迷いの竹林は、夜になると息をする。
竹の幹は月明かりを受けて青白く光り、風もないのに葉だけが擦れ合う。道はある。だが、歩いているうちに道ではなくなる。来たはずの方向に戻れば、見たことのない石があり、曲がったはずのない角を曲がると、同じ竹がまた立っている。
霊夢は足を止めた。
「文」
「はい」
「これ、迷ってる?」
「迷いの竹林ですから」
「説明になってない」
「ですが、事実です」
文は楽しそうに手帳を開いていた。こんな時でも、彼女は怖がらない。怖がるより先に、見出しを考える性分なのだろう。
霊夢は袖から札を一枚抜き、竹の幹に貼った。
次の瞬間、札はぱちりと音を立てて黒く焦げた。
「……へえ」
霊夢の目が細くなる。
「誰かが道を曲げてる」
「永遠亭ですか?」
「たぶんね」
「歓迎されていないようです」
「歓迎されたら逆に気持ち悪いわ」
霊夢は前へ進んだ。
足元には乾いた竹の葉が積もっている。その下に、時々小さな紙片が混じっていた。白い紙。薄い兎の印。人里の集会所で見つかった薬包と似ている。
文がそれを拾おうとした瞬間、霊夢が止めた。
「触らない」
「証拠ですよ」
「証拠に見せたいものかもしれない」
「最近、そればかりですね」
「最近、そればかりなのよ」
霊夢は札で紙片を挟み、油紙に包んだ。慧音から渡された布袋が早くも役に立った。記録用の紙には、見つけた場所を書き込んでおく。
文が感心したように言う。
「今日はずいぶん丁寧ですね」
「後で永琳に言い逃れされたら面倒でしょ」
「信用していないんですか?」
「信用できる薬屋なんている?」
「薬屋に限らず、幻想郷に信用できる相手がどれほどいるか」
「自分も数に入れなさいよ」
「私は信用できない天狗として信用されています」
「便利な立場ね」
二人はさらに進んだ。
しばらくして、竹林の奥に灯りが見えた。白く冷たい灯り。祭りの灯とも、守矢の集会所の灯とも違う。人を招くための明るさではない。眠れない者を呼び寄せる灯りだった。
永遠亭。
古びた門。長い廊下。奥へ奥へと続く屋敷。月の匂いがするような静けさ。人里の者にとっては、最後に頼る場所。妖怪にとっては、体裁を捨ててでも行く場所。怪我、病、呪い、後ろ暗い傷、名を残せない治療。ここには、表の医者に行けない者たちが来る。
門の前には、兎が一匹座っていた。
因幡てゐ。
小さな体で、にこにこと笑っている。まるで夜遊びから帰ってきた子供のようだが、目だけは油断なく光っている。
「こんばんは、博麗の巫女さん。夜更けに往診?」
「患者はそっちでしょ」
「うちは大繁盛だよ。怪我人も病人も、嘘つきもいっぱい」
「嘘つきも診るの?」
「嘘つきほど、口止め料を払ってくれるからね」
文が横から言う。
「それ、記事にしていいですか?」
「駄目。うちの宣伝になるなら別料金」
てゐは軽く笑った。
霊夢は布袋から薬包を取り出した。人里の集会所で見つかったものだ。
「これ、あんたたちの?」
てゐは薬包を受け取ろうとしたが、霊夢は手を引いた。
「見るだけ」
「けち」
てゐは薬包に顔を近づけ、兎の印を見た。
笑顔は変わらない。
だが、耳がわずかに動いた。
「うちの印に似てるね」
「似てるだけ?」
「本物なら、もっと上等な紙を使うよ。折り方も違うし、印の角度も雑。偽物だね」
「中身は?」
「開けてないんでしょ?」
「開けたら言い訳されるから」
「賢くなったね、霊夢」
「昔から賢いわよ」
「賢い人は賽銭箱を空にしないよ」
「落とすわよ」
てゐは肩をすくめた。
