白玉楼へ続く道は、いつも静かすぎる。
生者の世界には、夜でも何かしらの音がある。虫の声、風の音、戸口の軋み、遠くの犬の声、誰かが隠した溜息。だが冥界へ続く道には、それがない。音が消えるのではない。音が、最初から生まれない。
霊夢はその静けさが嫌いだった。
騒がしい賭場も、血の気の多い山の現場も、薬臭い永遠亭も、紅魔館の香水じみた夜会も、どれも苛立ちはする。だが、まだ生きている場所だった。腹を立てる者がいて、嘘をつく者がいて、金を握る者がいて、誰かを出し抜こうとする熱がある。
白玉楼には、その熱がない。
あるのは、払い終わった後のような静けさだ。
石段を上るたびに、足音が薄くなる。空は淡く白み、夜とも朝ともつかない色をしていた。桜は咲いていないはずなのに、どこからか花びらが舞ってくる。季節すら、この場所では帳簿の数字のように都合よく並べ替えられている。
霊夢の後ろには、射命丸文と鈴仙が続いていた。
そして、少し離れてレミリア・スカーレットと十六夜咲夜が歩いている。
紅魔館の主人は、冥界の静けさの中でも相変わらずだった。赤い瞳に不機嫌を宿し、マントを引きずることもなく、堂々と石段を上っている。咲夜はその半歩後ろに控え、足音すら立てない。
鈴仙はちらちらとレミリアを気にしていた。
「……本当に紅魔館まで連れてきてよかったんですか」
「私が連れてきたんじゃないわ。勝手についてきたの」
霊夢が言うと、レミリアが後ろから笑った。
「失礼ね。私は招かれていない場所へも行く権利があるの」
「それを不法侵入って言うのよ」
「紅魔館では、視察と呼ぶわ」
「ここ紅魔館じゃないでしょ」
「だから面白いのよ」
文が横から口を挟む。
「博麗、永遠亭、紅魔館、そして白玉楼。今夜の面子は随分豪華ですね。これで八雲様と守矢様がいれば、幻想郷裏会議の完成です」
「呼ばないで」
霊夢は短く言った。
「紫と神奈子まで来たら、話が進む前に場所が壊れる」
「白玉楼は壊れにくそうですけどね」
「冥界を壊すな」
鈴仙が小さく呟いた。
「私、永遠亭に戻りたいです」
「戻ったら永琳に帳面を見せろって言われるだけよ」
「それでも紅魔館と冥界を回るよりはましです」
鈴仙は大事そうに布包みを抱えていた。紅魔館で受け取った古い債務帳。表紙には『命の値段』と書かれていた。開くことはまだしていない。開けば、何かが始まる気がした。
石段の終わりに、白玉楼の門が見えた。
その前に、魂魄妖夢が立っていた。
半人半霊の庭師。腰には二振りの刀。表情はいつも以上に硬い。こちらを待っていたのだろう。驚きはなかった。だが、霊夢の後ろにレミリアがいるのを見て、目元がわずかに引きつった。
「博麗霊夢。射命丸文。永遠亭の鈴仙。それに……紅魔館のお嬢様まで」
「歓迎が足りないわね」
レミリアが言う。
妖夢は一礼した。
「白玉楼へようこそ。ただし、今夜の訪問は歓迎とは言い難いものです」
「幽々子は?」
霊夢が訊く。
「奥でお待ちです」
「知ってたのね」
「はい。幽々子様は、皆様が来るとおっしゃっていました」
「またそれ」
霊夢はうんざりしたように息を吐いた。
「どいつもこいつも、私の行き先を先に知ってる顔をする」
妖夢は真面目に答えた。
「幽々子様の場合、先に知っているというより、来るように流れができていた、と言うべきかと」
「それが一番嫌なのよ」
文が門を見上げた。
「今夜、白玉楼に客は?」
「いません」
妖夢はすぐ答えた。
「本当に?」
「表向きには」
「裏向きには?」
妖夢の表情がさらに硬くなった。
「今は、お答えできません」
霊夢が妖夢を見る。
「答えられないことがあるってことね」
「あります」
「正直でよろしい」
「嘘をつけば、すぐに見破られるでしょう」
「見破った後で殴る手間が省けるわ」
妖夢は咲夜の方をちらりと見た。咲夜は静かに微笑む。
「同じ従者同士、苦労するわね」
