東方アウトレイジ    作:たこ焼き 龍月

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第四章 永遠亭の薬瓶

 

 

 迷いの竹林は、夜になると息をする。

 

 竹の幹は月明かりを受けて青白く光り、風もないのに葉だけが擦れ合う。道はある。だが、歩いているうちに道ではなくなる。来たはずの方向に戻れば、見たことのない石があり、曲がったはずのない角を曲がると、同じ竹がまた立っている。

 

 霊夢は足を止めた。

 

「文」

 

「はい」

 

「これ、迷ってる?」

 

「迷いの竹林ですから」

 

「説明になってない」

 

「ですが、事実です」

 

 文は楽しそうに手帳を開いていた。こんな時でも、彼女は怖がらない。怖がるより先に、見出しを考える性分なのだろう。

 

 霊夢は袖から札を一枚抜き、竹の幹に貼った。

 

 次の瞬間、札はぱちりと音を立てて黒く焦げた。

 

「……へえ」

 

 霊夢の目が細くなる。

 

「誰かが道を曲げてる」

 

「永遠亭ですか?」

 

「たぶんね」

 

「歓迎されていないようです」

 

「歓迎されたら逆に気持ち悪いわ」

 

 霊夢は前へ進んだ。

 

 足元には乾いた竹の葉が積もっている。その下に、時々小さな紙片が混じっていた。白い紙。薄い兎の印。人里の集会所で見つかった薬包と似ている。

 

 文がそれを拾おうとした瞬間、霊夢が止めた。

 

「触らない」

 

「証拠ですよ」

 

「証拠に見せたいものかもしれない」

 

「最近、そればかりですね」

 

「最近、そればかりなのよ」

 

 霊夢は札で紙片を挟み、油紙に包んだ。慧音から渡された布袋が早くも役に立った。記録用の紙には、見つけた場所を書き込んでおく。

 

 文が感心したように言う。

 

「今日はずいぶん丁寧ですね」

 

「後で永琳に言い逃れされたら面倒でしょ」

 

「信用していないんですか?」

 

「信用できる薬屋なんている?」

 

「薬屋に限らず、幻想郷に信用できる相手がどれほどいるか」

 

「自分も数に入れなさいよ」

 

「私は信用できない天狗として信用されています」

 

「便利な立場ね」

 

 二人はさらに進んだ。

 

 しばらくして、竹林の奥に灯りが見えた。白く冷たい灯り。祭りの灯とも、守矢の集会所の灯とも違う。人を招くための明るさではない。眠れない者を呼び寄せる灯りだった。

 

 永遠亭。

 

 古びた門。長い廊下。奥へ奥へと続く屋敷。月の匂いがするような静けさ。人里の者にとっては、最後に頼る場所。妖怪にとっては、体裁を捨ててでも行く場所。怪我、病、呪い、後ろ暗い傷、名を残せない治療。ここには、表の医者に行けない者たちが来る。

 

 門の前には、兎が一匹座っていた。

 

 因幡てゐ。

 

 小さな体で、にこにこと笑っている。まるで夜遊びから帰ってきた子供のようだが、目だけは油断なく光っている。

 

「こんばんは、博麗の巫女さん。夜更けに往診?」

 

「患者はそっちでしょ」

 

「うちは大繁盛だよ。怪我人も病人も、嘘つきもいっぱい」

 

「嘘つきも診るの?」

 

「嘘つきほど、口止め料を払ってくれるからね」

 

 文が横から言う。

 

「それ、記事にしていいですか?」

 

「駄目。うちの宣伝になるなら別料金」

 

 てゐは軽く笑った。

 

 霊夢は布袋から薬包を取り出した。人里の集会所で見つかったものだ。

 

「これ、あんたたちの?」

 

 てゐは薬包を受け取ろうとしたが、霊夢は手を引いた。

 

「見るだけ」

 

「けち」

 

 てゐは薬包に顔を近づけ、兎の印を見た。

 

 笑顔は変わらない。

 

 だが、耳がわずかに動いた。

 

「うちの印に似てるね」

 

「似てるだけ?」

 

「本物なら、もっと上等な紙を使うよ。折り方も違うし、印の角度も雑。偽物だね」

 

「中身は?」

 

「開けてないんでしょ?」

 

「開けたら言い訳されるから」

 

「賢くなったね、霊夢」

 

「昔から賢いわよ」

 

「賢い人は賽銭箱を空にしないよ」

 

「落とすわよ」

 