「中身は永琳様に見せなきゃわからない。でも、たぶん偽物。ただし、偽物でも効くものは効くし、効かないものでも人は信じる」
「守矢と同じこと言うのね」
「薬と信仰は似てるからね。飲むか祈るかの違いだけ。どっちも、苦しい人には甘い」
霊夢はてゐを睨んだ。
「永琳は?」
「奥。今は忙しいよ」
「忙しい?」
「患者が多くてね。今夜は特に」
「なぜ」
てゐはにやりと笑った。
「不安になる噂が流れると、薬を求める人が増えるんだよ」
文が手帳に何かを書いた。
「なるほど。守矢の講で不安が煽られ、永遠亭に患者が流れる。商売の線としては綺麗ですね」
「綺麗じゃないわ」
霊夢は門をくぐった。
てゐは止めなかった。止めないどころか、先に立って案内するように歩き出した。
「いいの?」
霊夢が訊くと、てゐは振り返らずに言った。
「入れたくない客は、そもそも門まで来られないよ」
「つまり、呼ばれたってこと?」
「さあ。竹林が勝手に気を利かせたのかも」
「嫌な竹林ね」
永遠亭の廊下は長かった。
磨かれた床板に、白い灯りが反射している。左右には障子が並び、奥から薬湯の匂い、血の気の抜けた汗の匂い、消毒された布の匂いが漂ってきた。時折、うめき声が聞こえる。だが、それはすぐに障子の向こうへ吸い込まれる。
ここでは、苦痛でさえ静かに扱われる。
霊夢は障子の隙間から中を見た。
畳の上に横たわる河童。腕を吊った天狗。顔を隠した人間の女。金持ち風の妖怪。皆、名を出したくなさそうな者ばかりだった。
文が低い声で言う。
「表の診療所では見ない顔ぶれですね」
「表に出られない連中でしょ」
「怪我の理由も、病の理由も、聞かないのが永遠亭流ですか」
てゐが振り返る。
「聞いてほしい患者には聞くよ。聞かれたくない患者には聞かない。うちは親切だからね」
「親切?」
霊夢は鼻で笑った。
「沈黙を売ってるだけでしょ」
「沈黙で助かる命もあるんだよ」
てゐの声が、少しだけ低くなった。
霊夢は黙った。
その通りではあった。
人里にも、妖怪の山にも、紅魔館にも、命蓮寺にも、表の医者には運べない者がいる。喧嘩で傷を負った者。裏の仕事でしくじった者。身元を隠したい者。治療を受けた事実そのものを消したい者。
永遠亭は、そういう者を救う。
救う代わりに、秘密を握る。
廊下の奥に、薬棚が並ぶ広い部屋があった。
薬瓶、木箱、巻物、記録帳。棚には整然と札が貼られ、分類されている。表向きの薬、処方薬、強い薬、禁制薬、試薬、封印薬。名前だけで危ういものもあったが、具体的な中身はすべて暗号で記されていた。
部屋の中央に、八意永琳が立っていた。
白衣のような薄い衣をまとい、長い銀髪を背に流している。手には帳面。表情は静かで、目は冷たい。人を救う医者の顔であり、人を観察する研究者の顔でもあった。
「遅かったわね、霊夢」
永琳は、こちらを見ずに言った。
「待ってたの?」
「来ると思っていた」
「みんなそればっかり」
「実際、来たでしょう」
霊夢は薬包を机の上に置いた。
「これ」
永琳は薬包を見た。
一瞬で、表情が変わった。
ほんの一瞬だけだ。だが霊夢は見逃さなかった。
「偽物ね」
永琳は言った。
「早いわね」
「うちのものではない」
「中身を見ないで?」
「包みを見ればわかる。印の形も、紙も、折りも違う。永遠亭の名前を使った粗悪な模造品よ」
「でも中身は?」
「開けても?」
「記録してから」
霊夢は慧音にもらった紙に、日時と場所を書いた。文が横から覗き込む。
「丁寧ですねえ」
