紅魔館は、夜の湖に浮かぶ赤い傷のようだった。
月は薄い雲に隠れ、湖面は黒い硝子のように静まり返っている。その奥に、赤い館があった。窓には灯がともり、尖塔は夜空を裂くように立っている。遠くから見れば美しい。近づけば近づくほど、その美しさが威圧に変わる。
博麗神社の祭りの灯は、人を誘う。
守矢の集会所の灯は、人を安心させる。
永遠亭の灯は、眠れない者を呼ぶ。
だが紅魔館の灯は違った。
あれは、人を招いているのではない。
選別している。
入る価値のある者と、ない者。
従う者と、逆らう者。
所有される者と、所有する者。
その境界を、赤い窓明かりが黙って照らしていた。
霊夢は湖畔で立ち止まった。手には、竹林で拾った招待状。赤い封蝋はまだ甘い香りを放っている。
隣には射命丸文。少し後ろに鈴仙がいた。
鈴仙は紅魔館を見上げ、露骨に嫌そうな顔をしている。
「本当に行くんですか」
「来いって書いてあったし」
「罠ですよ」
「そうね」
「わかっていて行くんですか」
「罠って、踏まないと誰が仕掛けたかわからないことがあるのよ」
鈴仙は眉を寄せた。
「博麗の巫女って、もっと合理的な人だと思っていました」
「合理的よ。面倒な相手は、近づいてから殴った方が早い」
「それは合理ではなく乱暴です」
「幻想郷ではだいたい同じ」
文が嬉しそうに笑った。
「いいですねえ。夜会、密約、紅い館、招かれざる招待客。見出しが勝手に踊ります」
「記事にしたら」
「落とす、でしょう? もう覚えました」
「なら黙ってなさい」
霊夢は招待状を袖にしまい、紅魔館へ向かった。
門の前には、紅美鈴が立っていた。
いつものように穏やかな顔をしている。だが、今夜の美鈴は少し違った。背筋はまっすぐ伸び、門の前に立つ姿には隙がない。眠そうな門番ではない。館の外と内を分ける、最後の壁だった。
「こんばんは、霊夢さん」
「通して」
「招待状はお持ちですか?」
霊夢は招待状を取り出して見せた。
美鈴はそれを受け取り、封蝋を確認する。表情は変わらない。
「確かに、紅魔館の封蝋ですね」
「本物?」
「本物です」
霊夢は眉を動かした。
「偽物じゃないの」
「少なくとも、封蝋は本物です。紙も、香も、館で使うものです」
文が横から口を挟む。
「では、誰かが紅魔館内部から出した?」
美鈴は文を見た。
「今夜の夜会では、館内で見聞きしたことを無断で外へ出すことは禁じられています」
「天狗にそれを言います?」
「言っています」
美鈴の声は柔らかい。だが、その目は笑っていなかった。
霊夢は美鈴に言った。
「レミリアは中?」
「はい。お嬢様は皆様をお待ちです」
「皆様?」
「霊夢さん、射命丸さん、永遠亭の鈴仙さん。そして、今夜集められた客人たちです」
「客人って?」
美鈴は一瞬だけ視線を逸らした。
「幻想郷の、表では会えない方々です」
「裏の客ってことね」
美鈴は答えなかった。
門が開いた。
中から、音楽が流れてきた。弦楽器の静かな音色。笑い声。グラスが触れ合う音。香水と古い木と酒の匂い。赤い絨毯が玄関まで伸びている。
霊夢は一歩踏み出した。
美鈴が低く言った。
「霊夢さん」
「何」
「今夜の紅魔館では、幻想郷の外の常識も、中の常識も、あまり意味を持ちません」
「いつものことじゃない」
「いつもより、強い意味でです」
霊夢は美鈴を見た。
美鈴は真面目な顔をしていた。
「お嬢様は、今夜、機嫌がいい。機嫌がいい時ほど、紅魔館は危険です」
「止めないの?」
「私は門番です。止める相手と、通す相手を選ぶのが仕事です」
「私たちは通すのね」
「はい」
「理由は?」
「入らなければ、今夜の話が終わらないからです」
霊夢は鼻で笑った。
