を出してるって」
「藍は?」
「怒ってました。でも、止められない感じで」
「紫は?」
その名を出した瞬間、河童の顔色がさらに悪くなった。
「見てません。あの方は、見えない場所にいます」
「便利な女ね」
霊夢は札を軽く振った。河童を縛っていた霊力がほどける。
「行きなさい」
「え?」
「逃げていいって言ってるの」
河童はしばらく霊夢を見上げていたが、次の瞬間、転がるように立ち上がった。
「言ったこと、誰にも」
「言うわけないでしょう!」
「違う。言ってもいいわよ」
河童は足を止めた。
霊夢は薄く笑った。
「博麗が八雲の現場に行くって、山中に言いふらしておいて」
河童は震えたまま頷き、夜の奥へ消えていった。
霊夢は、その背中が見えなくなるまで待った。
それから振り返る。
「文」
屋根の上から声がした。
「はいはい、いますよ」
「紫に伝えに行ったんじゃなかったの?」
「行きましたよ。伝えました。そして戻ってきました」
「早すぎる」
「天狗ですから」
射命丸文は屋根の端にしゃがみ、カメラを手の中で弄んでいた。
「で、紫は何て?」
「笑ってました」
「でしょうね」
「それから、こう言っていました。『霊夢が来るなら、お茶の準備をしておくわ』と」
「馬鹿にしてるわね」
「半分は」
「残り半分は?」
「待っている、ということでしょう」
霊夢は旧参道の方を見た。
夜の山は黒い。
その黒さの中で、ところどころ不自然な灯が点っていた。祭りの提灯ではない。工事現場の灯だ。妖怪の山の斜面に、まるで傷口のように光の筋が走っている。
「行くわよ」
「同行しても?」
「勝手にすれば」
「ありがとうございます。記事の題はもう決めています」
「載せるな」
「心の中の号外です」
文は笑った。
霊夢はその笑いを無視して、山へ向かった。
博麗神社の祭り囃子は、背後で遠ざかっていく。代わりに聞こえてきたのは、木を打つ音、石を砕く音、鉄を引きずる音だった。
大結界再整備計画。
その名を最初に聞いた時、霊夢は笑った。
結界など、壊れたらその時に直せばいい。幻想郷はいつもそうしてきた。異変が起きれば殴る。穴が開けば塞ぐ。妖怪が暴れれば黙らせる。人間が騒げばなだめる。それで何百年も回ってきた。
だが、紫は違った。
彼女は壊れる前に直すと言った。
未来のためだと言った。
幻想郷全体の安定のためだと言った。
綺麗な言葉だった。
綺麗すぎる言葉の下には、たいてい濁った金が沈んでいる。
山道を登るにつれ、空気が変わっていった。木々は切り開かれ、斜面には仮設の足場が組まれている。河童たちが運んだ鉄管、天狗が運んだ木材、地底から上がってきた石材。すべてに管理札が貼られていた。
八雲建設。
八雲組。
境界工務。
九尾管理。
守矢安全祈祷部。
霊夢は最後の札で足を止めた。
「守矢安全祈祷部?」
文が横で肩をすくめる。
「最近できたそうですよ。工事現場の安全祈願、作業員の互助会、現場向けのお守り販売、事故時の補償相談。表向きは親切です」
「裏は?」
「信仰の回収です。現場に人が集まれば、祈る者も増える。祈る者が増えれば、守矢は太る」
「神様も現場商売する時代ね」
「神様ほど商売熱心なものはいませんよ」
工事現場の入口には、河童の警備がいた。二人。槍を持っているが、持ち方が素人くさい。作業員に毛が生えた程度だ。
「止まってください。ここは関係者以外立ち入り禁止で」
言い終える前に、警備の河童は霊夢の顔を見た。
そして一歩下がった。
「関係者よ」