 てゐは肩をすくめた。

 

「中身は永琳様に見せなきゃわからない。でも、たぶん偽物。ただし、偽物でも効くものは効くし、効かないものでも人は信じる」

 

「守矢と同じこと言うのね」

 

「薬と信仰は似てるからね。飲むか祈るかの違いだけ。どっちも、苦しい人には甘い」

 

 霊夢はてゐを睨んだ。

 

「永琳は?」

 

「奥。今は忙しいよ」

 

「忙しい?」

 

「患者が多くてね。今夜は特に」

 

「なぜ」

 

 てゐはにやりと笑った。

 

「不安になる噂が流れると、薬を求める人が増えるんだよ」

 

 文が手帳に何かを書いた。

 

「なるほど。守矢の講で不安が煽られ、永遠亭に患者が流れる。商売の線としては綺麗ですね」

 

「綺麗じゃないわ」

 

 霊夢は門をくぐった。

 

 てゐは止めなかった。止めないどころか、先に立って案内するように歩き出した。

 

「いいの?」

 

 霊夢が訊くと、てゐは振り返らずに言った。

 

「入れたくない客は、そもそも門まで来られないよ」

 

「つまり、呼ばれたってこと?」

 

「さあ。竹林が勝手に気を利かせたのかも」

 

「嫌な竹林ね」

 

 永遠亭の廊下は長かった。

 

 磨かれた床板に、白い灯りが反射している。左右には障子が並び、奥から薬湯の匂い、血の気の抜けた汗の匂い、消毒された布の匂いが漂ってきた。時折、うめき声が聞こえる。だが、それはすぐに障子の向こうへ吸い込まれる。

 

 ここでは、苦痛でさえ静かに扱われる。

 

 霊夢は障子の隙間から中を見た。

 

 畳の上に横たわる河童。腕を吊った天狗。顔を隠した人間の女。金持ち風の妖怪。皆、名を出したくなさそうな者ばかりだった。

 

 文が低い声で言う。

 

「表の診療所では見ない顔ぶれですね」

 

「表に出られない連中でしょ」

 

「怪我の理由も、病の理由も、聞かないのが永遠亭流ですか」

 

 てゐが振り返る。

 

「聞いてほしい患者には聞くよ。聞かれたくない患者には聞かない。うちは親切だからね」

 

「親切?」

 

 霊夢は鼻で笑った。

 

「沈黙を売ってるだけでしょ」

 

「沈黙で助かる命もあるんだよ」

 

 てゐの声が、少しだけ低くなった。

 

 霊夢は黙った。

 

 その通りではあった。

 

 人里にも、妖怪の山にも、紅魔館にも、命蓮寺にも、表の医者には運べない者がいる。喧嘩で傷を負った者。裏の仕事でしくじった者。身元を隠したい者。治療を受けた事実そのものを消したい者。

 

 永遠亭は、そういう者を救う。

 

 救う代わりに、秘密を握る。

 

 廊下の奥に、薬棚が並ぶ広い部屋があった。

 

 薬瓶、木箱、巻物、記録帳。棚には整然と札が貼られ、分類されている。表向きの薬、処方薬、強い薬、禁制薬、試薬、封印薬。名前だけで危ういものもあったが、具体的な中身はすべて暗号で記されていた。

 

 部屋の中央に、八意永琳が立っていた。

 

 白衣のような薄い衣をまとい、長い銀髪を背に流している。手には帳面。表情は静かで、目は冷たい。人を救う医者の顔であり、人を観察する研究者の顔でもあった。

 

「遅かったわね、霊夢」

 

 永琳は、こちらを見ずに言った。

 

「待ってたの?」

 

「来ると思っていた」

 

「みんなそればっかり」

 

「実際、来たでしょう」

 

 霊夢は薬包を机の上に置いた。

 

「これ」

 

 永琳は薬包を見た。

 

 一瞬で、表情が変わった。

 

 ほんの一瞬だけだ。だが霊夢は見逃さなかった。

 

「偽物ね」

 

 永琳は言った。

 

「早いわね」

 

「うちのものではない」

 

「中身を見ないで?」

 

「包みを見ればわかる。印の形も、紙も、折りも違う。永遠亭の名前を使った粗悪な模造品よ」

 

「でも中身は?」

 

「開けても?」

 

「記録してから」

 

 霊夢は慧音にもらった紙に、日時と場所を書いた。文が横から覗き込む。

 

「丁寧ですねえ」

 

「うるさい」

 