「どいつもこいつも、私を歩かせたがるわね」
美鈴は小さく頭を下げた。
「お気をつけて」
霊夢たちは門をくぐった。
玄関ホールには、十六夜咲夜が立っていた。
銀髪を整え、完璧な姿勢で一礼する。手袋は白く、表情は冷たい。彼女の背後では、妖精メイドたちが音もなく動き、客の外套を預かり、グラスを運び、廊下を整えている。
ここでは、混乱さえも美しく並べられているようだった。
「ようこそ、紅魔館へ。博麗霊夢様、射命丸文様、鈴仙・優曇華院・イナバ様」
「様づけされると気持ち悪いわね」
「今夜は夜会ですので」
「招待したのは誰?」
「お嬢様です」
「その招待状、誰が書いた?」
「私です」
咲夜は何のためらいもなく答えた。
鈴仙が驚いた。
「あなたが?」
「ええ。お嬢様の命で」
霊夢は咲夜を睨んだ。
「じゃあ、竹林に置いたのもあんた?」
「置いたのは別の者です」
「誰」
「お答えできません」
「答えなさい」
「お答えできません」
霊夢の袖の中で札が揺れた。
咲夜は微動だにしない。
「霊夢様。今夜、紅魔館はあなた方を客として迎えています。ですが、客である限り、館の作法には従っていただきます」
「作法?」
「武器はお預かりしません。隠し事も問いません。嘘も禁止しません。ただし、館内で勝手に扉を開けること、客に手を出すこと、許可なく帳簿に触れること、そしてお嬢様の言葉を遮ることは禁じられています」
「ずいぶん都合のいい作法ね」
「紅魔館の作法です」
「幻想郷のルールは?」
咲夜は静かに微笑んだ。
「ここは紅魔館です」
その一言で、鈴仙の顔が強張った。
文の目が細くなる。
霊夢は咲夜を見つめた。
「つまり、幻想郷のルールは関係ないってこと?」
「関係はあります。必要な時だけ」
「独裁者の理屈ね」
「お嬢様は支配者です」
咲夜は当たり前のように言った。
「紅魔館において、時間も空間も労働も沈黙も、すべてお嬢様の所有物です。ここに入った者は、それを理解しているものとして扱われます」
霊夢は小さく笑った。
「すごいわね。悪びれもしない」
「悪いことではありませんので」
「幻想郷で一番ひどい台詞を聞いた気がするわ」
「まだ夜会は始まったばかりです」
咲夜は廊下の奥へ手を差し出した。
「こちらへ」
霊夢たちは案内され、大広間へ向かった。
扉が開くと、赤と金の光が溢れた。
大広間では夜会が開かれていた。長い卓には酒、料理、果物、赤い菓子。壁際には楽団。天井にはシャンデリア。だが、集まっている客たちは、普通の社交場の顔ではなかった。
顔を隠した妖怪。
名前を出せない商人。
山の技術者。
人里の金貸し。
どこかの寺の使い。
冥界の代理人らしき者。
見たことのない外来風の服を着た男。
誰もが笑っている。
誰もが相手を見ている。
誰もが、ここで見たことを外に持ち出さない顔をしている。
広間の最奥、赤い椅子にレミリア・スカーレットが座っていた。
小さな体。大きな威圧。紅い瞳。幼さと老獪さが同じ顔に同居している。彼女の隣にはパチュリー・ノーレッジが本を開き、静かに座っていた。小悪魔が書類を抱えて控えている。
レミリアは霊夢を見ると、嬉しそうに笑った。
「来たわね、霊夢」
「呼んだんでしょ」
「呼んだから来るとは限らない。でも、あなたは来た」
「来させるために、ずいぶん小細工したみたいね」
「小細工?」
レミリアはグラスを持ち上げた。
「紅魔館が招待する時、それは小細工ではなく命令よ」
広間の客たちが静かになる。
霊夢は一歩前に出た。
「幻想郷で命令される覚えはないわ」
「幻想郷?」
レミリアは笑った。
「霊夢。あなたはまだ、自分が幻想郷の中心にいると思っているの?」