「うるさい」
永琳は薬包を慎重に開いた。中には、薄い灰色の粉末が包まれていた。彼女は直接触れず、細い匙でほんの少しだけ取り、皿の上に落とす。匂いを確かめ、色を見て、眉をひそめた。
「危ないもの?」
霊夢が訊く。
「危ないわ」
「どれくらい」
「使えば一時的に不安が薄れる。だが、繰り返せば心身が壊れる。判断力も鈍る。依存も起きる。粗悪なものなら、さらに悪い」
「永遠亭の薬じゃないのね」
「違う」
「でも、永遠亭に似せている」
「ええ」
永琳は薬包を閉じた。
「誰かが、うちの名前で禁制薬を流している」
文の羽がわずかに動いた。
「禁制薬、ですか」
永琳は文を見た。
「射命丸。今の言葉をそのまま書けば、あなたの口を二度と動かせなくする薬を探すわ」
「怖いですね。医者の脅しは洒落になりません」
「洒落ではないもの」
霊夢が割って入る。
「永琳。禁制薬ってことは、あんたのところにも本物があるの?」
「あるわ」
永琳は隠さなかった。
「治療に必要なものもある。研究に必要なものもある。厳重に管理しているわ」
「違法薬物も?」
「言葉を選びなさい」
「選んでこれよ」
永琳は霊夢を見た。
「薬には、表と裏がない。使い方と管理があるだけよ。人を救う量、人を壊す量。眠らせるための薬、二度と目覚めさせない薬。痛みを和らげる薬、痛みを感じさせなくする薬。境目は、紙一枚より薄い」
「その薄い紙を、あんたが勝手に決めてるんでしょ」
「医者だから」
「神様みたいに言うのね」
「医者も神も、苦しむ者から見れば似たようなものよ」
霊夢は永琳を睨んだ。
「その言い方、守矢と同じくらい嫌い」
「神奈子と同列にされるのは心外ね」
「人の弱さで飯を食ってる点では同じよ」
永琳の目が冷たくなった。
「霊夢。あなたは人の苦しみに興味がないから、そう言えるのよ」
部屋の空気が止まった。
文が手帳を閉じる。
てゐは耳を下げ、黙って壁にもたれた。
霊夢はゆっくり言った。
「今、何て?」
「聞こえたでしょう」
「もう一回言ってみなさい」
「あなたは、苦しんでいる者を救う仕事をしていない。異変を解決する仕事をしているだけ。だから、治療の汚さを知らない」
永琳は机の上の薬瓶を一本ずつ見ながら、淡々と言った。
「痛みで眠れない者がいる。自分の名前を言えない患者がいる。暴力を受けても表に出られない者がいる。仕事を失えば家族ごと飢える者がいる。薬がなければ叫び続ける者がいる。そういう人間や妖怪が、最後にここへ来る。私は治す。可能な限りね。そのために、表に出せない薬も扱う。記録に残せない処置もする。綺麗な規則だけで救えない命があるから」
「それで禁制薬を置く?」
「そうよ」
「流す?」
「流さない」
「本当に?」
永琳は霊夢を見た。
「私が必要だと判断したものを、必要な相手にだけ渡す。無秩序に流すことはしない」
「それを流すって言うんじゃないの」
「違うわ。流通ではなく処方よ」
「言葉遊び」
「管理よ」
「八雲も同じこと言ってた」
「紫と同列にしないで」
「みんな同じよ。管理、信仰、治療、秩序。言葉を変えて、汚いものを綺麗に見せてるだけ」
永琳は小さく笑った。
「では、あなたは何をしているの? 賭場、屋台、用心棒、示談。博麗の名で人と妖怪を黙らせているあなたは、何を綺麗に見せているのかしら」
霊夢は答えなかった。
永琳は続ける。
「あなたは、自分が汚れていることを知っている顔をする。それを免罪符にしている。自分の汚れを認めているから、他人よりましだと思っている。でもね、霊夢。認めている汚れも、認めていない汚れも、苦しむ側から見れば同じよ」