咲夜が言うと、妖夢はわずかに眉を寄せた。
「苦労など」
「主人が何を考えているかわからない時ほど、従者は忙しいものよ」
「幽々子様は、何も考えていないように見えて、すべてお考えです」
「うちのお嬢様は、考えているように見えて、時々本当に遊んでいるわ」
レミリアが不満げに言う。
「咲夜?」
「失礼いたしました」
「あとで紅茶」
「かしこまりました」
妖夢は二人を見て、少しだけ疲れた顔をした。
「こちらへ」
白玉楼の廊下は冷たかった。
冷たいが、不快ではない。磨き上げられた床、整えられた襖、静かに揺れる灯。どこにも乱れはない。むしろ、乱れがなさすぎる。紅魔館の完璧さが支配のための整然さなら、白玉楼の整然さは、すべての終わりを受け入れた後の片付き方だった。
途中、霊夢は蔵の方を見た。
白壁の大きな蔵が、庭の奥に建っている。扉は分厚く、古い封印札が何枚も貼られている。その近くを、妖夢の半霊がふわりと通り過ぎた。
「あれが死者の蔵?」
霊夢が訊くと、妖夢は足を止めずに答えた。
「白玉楼の蔵です」
「名前を変えただけでしょ」
「そう呼ぶ者もいます」
「中には?」
「古い記録、預かり物、未処理の品、返済されていない約定、扱いに困るもの」
「つまり金貸しの帳面と武器?」
妖夢は黙った。
レミリアが笑う。
「沈黙は肯定よ」
妖夢は低く言った。
「紅魔館の方にだけは言われたくありません」
「あら、言うじゃない」
「ここは白玉楼です」
「いい返しね。咲夜、覚えておきなさい」
「必要ございません」
霊夢は蔵を見つめた。
紅魔館に届いた帳面。命の値段。死者の蔵。
誰かが、ここを開けさせようとしている。
広い座敷へ案内されると、西行寺幽々子が待っていた。
彼女はいつものように穏やかだった。淡い衣、ゆるやかな微笑み、どこか眠たげな声。前には茶と菓子が用意されている。まるで深夜の客人を待っていた貴婦人のようだ。
だが、霊夢は知っている。
幽々子の穏やかさは、優しさだけではない。
あれは、すべてが最後に自分の側へ来ると知っている者の穏やかさだ。
「いらっしゃい、霊夢。ずいぶん賑やかな顔ぶれね」
「呼んだ?」
「呼んでいないわ。でも、来ると思っていた」
「それも聞き飽きた」
幽々子はふふ、と笑った。
「退屈しない夜ね。幻想郷のあちこちで、蓋が開いている」
「開けてる奴を探してるの」
「蓋は、閉まっている間だけ価値があるものよ。中身が腐っていても、見えなければ美しいまま」
霊夢は布包みを座敷の中央に置いた。
「紅魔館にこれが届いた」
鈴仙が布をほどく。
古い債務帳。
『命の値段』。
妖夢の顔色が変わった。
「それは」
幽々子は微笑んだままだった。
「懐かしい帳面ね」
「知ってるのね」
「ええ。白玉楼の古い帳面よ」
「じゃあ、紅魔館に送ったのはあんた?」
「違うわ」
「信じられない」
「信じなくてもいいのよ。事実は変わらないもの」
文が身を乗り出す。
「その帳面には何が?」
妖夢が鋭く言う。
「射命丸文。ここで聞いたことを記事にすることは」
「今夜、それを言わない勢力がありませんね」
「なら、なおさらです」
幽々子が軽く手を上げた。
「いいのよ、妖夢。文は書くわ。書くか、書かないか、書けるか、書けないかは別として」
「幽々子様」
「情報は、死者より厄介ね。死者は喋らないけれど、情報は勝手に歩くもの」
文は笑った。
「素晴らしい表現ですね。引用しても?」
「言葉だけならどうぞ。ただし、名前を添えるならお茶代をいただくわ」
「幽々子様、商売上手ですね」
「死者も生者も、お腹は空くもの」
レミリアが鼻で笑う。
「冥界の亡霊が、金の話をするとはね」
幽々子はレミリアを見る。
「吸血鬼が所有を語るのだから、亡霊が債務を語ってもおかしくないでしょう?」
「死んでも借金は残るの?」
「残る場合もあるわ。残したい者がいれば」
