人里の夜は、神社の夜とは違う。
博麗神社の祭りの夜は、酔いと欲と騒ぎの匂いがする。屋台の煙、賭場の熱、酒瓶の割れる音、笑い声の裏に隠れた舌打ち。浮かれた空気の下で、誰もが少しずつ正気を失っている。
だが、人里の夜はもっと湿っていた。
戸を閉めた家々の奥で、家族が息を潜めている。路地には灯りが少なく、井戸のまわりには昼間の声だけが残っている。人間たちは妖怪より弱い。弱いからこそ、夜には敏感だった。どの家も、どの窓も、外の気配を窺っている。
その人里の中心から少し外れた場所に、古い集会所があった。
寺子屋の近くだ。昼間なら子供たちの声が聞こえる場所だが、今夜は違った。集会所の窓から白い灯が漏れ、入口には新しい幟が立っている。
幟には、墨で大きくこう書かれていた。
守矢安全講。
結界再整備協賛。
家内安全。現場安全。商売繁盛。
霊夢はその文字を見て、鼻で笑った。
「欲張りすぎでしょ」
集会所の前には、人間たちが列を作っていた。商人、職人、農民、若い夫婦、年寄り。中には妖怪の山から来た河童もいる。彼らは入口で小さな札を受け取り、中へ入っていく。札には守矢の印が押されていた。
文は、向かいの屋根の上にいた。
片膝を立て、手帳を開き、すでに楽しそうな顔をしている。
「盛況ですねえ。博麗さんの祭りと同じ夜にこれだけ集まるとは」
「喧嘩売ってるのよ」
「神奈子様に聞いたら、偶然だと言うでしょうね」
「偶然で済むなら、世の中に悪意なんてないわ」
「名言ですね。書いていいですか?」
「書いたら落とす」
「本日三度目です、それ」
文は笑った。
霊夢は集会所の入口へ向かった。
受付には、緑の髪の少女が立っていた。東風谷早苗。守矢の巫女。白と青の清潔な装束をまとい、やわらかな笑みを浮かべている。来る者ひとりひとりに丁寧に頭を下げ、札を渡し、困り事を聞いている。
その姿だけを見れば、霊夢とは正反対だった。
愛想がいい。
言葉が柔らかい。
信仰心がありそうに見える。
そして何より、金の匂いを上手に隠している。
「あ、霊夢さん」
早苗は霊夢を見ると、少し驚いたように目を丸くした。だが、すぐに笑顔を戻す。
「いらっしゃいませ。今日は博麗神社のお祭りでは?」
「そうよ」
「お忙しい中、こちらにも来てくださったんですか? ありがとうございます。見学だけでも歓迎しますよ。守矢安全講は、どなたでも参加できますから」
「へえ。私でも?」
「もちろんです。幻想郷の安全は、皆で守るものですから」
「綺麗なこと言うのね」
霊夢は受付台に置かれた札を手に取った。
小さな木札だ。守矢の印。裏には、月ごとの奉納額と、紹介者欄のようなものがある。霊夢はそれを見て、目を細めた。
「紹介者?」
早苗はにこやかに答えた。
「講に参加された方が、困っているお知り合いを連れてきてくださることが多いんです。そのご縁を記録するためです」
「ご縁ねえ」
「はい。信仰は、人と人のつながりですから」
「つながりが増えるほど、守矢に金が入る仕組み?」
早苗の笑顔が、ほんの少しだけ硬くなった。
「奉納は強制ではありません。皆さんの気持ちです」
「気持ちに金額欄があるの?」
「運営には費用がかかります。お札を作るにも、場所を借りるにも、現場の安全祈祷を行うにも、人手が必要です」
「なら商売って言えばいいじゃない」
「商売ではありません。信仰です」
「その二つ、守矢では違うの?」
早苗は黙った。
周囲の人間たちが、ちらちらとこちらを見る。受付に並んでいた老人が気まずそうに足をずらした。商人らしい男は、霊夢の顔を見て慌てて目を伏せた。
博麗と守矢。
どちらにつくか、という話ではない。
どちらに睨まれたくないか、という話だ。
早苗は一度だけ深く息を吸った。