「少なくとも、異変の中心にはよくいるわね」
「それは掃除係としてでしょう」
空気が凍った。
鈴仙が息を呑む。文は嬉しそうに手帳を開きかけたが、咲夜の視線で止めた。
霊夢は静かに言った。
「今、何て?」
「あなたは掃除係。幻想郷で何かが散らかると、最後に出てきて片付ける。便利ね。でも、片付ける者が、館の主人になれるわけではない」
「主人?」
「そう。幻想郷は誰のものか。妖怪のもの? 人間のもの? 神のもの? 八雲のもの? 博麗のもの?」
レミリアはグラスの赤い液体を揺らした。
「違うわ。所有できる者のものよ」
霊夢の目が細くなった。
「紅魔館が幻想郷を所有するって?」
「できる部分はね」
「できない部分は?」
「できるようにする」
咲夜が後ろで静かに立っている。パチュリーは本から目を上げない。客たちは息を潜めている。誰もレミリアの言葉を止めない。むしろ、それを聞くために来ている。
霊夢は言った。
「ずいぶん独裁的ね」
「独裁?」
レミリアは楽しそうにその言葉を転がした。
「それは、人間が多数を信じているから怖がる言葉でしょう。私は吸血鬼よ。長く生きる者、強く支配する者、血統を持つ者が上に立つ。それが自然だわ」
鈴仙が思わず口を挟んだ。
「幻想郷には、均衡があります。人間と妖怪、神と妖怪、地上と地底、月と地上、それぞれが」
レミリアは鈴仙を見た。
「月兎が均衡を語るの?」
鈴仙の顔が強張る。
「あなたたち月の者は、地上を見下ろしていた。清浄だ、不浄だと線を引いてね。それが今さら、幻想郷の均衡?」
「私は、もう」
「逃げてきた者ほど、秩序を語りたがる。自分が捨てた場所の罪を、別の場所の正義で洗おうとする」
鈴仙は言葉を失った。
霊夢が前に出る。
「レミリア。遊びに来たんじゃない」
「知っているわ」
「命蓮寺の船荷に、紅魔館の封印箱があった」
「そうね」
「何が入ってた」
「秘密」
「じゃあ、こじ開ける」
咲夜が一歩前に出た。
「霊夢様」
「邪魔する気?」
「必要なら」
霊夢と咲夜の視線がぶつかる。
レミリアは楽しそうに笑った。
「咲夜、まだいいわ」
「かしこまりました」
咲夜は下がった。
レミリアは椅子から立ち上がる。小さな靴音が広間に響いた。
「封印箱の中身を知りたいのね」
「ええ」
「中身は帳簿よ」
文の目が光った。
「帳簿?」
パチュリーが初めて顔を上げた。
「紅魔館の外部契約台帳。保護対象、奉仕契約、医療委託、物資移送、沈黙契約、身元保証、労務登録。そういうものをまとめたものよ」
霊夢は眉をひそめた。
「言い方が綺麗すぎる」
「紅魔館では正確な言葉を使う」
パチュリーは淡々と言った。
「外ではどう呼ばれているか知らないけれど」
「人を物みたいに扱ってる帳簿ってこと?」
広間の空気が少し揺れた。
客たちの中に、目を伏せる者がいる。
レミリアは笑みを消さない。
「物みたいに、ではないわ。資産として扱っているの」
鈴仙が怒りを含んだ声で言った。
「同じです」
「違うわ。物は壊れたら捨てる。資産は管理する。価値を保つ。必要なら守る。紅魔館は、所有するものを粗末には扱わない」
霊夢は低く言った。
「最低ね」
「そうかしら。博麗の賭場で負けた人間はどうなるの? 守矢の講で払い続けられなくなった者は? 永遠亭で治療の代わりに秘密を預けた者は? 八雲の工事で名もなく働く河童たちは? 命蓮寺の船に乗る下働きは? 白玉楼の借り手は? 幻想郷は最初から、弱い者を何かに変えて回している」
レミリアの声は甘かった。
「労働力。信仰。患者。客。人足。信者。債務者。情報源。紅魔館だけが特別に残酷だと思う?」
「少なくとも、あんたはそれを当然みたいに言う」