霊夢は帳面を指した。
「説明して」
幽々子は菓子を一つ手に取った。
「白玉楼は、死者の屋敷。けれど、死者だけを相手にしているわけではないの。生きている間に終わらなかった約束、返せなかった借り、消せなかった怨み、誰にも預けられなかった品。そういうものが、時々ここへ流れてくる」
「金貸しってこと?」
「そう呼ぶ者もいるわ」
「便利な言い換えはもういい」
霊夢の声が少し荒くなった。
「守矢は信仰、永遠亭は薬、紅魔館は契約。あんたは何? 死者の名で生者から取り立ててるの?」
妖夢が一歩前に出た。
「霊夢。それ以上は」
「いいの、妖夢」
幽々子の声はやわらかかった。
「霊夢は怒っているのよ。怒っている時の霊夢は、だいたい正しいところを踏むわ」
妖夢は口を閉じた。
幽々子は続けた。
「白玉楼は、金を貸す。品も預かる。時には、表に出せない武器や妖具を封じる。借り手は人間だけではない。妖怪も、神の使いも、寺の者も、山の技術者も、紅い館の関係者もいる」
「紅魔館の?」
レミリアの瞳が細くなる。
「名は言わないわ」
「言いなさい」
「ここは白玉楼よ、レミリア」
幽々子の声は変わらない。
だが、その瞬間、座敷の空気が冷えた。
レミリアは笑った。
「亡霊の屋敷で、吸血鬼に口止め?」
「死者は血を流さないわ。あなたには相性が悪い場所でしょう?」
咲夜の指がわずかに動いた。
妖夢の手も刀に近づく。
霊夢が二人の間に札を一枚放った。札は畳に立ち、軽く光る。
「ここでやったら両方祓う」
「霊夢、私はまだ何もしていないわ」
レミリアが言う。
「しそうだった」
「理不尽ね」
「今夜は全員理不尽だから我慢しなさい」
幽々子は楽しそうに笑った。
「霊夢が一番、この場に向いているわね」
「褒められてる気がしない」
「褒めているわ。白玉楼の帳は、生きている者ほど扱いにくいの」
鈴仙が帳面を見つめながら言った。
「あの、この『命の値段』というのは……」
幽々子は鈴仙を見る。
「そのままの意味ではないわ。少なくとも、白玉楼の正式な帳面ではね」
「正式では?」
「それは写しよ。古い債務帳の一部を、誰かが悪意ある題でまとめ直したもの」
霊夢は眉をひそめた。
「また偽物?」
「偽物ではない。本物を切り貼りしたもの」
文が低く言う。
「一番厄介なやつですね。本物だから否定できず、切り貼りだから意味が歪む」
「情報屋らしい理解ね」
幽々子は頷いた。
「借金の記録、治療費の立替、武器の封印費、護衛の依頼料、葬儀の手配、遺族への送金。そういう記録が、まとめ方ひとつで『命を売り買いした帳面』に見える」
霊夢は言った。
「見えるだけ?」
幽々子は菓子を置いた。
「見えるだけではないものもあるわ」
座敷が静まった。
幽々子は微笑みを浮かべたまま、恐ろしく淡々と続けた。
「借りた金を返せない者はいる。返せないなら、労働で返す。情報で返す。品で返す。時には、危険な仕事で返す。白玉楼は死者の屋敷だから、生者の世界の法では測れない取引も扱う。綺麗ではないわね」
「綺麗ではないどころじゃないでしょ」
「そうね」
幽々子はあっさり認めた。
「でも、借りた者が全員、悪いとは限らない。貸した者が全員、悪いとも限らない。病で金が必要だった者、家を失った者、妖怪に脅された者、仕事を失った者、家族を弔う金がなかった者。白玉楼は、そういう者にも手を伸ばした」
「その手で、首根っこも掴んだ」
霊夢が言う。
幽々子は微笑んだ。
「ええ。手を伸ばすというのは、そういうことよ」
鈴仙の顔が曇る。
「助けと支配が、一緒になっている……」
「永遠亭もそうでしょう?」
幽々子の一言に、鈴仙は黙った。
「薬を渡せば、患者は永遠亭を頼る。信仰を与えれば、信者は守矢を見る。仕事を与えれば、人足は八雲の現場へ行く。金を貸せば、借り手は白玉楼に頭を下げる。保護を与えれば、相手は紅魔館の所有になる」