「霊夢さん。今日は、人里の皆さんに大切なお話をする場です。いきなり来て、そういう言い方をされるのは困ります」
「困るのは、私の縄張りで勝手に商売される方なんだけど」
「ここは博麗神社ではありません。人里です」
「人里の異変も、最後は私が片付けるの」
「片付けるだけでは、人は安心して暮らせません」
早苗の声が、少し強くなった。
「妖怪が出たら退治する。異変が起きたら解決する。それは大切です。でも、何かが起きてからでは遅いこともあります。家が壊れてから直すのではなく、壊れないように支える。病になってから薬を飲むのではなく、日々を整える。怖い夜をただ我慢するのではなく、支え合う仕組みを作る。守矢がやっているのは、そういうことです」
霊夢は早苗を見た。
「ずいぶん練習したみたいな台詞ね」
「本気で言っています」
「本気なら、なお悪いわ」
「どういう意味ですか」
「本気で良いことしてると思ってる悪党が、一番面倒なのよ」
早苗の目が細くなった。
その瞬間、集会所の奥から低い声が響いた。
「そこまでにしておけ、早苗」
八坂神奈子だった。
神奈子は壇上の近くに立っていた。背後には大きな注連縄、脇には帳面を抱えた河童、壁には守矢の祈祷札。堂々とした立ち姿は神そのものだったが、霊夢には別のものに見えた。
大きな店の主人。
あるいは、場を仕切る胴元。
神奈子は霊夢を見ると、豪快に笑った。
「よう、博麗。祭りはいいのか」
「おかげさまで、客を取られて暇になったの」
「そいつは悪かったな。だが、人の足は縛れん。行きたいところへ行くものだ」
「神様のところへ? それとも、儲け話のところへ?」
「どちらでも同じだ。人が集まる場所に力は生まれる。力が生まれれば、金も動く。金が動けば、また人が集まる。お前も知らないわけじゃないだろう、博麗」
「私は神様じゃないから、綺麗な顔でそれを言わないだけ」
「なら、今日は勉強していけ。古い神社の巫女にも、少しは役に立つ話があるかもしれん」
神奈子は壇上へ上がった。
集会所の中には、既に多くの人々が座っていた。霊夢が入ると、空気がざわつく。上白沢慧音は壁際に立っていた。腕を組み、難しい顔で壇上を睨んでいる。彼女は霊夢を見ても、軽く顎を引いただけだった。
その横には、藤原妹紅がいた。
白い髪、赤い目、手を懐に入れたまま壁にもたれている。表情は険しい。だが、霊夢を見ると、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「遅かったな、巫女」
「呼ばれてないもの」
「呼ばれなくても来るだろ」
「来てほしかったの?」
「さあな。来たら面倒になるとは思ってた」
「なら帰ろうか?」
「帰れるならな」
短いやり取りだったが、慧音の眉がぴくりと動いた。
「妹紅。余計なことは言うな」
「言ってないさ」
「顔が言っている」
「顔まで管理する気か、先生」
「今夜は、軽口で済む場ではない」
慧音の声には苛立ちがあった。寺子屋の先生としての顔ではない。人里の治安を背負う者の顔だった。
霊夢は二人の間に割って入るように立った。
「命蓮寺の水路で、あんたの名前が出た」
妹紅は表情を変えなかった。
「へえ」
「白い鳥。燃えない女。そう言ってた」
「幻想郷に白い鳥なんて山ほどいる」
「燃えない女は?」
「もっと探せばいるんじゃないか」
「とぼけるの下手ね」
「決めつけるのは早いぞ、博麗」
慧音が言った。
「妹紅は昨日の夜から人里にいた。命蓮寺の水路へ行く時間はない」
「証人は?」
「私だ」
「身内じゃない」
「では、私が嘘をついていると?」
「まだ何も言ってないわ」
「目が言っている」
霊夢は肩をすくめた。
「今日は顔で喋る奴が多いわね」
妹紅が笑った。
だが、その笑いにはまったく温度がなかった。