「当然だもの」
レミリアは霊夢の前に立った。
「私たちは幻想郷の外から来た。外の理屈を知っている。古い血の理屈も、館の理屈も、契約の理屈も知っている。幻想郷のごっこ遊びのような均衡に、心から従うつもりはないわ」
「ごっこ遊び?」
「そう。博麗が異変を裁き、八雲が境界を管理し、神が信仰を集め、寺が慈悲を説き、医者が薬を出す。みんな、自分の席があると思っている。けれど、その席は誰が用意したの? 誰が座る資格を決めたの?」
「少なくとも、紅魔館じゃない」
「だから、私たちは自分の席を自分で作る」
レミリアの瞳が赤く光った。
「必要なら、他人の席をどかしてね」
霊夢は札を一枚抜いた。
咲夜の指が動く。
その瞬間、広間の時間が少し歪んだ気がした。楽団の弓が止まり、酒の波紋が凍り、客たちの呼吸が遅れる。咲夜の能力だ。だが、霊夢はその中でも動いた。札を持つ指だけが、わずかにずれる。
咲夜の目が細くなる。
霊夢は言った。
「紅魔館の中では何でもできるつもり?」
咲夜は静かに答えた。
「いいえ。できるように整えているだけです」
「それを独裁って言うのよ」
「独裁は、秩序の一形態です」
文が思わず呟いた。
「これは記事にしたい」
咲夜のナイフが、文の手帳のすぐ横に刺さった。
文は笑顔のまま手を止めた。
「今のは警告ですか?」
「お願いです」
「紅魔館のお願いは鋭いですね」
パチュリーが静かに言う。
「話を戻しましょう。消えた封印箱の件だけれど、紅魔館は被害者でもあるわ」
「どこもかしこも被害者ね」
霊夢が吐き捨てる。
「実際、箱は失われた。中の台帳も消えた。あれが外へ出れば、紅魔館だけでなく、多くの者が困る」
「多くの者?」
パチュリーは広間の客たちを見た。
「ここにいる者の何人かも」
客たちの間に緊張が走った。
霊夢は周囲を見回す。
「なるほど。今夜の夜会は、客を楽しませるためじゃない。脅すためね」
レミリアは笑う。
「違うわ。安心させるためよ」
「安心?」
「紅魔館は、消えた台帳を必ず取り戻す。あなたたちの秘密は、引き続き紅魔館が管理する。だから騒ぐな。裏切るな。余計な場所へ逃げるな。そう伝えるための夜会」
霊夢は呆れた。
「やっぱり脅しじゃない」
「言葉の問題ね」
「どいつもこいつも、そればっかり」
鈴仙が震える声で言った。
「管理する、所有する、保護する。言葉を変えているだけで、あなたたちは人を縛っている」
レミリアは鈴仙を見る。
「縛られずに生きられる者が、幻想郷にどれほどいるのかしら」
鈴仙は黙る。
「あなたは永遠亭に縛られている。文は情報に縛られている。霊夢は博麗に縛られている。咲夜は私に縛られている。違う?」
咲夜は静かに答えた。
「私は、お嬢様を選んでおります」
「そう。選んだ縛りは忠誠と呼ばれる。選ばされる縛りは支配と呼ばれる。でも、外から見ればどちらも同じ鎖よ」
霊夢はレミリアを睨んだ。
「咲夜を例に出して、自分の支配を正当化するの?」
「正当化など必要ないわ」
レミリアは胸を張った。
「私はレミリア・スカーレット。私が望むことが、紅魔館の法。私が許すものが秩序。私が所有するものが財産。私が守るものが民。私が壊すものが敵」
広間が静まり返った。
それは冗談ではなかった。
紅魔館の本質だった。
幻想郷の均衡に参加しているふりをしながら、この館だけは自分たちの王国だと思っている。博麗の裁きも、八雲の管理も、守矢の信仰も、永遠亭の医療も、命蓮寺の慈悲も、この館の中では二次的なものにすぎない。
紅魔館は幻想郷の中にある。
だが、幻想郷に従ってはいない。
「霊夢」
レミリアは静かに言った。
