東方アウトレイジ    作:たこ焼き 龍月

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第五章 紅魔館の夜会

 

 

 紅魔館は、夜の湖に浮かぶ赤い傷のようだった。

 

 月は薄い雲に隠れ、湖面は黒い硝子のように静まり返っている。その奥に、赤い館があった。窓には灯がともり、尖塔は夜空を裂くように立っている。遠くから見れば美しい。近づけば近づくほど、その美しさが威圧に変わる。

 

 博麗神社の祭りの灯は、人を誘う。

 守矢の集会所の灯は、人を安心させる。

 永遠亭の灯は、眠れない者を呼ぶ。

 

 だが紅魔館の灯は違った。

 

 あれは、人を招いているのではない。

 選別している。

 

 入る価値のある者と、ない者。

 従う者と、逆らう者。

 所有される者と、所有する者。

 

 その境界を、赤い窓明かりが黙って照らしていた。

 

 霊夢は湖畔で立ち止まった。手には、竹林で拾った招待状。赤い封蝋はまだ甘い香りを放っている。

 

 隣には射命丸文。少し後ろに鈴仙がいた。

 

 鈴仙は紅魔館を見上げ、露骨に嫌そうな顔をしている。

 

「本当に行くんですか」

 

「来いって書いてあったし」

 

「罠ですよ」

 

「そうね」

 

「わかっていて行くんですか」

 

「罠って、踏まないと誰が仕掛けたかわからないことがあるのよ」

 

 鈴仙は眉を寄せた。

 

「博麗の巫女って、もっと合理的な人だと思っていました」

 

「合理的よ。面倒な相手は、近づいてから殴った方が早い」

 

「それは合理ではなく乱暴です」

 

「幻想郷ではだいたい同じ」

 

 文が嬉しそうに笑った。

 

「いいですねえ。夜会、密約、紅い館、招かれざる招待客。見出しが勝手に踊ります」

 

「記事にしたら」

 

「落とす、でしょう? もう覚えました」

 

「なら黙ってなさい」

 

 霊夢は招待状を袖にしまい、紅魔館へ向かった。

 

 門の前には、紅美鈴が立っていた。

 

 いつものように穏やかな顔をしている。だが、今夜の美鈴は少し違った。背筋はまっすぐ伸び、門の前に立つ姿には隙がない。眠そうな門番ではない。館の外と内を分ける、最後の壁だった。

 

「こんばんは、霊夢さん」

 

「通して」

 

「招待状はお持ちですか?」

 

 霊夢は招待状を取り出して見せた。

 

 美鈴はそれを受け取り、封蝋を確認する。表情は変わらない。

 

「確かに、紅魔館の封蝋ですね」

 

「本物?」

 

「本物です」

 

 霊夢は眉を動かした。

 

「偽物じゃないの」

 

「少なくとも、封蝋は本物です。紙も、香も、館で使うものです」

 

 文が横から口を挟む。

 

「では、誰かが紅魔館内部から出した?」

 

 美鈴は文を見た。

 

「今夜の夜会では、館内で見聞きしたことを無断で外へ出すことは禁じられています」

 

「天狗にそれを言います?」

 

「言っています」

 

 美鈴の声は柔らかい。だが、その目は笑っていなかった。

 

 霊夢は美鈴に言った。

 

「レミリアは中?」

 

「はい。お嬢様は皆様をお待ちです」

 

「皆様?」

 

「霊夢さん、射命丸さん、永遠亭の鈴仙さん。そして、今夜集められた客人たちです」

 

「客人って?」

 

 美鈴は一瞬だけ視線を逸らした。

 

「幻想郷の、表では会えない方々です」

 

「裏の客ってことね」

 

 美鈴は答えなかった。

 

 門が開いた。

 

 中から、音楽が流れてきた。弦楽器の静かな音色。笑い声。グラスが触れ合う音。香水と古い木と酒の匂い。赤い絨毯が玄関まで伸びている。

 

 霊夢は一歩踏み出した。

 

 美鈴が低く言った。

 

「霊夢さん」

 

「何」

 

「今夜の紅魔館では、幻想郷の外の常識も、中の常識も、あまり意味を持ちません」

 

「いつものことじゃない」

 

「いつもより、強い意味でです」

 

 霊夢は美鈴を見た。

 

 美鈴は真面目な顔をしていた。

 

「お嬢様は、今夜、機嫌がいい。機嫌がいい時ほど、紅魔館は危険です」

 