霊夢は通行札を投げた。先ほど捕まえた河童から取った札だ。警備の河童はそれを受け取り、慌てて確認する。
「い、いや、しかし、この札は」
「博麗神社の名前が使われた。なら私は関係者」
「藍様に確認を」
「確認してる間に通るわ」
「待ってください!」
河童が前に出た。
霊夢は歩みを止めない。
次の瞬間、河童の帽子に札が貼りついた。河童はその場で固まる。もう一人が声を上げようとした瞬間、文が横から口を塞いだ。
「静かに。記事にはしませんから」
「んんっ!」
「たぶん」
霊夢は入口を抜けた。
現場の中は、異様な熱気に包まれていた。
夜だというのに、作業は止まっていない。提灯ではなく、河童の作った青白い灯が斜面を照らしている。地面には太い溝が掘られ、そこに巨大な杭が横たえられていた。杭には呪符と金属板が何重にも巻かれている。結界杭。幻想郷の境界を支える骨のようなものだ。
河童たちは汗と泥にまみれて走り回っていた。天狗の下請けが資材を運び、山童が足場を組む。遠くでは、守矢の白い幟が風に揺れていた。
その中心に、八雲藍がいた。
九本の尾を背に広げ、作業台の前で帳面を見ている。周囲の者たちに指示を飛ばす声は落ち着いていたが、目元には疲れが滲んでいた。完璧な式神。八雲紫の腹心。幻想郷で最も有能な雑用係。
霊夢は、その藍の前に立った。
「いい夜ね」
藍は顔を上げた。
目が合う。
一瞬だけ、現場の音が遠ざかったように感じた。
「博麗霊夢」
「呼び捨て?」
「この時間に、許可なく現場へ入ってくる者を客とは呼べない」
「じゃあ、踏み込まれたくない物を隠してる現場ってことね」
藍は帳面を閉じた。
「ここは大結界再整備計画の重要区域だ。結界の不安定化を防ぐため、夜間も作業している。邪魔をしないでほしい」
「命蓮寺の船荷が消えた」
「知っている」
「博麗の印が出た」
「それも知っている」
「なら話が早いわ。誰がやったの?」
「私が知っているなら、あなたがここへ来る前に処理している」
藍の声は冷静だった。
だが、霊夢はその冷静さが嫌いだった。紫の周りにいる者は、いつもこうだ。自分たちは全体を見ているという顔をする。汚れた水に足を突っ込んでいるくせに、靴だけは綺麗なままに見せようとする。
「処理ね」
霊夢は現場を見回した。
「得意そうね、そういうの」
「何が言いたい」
「八雲は昔からそうでしょ。境界を動かす。土地を動かす。人を動かす。都合の悪いものは見えない場所に落とす。今回は何を落としたの? 船荷? 帳簿? それとも人?」
藍の尾がわずかに揺れた。
周囲の河童たちが、作業の手を止めている。空気が固まり始めた。
「言葉を選べ、霊夢」
「選んでるわよ。まだ優しい方」
文は少し離れた足場の上で、手帳を開いていた。藍がそれを睨む。
「射命丸、ここで見たものを書くことは許さない」
「ご心配なく。許可を取って書いたことなんて、ほとんどありません」
「今すぐ山へ帰れ」
「ここも山です」
藍が一歩踏み出した。
その瞬間、現場の奥から別の声がした。
「やめておけ、藍」
空間が裂けた。
黒い隙間が開き、その中から八雲紫が現れた。薄紫の衣をまとい、扇で口元を隠している。まるで茶会にでも来たような顔だった。泥も、騒音も、現場の殺気も、彼女の周りだけ避けて通っているように見える。
霊夢は眉をひそめた。
「出たわね、管理者様」
「ずいぶんな挨拶ね。せっかくお茶を用意しようと思っていたのに」
「泥水なら間に合ってる」
紫は微笑んだ。
その笑顔は美しい。
そして、何も信用できない。
「命蓮寺の件でしょう?」