 永琳は薬包を慎重に開いた。中には、薄い灰色の粉末が包まれていた。彼女は直接触れず、細い匙でほんの少しだけ取り、皿の上に落とす。匂いを確かめ、色を見て、眉をひそめた。

 

「危ないもの?」

 

 霊夢が訊く。

 

「危ないわ」

 

「どれくらい」

 

「使えば一時的に不安が薄れる。だが、繰り返せば心身が壊れる。判断力も鈍る。依存も起きる。粗悪なものなら、さらに悪い」

 

「永遠亭の薬じゃないのね」

 

「違う」

 

「でも、永遠亭に似せている」

 

「ええ」

 

 永琳は薬包を閉じた。

 

「誰かが、うちの名前で禁制薬を流している」

 

 文の羽がわずかに動いた。

 

「禁制薬、ですか」

 

 永琳は文を見た。

 

「射命丸。今の言葉をそのまま書けば、あなたの口を二度と動かせなくする薬を探すわ」

 

「怖いですね。医者の脅しは洒落になりません」

 

「洒落ではないもの」

 

 霊夢が割って入る。

 

「永琳。禁制薬ってことは、あんたのところにも本物があるの?」

 

「あるわ」

 

 永琳は隠さなかった。

 

「治療に必要なものもある。研究に必要なものもある。厳重に管理しているわ」

 

「違法薬物も?」

 

「言葉を選びなさい」

 

「選んでこれよ」

 

 永琳は霊夢を見た。

 

「薬には、表と裏がない。使い方と管理があるだけよ。人を救う量、人を壊す量。眠らせるための薬、二度と目覚めさせない薬。痛みを和らげる薬、痛みを感じさせなくする薬。境目は、紙一枚より薄い」

 

「その薄い紙を、あんたが勝手に決めてるんでしょ」

 

「医者だから」

 

「神様みたいに言うのね」

 

「医者も神も、苦しむ者から見れば似たようなものよ」

 

 霊夢は永琳を睨んだ。

 

「その言い方、守矢と同じくらい嫌い」

 

「神奈子と同列にされるのは心外ね」

 

「人の弱さで飯を食ってる点では同じよ」

 

 永琳の目が冷たくなった。

 

「霊夢。あなたは人の苦しみに興味がないから、そう言えるのよ」

 

 部屋の空気が止まった。

 

 文が手帳を閉じる。

 

 てゐは耳を下げ、黙って壁にもたれた。

 

 霊夢はゆっくり言った。

 

「今、何て?」

 

「聞こえたでしょう」

 

「もう一回言ってみなさい」

 

「あなたは、苦しんでいる者を救う仕事をしていない。異変を解決する仕事をしているだけ。だから、治療の汚さを知らない」

 

 永琳は机の上の薬瓶を一本ずつ見ながら、淡々と言った。

 

「痛みで眠れない者がいる。自分の名前を言えない患者がいる。暴力を受けても表に出られない者がいる。仕事を失えば家族ごと飢える者がいる。薬がなければ叫び続ける者がいる。そういう人間や妖怪が、最後にここへ来る。私は治す。可能な限りね。そのために、表に出せない薬も扱う。記録に残せない処置もする。綺麗な規則だけで救えない命があるから」

 

「それで禁制薬を置く?」

 

「そうよ」

 

「流す?」

 

「流さない」

 

「本当に?」

 

 永琳は霊夢を見た。

 

「私が必要だと判断したものを、必要な相手にだけ渡す。無秩序に流すことはしない」

 

「それを流すって言うんじゃないの」

 

「違うわ。流通ではなく処方よ」

 

「言葉遊び」

 

「管理よ」

 

「八雲も同じこと言ってた」

 

「紫と同列にしないで」

 

「みんな同じよ。管理、信仰、治療、秩序。言葉を変えて、汚いものを綺麗に見せてるだけ」

 

 永琳は小さく笑った。

 

「では、あなたは何をしているの? 賭場、屋台、用心棒、示談。博麗の名で人と妖怪を黙らせているあなたは、何を綺麗に見せているのかしら」

 

 霊夢は答えなかった。

 

 永琳は続ける。

 

「あなたは、自分が汚れていることを知っている顔をする。それを免罪符にしている。自分の汚れを認めているから、他人よりましだと思っている。でもね、霊夢。認めている汚れも、認めていない汚れも、苦しむ側から見れば同じよ」

 

 霊夢の袖の中で札が鳴った。

 