レミリアが口を挟む。
「所有と保護は違うわ」
「そうね。所有する側にとっては」
レミリアの笑みが消える。
文が小さく呟く。
「この章、全員に刺さりますね」
「章立てするな」
霊夢が睨んだ。
幽々子は債務帳に手を伸ばした。妖夢が一瞬止めようとしたが、幽々子はそのまま表紙に触れる。
「これは白玉楼の蔵から出たものではないわ」
「どうしてわかるの」
「紙の匂いが違う」
「匂い?」
「白玉楼の蔵に長く眠っていた紙は、もっと死に近い匂いがするの。これは、一度どこか生者の手元に渡っている」
咲夜が言う。
「紅魔館に届いた時点で、既に外を経由していたということですか」
「そうね」
パチュリーがいない場で、咲夜は自分で考えるように視線を落とした。
「紅魔館の封印箱、永遠亭の薬包、八雲の結界杭、白玉楼の債務帳。すべて、持ち出された後で別の場所に置かれている」
文が続ける。
「犯人は物を盗んでいるだけでなく、配置している。読ませたい相手に、読ませたい順番で」
霊夢は腕を組んだ。
「命蓮寺の船荷から始まった。次に八雲の現場、守矢の講、永遠亭、紅魔館、白玉楼」
鈴仙が言った。
「順番に意味があるんでしょうか」
「あるでしょうね」
幽々子が答えた。
「まず、博麗の印で霊夢を動かす。八雲の杭で紫を焦らせる。守矢の講で神奈子を怒らせる。永遠亭の薬で永琳を外へ引っ張る。紅魔館の台帳でレミリアの所有を揺らす。白玉楼の債務帳で、生者たちの借りを表に出す」
「次は?」
霊夢が訊く。
幽々子は庭の方を見た。
「掃除屋でしょうね」
霊夢の表情が変わった。
「地霊殿?」
「汚れたものは、最後に片付ける場所へ行くもの」
文が目を輝かせる。
「地底、掃除屋、洗浄屋、証拠隠滅。いよいよ核心ですね」
「嬉しそうにするな」
霊夢は言ったが、否定はしなかった。
ここまでの流れを考えれば、次は地霊殿だ。
物を盗む。
名前を使う。
証拠を置く。
汚れを広げる。
その汚れを誰が片付けてきたのか。
地底の掃除屋たちだ。
その時、妖夢が低く言った。
「幽々子様。まだ蔵を確認しておりません」
「そうね」
幽々子はゆっくり立ち上がった。
「皆で見に行きましょうか」
「開けるの?」
霊夢が訊く。
「開けなければ、誰かに開けられるわ」
幽々子の声は穏やかだった。
だが、その意味は重い。
白玉楼の蔵を開ける。
それは、幽々子が自分の秘密を一部見せるということでもある。あるいは、誰かに先に暴かれるくらいなら、自分で暴くということか。
レミリアが笑った。
「ようやく面白くなってきたわね」
幽々子は振り返る。
「レミリア。あなた、蔵の中を見て平気かしら」
「死者の帳簿くらいで怯えると思う?」
「死者より、生者の名前の方が怖いものよ」
レミリアは少しだけ黙った。
「望むところよ」
霊夢たちは座敷を出て、庭の奥の蔵へ向かった。
白玉楼の庭は静かだった。池には波がなく、石灯籠の灯だけが淡く揺れている。蔵の前に立つと、その扉の重さがよくわかった。木と鉄と封印札。時間そのものを閉じ込めているような扉だった。
妖夢が鍵を取り出した。
だが、鍵穴に差し込む前に、彼女の手が止まった。
「……開いています」
空気が凍った。
霊夢が一歩前に出る。
「妖夢、下がって」
「いえ、私が」
「下がって」
霊夢の声には、有無を言わせない強さがあった。
妖夢は悔しそうに唇を噛み、一歩下がった。
咲夜がレミリアの前に立つ。鈴仙は帳面を抱えたまま、目を鋭くする。文は手帳をしまい、カメラを構えた。
幽々子だけは、静かに蔵を見つめていた。
霊夢は札を扉に貼り、ゆっくりと開けた。
蔵の中は暗かった。
古い紙の匂い。木箱の匂い。鉄の錆びた匂い。封じられた妖気。死者の気配よりも、生者の執着の方が濃い。棚には帳面が並び、奥には布で巻かれた長物、封印された箱、札で閉じられた壺が置かれていた。
武器庫というには静かすぎる。