「で、霊夢。あんたは私を捕まえに来たのか。それとも守矢を潰しに来たのか」
「両方かも」
「忙しいな」
「人の名前を勝手に使われてるのよ。忙しくもなるわ」
「名前を使われるくらい、いいじゃないか」
妹紅の声が低くなった。
「人里じゃ、名前すら残らない連中が山ほどいる」
霊夢は妹紅を見た。
慧音がすぐに言う。
「妹紅」
「黙ってろって? そうやって何年黙ってきたんだよ、慧音。山の工事だ、寺の荷だ、神社の祈祷だ、医者の薬だ、貴族の夜会だ。全部、人里の人間が下で支えてる。荷を運ぶのも、道を直すのも、火を消すのも、後始末するのも、結局こっちだ。なのに帳面に名前は載らない。怪我をしても、死んでも、次の人足が来るだけだ」
集会所の空気が重くなった。
神奈子は壇上から妹紅を見下ろしている。早苗は受付のそばで唇を結んでいる。慧音は妹紅を止めようとしていたが、言葉を探していた。
霊夢は静かに言った。
「それで、火をつけたの?」
妹紅は霊夢を見返した。
「つけたら、どうする」
「殴る」
「理由を聞かずに?」
「聞いてから殴る」
「なら聞けよ」
妹紅は壁から背を離した。
周囲の人間たちが身を固くする。慧音が一歩前に出た。
「妹紅、やめろ」
「やめてきた結果が今だろ、慧音」
「ここで言えば、人里が巻き込まれる」
「もう巻き込まれてる。あんたが一番知ってるはずだ」
妹紅は壇上の神奈子へ顔を向けた。
「なあ、山の神様。あんたらの安全講ってのは、誰を安全にするんだ?」
神奈子は少しも動じなかった。
「参加する者だ」
「参加できない奴は?」
「門は開いている」
「金がない奴は?」
「奉納は強制ではない」
「払えない奴は、次の集まりで肩身が狭くなる。紹介者がいない奴は、困り事を話す相手もいない。札を持ってる家は守られてるように見えて、持ってない家は不安になる。あんたはそうやって、人の不安に値段をつけてるんじゃないのか」
早苗が口を開いた。
「それは違います」
妹紅は早苗を見る。
「何が違う」
「不安に値段をつけているのではありません。不安をひとりで抱え込まなくていい形にしているんです。人里の皆さんは、ずっと怖い思いをしてきました。妖怪に怯え、異変に巻き込まれ、病や火事や災害に苦しんできました。でも、博麗神社は何かが起きた時にしか来ない。慧音さんたち自警の方々も、全部を背負うには限界がある。だから私たちは、普段から支える仕組みを作ろうとしているんです」
妹紅は皮肉げに笑った。
「仕組みね」
「はい。仕組みです。個人の善意だけに頼るから、誰かが潰れるんです。人が怪我をした時、火事が起きた時、仕事を失った時、信仰を通じて支え合えるなら、それは悪いことではないはずです」
「信仰を通じて、じゃなくて、守矢を通じて、だろ」
「守矢が責任を持つという意味です」
「責任?」
妹紅の声が荒くなった。
「神様が責任を取ったところを見たことがない」
早苗の顔色が変わった。
「妹紅さん。それはあまりにも」
「人間が祈る。神が聞く。叶えば神の力、叶わなければ信心が足りない。違うか?」
「違います」
「なら、誰が責任を取る? 札を買った家が燃えたら? 安全祈願した現場で事故が起きたら? 講に入っていた人間が食い物にされたら? 神様が頭を下げるのか? 金を返すのか? 失ったものを戻せるのか?」
早苗は言葉に詰まった。
神奈子が、壇上で笑った。
「妹紅。お前は随分と人間の味方をするんだな」
「私は人間だ」
「そう言うには、ずいぶん長く生きている」
空気が凍った。
慧音が鋭く言う。
「神奈子様。その言い方は控えていただきたい」
「事実を言ったまでだ」
「事実にも、使い方があります」
「歴史の教師らしい言葉だな」
神奈子は壇上からゆっくり降りてきた。