 文は息を潜めている。てゐは壁際で、にやにや笑うのをやめていた。

 

 霊夢は机に手をついた。

 

「永琳」

 

「何かしら」

 

「うちの名前を使った船荷に、永遠亭の薬箱が混じってた。命蓮寺の水路で、あんたの箱だけ中身が抜かれてた。守矢の講では、あんたの偽物薬包が出た。偶然にしては出来すぎてる」

 

「偶然ではないでしょうね」

 

「誰がやったの」

 

「知っていたら、あなたが来る前に止めている」

 

「みんな同じ答えね」

 

「本当に知らない時、人は似たようなことを言うものよ」

 

「紫も同じような顔でそう言ってた」

 

「紫と私は違う」

 

「どう違うの」

 

「紫は幻想郷のために嘘をつく。私は患者のために嘘をつく」

 

 霊夢は呆れたように笑った。

 

「悪党同士の自己紹介みたいね」

 

 その時、奥の障子が静かに開いた。

 

 鈴仙・優曇華院・イナバが立っていた。

 

 顔色が悪い。片手には記録帳。もう片方の手は、袖の中で固く握られている。

 

「師匠」

 

 永琳が振り返る。

 

「どうしたの」

 

「地下の保管庫を確認しました」

 

「結果は?」

 

 鈴仙は一瞬ためらった。

 

「封印棚の一部が、空です」

 

 部屋の空気が変わった。

 

 永琳の表情が消える。

 

 霊夢はすぐに訊いた。

 

「何が消えたの」

 

 鈴仙は霊夢を見たが、答えない。

 

 永琳が言った。

 

「鈴仙」

 

「……禁制薬の原瓶が三つ。それから、治験記録の一部。あとは廃棄予定の試薬箱がひとつ」

 

「いつ」

 

「わかりません。封印は壊されていません。鍵も、札も、結界も、そのままです」

 

「つまり、中に入れる者の仕業?」

 

 霊夢が言うと、鈴仙の顔が強張った。

 

 永琳は静かに答えた。

 

「そう見せたいのでしょう」

 

「またそれ」

 

「事実よ。封印を壊さずに持ち出す方法を知っている者は限られる。だからこそ、わざわざ壊さなかった。内部犯に見せたい。あるいは、本当に内部犯」

 

 てゐが軽く手を挙げた。

 

「ちなみに私はやってないよ」

 

「聞いてない」

 

 霊夢が言うと、てゐは笑った。

 

「先に言っといた方がいいかと思って」

 

 文が鈴仙に近づく。

 

「消えた薬は、先ほどの偽薬包と関係しますか?」

 

 鈴仙は文を睨んだ。

 

「取材なら帰ってください」

 

「質問です」

 

「同じです」

 

「答えられない?」

 

「答える必要がありません」

 

 鈴仙の声は震えていた。怒りか、不安か、あるいは両方か。

 

 永琳が代わりに答える。

 

「直接の関係は不明。ただし、消えたものが悪用されれば、人里に混乱が広がる可能性はある」

 

「どんな混乱?」

 

 霊夢が訊く。

 

「不安、依存、錯乱、記憶の混濁。そういう類のものよ」

 

「具体的に言わないのね」

 

「言えば、それだけで悪用する者がいる」

 

「そこは賢明ね」

 

 永琳は鈴仙に指示を出した。

 

「地下を封鎖。今夜出入りした者を全員記録して。患者も、職員も、兎たちも」

 

「はい」

 

「輝夜様は?」

 

「奥の間に」

 

「お呼びして」

 

 鈴仙は一瞬だけ表情を曇らせた。

 

「ですが」

 

「呼びなさい」

 

「……はい」

 

 鈴仙は廊下の奥へ消えた。

 

 霊夢は永琳を見る。

 

「輝夜は知ってるの?」

 

「知らないことの方が少ないでしょうね」

 

「なら最初から呼びなさいよ」

 

「姫は退屈しのぎに、火に油を注ぐことがある」

 

「最悪ね」

 

「否定はしないわ」

 

 文が嬉しそうに言う。

 

「永遠亭内部にも火種あり、ですね」

 

「射命丸」

 

 永琳の声が冷えた。

 

「あなたはここで聞いたことを記事にするつもり?」

 

「書くべきことは書きます」

 

「ここには患者がいる。彼らの名や病を晒せば、あなたは情報屋ではなく害悪よ」

 

「患者の名は書きません」

 

「信じられないわね」

 