霊夢の袖の中で札が鳴った。
文は息を潜めている。てゐは壁際で、にやにや笑うのをやめていた。
霊夢は机に手をついた。
「永琳」
「何かしら」
「うちの名前を使った船荷に、永遠亭の薬箱が混じってた。命蓮寺の水路で、あんたの箱だけ中身が抜かれてた。守矢の講では、あんたの偽物薬包が出た。偶然にしては出来すぎてる」
「偶然ではないでしょうね」
「誰がやったの」
「知っていたら、あなたが来る前に止めている」
「みんな同じ答えね」
「本当に知らない時、人は似たようなことを言うものよ」
「紫も同じような顔でそう言ってた」
「紫と私は違う」
「どう違うの」
「紫は幻想郷のために嘘をつく。私は患者のために嘘をつく」
霊夢は呆れたように笑った。
「悪党同士の自己紹介みたいね」
その時、奥の障子が静かに開いた。
鈴仙・優曇華院・イナバが立っていた。
顔色が悪い。片手には記録帳。もう片方の手は、袖の中で固く握られている。
「師匠」
永琳が振り返る。
「どうしたの」
「地下の保管庫を確認しました」
「結果は?」
鈴仙は一瞬ためらった。
「封印棚の一部が、空です」
部屋の空気が変わった。
永琳の表情が消える。
霊夢はすぐに訊いた。
「何が消えたの」
鈴仙は霊夢を見たが、答えない。
永琳が言った。
「鈴仙」
「……禁制薬の原瓶が三つ。それから、治験記録の一部。あとは廃棄予定の試薬箱がひとつ」
「いつ」
「わかりません。封印は壊されていません。鍵も、札も、結界も、そのままです」
「つまり、中に入れる者の仕業?」
霊夢が言うと、鈴仙の顔が強張った。
永琳は静かに答えた。
「そう見せたいのでしょう」
「またそれ」
「事実よ。封印を壊さずに持ち出す方法を知っている者は限られる。だからこそ、わざわざ壊さなかった。内部犯に見せたい。あるいは、本当に内部犯」
てゐが軽く手を挙げた。
「ちなみに私はやってないよ」
「聞いてない」
霊夢が言うと、てゐは笑った。
「先に言っといた方がいいかと思って」
文が鈴仙に近づく。
「消えた薬は、先ほどの偽薬包と関係しますか?」
鈴仙は文を睨んだ。
「取材なら帰ってください」
「質問です」
「同じです」
「答えられない?」
「答える必要がありません」
鈴仙の声は震えていた。怒りか、不安か、あるいは両方か。
永琳が代わりに答える。
「直接の関係は不明。ただし、消えたものが悪用されれば、人里に混乱が広がる可能性はある」
「どんな混乱?」
霊夢が訊く。
「不安、依存、錯乱、記憶の混濁。そういう類のものよ」
「具体的に言わないのね」
「言えば、それだけで悪用する者がいる」
「そこは賢明ね」
永琳は鈴仙に指示を出した。
「地下を封鎖。今夜出入りした者を全員記録して。患者も、職員も、兎たちも」
「はい」
「輝夜様は?」
「奥の間に」
「お呼びして」
鈴仙は一瞬だけ表情を曇らせた。
「ですが」
「呼びなさい」
「……はい」
鈴仙は廊下の奥へ消えた。
霊夢は永琳を見る。
「輝夜は知ってるの?」
「知らないことの方が少ないでしょうね」
「なら最初から呼びなさいよ」
「姫は退屈しのぎに、火に油を注ぐことがある」
「最悪ね」
「否定はしないわ」
文が嬉しそうに言う。
「永遠亭内部にも火種あり、ですね」
「射命丸」
永琳の声が冷えた。
「あなたはここで聞いたことを記事にするつもり?」
「書くべきことは書きます」