金庫というには生臭い。
墓というには、まだ欲が残りすぎている。
霊夢は中へ入った。
床に、足跡があった。
白い灰のようなものが薄く撒かれ、その上に靴跡が残っている。妖夢が息を呑む。
「蔵の中に、足跡……」
「誰かが入ったわね」
霊夢はしゃがんで見る。
人間のものに近い。だが、足取りが軽い。重さを感じさせない。まるで、そこにいることを途中でやめた者の足跡だ。
文が低く言った。
「こいし?」
霊夢は顔を上げた。
「まだ決めつけない」
「でも、気配の薄さとしては」
「決めつけない」
幽々子が奥を見た。
「妖夢」
「はい」
「あの棚を」
妖夢が急いで奥の棚へ向かった。帳面が並んでいた場所だ。彼女は一冊ずつ確認し、顔を青くした。
「幽々子様」
「何がないの」
「債務者名簿の一部。それから、封印品の移送記録。さらに……」
妖夢の声が詰まる。
「さらに?」
「武器商の帳面が、二冊ありません」
レミリアが面白そうに眉を上げる。
「白玉楼、武器商までやっていたの?」
妖夢が怒りを抑えた声で言う。
「売っていたのではありません。預かり、封じていたものもあります」
「でも、帳面がある」
「管理のためです」
霊夢は言った。
「管理、ね」
妖夢は反論しようとしたが、言葉を飲み込んだ。今夜、その言葉がどれほど胡散臭く響くか、彼女にもわかっていた。
幽々子は蔵の中央に立ち、目を細めた。
「持っていかれたのは、白玉楼の汚いところばかりね」
「綺麗なところもあるの?」
霊夢が言うと、幽々子は笑った。
「あるわよ。桜とか、お茶とか、お菓子とか」
「帳簿と武器の話をしてるの」
「なら、少ないわね」
霊夢はため息をついた。
蔵の奥に、一つだけ開いた箱があった。
妖夢が近づこうとするのを、咲夜が止めた。
「待って。糸が張ってある」
咲夜は空中を指差した。細い糸。ほとんど見えない。箱を開けた者が、何かを仕掛けていったらしい。咲夜はナイフで糸を切るのではなく、手袋越しにそっと外した。
箱の中には、白い紙片が一枚。
霊夢はもう驚かなかった。
文が呟く。
「恒例ですね」
紙には、こう書かれていた。
『貸したものは返ってくる。
返らないものは、地の底へ沈む。
沈んだものを洗う者に聞け。』
霊夢は紙を握った。
「地霊殿」
幽々子が静かに頷いた。
「やはりね」
「やはりって、知ってたの?」
「流れとしては」
「流れって便利な言葉ね」
「あなたも使うようになるわ」
「嫌よ」
鈴仙が不安そうに言う。
「地霊殿は、永遠亭とも関わりがあります。廃棄する薬品や危険物の処理を頼むことも……」
そこで鈴仙は口を閉じた。
霊夢が見る。
「続けて」
「……表に出せないものを、地底へ送ることがあります。危険だから、処理が必要だから、という理由です」
「永遠亭だけ?」
「わかりません」
咲夜が言った。
「紅魔館にも、処理を依頼した記録があります」
レミリアが咲夜を見る。
「咲夜」
「隠しても無駄かと」
「従者の判断にしては大胆ね」
「お嬢様が先ほど、主人は取り返すとおっしゃいました。取り返すには、まず失ったものを認める必要があります」
レミリアはしばらく咲夜を見ていたが、やがて笑った。
「いいわ。続けなさい」
咲夜は霊夢に向き直った。
「紅魔館では、表に出せない契約品、破棄された書類、危険な魔法具の処分を地底に依頼することがあります。直接ではありません。仲介を通します」
「誰」
「その名は、今ここでは」
「咲夜」
レミリアが言う。
「言いなさい」
咲夜は一瞬だけ目を伏せた。
「命蓮寺の海運です」
霊夢は目を細めた。
「繋がったわね」
命蓮寺の船荷。
八雲の工事。
守矢の講。
永遠亭の薬。
紅魔館の契約。
白玉楼の債務。
そして、地底の処理。
汚れたものは、地底へ流れていた。
文が低く言った。
「幻想郷の裏側の下水ですね」
妖夢が睨む。
「言い方が悪い」