「信用される天狗など、天狗ではありませんから」

 

 霊夢が文の頭を軽く叩いた。

 

「ちょっと黙ってなさい」

 

「痛いですね」

 

「永琳」

 

「何」

 

「地下を見せなさい」

 

「嫌よ」

 

「じゃあ勝手に見る」

 

「あなたが勝手に踏み込めば、ここにいる患者たちの秘密も巻き込まれる」

 

「それを盾にするの?」

 

「盾ではなく事実よ」

 

 永琳は机に手を置いた。

 

「霊夢。ここは賭場でも工事現場でもない。医療の場よ。表に出られない患者もいる。妖怪の傷も、人間の病も、名前を消して横たわっている。あなたが異変の名でここを荒らせば、助かる命も逃げる」

 

「逃げるような命を預かってる時点で、荒らされる覚悟くらいしておきなさいよ」

 

「しているわ」

 

 永琳は静かに言った。

 

「だから、あなたをここで止める覚悟もある」

 

 霊夢と永琳が向き合った。

 

 薬棚の瓶が、かすかに震えた。

 

 文が後ろへ一歩下がる。てゐは廊下の端に移動した。空気が張り詰める。霊夢の手が札に触れ、永琳の指が袖の中へ沈む。

 

 その時、廊下の奥から欠伸まじりの声がした。

 

「夜中に騒がしいわね」

 

 蓬莱山輝夜が現れた。

 

 長い黒髪、気だるげな目、月の姫らしい優雅な佇まい。だが、その表情には退屈と好奇心が混じっている。火事を遠くから眺める者の顔だ。

 

「霊夢、いらっしゃい。こんな時間に来るなんて、よほど永琳が恋しかったの?」

 

「帰っていい?」

 

「せっかく来たのに冷たいわね。お茶くらい飲んでいけば?」

 

「薬入り?」

 

「それは永琳の趣味」

 

「姫様」

 

 永琳の声に、わずかな棘が混じる。

 

 輝夜は笑った。

 

「冗談よ」

 

「冗談に聞こえないから困るの」

 

 霊夢は輝夜の前に薬包を置いた。

 

「これ、知ってる?」

 

 輝夜は薬包を見る。

 

 目を細める。

 

「偽物ね」

 

「それは聞いた」

 

「でも、面白い偽物」

 

「どこが」

 

「永遠亭に似せているけれど、わざと微妙に違う。見る人が見れば偽物だとわかる。けれど、素人なら本物だと思う。つまり、永遠亭を本気で騙るためではなく、永遠亭が疑われるための偽物」

 

「それも聞いた」

 

「なら、あなたはもう答えに近いところにいるじゃない」

 

 輝夜は椅子に腰掛けた。

 

 てゐがどこからか茶を出す。霊夢は飲まなかった。文は香りだけ嗅いで、やはり飲まなかった。

 

「命蓮寺の船荷が消えた。八雲の結界杭が消えた。守矢の講で偽薬が出た。永遠亭の封印棚から禁制薬が消えた。次はどこかしら。紅魔館? 白玉楼? 神霊廟?」

 

「楽しそうね」

 

 霊夢が言うと、輝夜はにっこり笑った。

 

「ええ。だって、いつも退屈なんだもの」

 

「幻想郷が燃えるかもしれないのに?」

 

「燃えるほどのものが、まだ残っているなら素敵じゃない」

 

 霊夢の目が冷えた。

 

「輝夜」

 

「怒らないで。私は火をつけたわけではないわ」

 

「信じられない」

 

「でも、火を見るのは好き」

 

「もっと悪いわ」

 

 永琳がため息をついた。

 

「姫様。今は遊んでいる場合ではありません」

 

「わかっているわ。永琳、あなたの薬が盗まれた。しかも、盗まれたことを隠せない形でね。これはあなたへの挑発よ」

 

「ええ」

 

「そして、守矢の会場で偽薬を出した。これは神奈子への挑発。博麗の印を使った。霊夢への挑発。八雲の杭を盗った。紫への挑発」

 

 輝夜は指を折るように言った。

 

「挑発されていないのは誰かしら?」

 

 文が答える。

 

「紅魔館、白玉楼、命蓮寺、神霊廟。命蓮寺は荷を失っていますが、まだ表立っていません」

 

「命蓮寺は沈黙している。沈黙している者は、挑発されていないのではなく、喋れない理由があるのかもしれないわね」

 

 霊夢は輝夜を見た。

 

「あんた、何か知ってるでしょ」

 