「止めないの?」

 

「私は門番です。止める相手と、通す相手を選ぶのが仕事です」

 

「私たちは通すのね」

 

「はい」

 

「理由は?」

 

「入らなければ、今夜の話が終わらないからです」

 

 霊夢は鼻で笑った。

 

「どいつもこいつも、私を歩かせたがるわね」

 

 美鈴は小さく頭を下げた。

 

「お気をつけて」

 

 霊夢たちは門をくぐった。

 

 玄関ホールには、十六夜咲夜が立っていた。

 

 銀髪を整え、完璧な姿勢で一礼する。手袋は白く、表情は冷たい。彼女の背後では、妖精メイドたちが音もなく動き、客の外套を預かり、グラスを運び、廊下を整えている。

 

 ここでは、混乱さえも美しく並べられているようだった。

 

「ようこそ、紅魔館へ。博麗霊夢様、射命丸文様、鈴仙・優曇華院・イナバ様」

 

「様づけされると気持ち悪いわね」

 

「今夜は夜会ですので」

 

「招待したのは誰?」

 

「お嬢様です」

 

「その招待状、誰が書いた?」

 

「私です」

 

 咲夜は何のためらいもなく答えた。

 

 鈴仙が驚いた。

 

「あなたが?」

 

「ええ。お嬢様の命で」

 

 霊夢は咲夜を睨んだ。

 

「じゃあ、竹林に置いたのもあんた?」

 

「置いたのは別の者です」

 

「誰」

 

「お答えできません」

 

「答えなさい」

 

「お答えできません」

 

 霊夢の袖の中で札が揺れた。

 

 咲夜は微動だにしない。

 

「霊夢様。今夜、紅魔館はあなた方を客として迎えています。ですが、客である限り、館の作法には従っていただきます」

 

「作法?」

 

「武器はお預かりしません。隠し事も問いません。嘘も禁止しません。ただし、館内で勝手に扉を開けること、客に手を出すこと、許可なく帳簿に触れること、そしてお嬢様の言葉を遮ることは禁じられています」

 

「ずいぶん都合のいい作法ね」

 

「紅魔館の作法です」

 

「幻想郷のルールは?」

 

 咲夜は静かに微笑んだ。

 

「ここは紅魔館です」

 

 その一言で、鈴仙の顔が強張った。

 

 文の目が細くなる。

 

 霊夢は咲夜を見つめた。

 

「つまり、幻想郷のルールは関係ないってこと?」

 

「関係はあります。必要な時だけ」

 

「独裁者の理屈ね」

 

「お嬢様は支配者です」

 

 咲夜は当たり前のように言った。

 

「紅魔館において、時間も空間も労働も沈黙も、すべてお嬢様の所有物です。ここに入った者は、それを理解しているものとして扱われます」

 

 霊夢は小さく笑った。

 

「すごいわね。悪びれもしない」

 

「悪いことではありませんので」

 

「幻想郷で一番ひどい台詞を聞いた気がするわ」

 

「まだ夜会は始まったばかりです」

 

 咲夜は廊下の奥へ手を差し出した。

 

「こちらへ」

 

 霊夢たちは案内され、大広間へ向かった。

 

 扉が開くと、赤と金の光が溢れた。

 

 大広間では夜会が開かれていた。長い卓には酒、料理、果物、赤い菓子。壁際には楽団。天井にはシャンデリア。だが、集まっている客たちは、普通の社交場の顔ではなかった。

 

 顔を隠した妖怪。

 名前を出せない商人。

 山の技術者。

 人里の金貸し。

 どこかの寺の使い。

 冥界の代理人らしき者。

 見たことのない外来風の服を着た男。

 

 誰もが笑っている。

 誰もが相手を見ている。

 誰もが、ここで見たことを外に持ち出さない顔をしている。

 

 広間の最奥、赤い椅子にレミリア・スカーレットが座っていた。

 

 小さな体。大きな威圧。紅い瞳。幼さと老獪さが同じ顔に同居している。彼女の隣にはパチュリー・ノーレッジが本を開き、静かに座っていた。小悪魔が書類を抱えて控えている。

 

 レミリアは霊夢を見ると、嬉しそうに笑った。

 

「来たわね、霊夢」

 

「呼んだんでしょ」

 

「呼んだから来るとは限らない。でも、あなたは来た」

 

「来させるために、ずいぶん小細工したみたいね」

 

「小細工?」

 