「そう」
「残念だけれど、こちらも被害者よ」
「被害者?」
「消えた荷の中には、八雲の重要書類もあった。結界工事の工程表、資材台帳、各勢力との覚書。あれが外に出れば、無用な混乱を招く」
「無用ねえ」
霊夢は紫を睨んだ。
「無用かどうか、誰が決めるの?」
「私」
紫は当然のように答えた。
その一言で、現場の空気がさらに冷えた。
藍は目を伏せた。文は口元だけで笑った。河童たちは息を潜めた。
霊夢は一歩近づいた。
「あんたのそういうところ、本当に嫌い」
「あら、私はあなたのそういうところ、嫌いではないわ」
「茶化すな」
「茶化していない。あなたが怒るのは当然よ。博麗の印が使われた。あなたの名前で、誰かが幻想郷に火をつけようとしている」
「なら、あんたは何を隠してる?」
紫は扇を閉じた。
ぱちん、という音が現場に響く。
「隠していないわ。整理しているだけ」
「同じよ」
「違う。隠すのは自分のため。整理するのは幻想郷のため」
「汚い言い換えね」
「必要な言葉よ」
霊夢は笑った。
「で、その幻想郷のために、どれだけ抜いたの?」
紫の目が細くなった。
「何を?」
「金よ。資材。土地。人足。山の技術。命蓮寺の船。守矢の祈祷。全部、結界のためって名目で集めてる。集めれば流れる。流れれば漏れる。漏れた分は、誰の懐に入るの?」
河童たちがざわついた。
藍が声を上げる。
「霊夢、それ以上は」
「図星?」
「現場を乱すなと言っている」
「乱れて困るほど綺麗な現場には見えないけど」
紫はしばらく霊夢を見ていた。
やがて、静かに笑った。
「あなたは賭場で生きているくせに、建設の金にはうるさいのね」
「賭場の金は負けた奴が置いていく。あんたの金は、皆に綺麗な顔で出させてる」
「本質は同じよ」
「違うわ。私は自分が汚いって知ってる」
その言葉に、紫の笑みが少しだけ薄くなった。
霊夢は言った。
「あんたたちは、自分の汚れを大義で隠す。それが気に入らない」
現場の奥で、鉄管が軋んだ。風が山を渡り、守矢の白い幟がばたばたと鳴った。
紫は、初めて霊夢から目を逸らした。
「守矢がこの現場に入り込んでいる」
唐突に、紫が言った。
霊夢は黙った。
「神奈子は、大結界再整備計画を信仰の再配分と見ている。工事が進めば、結界に近い土地の価値が変わる。参道が変われば、人の流れも変わる。人の流れが変われば、信仰の流れも変わる」
「それで?」
「守矢は、博麗の古い利権を削ろうとしている」
「そんなこと、今さら聞かなくてもわかってる」
「でも、あなたはまだ本気で潰す気がない」
「潰す?」
「ええ」
紫の声は柔らかかった。
「守矢は若い。商売がうまい。人里に入り込むのも早い。信仰を売るだけでなく、生活に入り込む。互助会、祈祷、講、現場安全、医療相談、結婚相談まで。人は便利な神を選ぶわ」
「私に、守矢を叩けって言ってるの?」
「私は何も言っていない。ただ、事実を並べているだけ」
「嘘つき」
紫は微笑んだ。
「あなたが守矢を疑えば、私は助かる。あなたが命蓮寺を疑えば、私は時間を稼げる。あなたが妹紅を追えば、誰かが喜ぶ。今回の件は、そういう作りになっている」
霊夢は紫を見た。
「わかってるなら、犯人もわかってるんじゃないの」
「わからないわ」
「本当に?」
「ええ」
紫の返事は、驚くほど素直だった。
その素直さが、逆に不気味だった。
「今回は、境界の外側から石を投げられた気分よ。誰が投げたか見えない。けれど、波紋だけは広がっている」
「幻想郷の中に、あんたの見えない場所なんてあるの?」