「知っていることと、推測していることは違うわ」

 

「じゃあ推測を言いなさい」

 

「高いわよ」

 

「払わない」

 

「なら、貸しにしておく」

 

「嫌な言葉ね」

 

 輝夜は茶を一口飲んだ。

 

「今回の相手は、ものを盗んでいるのではない。名前を盗んでいるのよ」

 

「名前?」

 

「博麗の印。永遠亭の薬包。妹紅の白い羽根。守矢の鍵。八雲の現場。全部、本物である必要はない。本物に見えればいい。誰かの名前を借りて、別の誰かを怒らせる。怒った者は動く。動けば隠していたものが揺れる」

 

 妹紅が言ったことと同じだった。

 

 全員に水を持って走らせる。

 そうすれば、どの家に何が隠してあるか見える。

 

 霊夢は言う。

 

「目的は何」

 

「暴露」

 

 輝夜は即答した。

 

「たぶんね」

 

「幻想郷の裏を全部ばらすつもり?」

 

「それだけなら文が喜ぶだけ」

 

「喜びますね」

 

 文が小さく言うと、霊夢に睨まれた。

 

 輝夜は続ける。

 

「暴露には二種類あるわ。悪事を正すための暴露と、悪事を使って新しい悪事を作るための暴露。今回のは後者に見える」

 

「なぜ」

 

「手が優しくないもの。救いではなく、疑いを増やしている。薬を人里に置くなんて、特にそう。苦しい人を助けたい者のやり方ではないわ」

 

 永琳が静かに言った。

 

「そうね」

 

 その声には、今までより強い怒りがあった。

 

 霊夢は永琳を見た。

 

「永琳。消えた禁制薬で、人里に何が起きる」

 

「最悪の場合、人が自分の判断を信じられなくなる。眠れなくなる者、逆に眠りすぎる者、不安だけが消えて危険を恐れなくなる者、記憶が曖昧になる者。薬は、人の心の奥に手を入れる。乱暴に扱えば、刃物よりひどい傷を残す」

 

「止め方は?」

 

「現物を見つける。偽物と本物を見分ける。流通させない。摂取した者がいれば、すぐに隔離して治療する」

 

「流通ルートは?」

 

 永琳は少し黙った。

 

「永遠亭から直接ではない。うちの記録では、封印棚は今夜まで異常なしになっている。つまり、記録が改ざんされたか、記録する前に抜かれたか、あるいは、抜かれたように見せている」

 

「また内部犯?」

 

「可能性はある」

 

 霊夢はてゐを見る。

 

 てゐは両手を上げた。

 

「私は商売は好きだけど、こんな危ない粉で遊ばないよ。客が壊れたら次の商売ができない」

 

「最低だけど、筋は通ってる」

 

「ありがとう」

 

「褒めてない」

 

 文が言う。

 

「永遠亭の薬を外へ持ち出せるのは、永琳さん、鈴仙さん、てゐさん、輝夜さん、あとは兎たち?」

 

 永琳は答える。

 

「厳密には違う。封印棚に触れる者はもっと少ない」

 

「誰です?」

 

「言うと思う?」

 

「思いません」

 

「なら聞かないことね」

 

 霊夢は机を指で叩いた。

 

「じゃあ、永琳。協力しなさい」

 

「何をする気?」

 

「人里に出た偽薬を回収する。守矢の講の参加者を洗う。命蓮寺の水路に残った箱も調べる。八雲の現場で消えた杭と合わせて、誰が何を集めてるか見る」

 

「医療情報は渡せない」

 

「患者の名前はいらない」

 

「なら何が欲しいの」

 

「偽薬と本物の見分け方。危ない兆候。回収した薬包を安全に保管する方法。あと、あんたが隠してる帳簿」

 

 永琳の目が鋭くなった。

 

「最後の一つは無理ね」

 

「でしょうね」

 

「最初の三つは教える。ただし、詳細は紙に書かない。悪用される」

 

「それでいい」

 

 霊夢は頷いた。

 

「あと、鈴仙を貸して」

 

 奥から戻ってきた鈴仙が、ぎょっとした顔をした。

 

「私を?」

 

「薬を見る目が必要でしょ」

 

「私は師匠の指示で」

 

 永琳は少し考えた。

 

「鈴仙。霊夢について行きなさい」

 

「師匠!」

 

「ただし、患者には触れない。薬包の確認だけ。危険だと判断したら、すぐに戻る」

 