「あなたは幻想郷の番人。でも、番人は門の外にいるものよ。館の中を支配するのは主人。ここでの主人は私」
「その主人が、盗まれた台帳を取り返すために私を呼んだ?」
「それもあるわ」
「他には?」
「見せたかったの」
「何を」
「あなたが守っている幻想郷の正体」
レミリアは広間の客たちを手で示した。
「ここにいる者たちは、全員、どこかの勢力と繋がっている。八雲の工事に資材を流す者。守矢の講に人を紹介する者。永遠亭に身元を消した患者を運ぶ者。命蓮寺の船に荷を紛れ込ませる者。白玉楼の債権を買う者。神霊廟に古い血筋を売る者。天狗に情報を流す者。博麗の祭りに屋台を出す者」
霊夢は黙った。
「誰も潔白ではない。誰も幻想郷の平和を本気で信じてはいない。ただ、自分の取り分が減らない程度に平和であってほしいだけ」
文が低く言った。
「よくご存じで」
「情報は紅魔館にも集まるのよ、天狗。あなたたちほど騒がしくないだけで」
レミリアは霊夢に向き直る。
「そして今、その取り分をまとめて燃やそうとしている者がいる」
「誰」
「知らない」
「またそれ?」
「本当に知らないのよ」
レミリアは少しだけ不愉快そうに言った。
「知っていれば、とっくに地下に招いているわ」
「招くって言葉の意味が怖いわね」
「紅魔館流の歓迎よ」
パチュリーが本を閉じた。
「ただし、仮説はある」
霊夢はパチュリーを見た。
「言いなさい」
「今回の犯人は、各勢力の内部情報を持っている。だが、一つの勢力の内部者では説明できない。博麗の印、八雲の工事、守矢の鍵、永遠亭の薬、紅魔館の台帳。これらを全部知るには、現場に近く、なおかつ上層にはいない者の視点が必要」
鈴仙が言う。
「上層にはいない者?」
「ええ。命令する側ではなく、運ぶ側。記録する側ではなく、片付ける側。所有する側ではなく、所有物に数えられかけた側」
霊夢の頭に、妹紅の言葉が蘇る。
全員に水を持って走らせたい。
そうすれば、どの家に何が隠してあるか見える。
霊夢は言った。
「自警組」
レミリアの笑みが深くなった。
「そう考えるのが自然ね」
「妹紅と慧音?」
「さあ。少なくとも、彼女たちの周囲には、人里の物流、人足、火消し、問屋、寺子屋、怪我人、噂が集まる。上からは見えないものが、下からはよく見える」
霊夢は唇を噛んだ。
「でも、露骨すぎる」
「だから面白いのよ」
レミリアは言った。
「妹紅に見せかけているのか。妹紅自身が、見せかけているように見せているのか。あるいは、彼女の怒りだけを誰かが借りているのか」
「楽しそうね」
「ええ。怒りは美しいもの。長く抑え込まれた怒りほど、燃えた時に鮮やかだわ」
霊夢の声が低くなる。
「人里を燃やす気?」
「私ではないわ」
「じゃあ止める気は?」
レミリアは少し考えるような顔をした。
「紅魔館の利益になるなら止める」
「利益にならなければ?」
「眺める」
鈴仙が思わず言った。
「そんな……」
霊夢はレミリアから目を離さなかった。
「やっぱり、あんたは幻想郷のルールを無視してる」
「違うわ。私は幻想郷のルールを、自分より下に見ているだけ」
レミリアは笑った。
「守るべきルールは、支配者が決めるものよ」
その時、大広間の照明が一瞬だけ揺れた。
シャンデリアの赤い灯が瞬き、楽団の音が止まる。客たちがざわめいた。咲夜がすぐに周囲を見回し、パチュリーが本を開く。
次の瞬間、広間の中央に置かれていた銀の盆が、音を立てて割れた。
中から、黒い封筒が現れる。
誰も近づかない。
咲夜が動こうとしたが、霊夢が手で制した。
「また招待状?」
文が呟く。
霊夢は札を飛ばし、封筒を開いた。
中には一枚の赤黒い紙。
文字は短かった。
『紅い館は、誰を所有している?