 レミリアはグラスを持ち上げた。

 

「紅魔館が招待する時、それは小細工ではなく命令よ」

 

 広間の客たちが静かになる。

 

 霊夢は一歩前に出た。

 

「幻想郷で命令される覚えはないわ」

 

「幻想郷?」

 

 レミリアは笑った。

 

「霊夢。あなたはまだ、自分が幻想郷の中心にいると思っているの?」

 

「少なくとも、異変の中心にはよくいるわね」

 

「それは掃除係としてでしょう」

 

 空気が凍った。

 

 鈴仙が息を呑む。文は嬉しそうに手帳を開きかけたが、咲夜の視線で止めた。

 

 霊夢は静かに言った。

 

「今、何て?」

 

「あなたは掃除係。幻想郷で何かが散らかると、最後に出てきて片付ける。便利ね。でも、片付ける者が、館の主人になれるわけではない」

 

「主人?」

 

「そう。幻想郷は誰のものか。妖怪のもの? 人間のもの? 神のもの? 八雲のもの? 博麗のもの?」

 

 レミリアはグラスの赤い液体を揺らした。

 

「違うわ。所有できる者のものよ」

 

 霊夢の目が細くなった。

 

「紅魔館が幻想郷を所有するって?」

 

「できる部分はね」

 

「できない部分は?」

 

「できるようにする」

 

 咲夜が後ろで静かに立っている。パチュリーは本から目を上げない。客たちは息を潜めている。誰もレミリアの言葉を止めない。むしろ、それを聞くために来ている。

 

 霊夢は言った。

 

「ずいぶん独裁的ね」

 

「独裁?」

 

 レミリアは楽しそうにその言葉を転がした。

 

「それは、人間が多数を信じているから怖がる言葉でしょう。私は吸血鬼よ。長く生きる者、強く支配する者、血統を持つ者が上に立つ。それが自然だわ」

 

 鈴仙が思わず口を挟んだ。

 

「幻想郷には、均衡があります。人間と妖怪、神と妖怪、地上と地底、月と地上、それぞれが」

 

 レミリアは鈴仙を見た。

 

「月兎が均衡を語るの?」

 

 鈴仙の顔が強張る。

 

「あなたたち月の者は、地上を見下ろしていた。清浄だ、不浄だと線を引いてね。それが今さら、幻想郷の均衡?」

 

「私は、もう」

 

「逃げてきた者ほど、秩序を語りたがる。自分が捨てた場所の罪を、別の場所の正義で洗おうとする」

 

 鈴仙は言葉を失った。

 

 霊夢が前に出る。

 

「レミリア。遊びに来たんじゃない」

 

「知っているわ」

 

「命蓮寺の船荷に、紅魔館の封印箱があった」

 

「そうね」

 

「何が入ってた」

 

「秘密」

 

「じゃあ、こじ開ける」

 

 咲夜が一歩前に出た。

 

「霊夢様」

 

「邪魔する気?」

 

「必要なら」

 

 霊夢と咲夜の視線がぶつかる。

 

 レミリアは楽しそうに笑った。

 

「咲夜、まだいいわ」

 

「かしこまりました」

 

 咲夜は下がった。

 

 レミリアは椅子から立ち上がる。小さな靴音が広間に響いた。

 

「封印箱の中身を知りたいのね」

 

「ええ」

 

「中身は帳簿よ」

 

 文の目が光った。

 

「帳簿?」

 

 パチュリーが初めて顔を上げた。

 

「紅魔館の外部契約台帳。保護対象、奉仕契約、医療委託、物資移送、沈黙契約、身元保証、労務登録。そういうものをまとめたものよ」

 

 霊夢は眉をひそめた。

 

「言い方が綺麗すぎる」

 

「紅魔館では正確な言葉を使う」

 

 パチュリーは淡々と言った。

 

「外ではどう呼ばれているか知らないけれど」

 

「人を物みたいに扱ってる帳簿ってこと?」

 

 広間の空気が少し揺れた。

 

 客たちの中に、目を伏せる者がいる。

 

 レミリアは笑みを消さない。

 

「物みたいに、ではないわ。資産として扱っているの」

 

 鈴仙が怒りを含んだ声で言った。

 

「同じです」

 

「違うわ。物は壊れたら捨てる。資産は管理する。価値を保つ。必要なら守る。紅魔館は、所有するものを粗末には扱わない」

 

 霊夢は低く言った。

 

「最低ね」

 