「でも、封印棚の件が」

 

「こちらは私が見る」

 

 鈴仙は不安そうに永琳を見たが、やがて小さく頷いた。

 

「……わかりました」

 

 霊夢は鈴仙を見た。

 

「よろしく」

 

「できれば、よろしくしたくありません」

 

「正直でよろしい」

 

 輝夜が楽しそうに笑った。

 

「いいわね。巫女、天狗、月兎。次は神社か寺か館か。まるで見世物ね」

 

「見物料取るわよ」

 

「払ってもいいわ」

 

「本当に姫様って暇なのね」

 

「永遠は暇との戦いよ」

 

 永琳が静かに言った。

 

「姫様」

 

「はいはい、黙るわ」

 

 その時、廊下の奥から兎が一匹駆け込んできた。

 

 息を切らし、耳を震わせている。

 

「永琳様!」

 

「どうしたの」

 

「裏口に、これが」

 

 兎は小さな木箱を差し出した。

 

 永琳が受け取る前に、霊夢が札で木箱を止めた。

 

「触らない」

 

 木箱は机の上に置かれた。

 

 箱には封がしてある。印はない。ただ、蓋に白い羽根が一枚挟まっていた。

 

 妹紅のものに見える羽根。

 

 霊夢は唇を噛んだ。

 

「また露骨な」

 

 文が低く言う。

 

「開けますか?」

 

 永琳は首を横に振った。

 

「ここでは開けない。危険物の可能性がある」

 

「じゃあどうするの」

 

「封印室へ」

 

 霊夢が木箱を見つめる。

 

 その時、箱の底から、かすかな音がした。

 

 こつん。

 こつん。

 

 中に何かが入っている。生き物ではない。瓶が揺れるような音。

 

 輝夜の笑みが消えた。

 

 永琳の顔も険しくなる。

 

「全員、下がって」

 

 永琳が言う。

 

 霊夢は札を構えた。

 

 文は翼を広げ、鈴仙は目を鋭くする。てゐはいつの間にか廊下の影へ消えていた。

 

 箱の封が、ひとりでに破れた。

 

 中から、白い煙のようなものが漏れる。

 

 だが、煙ではない。細かい紙片だった。無数の小さな紙片がふわりと舞い上がり、部屋の中に散る。霊夢が札で風を起こし、紙片を壁際に叩きつけた。

 

「何これ」

 

 文が一枚を見つめる。

 

 紙片には、文字が印刷されていた。

 

『永遠亭は、人を救う場所か。人を沈める場所か』

 

 別の紙片。

 

『薬瓶の底に、何人分の沈黙が沈んでいる』

 

 また別の紙片。

 

『次は紅い館』

 

 霊夢は最後の紙片を拾った。

 

「紅魔館」

 

 文の目が光る。

 

「次の舞台が決まりましたね」

 

「嬉しそうに言うな」

 

 永琳は紙片を見ていた。

 

 その表情には、怒りがあった。冷たい怒りだ。

 

「永遠亭を挑発し、次に紅魔館へ向かわせる。ずいぶん雑な誘導ね」

 

 輝夜は静かに言った。

 

「でも、霊夢は行くでしょう?」

 

 霊夢は答えなかった。

 

 行くに決まっていた。

 

 紅魔館。

 血と夜会と貴族の顔。

 消えた荷の中には、紅魔館の封印箱もあった。永遠亭の薬、八雲の杭、博麗の印、守矢の講。そこに紅魔館が絡めば、幻想郷の裏はさらに深くなる。

 

 霊夢は永琳を見る。

 

「この箱、調べて」

 

「言われなくても」

 

「結果は教えなさい」

 

「必要なら」

 

「必要よ」

 

「私が判断する」

 

「本当に似た者同士ね、あんたたち」

 

 永琳は何も言わなかった。

 

 鈴仙が霊夢のそばに立つ。顔はまだ青いが、目は決まっていた。

 

「紅魔館へ行くんですか」

 

「行く」

 

「永遠亭の名を使った犯人が、そこにいると思いますか」

 

「思ってない」

 

「では、なぜ」

 

「行かせたい奴がいるなら、行かないと見えないものがある」

 

 文が嬉しそうに頷いた。

 

「火の中に入って、誰が水を持ってくるか見るわけですね」

 

「文が言うとむかつくわね」

 

「同じことでも言い方が大事ですから」

 

 輝夜が霊夢に言った。

 

「霊夢」

 

「何」

 