「あるわ」
紫は目を伏せた。
「怒りの中よ」
霊夢は何も言わなかった。
紫は続ける。
「欲望は読める。恐怖も読める。損得も読める。けれど、積もり積もった怒りは、時々こちらの計算を超える。妹紅と慧音が絡んでいるなら、なおさらね」
「やっぱり知ってるじゃない」
「名前が浮かんでいるだけよ」
「その名前を消したいの?」
「消したいのではなく、燃え広がる前に囲いたい」
「火消しみたいなこと言うのね」
「火事は好きではないもの」
その時、現場の奥で怒号が上がった。
河童たちが一斉に振り返る。足場の向こう、資材置き場の方で白い煙が上がっていた。火ではない。粉塵だ。何かが崩れた音が、山肌に遅れて響いた。
「資材庫だ!」
誰かが叫んだ。
藍の顔色が変わった。
「結界杭の保管庫だ。全員、持ち場を離れるな!」
しかし、現場の者たちは既に浮き足立っていた。河童が走り、天狗の下請けが空へ上がり、守矢の幟が倒れる。紫は目を細めた。
霊夢は走り出した。
「霊夢!」
藍の制止を無視し、霊夢は資材置き場へ向かった。文が後を追う。
保管庫は、斜面を削った奥にあった。大きな木組みの建屋で、内部には結界杭と呪符、金属部品が積まれているはずだった。
だが、その扉は内側から吹き飛ばされていた。
火は出ていない。
しかし、内部は滅茶苦茶だった。
杭は倒れ、呪符は引き裂かれ、金属板は泥にまみれている。壁には黒い焦げ跡が走っていた。まるで、炎そのものではなく、炎の記憶だけが通り抜けたような跡だった。
霊夢はその焦げ跡に触れた。
熱はない。
「普通の火じゃない」
文が低く言った。
「妹紅さん?」
「決めつけるには早い」
霊夢は奥へ進んだ。
床に、何かが落ちていた。
白い羽根。
鳥の羽根ではない。燃え残りのようにも見えるが、灰にはなっていない。霊夢はそれを拾い上げた。
文が息を呑む。
「また、白い鳥」
「露骨すぎる」
霊夢は羽根を睨んだ。
「妹紅に見せかけたい奴がいる」
「あるいは、妹紅さん本人が、そう思わせたいか」
「どっちにしても、趣味が悪い」
その時、背後から藍が入ってきた。
続いて紫も。
藍は内部を見るなり、表情を硬くした。
「これは……」
「保管庫の管理は?」
霊夢が訊く。
「八雲側だ」
「鍵は?」
「三つ。私、現場主任、それから守矢の安全祈祷部が一本預かっている」
霊夢は藍を振り返った。
「守矢が鍵を持ってるの?」
「安全祈願の札を定期的に貼り替えるためだ」
「便利な理由ね」
紫は壊れた扉を見た。
「内側から開いているわね」
「中に誰かがいたってこと?」
「あるいは、中へ入れる者が、外から入って内側を壊した」
「言い方が回りくどい」
「あなたに似てきたのかしら」
「やめて」
文が床にしゃがんだ。
「これ、見てください」
文が指した先には、泥の足跡があった。河童の足ではない。天狗のものでもない。人間に近い。だが、足運びが妙に静かだ。まるで、歩いたことを後から貼りつけたように不自然だった。
「偽装ね」
霊夢は言った。
紫は頷いた。
「ええ。雑ではないけれど、上手すぎる」
「上手すぎる?」
「本当に現場を荒らす者は、こんなに綺麗に証拠を残さない。これは見つけてほしい証拠よ」
霊夢は羽根を握った。
「妹紅の名前を出して、守矢の鍵を見せて、八雲の現場を壊す」
「そして、あなたをここへ呼ぶ」
紫が言った。
「私を?」
「博麗が八雲の現場で騒ぐ。天狗がそれを見る。山に噂が流れる。守矢が動く。命蓮寺が黙れなくなる。永遠亭も、紅魔館も、白玉楼も、神霊廟も、自分の荷を守るために走り出す」