「そうかしら。博麗の賭場で負けた人間はどうなるの? 守矢の講で払い続けられなくなった者は? 永遠亭で治療の代わりに秘密を預けた者は? 八雲の工事で名もなく働く河童たちは? 命蓮寺の船に乗る下働きは? 白玉楼の借り手は? 幻想郷は最初から、弱い者を何かに変えて回している」

 

 レミリアの声は甘かった。

 

「労働力。信仰。患者。客。人足。信者。債務者。情報源。紅魔館だけが特別に残酷だと思う?」

 

「少なくとも、あんたはそれを当然みたいに言う」

 

「当然だもの」

 

 レミリアは霊夢の前に立った。

 

「私たちは幻想郷の外から来た。外の理屈を知っている。古い血の理屈も、館の理屈も、契約の理屈も知っている。幻想郷のごっこ遊びのような均衡に、心から従うつもりはないわ」

 

「ごっこ遊び?」

 

「そう。博麗が異変を裁き、八雲が境界を管理し、神が信仰を集め、寺が慈悲を説き、医者が薬を出す。みんな、自分の席があると思っている。けれど、その席は誰が用意したの? 誰が座る資格を決めたの?」

 

「少なくとも、紅魔館じゃない」

 

「だから、私たちは自分の席を自分で作る」

 

 レミリアの瞳が赤く光った。

 

「必要なら、他人の席をどかしてね」

 

 霊夢は札を一枚抜いた。

 

 咲夜の指が動く。

 

 その瞬間、広間の時間が少し歪んだ気がした。楽団の弓が止まり、酒の波紋が凍り、客たちの呼吸が遅れる。咲夜の能力だ。だが、霊夢はその中でも動いた。札を持つ指だけが、わずかにずれる。

 

 咲夜の目が細くなる。

 

 霊夢は言った。

 

「紅魔館の中では何でもできるつもり?」

 

 咲夜は静かに答えた。

 

「いいえ。できるように整えているだけです」

 

「それを独裁って言うのよ」

 

「独裁は、秩序の一形態です」

 

 文が思わず呟いた。

 

「これは記事にしたい」

 

 咲夜のナイフが、文の手帳のすぐ横に刺さった。

 

 文は笑顔のまま手を止めた。

 

「今のは警告ですか?」

 

「お願いです」

 

「紅魔館のお願いは鋭いですね」

 

 パチュリーが静かに言う。

 

「話を戻しましょう。消えた封印箱の件だけれど、紅魔館は被害者でもあるわ」

 

「どこもかしこも被害者ね」

 

 霊夢が吐き捨てる。

 

「実際、箱は失われた。中の台帳も消えた。あれが外へ出れば、紅魔館だけでなく、多くの者が困る」

 

「多くの者?」

 

 パチュリーは広間の客たちを見た。

 

「ここにいる者の何人かも」

 

 客たちの間に緊張が走った。

 

 霊夢は周囲を見回す。

 

「なるほど。今夜の夜会は、客を楽しませるためじゃない。脅すためね」

 

 レミリアは笑う。

 

「違うわ。安心させるためよ」

 

「安心?」

 

「紅魔館は、消えた台帳を必ず取り戻す。あなたたちの秘密は、引き続き紅魔館が管理する。だから騒ぐな。裏切るな。余計な場所へ逃げるな。そう伝えるための夜会」

 

 霊夢は呆れた。

 

「やっぱり脅しじゃない」

 

「言葉の問題ね」

 

「どいつもこいつも、そればっかり」

 

 鈴仙が震える声で言った。

 

「管理する、所有する、保護する。言葉を変えているだけで、あなたたちは人を縛っている」

 

 レミリアは鈴仙を見る。

 

「縛られずに生きられる者が、幻想郷にどれほどいるのかしら」

 

 鈴仙は黙る。

 

「あなたは永遠亭に縛られている。文は情報に縛られている。霊夢は博麗に縛られている。咲夜は私に縛られている。違う?」

 

 咲夜は静かに答えた。

 

「私は、お嬢様を選んでおります」

 

「そう。選んだ縛りは忠誠と呼ばれる。選ばされる縛りは支配と呼ばれる。でも、外から見ればどちらも同じ鎖よ」

 

 霊夢はレミリアを睨んだ。

 

「咲夜を例に出して、自分の支配を正当化するの?」

 

「正当化など必要ないわ」

 

 レミリアは胸を張った。

 