「ここには患者がいる。彼らの名や病を晒せば、あなたは情報屋ではなく害悪よ」
「患者の名は書きません」
「信じられないわね」
「信用される天狗など、天狗ではありませんから」
霊夢が文の頭を軽く叩いた。
「ちょっと黙ってなさい」
「痛いですね」
「永琳」
「何」
「地下を見せなさい」
「嫌よ」
「じゃあ勝手に見る」
「あなたが勝手に踏み込めば、ここにいる患者たちの秘密も巻き込まれる」
「それを盾にするの?」
「盾ではなく事実よ」
永琳は机に手を置いた。
「霊夢。ここは賭場でも工事現場でもない。医療の場よ。表に出られない患者もいる。妖怪の傷も、人間の病も、名前を消して横たわっている。あなたが異変の名でここを荒らせば、助かる命も逃げる」
「逃げるような命を預かってる時点で、荒らされる覚悟くらいしておきなさいよ」
「しているわ」
永琳は静かに言った。
「だから、あなたをここで止める覚悟もある」
霊夢と永琳が向き合った。
薬棚の瓶が、かすかに震えた。
文が後ろへ一歩下がる。てゐは廊下の端に移動した。空気が張り詰める。霊夢の手が札に触れ、永琳の指が袖の中へ沈む。
その時、廊下の奥から欠伸まじりの声がした。
「夜中に騒がしいわね」
蓬莱山輝夜が現れた。
長い黒髪、気だるげな目、月の姫らしい優雅な佇まい。だが、その表情には退屈と好奇心が混じっている。火事を遠くから眺める者の顔だ。
「霊夢、いらっしゃい。こんな時間に来るなんて、よほど永琳が恋しかったの?」
「帰っていい?」
「せっかく来たのに冷たいわね。お茶くらい飲んでいけば?」
「薬入り?」
「それは永琳の趣味」
「姫様」
永琳の声に、わずかな棘が混じる。
輝夜は笑った。
「冗談よ」
「冗談に聞こえないから困るの」
霊夢は輝夜の前に薬包を置いた。
「これ、知ってる?」
輝夜は薬包を見る。
目を細める。
「偽物ね」
「それは聞いた」
「でも、面白い偽物」
「どこが」
「永遠亭に似せているけれど、わざと微妙に違う。見る人が見れば偽物だとわかる。けれど、素人なら本物だと思う。つまり、永遠亭を本気で騙るためではなく、永遠亭が疑われるための偽物」
「それも聞いた」
「なら、あなたはもう答えに近いところにいるじゃない」
輝夜は椅子に腰掛けた。
てゐがどこからか茶を出す。霊夢は飲まなかった。文は香りだけ嗅いで、やはり飲まなかった。
「命蓮寺の船荷が消えた。八雲の結界杭が消えた。守矢の講で偽薬が出た。永遠亭の封印棚から禁制薬が消えた。次はどこかしら。紅魔館? 白玉楼? 神霊廟?」
「楽しそうね」
霊夢が言うと、輝夜はにっこり笑った。
「ええ。だって、いつも退屈なんだもの」
「幻想郷が燃えるかもしれないのに?」
「燃えるほどのものが、まだ残っているなら素敵じゃない」
霊夢の目が冷えた。
「輝夜」
「怒らないで。私は火をつけたわけではないわ」
「信じられない」
「でも、火を見るのは好き」
「もっと悪いわ」
永琳がため息をついた。
「姫様。今は遊んでいる場合ではありません」
「わかっているわ。永琳、あなたの薬が盗まれた。しかも、盗まれたことを隠せない形でね。これはあなたへの挑発よ」
「ええ」
「そして、守矢の会場で偽薬を出した。これは神奈子への挑発。博麗の印を使った。霊夢への挑発。八雲の杭を盗った。紫への挑発」
輝夜は指を折るように言った。
「挑発されていないのは誰かしら?」
文が答える。
「紅魔館、白玉楼、命蓮寺、神霊廟。命蓮寺は荷を失っていますが、まだ表立っていません」