人々が道を開ける。神奈子は妹紅の前に立った。背丈も気配も、圧倒的に神奈子の方が大きい。だが妹紅は一歩も引かなかった。
「妹紅。お前は怒っている。怒りは悪くない。むしろ、力になる。だが、怒りだけでは里は守れん」
「守矢の講なら守れるのか?」
「少なくとも、今のままよりはな」
「今のままを作ったのは誰だよ」
「幻想郷全体だ」
「便利な言葉だな。全体って言えば、誰も悪くないみたいに聞こえる」
「違う。全員が悪いという意味だ」
神奈子のその言葉に、霊夢が反応した。
「へえ」
神奈子は霊夢を見た。
「博麗、お前もだ。人里の不安を放っておいた。祭りと賭場で人を集め、異変が起きれば派手に解決する。だが、日々の不安には目を向けなかった。お前の仕事ではないと言えばそれまでだがな」
「そうね。私は便利屋じゃないし」
「だが、人は便利な神を求める。お前がやらないなら、こちらがやる。それだけだ」
「それで、私の名前が入った船荷が消えたのも、便利な神様のお仕事?」
神奈子の目がわずかに細くなった。
「何の話だ」
「命蓮寺の船荷。八雲の工事。守矢の鍵。結界杭が一本消えた」
集会所がざわついた。
早苗が驚いた顔をする。
「結界杭が?」
「知らないの?」
「私は知りません」
「神奈子は?」
神奈子は霊夢を見つめたまま、すぐには答えなかった。
「結界杭が消えたという話は、今初めて聞いた」
「守矢の安全祈祷部が、保管庫の鍵を持ってた」
「現場安全のためだ。藍も承認している」
「便利な立場ね。入れる。触れる。知らなかったと言える」
「私たちが盗んだと言いたいのか」
「まだ言ってない」
「目が言っている」
「今日そればっかりね」
神奈子は低く笑った。
「博麗。お前は疑う相手を間違えている」
「じゃあ正解を教えて」
「この件で一番得をする者を考えろ」
「守矢じゃないの?」
「短絡だな。守矢が八雲の工事現場で騒ぎを起こせば、真っ先に疑われる。現にお前はここへ来た。そんな雑な手を私が打つと思うか」
「自分が疑われることまで読んで、逆に白く見せる奴もいる」
「それは紫のやり方だ」
神奈子の声に、露骨な棘があった。
霊夢は目を細めた。
「紫がやったと?」
「やったとは言っていない。だが、あいつなら自分の現場を傷つけてでも、より大きな盤面を動かす。博麗、お前も知っているだろう」
「知ってるわよ。でも、あんたも似たようなものじゃない」
「私はもっと素直だ。欲しいものは欲しいと言う」
「信仰が欲しい?」
「そうだ」
神奈子ははっきり言った。
「信仰が欲しい。人が欲しい。金が欲しい。山の力が欲しい。人里への道が欲しい。結界事業に食い込みたい。博麗の古い縄張りも、八雲の管理も、命蓮寺の綺麗事も、神霊廟の古い権威も、全部ひっくるめて、この幻想郷で守矢の席を広げたい」
集会所が静まり返った。
早苗でさえ、神奈子を見上げたまま動けない。
神奈子は続けた。
「だがな、欲しいと言うことと、火をつけることは違う。私は奪うなら、正面から奪う。札を配り、講を開き、人を集め、信仰を増やす。それは商売に見えるかもしれん。いや、商売でもある。だが、少なくとも私は、誰かの印を偽って荷を消すような陰気な真似はしない」
霊夢は神奈子を見た。
「堂々と悪党宣言?」
「綺麗な悪党より、わかりやすい神の方がましだろう」
「どっちも迷惑」
「そう言うな。お前も同類だ、博麗。賭場の取り分、屋台の場所代、異変後の示談。どれも似たようなものだ」
「私は神様じゃない」
「だから弱い」
その言葉に、霊夢の空気が変わった。
早苗が息を呑む。
妹紅が口の端を上げる。
慧音が小さくため息をついた。
霊夢は神奈子に一歩近づいた。
「今、何て?」
「お前は弱いと言った」
「もう一回」