所有された者は、誰の名で売られた?
地下の帳簿を開け。
次は、死者の蔵。』
霊夢は読み終えると、舌打ちした。
「白玉楼か」
文が目を輝かせる。
「死者の蔵。これは白玉楼でしょうね。金貸し、債権、武器商。次の火種です」
レミリアの表情から笑みが消えていた。
咲夜の目が鋭くなる。
パチュリーは紙を見つめ、低く言った。
「館内に入られた」
鈴仙が驚く。
「外からではなく?」
「この広間の中央に、咲夜の目を避け、パチュリーの結界を抜けて、メッセージを置いた。外から投げ入れたものではないわ」
咲夜が静かに言う。
「つまり、客の中にいるか、館内の者を使ったか」
広間の客たちが一斉にざわついた。
レミリアが手を上げた。
それだけで、広間は静まった。
彼女の声は、先ほどまでの楽しげなものではなかった。
「扉を閉めなさい」
咲夜が一礼する。
「かしこまりました」
大広間の扉が閉じられた。
鍵の音が響く。
客たちの顔色が変わる。
レミリアは赤い瞳で広間を見渡した。
「今夜、紅魔館を弄んだ者がいる。私の夜会で、私の客の前で、私の館の中に、私への挑発を置いた」
その声は静かだった。
だが、怒りがあった。
「誰であれ、許さない」
霊夢はレミリアを見る。
「ようやく被害者の顔になったわね」
「被害者?」
レミリアは霊夢を睨んだ。
「私は被害者ではない。奪われた主人よ」
「同じじゃないの」
「違うわ。被害者は泣く。主人は取り返す」
咲夜が客たちの前に立つ。
「皆様。確認が終わるまで、この広間から出ることはできません」
客の一人が声を荒げた。
「ふざけるな! 我々を疑うのか!」
咲夜はその男を見た。
「はい」
男は言葉を失った。
「紅魔館に招かれた以上、皆様はお嬢様の客です。同時に、容疑者でもあります。身に覚えのない方は、堂々としていればよろしい」
「横暴だ!」
「ここは紅魔館です」
その一言で、男は黙った。
霊夢は呆れたように言う。
「本当に独裁ね」
咲夜は淡々と答えた。
「効率的です」
「効率で人を閉じ込めるな」
「必要なら時間も止めます」
「やっぱり最悪」
文が小声で言う。
「しかし、面白いですね。幻想郷の各勢力を挑発してきた相手が、紅魔館の中にまで入った。これは犯人が相当な手練れか、あるいは紅魔館の内部に穴があるか」
パチュリーが言う。
「穴はあるわ」
レミリアがパチュリーを見る。
「パチェ?」
「紅魔館は強い。けれど、強い場所ほど、自分の内側を疑わない。咲夜が整え、美鈴が守り、私が結界を張り、お嬢様が支配する。それでも、妖精メイドは抜けるし、客は嘘をつくし、契約者は裏切る。完璧な館なんて存在しない」
咲夜の表情がわずかに動いた。
「私の管理に不備があると?」
「あるでしょう。なければ、これがここにあるはずがない」
パチュリーは咳をひとつした。
「認めなさい。紅魔館も、他と同じように汚れていて、同じように穴がある」
レミリアはしばらく黙っていた。
やがて、低く笑った。
「面白くないわね」
「事実よ」
「紅魔館は特別よ」
「特別に汚い、という言い方もできる」
「パチェ」
「怒ってもいいけれど、今は考える方が先」
霊夢はそのやり取りを見ていた。
紅魔館は独裁的だ。
幻想郷のルールを下に見ている。