「命蓮寺は沈黙している。沈黙している者は、挑発されていないのではなく、喋れない理由があるのかもしれないわね」
霊夢は輝夜を見た。
「あんた、何か知ってるでしょ」
「知っていることと、推測していることは違うわ」
「じゃあ推測を言いなさい」
「高いわよ」
「払わない」
「なら、貸しにしておく」
「嫌な言葉ね」
輝夜は茶を一口飲んだ。
「今回の相手は、ものを盗んでいるのではない。名前を盗んでいるのよ」
「名前?」
「博麗の印。永遠亭の薬包。妹紅の白い羽根。守矢の鍵。八雲の現場。全部、本物である必要はない。本物に見えればいい。誰かの名前を借りて、別の誰かを怒らせる。怒った者は動く。動けば隠していたものが揺れる」
妹紅が言ったことと同じだった。
全員に水を持って走らせる。
そうすれば、どの家に何が隠してあるか見える。
霊夢は言う。
「目的は何」
「暴露」
輝夜は即答した。
「たぶんね」
「幻想郷の裏を全部ばらすつもり?」
「それだけなら文が喜ぶだけ」
「喜びますね」
文が小さく言うと、霊夢に睨まれた。
輝夜は続ける。
「暴露には二種類あるわ。悪事を正すための暴露と、悪事を使って新しい悪事を作るための暴露。今回のは後者に見える」
「なぜ」
「手が優しくないもの。救いではなく、疑いを増やしている。薬を人里に置くなんて、特にそう。苦しい人を助けたい者のやり方ではないわ」
永琳が静かに言った。
「そうね」
その声には、今までより強い怒りがあった。
霊夢は永琳を見た。
「永琳。消えた禁制薬で、人里に何が起きる」
「最悪の場合、人が自分の判断を信じられなくなる。眠れなくなる者、逆に眠りすぎる者、不安だけが消えて危険を恐れなくなる者、記憶が曖昧になる者。薬は、人の心の奥に手を入れる。乱暴に扱えば、刃物よりひどい傷を残す」
「止め方は?」
「現物を見つける。偽物と本物を見分ける。流通させない。摂取した者がいれば、すぐに隔離して治療する」
「流通ルートは?」
永琳は少し黙った。
「永遠亭から直接ではない。うちの記録では、封印棚は今夜まで異常なしになっている。つまり、記録が改ざんされたか、記録する前に抜かれたか、あるいは、抜かれたように見せている」
「また内部犯?」
「可能性はある」
霊夢はてゐを見る。
てゐは両手を上げた。
「私は商売は好きだけど、こんな危ない粉で遊ばないよ。客が壊れたら次の商売ができない」
「最低だけど、筋は通ってる」
「ありがとう」
「褒めてない」
文が言う。
「永遠亭の薬を外へ持ち出せるのは、永琳さん、鈴仙さん、てゐさん、輝夜さん、あとは兎たち?」
永琳は答える。
「厳密には違う。封印棚に触れる者はもっと少ない」
「誰です?」
「言うと思う?」
「思いません」
「なら聞かないことね」
霊夢は机を指で叩いた。
「じゃあ、永琳。協力しなさい」
「何をする気?」
「人里に出た偽薬を回収する。守矢の講の参加者を洗う。命蓮寺の水路に残った箱も調べる。八雲の現場で消えた杭と合わせて、誰が何を集めてるか見る」
「医療情報は渡せない」
「患者の名前はいらない」
「なら何が欲しいの」
「偽薬と本物の見分け方。危ない兆候。回収した薬包を安全に保管する方法。あと、あんたが隠してる帳簿」
永琳の目が鋭くなった。
「最後の一つは無理ね」
「でしょうね」
「最初の三つは教える。ただし、詳細は紙に書かない。悪用される」
「それでいい」
霊夢は頷いた。
「あと、鈴仙を貸して」
奥から戻ってきた鈴仙が、ぎょっとした顔をした。
「私を?」
「薬を見る目が必要でしょ」