「私はレミリア・スカーレット。私が望むことが、紅魔館の法。私が許すものが秩序。私が所有するものが財産。私が守るものが民。私が壊すものが敵」

 

 広間が静まり返った。

 

 それは冗談ではなかった。

 

 紅魔館の本質だった。

 

 幻想郷の均衡に参加しているふりをしながら、この館だけは自分たちの王国だと思っている。博麗の裁きも、八雲の管理も、守矢の信仰も、永遠亭の医療も、命蓮寺の慈悲も、この館の中では二次的なものにすぎない。

 

 紅魔館は幻想郷の中にある。

 だが、幻想郷に従ってはいない。

 

「霊夢」

 

 レミリアは静かに言った。

 

「あなたは幻想郷の番人。でも、番人は門の外にいるものよ。館の中を支配するのは主人。ここでの主人は私」

 

「その主人が、盗まれた台帳を取り返すために私を呼んだ?」

 

「それもあるわ」

 

「他には?」

 

「見せたかったの」

 

「何を」

 

「あなたが守っている幻想郷の正体」

 

 レミリアは広間の客たちを手で示した。

 

「ここにいる者たちは、全員、どこかの勢力と繋がっている。八雲の工事に資材を流す者。守矢の講に人を紹介する者。永遠亭に身元を消した患者を運ぶ者。命蓮寺の船に荷を紛れ込ませる者。白玉楼の債権を買う者。神霊廟に古い血筋を売る者。天狗に情報を流す者。博麗の祭りに屋台を出す者」

 

 霊夢は黙った。

 

「誰も潔白ではない。誰も幻想郷の平和を本気で信じてはいない。ただ、自分の取り分が減らない程度に平和であってほしいだけ」

 

 文が低く言った。

 

「よくご存じで」

 

「情報は紅魔館にも集まるのよ、天狗。あなたたちほど騒がしくないだけで」

 

 レミリアは霊夢に向き直る。

 

「そして今、その取り分をまとめて燃やそうとしている者がいる」

 

「誰」

 

「知らない」

 

「またそれ?」

 

「本当に知らないのよ」

 

 レミリアは少しだけ不愉快そうに言った。

 

「知っていれば、とっくに地下に招いているわ」

 

「招くって言葉の意味が怖いわね」

 

「紅魔館流の歓迎よ」

 

 パチュリーが本を閉じた。

 

「ただし、仮説はある」

 

 霊夢はパチュリーを見た。

 

「言いなさい」

 

「今回の犯人は、各勢力の内部情報を持っている。だが、一つの勢力の内部者では説明できない。博麗の印、八雲の工事、守矢の鍵、永遠亭の薬、紅魔館の台帳。これらを全部知るには、現場に近く、なおかつ上層にはいない者の視点が必要」

 

 鈴仙が言う。

 

「上層にはいない者?」

 

「ええ。命令する側ではなく、運ぶ側。記録する側ではなく、片付ける側。所有する側ではなく、所有物に数えられかけた側」

 

 霊夢の頭に、妹紅の言葉が蘇る。

 

 全員に水を持って走らせたい。

 そうすれば、どの家に何が隠してあるか見える。

 

 霊夢は言った。

 

「自警組」

 

 レミリアの笑みが深くなった。

 

「そう考えるのが自然ね」

 

「妹紅と慧音?」

 

「さあ。少なくとも、彼女たちの周囲には、人里の物流、人足、火消し、問屋、寺子屋、怪我人、噂が集まる。上からは見えないものが、下からはよく見える」

 

 霊夢は唇を噛んだ。

 

「でも、露骨すぎる」

 

「だから面白いのよ」

 

 レミリアは言った。

 

「妹紅に見せかけているのか。妹紅自身が、見せかけているように見せているのか。あるいは、彼女の怒りだけを誰かが借りているのか」

 

「楽しそうね」

 

「ええ。怒りは美しいもの。長く抑え込まれた怒りほど、燃えた時に鮮やかだわ」

 

 霊夢の声が低くなる。

 

「人里を燃やす気?」

 

「私ではないわ」

 

「じゃあ止める気は?」

 

 レミリアは少し考えるような顔をした。

 

「紅魔館の利益になるなら止める」

 

「利益にならなければ?」

 

「眺める」

 

 鈴仙が思わず言った。

 

「そんな……」

 

 霊夢はレミリアから目を離さなかった。

 

「やっぱり、あんたは幻想郷のルールを無視してる」

 