「博麗霊夢。お前は個人としては強い。異変解決の巫女としては、誰より厄介だ。だが、仕組みを持たない。信仰を束ねる組織も、人を養う器も、未来に投資する根気もない。お前の強さは、その場で殴って終わらせる強さだ。だが、この幻想郷の裏側は、殴って終わるほど単純ではない」
霊夢は黙った。
神奈子はさらに言う。
「人里の者たちは、毎日を生きている。今日の米、明日の火事、来月の仕事、子供の病、老いた親の世話。お前は異変が起きれば飛んでくる。だが、異変ではない不幸には来ない。そこに守矢が入る。お前が嫌がろうと、人は必要なものを選ぶ」
「それが講ってわけ」
「そうだ」
「紹介者を記録して、奉納額を並べて、困ってる人間を信者にして?」
「悪意ある言い方だな」
「善意ある搾取よりは正直でしょ」
早苗がたまらず口を挟んだ。
「霊夢さん。どうして、そこまで悪く見ようとするんですか」
「悪いからよ」
「本当にそうですか? 霊夢さんは、守矢が人里に来ること自体が嫌なんじゃないですか。自分の場所を取られるのが嫌だから、全部悪く見えるんじゃないですか」
霊夢は早苗を見た。
早苗の声は震えていた。だが逃げてはいない。
「私たちは、人里を壊したいわけではありません。困っている人を助けたいんです。現場で怪我をした河童も、火事で家を失った人も、仕事を探している若者も、誰かに相談したいお年寄りも、皆、居場所を求めています。博麗神社がそれをやらないなら、私たちがやります。それがどうして悪なんですか」
霊夢は少し黙った。
それから言った。
「早苗」
「はい」
「善意で人を集めるのは、悪意で集めるより危ないのよ」
「なぜですか」
「集まった人間を、自分がどう使えるか考える奴が、必ず後ろにいるから」
早苗は神奈子を見た。
神奈子は笑っていた。
その笑みを見て、早苗の表情が少しだけ揺れた。
霊夢は続ける。
「困っている人間は、助けてくれる相手を疑えない。疑ったら、自分が悪いみたいに感じるから。だから、助ける側は強いの。金を取っても、名前を書かせても、次の人を連れてこさせても、全部『あなたのため』で通る。そうやって縛ったものは、縄よりほどきにくい」
集会所に重い沈黙が落ちた。
誰も、完全には否定できなかった。
神奈子はしばらく黙って霊夢を見ていたが、やがてゆっくりと言った。
「やはり、お前は面白いな。自分の汚さを棚に上げるが、人の汚さを見る目だけは確かだ」
「褒めてるつもり?」
「半分は」
「残り半分は?」
「邪魔だと思っている」
神奈子の背後で、注連縄がわずかに揺れた。
神の気配が強くなる。
早苗が慌てて前に出た。
「神奈子様、ここでは」
「わかっている。人里の集会所で巫女と喧嘩をするほど、私は若くない」
妹紅が笑った。
「山の神様が大人で助かったな、霊夢」
「あんたは黙ってて」
「怖い怖い」
慧音が低く言った。
「全員、ここがどこか忘れるな。ここは人里だ。寺子屋の隣だ。子供たちが明日も通う場所だ。神だろうが巫女だろうが不死人だろうが、ここで騒ぎを起こすなら、私が相手をする」
慧音の声は静かだった。だが、集会所の空気を押さえ込むだけの重さがあった。
神奈子は慧音に目を向けた。
「上白沢慧音。お前はどちらにつく」
「人里につきます」
「博麗でも守矢でもなく?」
「当然です」
「人里を守るには力がいる。博麗の札だけでは足りない。妹紅の火だけでも足りない。寺子屋の教えでも足りない。守矢の仕組みを使うべきだ」
「使えるものなら使います」
慧音はまっすぐに答えた。
「ですが、使われる気はありません。人里は、神社の財布でも、妖怪の倉庫でも、工事の人足置き場でもない」
神奈子は目を細めた。
「強い言葉だ」
「弱い立場だから、言葉だけでも強くする必要があるのです」
「それで守れるか?」
「守れなかったものも多いです」
慧音の声が少し沈んだ。