「私は師匠の指示で」
永琳は少し考えた。
「鈴仙。霊夢について行きなさい」
「師匠!」
「ただし、患者には触れない。薬包の確認だけ。危険だと判断したら、すぐに戻る」
「でも、封印棚の件が」
「こちらは私が見る」
鈴仙は不安そうに永琳を見たが、やがて小さく頷いた。
「……わかりました」
霊夢は鈴仙を見た。
「よろしく」
「できれば、よろしくしたくありません」
「正直でよろしい」
輝夜が楽しそうに笑った。
「いいわね。巫女、天狗、月兎。次は神社か寺か館か。まるで見世物ね」
「見物料取るわよ」
「払ってもいいわ」
「本当に姫様って暇なのね」
「永遠は暇との戦いよ」
永琳が静かに言った。
「姫様」
「はいはい、黙るわ」
その時、廊下の奥から兎が一匹駆け込んできた。
息を切らし、耳を震わせている。
「永琳様!」
「どうしたの」
「裏口に、これが」
兎は小さな木箱を差し出した。
永琳が受け取る前に、霊夢が札で木箱を止めた。
「触らない」
木箱は机の上に置かれた。
箱には封がしてある。印はない。ただ、蓋に白い羽根が一枚挟まっていた。
妹紅のものに見える羽根。
霊夢は唇を噛んだ。
「また露骨な」
文が低く言う。
「開けますか?」
永琳は首を横に振った。
「ここでは開けない。危険物の可能性がある」
「じゃあどうするの」
「封印室へ」
霊夢が木箱を見つめる。
その時、箱の底から、かすかな音がした。
こつん。
こつん。
中に何かが入っている。生き物ではない。瓶が揺れるような音。
輝夜の笑みが消えた。
永琳の顔も険しくなる。
「全員、下がって」
永琳が言う。
霊夢は札を構えた。
文は翼を広げ、鈴仙は目を鋭くする。てゐはいつの間にか廊下の影へ消えていた。
箱の封が、ひとりでに破れた。
中から、白い煙のようなものが漏れる。
だが、煙ではない。細かい紙片だった。無数の小さな紙片がふわりと舞い上がり、部屋の中に散る。霊夢が札で風を起こし、紙片を壁際に叩きつけた。
「何これ」
文が一枚を見つめる。
紙片には、文字が印刷されていた。
『永遠亭は、人を救う場所か。人を沈める場所か』
別の紙片。
『薬瓶の底に、何人分の沈黙が沈んでいる』
また別の紙片。
『次は紅い館』
霊夢は最後の紙片を拾った。
「紅魔館」
文の目が光る。
「次の舞台が決まりましたね」
「嬉しそうに言うな」
永琳は紙片を見ていた。
その表情には、怒りがあった。冷たい怒りだ。
「永遠亭を挑発し、次に紅魔館へ向かわせる。ずいぶん雑な誘導ね」
輝夜は静かに言った。
「でも、霊夢は行くでしょう?」
霊夢は答えなかった。
行くに決まっていた。
紅魔館。
血と夜会と貴族の顔。
消えた荷の中には、紅魔館の封印箱もあった。永遠亭の薬、八雲の杭、博麗の印、守矢の講。そこに紅魔館が絡めば、幻想郷の裏はさらに深くなる。
霊夢は永琳を見る。
「この箱、調べて」
「言われなくても」
「結果は教えなさい」
「必要なら」
「必要よ」
「私が判断する」
「本当に似た者同士ね、あんたたち」
永琳は何も言わなかった。
鈴仙が霊夢のそばに立つ。顔はまだ青いが、目は決まっていた。
「紅魔館へ行くんですか」
「行く」
「永遠亭の名を使った犯人が、そこにいると思いますか」
「思ってない」
「では、なぜ」
「行かせたい奴がいるなら、行かないと見えないものがある」
文が嬉しそうに頷いた。
「火の中に入って、誰が水を持ってくるか見るわけですね」
「文が言うとむかつくわね」
「同じことでも言い方が大事ですから」