文が楽しそうに言う。
「見事な導火線ですね」
「笑うな」
霊夢が睨むと、文は肩をすくめた。
藍は壊れた杭を調べていた。その手が、途中で止まる。
「紫様」
「何?」
「一本、ない」
紫の笑みが消えた。
霊夢もすぐに理解した。
「結界杭?」
「試験用の小型杭だ。まだ本設置前だが、呪符と金属板は本物と同じ構造をしている」
「危ないの?」
藍は答えなかった。
代わりに紫が言った。
「使い方によるわ」
「どう使えば?」
「結界を安定させるために使えば、薬になる。逆に使えば、毒になる」
「つまり危ないのね」
「ええ」
霊夢は舌打ちした。
「命蓮寺の荷だけじゃなく、ここからも盗ったわけね」
「盗ったというより、選んで抜いた」
紫の声は低かった。
「帳簿、印、薬箱、結界杭。欲しいものがはっきりしている」
「幻想郷を揺らす道具ばかり」
「そう」
現場の外で、河童たちのざわめきが大きくなっていた。崩れた資材、消えた杭、守矢の名、妹紅の羽根。噂になるには十分すぎる。
霊夢は紫を見た。
「あんた、まだこれを管理案件で済ませる気?」
紫は答えなかった。
「異変よ」
霊夢は言った。
「これはもう盗難じゃない。誰かが幻想郷中の汚いところを突いて回ってる。放っておけば、あんたの大事な均衡が崩れる」
「異変にすれば、表に出る」
「もう出てる」
「出し方を間違えれば、幻想郷が割れる」
「最初から割れてたんでしょ。あんたが紙を貼って隠してただけで」
紫は霊夢を見た。
その目に、わずかな怒りがあった。
霊夢は怯まなかった。
「博麗の印を使った。命蓮寺の荷を消した。八雲の杭を抜いた。次は守矢か、永遠亭か、紅魔館か。どこでもいいけど、私の縄張りで勝手に火をつけた奴は祓う」
「祓うだけで済めばいいけれど」
「済ませるのが私の仕事」
「今回は、殴って終わる相手ではないかもしれない」
「なら、殴ってから考える」
文が小さく笑った。
藍は頭を抱えたくなるような顔をした。
紫だけが、じっと霊夢を見ていた。
やがて紫は、扇を開いた。
「藍」
「はい」
「現場を封鎖。河童には余計なことを喋らせないように」
「難しいかと」
「なら、喋る内容をこちらで用意してあげなさい」
「承知しました」
霊夢が横から言う。
「情報操作?」
「混乱防止よ」
「同じ」
「言葉は大事よ、霊夢」
「汚い言葉遊びは嫌い」
紫は微笑んだ。
「あなたはこれから守矢へ行くの?」
「行く理由ができたからね」
「神奈子は簡単には認めないわよ」
「認めさせる必要はない。顔を見ればだいたいわかる」
「野蛮ね」
「便利でしょ」
霊夢は保管庫を出た。
外では、河童たちが不安そうにこちらを見ていた。彼らは何も知らない末端だ。だが、末端ほど噂に敏い。上が隠したいことほど、下から漏れる。
文は既に数人に話を聞いていた。藍が鋭い視線を向けると、文は涼しい顔で手帳を閉じた。
「では、私はこの辺で」
「射命丸」
紫が呼び止める。
「はい?」
「記事にするなら、題だけは選びなさい」
「ご希望は?」
「幻想郷を壊さない題」
文はにっこり笑った。
「それは読者受けが悪そうですね」
黒い翼が広がり、文は夜空へ舞い上がった。
霊夢も山道を下りようとした。
その背中に、紫の声がかかる。
「霊夢」
「何」
「あなたは、妹紅をどう見る?」
霊夢は立ち止まった。
「まだ見てない」
「もし彼女が本当に火をつけたのだとしたら?」
「理由を聞く」
「聞いて、納得したら?」
「殴る」