「だからこそ、私はこれ以上、誰かの都合で人里が動かされることを許したくない。守矢の講も、博麗の賭場も、八雲の工事も、命蓮寺の物流も、永遠亭の薬も、すべてが人里に入り込んでいる。人々は便利さと不安の間で選ばされている。けれど、その選択肢を並べているのは、いつも力を持つ者たちです」
妹紅が小さく言った。
「その通りだ」
慧音は妹紅を見た。
「だからといって、火をつけていい理由にはならない」
妹紅は黙った。
霊夢はその沈黙を見逃さなかった。
「妹紅」
「何だ」
「結界杭、知らない?」
「知らない」
「命蓮寺の荷は?」
「知らない」
「白い羽根は?」
「さあな」
「全部知らないのね」
「知ってたら言うと思うか?」
「言わせるわよ」
「やってみろよ」
二人の間に、張り詰めた空気が走った。
妹紅の目が赤く光る。霊夢の袖の中で札が揺れる。慧音が二人の間に立とうとした、その時だった。
集会所の外で、悲鳴が上がった。
女の声。
続いて、何かが倒れる音。
全員が入口を見た。
霊夢が最初に動いた。次に妹紅。慧音、早苗、神奈子が続く。
外へ出ると、集会所の脇の路地で、男が一人膝をついていた。若い商人だ。顔は蒼白で、胸元を押さえている。周囲には数人の人間が集まり、どうしていいかわからず固まっている。
「どいて」
霊夢が人垣を割った。
男は苦しそうに息をしていた。怪我ではない。恐怖と混乱で呼吸が乱れているようだった。慧音がすぐに膝をつく。
「落ち着け。ゆっくり息をしろ。何があった」
男は震える手で懐を押さえた。
「札が……札が……」
「札?」
早苗が顔を近づける。
「守矢の札ですか?」
男は首を横に振った。
「違う……渡された……集会所の裏で……これを持っていれば、守られると……」
霊夢は男の懐から、小さな紙包みを取り出した。
守矢の札ではない。
白い紙に、薄く別の印が押されている。
兎の印。
永遠亭。
早苗が息を呑む。
「永遠亭の……」
神奈子の表情が変わった。
妹紅は目を細める。
慧音は男の肩を支えながら、霊夢を見る。
「霊夢」
「わかってる」
紙包みの中には、小さな薬包と、短い書付が入っていた。
『不安を鎮める。信仰より確実』
霊夢はその文字を見て、静かに笑った。
「今度は永遠亭ね」
文の声が屋根の上から降ってきた。
「面白くなってきましたね」
「黙ってなさい」
「これは大きいですよ。守矢の講の会場で、永遠亭の薬包。しかも、信仰を煽るような文言。誰かが喧嘩を売っています」
神奈子は低く言った。
「私の集会に、永遠亭の名を置いたか」
その声には怒りがあった。
早苗は顔色を失っている。
「こんなこと、誰が……」
妹紅がぽつりと言った。
「誰でもいいんだろ」
霊夢が妹紅を見る。
妹紅は続けた。
「守矢に永遠亭を疑わせる。永遠亭に守矢を疑わせる。博麗には妹紅を疑わせる。八雲には守矢を疑わせる。命蓮寺には自分たちの荷を探させる。簡単だ。みんな、最初から隣の奴を信用してない」
「他人事みたいに言うのね」
「他人事じゃないさ」
妹紅は霊夢を見た。
「だから面倒なんだ」
慧音が厳しく言う。
「妹紅。お前は何を知っている」
「何も知らない」
「嘘をつくな」
「慧音」
「今夜は、私にも嘘をつくな」
その言葉に、妹紅の表情が一瞬だけ変わった。
だが、すぐにいつもの硬い顔に戻る。
「本当に、何も知らない。少なくとも、その薬包は私じゃない」
「では、何を知っている」
妹紅は空を見上げた。
月は雲に隠れている。
「火をつけた奴は、火事を見たいわけじゃない」
霊夢は黙った。
妹紅は言った。
「全員に、水を持って走らせたいんだよ。そうすれば、どの家に何が隠してあるか見えるからな」
神奈子が言う。
「なかなか鋭いじゃないか」
「褒めるな、気持ち悪い」