輝夜が霊夢に言った。
「霊夢」
「何」
「紅魔館では、永遠亭より綺麗な嘘が出てくるわよ」
「綺麗な嘘?」
「ええ。薬の嘘は苦い。信仰の嘘は甘い。紅魔館の嘘は、たぶん香水の匂いがする」
「最悪ね」
「気をつけなさい。レミリアは退屈している時ほど、他人の運命で遊ぶ」
「忠告?」
「半分は」
「残り半分は?」
「見物を面白くするための前振り」
「本当に最悪」
霊夢は布袋に紙片を入れた。薬包、竹林の紙片、木箱の紙片。証拠ばかりが増える。だが、犯人には近づいているのか、逆に踊らされているのか、まだわからない。
永遠亭を出る時、永琳が呼び止めた。
「霊夢」
「何」
「人里に出た偽薬を見つけたら、絶対に捨てないで。燃やしても、水に流しても駄目。触れずに封じて、鈴仙に渡しなさい」
「わかった」
「それから、使った者がいたら責めないこと」
霊夢は振り返った。
「責める?」
「苦しくて手を伸ばした者を責めても、何も解決しない。責めるなら、渡した者を責めなさい」
霊夢は少し黙った。
「医者っぽいこと言うのね」
「医者よ」
「裏医者でしょ」
「それでも医者よ」
霊夢は小さく笑った。
「じゃあ、裏巫女として覚えておくわ」
永琳は呆れたようにため息をついた。
輝夜は奥で手を振っている。てゐは門の柱にもたれ、にやにや笑っていた。
「帰り道、気をつけてね。竹林は機嫌が悪いから」
「誰のせいよ」
「さあ。月のせいかな」
霊夢、文、鈴仙の三人は永遠亭を出た。
竹林の夜は、来た時よりも深くなっていた。葉擦れの音が、まるで誰かの囁きに聞こえる。鈴仙は緊張した顔で周囲を見回している。文は空へ上がろうとしたが、竹が高く、翼を広げにくそうだった。
霊夢は前を歩いた。
頭の中で、情報が渦を巻いている。
永遠亭の禁制薬が消えた。
偽薬が人里に出た。
患者たちの秘密が狙われている。
紅魔館への誘導が置かれた。
白い羽根はまた使われた。
妹紅の名を借り、永遠亭の名を借り、次は紅魔館の名を使うつもりなのか。
誰かが、幻想郷中の悪党の名前を順番に剥がしている。
竹林を抜ける直前、霊夢は足を止めた。
道の真ん中に、赤い封蝋のついた封筒が落ちていた。
封蝋には、紅魔館の紋。
文が息を呑む。
「早いですね」
鈴仙が震える声で言う。
「これも、偽物でしょうか」
霊夢は封筒を拾わず、札で挟んだ。
「偽物でも本物でも、どうせ開けるしかないわ」
封筒の中には、一枚の招待状が入っていた。
『今宵、紅魔館にて夜会あり。
博麗の巫女、永遠亭の兎、天狗の記者を歓迎する。
秘密は、赤い杯の底に沈む。』
差出人の名前はない。
だが、紙には甘い香水の匂いが染みていた。
輝夜の言葉が蘇る。
紅魔館の嘘は、香水の匂いがする。
霊夢は招待状を握り潰した。
「次は紅魔館ね」
文はにやりと笑った。
「夜会に招かれるなんて光栄ですね」
鈴仙は顔を青くした。
「私は行きたくありません」
「私も行きたくないわよ」
霊夢は竹林の出口を睨んだ。
「でも、行かないと向こうから来る」
遠くに、湖の方角が見えた。
そのさらに向こう、紅い館の灯が夜の底で小さく揺れている。
幻想郷の夜は、まだ終わらない。
薬瓶の底に沈んでいた沈黙は、とうとう揺れ始めた。
次にこぼれるのは、薬か、血か、嘘か。
霊夢にはまだわからない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
誰かが、この夜を楽しんでいる。
そしてその誰かは、全員の秘密を知っている。