「違うわ。私は幻想郷のルールを、自分より下に見ているだけ」

 

 レミリアは笑った。

 

「守るべきルールは、支配者が決めるものよ」

 

 その時、大広間の照明が一瞬だけ揺れた。

 

 シャンデリアの赤い灯が瞬き、楽団の音が止まる。客たちがざわめいた。咲夜がすぐに周囲を見回し、パチュリーが本を開く。

 

 次の瞬間、広間の中央に置かれていた銀の盆が、音を立てて割れた。

 

 中から、黒い封筒が現れる。

 

 誰も近づかない。

 

 咲夜が動こうとしたが、霊夢が手で制した。

 

「また招待状?」

 

 文が呟く。

 

 霊夢は札を飛ばし、封筒を開いた。

 

 中には一枚の赤黒い紙。

 

 文字は短かった。

 

『紅い館は、誰を所有している?

 所有された者は、誰の名で売られた?

 地下の帳簿を開け。

 次は、死者の蔵。』

 

 霊夢は読み終えると、舌打ちした。

 

「白玉楼か」

 

 文が目を輝かせる。

 

「死者の蔵。これは白玉楼でしょうね。金貸し、債権、武器商。次の火種です」

 

 レミリアの表情から笑みが消えていた。

 

 咲夜の目が鋭くなる。

 

 パチュリーは紙を見つめ、低く言った。

 

「館内に入られた」

 

 鈴仙が驚く。

 

「外からではなく?」

 

「この広間の中央に、咲夜の目を避け、パチュリーの結界を抜けて、メッセージを置いた。外から投げ入れたものではないわ」

 

 咲夜が静かに言う。

 

「つまり、客の中にいるか、館内の者を使ったか」

 

 広間の客たちが一斉にざわついた。

 

 レミリアが手を上げた。

 

 それだけで、広間は静まった。

 

 彼女の声は、先ほどまでの楽しげなものではなかった。

 

「扉を閉めなさい」

 

 咲夜が一礼する。

 

「かしこまりました」

 

 大広間の扉が閉じられた。

 

 鍵の音が響く。

 

 客たちの顔色が変わる。

 

 レミリアは赤い瞳で広間を見渡した。

 

「今夜、紅魔館を弄んだ者がいる。私の夜会で、私の客の前で、私の館の中に、私への挑発を置いた」

 

 その声は静かだった。

 

 だが、怒りがあった。

 

「誰であれ、許さない」

 

 霊夢はレミリアを見る。

 

「ようやく被害者の顔になったわね」

 

「被害者?」

 

 レミリアは霊夢を睨んだ。

 

「私は被害者ではない。奪われた主人よ」

 

「同じじゃないの」

 

「違うわ。被害者は泣く。主人は取り返す」

 

 咲夜が客たちの前に立つ。

 

「皆様。確認が終わるまで、この広間から出ることはできません」

 

 客の一人が声を荒げた。

 

「ふざけるな! 我々を疑うのか!」

 

 咲夜はその男を見た。

 

「はい」

 

 男は言葉を失った。

 

「紅魔館に招かれた以上、皆様はお嬢様の客です。同時に、容疑者でもあります。身に覚えのない方は、堂々としていればよろしい」

 

「横暴だ!」

 

「ここは紅魔館です」

 

 その一言で、男は黙った。

 

 霊夢は呆れたように言う。

 

「本当に独裁ね」

 

 咲夜は淡々と答えた。

 

「効率的です」

 

「効率で人を閉じ込めるな」

 

「必要なら時間も止めます」

 

「やっぱり最悪」

 

 文が小声で言う。

 

「しかし、面白いですね。幻想郷の各勢力を挑発してきた相手が、紅魔館の中にまで入った。これは犯人が相当な手練れか、あるいは紅魔館の内部に穴があるか」

 

 パチュリーが言う。

 

「穴はあるわ」

 

 レミリアがパチュリーを見る。

 

「パチェ?」

 

「紅魔館は強い。けれど、強い場所ほど、自分の内側を疑わない。咲夜が整え、美鈴が守り、私が結界を張り、お嬢様が支配する。それでも、妖精メイドは抜けるし、客は嘘をつくし、契約者は裏切る。完璧な館なんて存在しない」

 

 咲夜の表情がわずかに動いた。

 

「私の管理に不備があると?」

 

「あるでしょう。なければ、これがここにあるはずがない」

 

 パチュリーは咳をひとつした。

 