「お前ではないのか?」
「だったら、もっと上手くやる」
「自信家だな」
「火の扱いには慣れてる」
慧音が睨む。
「妹紅」
「冗談だ」
「今夜、その冗談は笑えない」
霊夢は薬包を握った。
「永遠亭に行く」
早苗が言った。
「待ってください。うちの集会でこんなことが起きたんです。守矢としても」
「守矢は守矢で勝手に怒ってればいいわ」
「勝手に、では済みません。人里の皆さんが不安になります。今ここで永遠亭の名前だけが広がれば」
「広げるのは文でしょ」
屋根の上で文が笑う。
「私はまだ何も」
「まだ、ね」
神奈子が早苗の肩に手を置いた。
「早苗。講は中止だ」
「ですが」
「今夜はもう信仰どころではない。人々を帰せ。札は回収するな。回収すれば、こちらが何か隠したように見える。配ったものはそのままでいい。だが、奉納は受け取るな」
「はい」
早苗はうなずき、集会所の中へ戻ろうとした。
その背に、霊夢が声をかける。
「早苗」
早苗は振り返った。
「何ですか」
「あんた、本気で人里を助けたいの?」
早苗は少し驚いた顔をした。
それから、まっすぐ答えた。
「はい」
「なら、神奈子の言うことを全部信じるのはやめなさい」
早苗の表情が強張る。
「それは、どういう」
「善意を悪用する奴は、善意の近くにいる」
霊夢はそれだけ言って、踵を返した。
早苗は何も言い返さなかった。
神奈子は笑っている。だが、その笑みは先ほどより少し冷たかった。
「博麗」
「何」
「永遠亭へ行くなら気をつけろ。あそこは薬を扱う。薬は信仰より厄介だ」
「神様が薬に負けるの?」
「信仰は心に入る。薬は体に入る。どちらも人を変えるが、後者の方が早い」
「忠告?」
「利害の一致だ。私の講を汚した奴を、私も許す気はない」
「じゃあ先に言っておく。勝手に動いたら、あんたも祓う」
「やれるものなら」
霊夢と神奈子の視線がぶつかった。
その間に、慧音が入った。
「霊夢。永遠亭へ行く前に、その薬包を私にも見せてくれ。人里に出回っている可能性があるなら、こちらでも調べる必要がある」
「いいわ。ただし、触りすぎないで」
「わかっている」
慧音は紙包みを慎重に見た。文字、紙質、印、折り目。その目は教師というより、記録者のものだった。
「これは永遠亭の正規の包みではないかもしれない」
「わかるの?」
「寺子屋で薬を預かることがある。永遠亭の薬包は、もっと紙が厚い。印も少し違う」
「偽物?」
「断言はできない。だが、見せたい印だけを似せている感じがする」
霊夢は頷いた。
「どいつもこいつも、名前を使われてるわけね」
妹紅が言った。
「だから言ったろ。誰でもいいんだ。火元に見えれば」
「でも、火は本物よ」
「ああ」
妹紅は人里の暗い路地を見た。
「だから厄介なんだ」
倒れた男は、慧音と早苗の手で集会所へ運ばれた。命に別状はなさそうだったが、ひどく怯えていた。守矢の講に来た帰り、裏口で見知らぬ者に紙包みを渡されたという。顔は覚えていない。ただ、声だけがやけに優しかった、と言った。
霊夢はその話を聞いて、ますます機嫌が悪くなった。
優しい声。
不安を鎮める薬。
信仰より確実。
誰かが、人の弱いところばかりを選んで触っている。
神奈子は集会所の中で、人々に落ち着くよう語っていた。早苗はひとりひとりに頭を下げている。慧音は寺子屋へ使いを出し、妹紅は入口で腕を組んで立っていた。
霊夢は妹紅の横を通る。
「来る?」
「永遠亭に?」
「そう」
「行ってほしいのか?」
「見張ってた方がいい気がして」
「私を?」
「そう」
妹紅は笑った。
「正直だな」
「遠回しに言うの面倒だし」
「残念だが、私は人里に残る。今夜はこっちもきな臭い」
「逃げるの?」
「守るんだよ」
「何を?」
妹紅は少しだけ黙った。