人を所有物のように扱い、自分たちの館を小さな王国だと思っている。
だが、その王国にも穴がある。
そして、誰かがそこを突いた。
霊夢はレミリアに言った。
「地下の帳簿」
レミリアの目が細くなる。
「何?」
「紙にそう書いてあった。地下の帳簿を開けって」
「開けるわけがないでしょう」
「じゃあ勝手に開ける」
咲夜が動いた。
だが、その前にレミリアが手を上げた。
「待ちなさい」
「お嬢様」
「霊夢。地下には、紅魔館の契約台帳がある。外へ出せば、幻想郷のあちこちで騒ぎが起きる。守矢の講どころではない。永遠亭の薬包どころでもない。名前が出れば、消える者もいる。逃げる者もいる。殺される者もいる」
「だから隠す?」
「だから管理する」
「またその言葉」
「気に入らない?」
「大嫌い」
レミリアは霊夢を見つめた。
「なら、あなたは全部を表に出せるの? 博麗の賭場も、八雲の密約も、守矢の信者名簿も、永遠亭の患者記録も、命蓮寺の船荷も、紅魔館の契約台帳も、白玉楼の債務者も、神霊廟の血筋表も、天狗の情報源も。全部、幻想郷中に晒せる?」
霊夢は黙った。
レミリアは続けた。
「正義ぶるのは簡単よ。でも、秘密には理由がある。汚い理由も、哀れな理由も、必要な理由も。全部を日に当てれば、腐ったものだけでなく、まだ生きているものまで乾いて死ぬ」
「だからって、あんたたちが握っていい理由にはならない」
「では誰が握るの? 博麗? 八雲? 天狗? 寺? 神?」
「……」
「誰が握っても同じよ。秘密は、握った者を腐らせる。紅魔館はその腐敗に耐えるだけの力がある。だから握る」
霊夢は低く言った。
「力があるから支配する。力があるから所有する。力があるから秘密を握る。全部それ?」
「ええ」
「わかりやすい悪党ね」
「ありがとう」
「褒めてない」
「知っているわ」
その時、閉じられた扉の外で大きな音がした。
何かが倒れた音。
美鈴の声が響く。
「咲夜さん!」
咲夜の姿が一瞬で消えた。
次の瞬間、扉が開く。
廊下には、美鈴が立っていた。腕には傷はない。だが、服の肩口が裂けている。彼女の足元には、赤い布で包まれた箱が置かれていた。
霊夢はすぐに動いた。
札で箱を封じる。
美鈴は息を整えながら言った。
「門の外に置かれていました。誰かが投げ込んだわけではありません。気づいた時には、そこに」
レミリアが言う。
「中身は?」
「開けていません」
パチュリーが結界を確認する。
「危険物ではなさそうね。ただ、封が古い」
霊夢は箱を見た。
封には、白玉楼の印。
文が笑う。
「次の招待状どころか、もう荷物が届きましたね」
鈴仙が青ざめる。
「白玉楼まで……」
レミリアは椅子に戻り、低く言った。
「死者の蔵、ね」
霊夢は箱を睨んだ。
「開けるわよ」
「ここで?」
鈴仙が言う。
「どこで開けても同じよ」
霊夢は札を重ね、封を切った。
箱の中には、一冊の帳面が入っていた。
古い債務帳。
表紙には、墨で短く書かれている。
『命の値段』
広間が沈黙した。
霊夢は帳面を開かなかった。
開かなくてもわかる。
白玉楼の金貸し、紅魔館の契約、永遠亭の治療費、命蓮寺の物流、守矢の講、八雲の工事。すべてが、どこかで繋がっている。