「認めなさい。紅魔館も、他と同じように汚れていて、同じように穴がある」

 

 レミリアはしばらく黙っていた。

 

 やがて、低く笑った。

 

「面白くないわね」

 

「事実よ」

 

「紅魔館は特別よ」

 

「特別に汚い、という言い方もできる」

 

「パチェ」

 

「怒ってもいいけれど、今は考える方が先」

 

 霊夢はそのやり取りを見ていた。

 

 紅魔館は独裁的だ。

 幻想郷のルールを下に見ている。

 人を所有物のように扱い、自分たちの館を小さな王国だと思っている。

 

 だが、その王国にも穴がある。

 

 そして、誰かがそこを突いた。

 

 霊夢はレミリアに言った。

 

「地下の帳簿」

 

 レミリアの目が細くなる。

 

「何?」

 

「紙にそう書いてあった。地下の帳簿を開けって」

 

「開けるわけがないでしょう」

 

「じゃあ勝手に開ける」

 

 咲夜が動いた。

 

 だが、その前にレミリアが手を上げた。

 

「待ちなさい」

 

「お嬢様」

 

「霊夢。地下には、紅魔館の契約台帳がある。外へ出せば、幻想郷のあちこちで騒ぎが起きる。守矢の講どころではない。永遠亭の薬包どころでもない。名前が出れば、消える者もいる。逃げる者もいる。殺される者もいる」

 

「だから隠す?」

 

「だから管理する」

 

「またその言葉」

 

「気に入らない?」

 

「大嫌い」

 

 レミリアは霊夢を見つめた。

 

「なら、あなたは全部を表に出せるの? 博麗の賭場も、八雲の密約も、守矢の信者名簿も、永遠亭の患者記録も、命蓮寺の船荷も、紅魔館の契約台帳も、白玉楼の債務者も、神霊廟の血筋表も、天狗の情報源も。全部、幻想郷中に晒せる?」

 

 霊夢は黙った。

 

 レミリアは続けた。

 

「正義ぶるのは簡単よ。でも、秘密には理由がある。汚い理由も、哀れな理由も、必要な理由も。全部を日に当てれば、腐ったものだけでなく、まだ生きているものまで乾いて死ぬ」

 

「だからって、あんたたちが握っていい理由にはならない」

 

「では誰が握るの? 博麗? 八雲? 天狗? 寺? 神?」

 

「……」

 

「誰が握っても同じよ。秘密は、握った者を腐らせる。紅魔館はその腐敗に耐えるだけの力がある。だから握る」

 

 霊夢は低く言った。

 

「力があるから支配する。力があるから所有する。力があるから秘密を握る。全部それ?」

 

「ええ」

 

「わかりやすい悪党ね」

 

「ありがとう」

 

「褒めてない」

 

「知っているわ」

 

 その時、閉じられた扉の外で大きな音がした。

 

 何かが倒れた音。

 

 美鈴の声が響く。

 

「咲夜さん!」

 

 咲夜の姿が一瞬で消えた。

 

 次の瞬間、扉が開く。

 

 廊下には、美鈴が立っていた。腕には傷はない。だが、服の肩口が裂けている。彼女の足元には、赤い布で包まれた箱が置かれていた。

 

 霊夢はすぐに動いた。

 

 札で箱を封じる。

 

 美鈴は息を整えながら言った。

 

「門の外に置かれていました。誰かが投げ込んだわけではありません。気づいた時には、そこに」

 

 レミリアが言う。

 

「中身は?」

 

「開けていません」

 

 パチュリーが結界を確認する。

 

「危険物ではなさそうね。ただ、封が古い」

 

 霊夢は箱を見た。

 

 封には、白玉楼の印。

 

 文が笑う。

 

「次の招待状どころか、もう荷物が届きましたね」

 

 鈴仙が青ざめる。

 

「白玉楼まで……」

 

 レミリアは椅子に戻り、低く言った。

 

「死者の蔵、ね」

 

 霊夢は箱を睨んだ。

 

「開けるわよ」

 

「ここで?」

 

 鈴仙が言う。

 

「どこで開けても同じよ」

 

 霊夢は札を重ね、封を切った。

 

 箱の中には、一冊の帳面が入っていた。

 

 古い債務帳。

 表紙には、墨で短く書かれている。

 

『命の値段』

 

 広間が沈黙した。

 

 霊夢は帳面を開かなかった。

 

 開かなくてもわかる。

 