「まだ燃えてないものを」
霊夢は妹紅を見た。
「それ、本当にあんたが言うと冗談に聞こえないわ」
「冗談じゃないからな」
二人はしばらく黙っていた。
やがて霊夢が言った。
「妹紅。もしあんたが本当に何か知ってるなら、早めに言いなさい」
「言ったらどうなる」
「内容による」
「私を信じるのか?」
「信じない」
「だろうな」
「でも、疑う順番は変えてあげる」
妹紅は声を出して笑った。
「それはありがたい」
慧音が外へ出てきた。
「妹紅。笑っている場合ではない」
「先生は真面目だな」
「お前が不真面目すぎるだけだ」
慧音は霊夢を見る。
「永遠亭へ行くなら、これを持っていけ」
慧音は小さな布袋を渡した。中には、紙包みを入れるための清潔な油紙と、寺子屋で使う記録用の紙が入っていた。
「薬包をそのまま持つな。後で言い逃れされないよう、見つけた場所と状況を記録しておけ」
「助かるわ」
「礼はいらない。人里に火の粉が来るなら、こちらの問題でもある」
「慧音」
「何だ」
「妹紅を庇いすぎると、一緒に燃えるわよ」
慧音は霊夢をまっすぐ見た。
「私は、燃えたものを歴史から消すためにいるのではない。燃える前に止めるためにいる」
「止められる?」
「止める」
霊夢は小さく頷いた。
「じゃあ、こっちは永遠亭を叩いてくる」
「叩く前に話を聞け」
「聞いてから叩く」
「それが一番不安だ」
霊夢は背を向けた。
屋根の上から文が降りてくる。
「同行しますよ」
「来ると思った」
「永遠亭、薬包、守矢講、人里。こんな夜に寝る天狗はいません」
「書くなって言っても無駄そうね」
「書き方は選びます」
「幻想郷を壊さない題で?」
「壊れかけの時が、一番よく売れるんですけどね」
「本当に落とすわよ」
文は笑い、翼を広げた。
霊夢は人里の外れへ歩き出した。永遠亭へ向かう竹林は、夜になると迷路のように姿を変える。だが、今の霊夢には道が見えていた。
守矢の講。
偽の薬包。
八雲の結界杭。
命蓮寺の消えた荷。
妹紅の影。
慧音の沈黙。
神奈子の野心。
早苗の善意。
どれも別々の火種に見える。
だが、煙は同じ方向へ流れている。
霊夢は思った。
神奈子は悪党だ。
紫も悪党だ。
永琳も、おそらく悪党だ。
妹紅も何かを隠している。
慧音もすべてを話していない。
文は言うまでもない。
そして、自分も。
全員が、少しずつ汚れている。
だからこそ、誰かが一番黒い。
その一番黒い奴が、今夜、他人の名前で火をつけて回っている。
竹林の入口に差しかかった時、霊夢は振り返った。
人里の集会所には、まだ灯りが残っていた。守矢の幟は畳まれ、慧音が人々を帰している。妹紅は入口に立ったまま、こちらを見ていた。神奈子は遠くから霊夢を見ている。早苗は、不安そうな顔で人々に頭を下げ続けていた。
誰も、今夜の勝者ではなかった。
霊夢は竹林へ入る。
足元で枯れた竹の葉が鳴った。
奥から、薬の匂いがした。
甘く、苦く、どこか嘘くさい匂いだった。
霊夢は袖の中の札を握り直した。
「次は永遠亭ね」
隣で文が囁く。
「第四章の題は決まりですね」
「勝手に章立てするな」
「では、記事の連載名に」
「落とす」
「はいはい」
竹林の闇が、二人を呑み込んだ。
その背後、人里の灯りがひとつ、またひとつと消えていく。
だが、集会所の裏手にある細い路地だけは、しばらく暗いままだった。
そこに、誰かが立っていた。
顔は見えない。
声もない。
ただ、地面に落ちた白い紙片だけが、夜風に揺れていた。
紙片には、薄く焼けた跡があった。
それは鳥の羽根の形にも、兎の耳の形にも、神の札の形にも見えた。
見ようと思えば、何にでも見える。
だからこそ、誰の仕業にもできた。
夜の人里で、誰かが小さく笑った。
その笑いは、すぐに竹の葉擦れに紛れて消えた。