誰かが、その繋がりを一冊ずつ投げつけている。
レミリアは静かに笑った。
その笑いには、先ほどまでの余裕がなかった。
「なるほど。私たちを踊らせたいのね」
霊夢は言った。
「踊るの?」
「いいえ」
レミリアは赤い瞳を細めた。
「踊らせた者を、次の曲で吊るすわ」
霊夢は帳面を布で包み、鈴仙に持たせた。
「次は白玉楼」
文が嬉しそうに頷く。
「第六章、死者の蔵」
「だから勝手に章立てするな」
咲夜が霊夢に言う。
「霊夢様。お嬢様は白玉楼へ向かわれます」
「は?」
レミリアが立ち上がった。
「当然でしょう。紅魔館を侮辱した相手よ。私が行く」
「余計に面倒になるから来ないで」
「命令?」
「お願い」
「紅魔館の主人は、お願いを聞かないわ」
「でしょうね」
霊夢は頭を抱えたくなった。
レミリアはマントを翻す。
「咲夜、支度を」
「かしこまりました」
「パチェ、帳簿の写しを照合して」
「面倒ね」
「美鈴、門を閉じなさい。今夜、紅魔館から出る者は私が選ぶ」
「はい」
霊夢は呟いた。
「本当に独裁者」
レミリアは振り返る。
「霊夢」
「何」
「独裁者ではないわ」
「じゃあ何」
レミリアは笑った。
「吸血鬼よ」
紅魔館の夜会は、その言葉で終わった。
音楽は戻らなかった。客たちは囁き合い、咲夜の視線を恐れて椅子から立てずにいる。美しかった広間は、今や赤い檻のようだった。
霊夢たちは館を出た。
湖畔の空気は冷たく、館の香水の匂いを洗い流すように風が吹いていた。鈴仙は帳面を抱え、顔を青くしている。文は何か言いたげだったが、珍しく黙っていた。
背後で紅魔館の門が閉じる。
重い音が夜に響いた。
霊夢は湖の向こうを見た。
次は白玉楼。死者の蔵。金貸し。債務。命の値段。
幻想郷の裏側が、また一枚めくられる。
紅魔館は幻想郷のルールを無視している。
だが、無視できるほど特別ではなかった。
誰かの手は、あの赤い館の奥にまで届いていた。
霊夢は思う。
支配者を気取る吸血鬼。
管理者を気取る妖怪。
救済者を気取る神。
医者を気取る月の賢者。
番人を気取る自分。
全員が、自分だけは盤の外にいると思っている。
だが、誰かがその盤ごとひっくり返そうとしている。
文がぽつりと言った。
「霊夢さん」
「何」
「今回の記事、出したら幻想郷が割れますね」
「出さなくても割れそうよ」
「では、どうします?」
霊夢はしばらく黙っていた。
それから、低く言った。
「割れる前に、割ろうとしてる奴を見つける」
「見つけたら?」
「落とし前をつけさせる」
鈴仙が不安そうに訊く。
「それで、全部元に戻るんですか」
霊夢は答えなかった。
元に戻るのか。
戻すべきなのか。
それすら、もうわからなかった。
湖の向こうで、紅魔館の赤い灯が揺れている。
その灯は、美しく、冷たく、どこまでも傲慢だった。
だが今夜、その赤い王国にも、初めてひびが入った。
霊夢は白玉楼へ続く道を見た。
死者の世界へ向かう道は、まだ闇の中に沈んでいる。
その闇の奥で、金の匂いがした。
薬の匂いより重く、信仰の匂いより鈍く、血の匂いより古い。
借りたものは返さなければならない。
返せないものは、別の何かで払わされる。
幻想郷の夜は、とうとう命の値段を数え始めた。