 白玉楼の金貸し、紅魔館の契約、永遠亭の治療費、命蓮寺の物流、守矢の講、八雲の工事。すべてが、どこかで繋がっている。

 

 誰かが、その繋がりを一冊ずつ投げつけている。

 

 レミリアは静かに笑った。

 

 その笑いには、先ほどまでの余裕がなかった。

 

「なるほど。私たちを踊らせたいのね」

 

 霊夢は言った。

 

「踊るの?」

 

「いいえ」

 

 レミリアは赤い瞳を細めた。

 

「踊らせた者を、次の曲で吊るすわ」

 

 霊夢は帳面を布で包み、鈴仙に持たせた。

 

「次は白玉楼」

 

 文が嬉しそうに頷く。

 

「第六章、死者の蔵」

 

「だから勝手に章立てするな」

 

 咲夜が霊夢に言う。

 

「霊夢様。お嬢様は白玉楼へ向かわれます」

 

「は?」

 

 レミリアが立ち上がった。

 

「当然でしょう。紅魔館を侮辱した相手よ。私が行く」

 

「余計に面倒になるから来ないで」

 

「命令?」

 

「お願い」

 

「紅魔館の主人は、お願いを聞かないわ」

 

「でしょうね」

 

 霊夢は頭を抱えたくなった。

 

 レミリアはマントを翻す。

 

「咲夜、支度を」

 

「かしこまりました」

 

「パチェ、帳簿の写しを照合して」

 

「面倒ね」

 

「美鈴、門を閉じなさい。今夜、紅魔館から出る者は私が選ぶ」

 

「はい」

 

 霊夢は呟いた。

 

「本当に独裁者」

 

 レミリアは振り返る。

 

「霊夢」

 

「何」

 

「独裁者ではないわ」

 

「じゃあ何」

 

 レミリアは笑った。

 

「吸血鬼よ」

 

 紅魔館の夜会は、その言葉で終わった。

 

 音楽は戻らなかった。客たちは囁き合い、咲夜の視線を恐れて椅子から立てずにいる。美しかった広間は、今や赤い檻のようだった。

 

 霊夢たちは館を出た。

 

 湖畔の空気は冷たく、館の香水の匂いを洗い流すように風が吹いていた。鈴仙は帳面を抱え、顔を青くしている。文は何か言いたげだったが、珍しく黙っていた。

 

 背後で紅魔館の門が閉じる。

 

 重い音が夜に響いた。

 

 霊夢は湖の向こうを見た。

 

 次は白玉楼。死者の蔵。金貸し。債務。命の値段。

 

 幻想郷の裏側が、また一枚めくられる。

 

 紅魔館は幻想郷のルールを無視している。

 だが、無視できるほど特別ではなかった。

 誰かの手は、あの赤い館の奥にまで届いていた。

 

 霊夢は思う。

 

 支配者を気取る吸血鬼。

 管理者を気取る妖怪。

 救済者を気取る神。

 医者を気取る月の賢者。

 番人を気取る自分。

 

 全員が、自分だけは盤の外にいると思っている。

 

 だが、誰かがその盤ごとひっくり返そうとしている。

 

 文がぽつりと言った。

 

「霊夢さん」

 

「何」

 

「今回の記事、出したら幻想郷が割れますね」

 

「出さなくても割れそうよ」

 

「では、どうします?」

 

 霊夢はしばらく黙っていた。

 

 それから、低く言った。

 

「割れる前に、割ろうとしてる奴を見つける」

 

「見つけたら?」

 

「落とし前をつけさせる」

 

 鈴仙が不安そうに訊く。

 

「それで、全部元に戻るんですか」

 

 霊夢は答えなかった。

 

 元に戻るのか。

 戻すべきなのか。

 

 それすら、もうわからなかった。

 

 湖の向こうで、紅魔館の赤い灯が揺れている。

 

 その灯は、美しく、冷たく、どこまでも傲慢だった。

 

 だが今夜、その赤い王国にも、初めてひびが入った。

 

 霊夢は白玉楼へ続く道を見た。

 

 死者の世界へ向かう道は、まだ闇の中に沈んでいる。

 

 その闇の奥で、金の匂いがした。

 

 薬の匂いより重く、信仰の匂いより鈍く、血の匂いより古い。

 

 借りたものは返さなければならない。

 返せないものは、別の何かで払わされる。

 

 幻想郷の夜は、とうとう命の値段を数え始めた。

 

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