「紅魔館では、永遠亭より綺麗な嘘が出てくるわよ」

 

「綺麗な嘘?」

 

「ええ。薬の嘘は苦い。信仰の嘘は甘い。紅魔館の嘘は、たぶん香水の匂いがする」

 

「最悪ね」

 

「気をつけなさい。レミリアは退屈している時ほど、他人の運命で遊ぶ」

 

「忠告?」

 

「半分は」

 

「残り半分は?」

 

「見物を面白くするための前振り」

 

「本当に最悪」

 

 霊夢は布袋に紙片を入れた。薬包、竹林の紙片、木箱の紙片。証拠ばかりが増える。だが、犯人には近づいているのか、逆に踊らされているのか、まだわからない。

 

 永遠亭を出る時、永琳が呼び止めた。

 

「霊夢」

 

「何」

 

「人里に出た偽薬を見つけたら、絶対に捨てないで。燃やしても、水に流しても駄目。触れずに封じて、鈴仙に渡しなさい」

 

「わかった」

 

「それから、使った者がいたら責めないこと」

 

 霊夢は振り返った。

 

「責める?」

 

「苦しくて手を伸ばした者を責めても、何も解決しない。責めるなら、渡した者を責めなさい」

 

 霊夢は少し黙った。

 

「医者っぽいこと言うのね」

 

「医者よ」

 

「裏医者でしょ」

 

「それでも医者よ」

 

 霊夢は小さく笑った。

 

「じゃあ、裏巫女として覚えておくわ」

 

 永琳は呆れたようにため息をついた。

 

 輝夜は奥で手を振っている。てゐは門の柱にもたれ、にやにや笑っていた。

 

「帰り道、気をつけてね。竹林は機嫌が悪いから」

 

「誰のせいよ」

 

「さあ。月のせいかな」

 

 霊夢、文、鈴仙の三人は永遠亭を出た。

 

 竹林の夜は、来た時よりも深くなっていた。葉擦れの音が、まるで誰かの囁きに聞こえる。鈴仙は緊張した顔で周囲を見回している。文は空へ上がろうとしたが、竹が高く、翼を広げにくそうだった。

 

 霊夢は前を歩いた。

 

 頭の中で、情報が渦を巻いている。

 

 永遠亭の禁制薬が消えた。

 偽薬が人里に出た。

 患者たちの秘密が狙われている。

 紅魔館への誘導が置かれた。

 白い羽根はまた使われた。

 

 妹紅の名を借り、永遠亭の名を借り、次は紅魔館の名を使うつもりなのか。

 

 誰かが、幻想郷中の悪党の名前を順番に剥がしている。

 

 竹林を抜ける直前、霊夢は足を止めた。

 

 道の真ん中に、赤い封蝋のついた封筒が落ちていた。

 

 封蝋には、紅魔館の紋。

 

 文が息を呑む。

 

「早いですね」

 

 鈴仙が震える声で言う。

 

「これも、偽物でしょうか」

 

 霊夢は封筒を拾わず、札で挟んだ。

 

「偽物でも本物でも、どうせ開けるしかないわ」

 

 封筒の中には、一枚の招待状が入っていた。

 

『今宵、紅魔館にて夜会あり。

 博麗の巫女、永遠亭の兎、天狗の記者を歓迎する。

 秘密は、赤い杯の底に沈む。』

 

 差出人の名前はない。

 

 だが、紙には甘い香水の匂いが染みていた。

 

 輝夜の言葉が蘇る。

 

 紅魔館の嘘は、香水の匂いがする。

 

 霊夢は招待状を握り潰した。

 

「次は紅魔館ね」

 

 文はにやりと笑った。

 

「夜会に招かれるなんて光栄ですね」

 

 鈴仙は顔を青くした。

 

「私は行きたくありません」

 

「私も行きたくないわよ」

 

 霊夢は竹林の出口を睨んだ。

 

「でも、行かないと向こうから来る」

 

 遠くに、湖の方角が見えた。

 

 そのさらに向こう、紅い館の灯が夜の底で小さく揺れている。

 

 幻想郷の夜は、まだ終わらない。

 

 薬瓶の底に沈んでいた沈黙は、とうとう揺れ始めた。

 

 次にこぼれるのは、薬か、血か、嘘か。

 

 霊夢にはまだわからない。

 

 ただ、ひとつだけ確かなことがある。

 

 誰かが、この夜を楽しんでいる。

 

 そしてその誰かは、全員の秘密を知っている。

 

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