「納得しなかったら?」
「もっと殴る」
紫は少しだけ笑った。
「変わらないわね、あなたは」
「変わったら困るんでしょ」
霊夢は振り返らずに言った。
「あんたたちがどれだけ裏で汚れても、最後に私が出てきて異変って名前をつける。そうすれば、幻想郷はまだ平和って顔ができる」
紫は答えなかった。
「でも今回は違うかもね」
「何が?」
「私が片付ける前に、誰かが全部ぶちまけるかもしれない」
風が吹いた。
守矢の白い幟が、倒れたまま泥を吸っていた。そこに書かれた安全祈願の文字は、半分ほど汚れて読めなくなっている。
霊夢は山道を下り始めた。
足元には、工事で削られた土が流れていた。そこに結界札の切れ端、煙草の吸い殻、割れた酒瓶、誰かの落とした小銭が混じっている。
幻想郷の未来のため。
そう書かれた看板の下で、幻想郷の今が腐っている。
霊夢は思った。
紫は嘘をついている。
藍も何かを隠している。
守矢は食い込んでいる。
命蓮寺は沈黙している。
妹紅の名は、わざと置かれている。
誰も潔白ではない。
それでも、まだ誰かが一番悪い。
その一番悪い奴を引きずり出すまで、今夜は終わらない。
山道の途中で、文が木の上に降りてきた。
「博麗さん」
「今度は何」
「先ほどの河童、もう喋っていますよ。山中に広まるのも時間の問題です。博麗が八雲の現場に殴り込んだ、と」
「殴ってない」
「まだ、ですね」
「記事にした?」
「まだ」
「珍しい」
「大きな記事は、火が十分に回ってから出すものです」
霊夢は文を睨んだ。
「本当にいい性格ね」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
「知ってます」
文は木の枝に腰掛け、夜の山を見下ろした。
「守矢へ行くなら、早い方がいいですよ」
「なぜ」
「神奈子様はもう動いています」
霊夢は足を止めた。
「どこへ」
「人里です。今夜、守矢の講が開かれています。安全祈願と互助会の説明会。場所は寺子屋近くの集会所」
「寺子屋?」
「ええ」
文の目が光った。
「上白沢慧音の縄張りです」
霊夢はしばらく黙っていた。
八雲の現場。
守矢の鍵。
妹紅の羽根。
慧音の縄張り。
線が一本、また別の場所へ伸びた。
「文」
「はい」
「先に行って見てきて」
「取材ですか?」
「偵察」
「同じようなものです」
「違うわ。記事にするな」
「難しい注文ばかりですね」
「じゃあ、落とす」
「承りました」
文は翼を広げ、夜空へ消えた。
霊夢はひとり、山道に残された。
遠く、人里の方角に明かりが見える。祭りの灯ではない。集会所の灯だ。人が集まり、神が語り、金が動く場所の灯。
神奈子がそこにいる。
慧音の近くで。
妹紅の影がちらつく中で。
偶然のはずがない。
霊夢は歩き出した。
山の上では、八雲の現場が騒ぎ続けている。紫は今頃、笑いながら火消しをしているだろう。藍は帳簿を抱え、河童を黙らせ、守矢に釘を刺し、命蓮寺へ使いを出すはずだ。
だが、火はもう別の場所に移っている。
幻想郷の悪党たちは、全員、自分だけは火元ではないと思っている。自分の手は汚れていない、自分の悪事は必要悪だ、自分の利権は秩序のためだと信じている。
その信じ込みが、一番よく燃える。
霊夢は夜の人里へ向かった。
懐の中には、焼けた紙片。
袖の中には、御札と針。
頭の中には、紫の笑顔。
そして鼻の奥には、消えない焦げた匂いが残っていた。
幻想郷の裏側で、何かが燃え始めている。
まだ炎は見えない。
だが、煙はもう上がっていた。