「でも、構造としては近いでしょう。上の勢力が汚したものを、下へ流す。地底で洗う。洗ったことにする」
鈴仙の顔が曇った。
「洗ったことにする……」
霊夢は蔵の中を見回した。
ここにある帳面も、武器も、債務も、全部が地底と繋がっている可能性がある。処理されたもの。消されたもの。なかったことにされたもの。
その行き先に、さとりがいる。
心を読む妖怪。
地霊殿の主。
幻想郷中の悪党が、最も会いたくない相手。
なぜなら、嘘が通じない。
幽々子が言った。
「霊夢。地霊殿へ行くなら気をつけなさい」
「みんな気をつけろって言うわね」
「地霊殿では、隠したことがそのまま傷になるわ。あなたが隠していることも、文が書かなかったことも、鈴仙が言えなかったことも、レミリアが所有と呼ぶものも、咲夜が忠誠と呼ぶものも、妖夢が正義だと思っているものも。全部、読まれる」
「幽々子は?」
霊夢が訊く。
幽々子は微笑む。
「私は死んでいるから、少しだけずるいわね」
「絶対ずるい」
妖夢が小さく言う。
「幽々子様は、同行なさるのですか」
「私は行かないわ」
「なぜ」
「地底は食べ物が少なそうだから」
「幽々子様」
「冗談よ。半分は」
霊夢は幽々子を見る。
「本当の理由は?」
「白玉楼を空けられない。蔵に入られた以上、こちらも守らなければならないものがある。それに」
「それに?」
「私が行くと、話が死者の方へ寄りすぎるわ。次は、生きている者が地底へ降りるべき」
レミリアが鼻で笑う。
「私は行くわ」
「でしょうね」
霊夢が言う。
「でも地底で偉そうにしすぎたら置いていく」
「置いていけると思う?」
「祓えば置いていける」
「乱暴ね」
「今さら」
咲夜が静かに言う。
「お嬢様が行かれるなら、私も」
「当然よ、咲夜」
鈴仙は不安そうに霊夢を見る。
「私は……」
「来るの?」
「師匠に、薬包の確認だけと言われています。でも、地底に永遠亭の処理品が関わっているなら、戻って報告すべきか、同行すべきか……」
「自分で決めなさい」
霊夢は言った。
「永琳の指示じゃなくて」
鈴仙は息を呑んだ。
「自分で」
「そう。嫌なら帰る。気になるなら来る。どっちでもいいわ」
鈴仙はしばらく黙っていた。
やがて、債務帳を強く抱きしめる。
「……行きます。永遠亭の名前が使われたままなのは、嫌です」
「それでいい」
文が羽を広げた。
「もちろん私は行きます」
「聞いてない」
「言わなくてもわかるでしょう?」
「わかるから面倒なのよ」
妖夢が幽々子に言った。
「幽々子様。私は」
「妖夢は残りなさい」
「しかし」
「蔵を開けられたのよ。白玉楼を守る者が必要」
「……はい」
妖夢は悔しそうに頷いた。
霊夢は蔵を出ようとして、足を止めた。
入口近くの棚に、小さな木札が落ちていた。白玉楼のものではない。見覚えがある。
人里の問屋で使われる荷札。
その裏に、焦げた跡があった。白い鳥の羽根のような形にも見える。
霊夢はそれを拾った。
妹紅。
慧音。
自警組。
問屋。
火消し。
人材派遣。
上の勢力が汚したものを下へ流す。
その途中で、人里の実働部隊が必ず関わる。
荷を運ぶ。
火を消す。
人を動かす。
記録に残らない処理をする。
妹紅たちは、どこまで知っているのか。
あるいは、どこまで使われてきたのか。
蔵の外へ出ると、空がわずかに白み始めていた。冥界の朝は、生者の朝とは違う。光が差すのではなく、闇が薄くなるだけだった。
幽々子は庭に立ち、静かに言った。
「霊夢」
「何」
「怒りだけを追うと、怒っている者しか見えなくなるわ」
「妹紅のこと?」
「誰とは言わない。でも、怒っている者は目立つ。火を持つ者は疑われやすい。けれど、火のそばで油を売る者は、意外と見逃されるものよ」
霊夢は黙った。
幽々子は微笑む。
「今回の相手は、怒りをよく知っている。でも、怒りそのものではないかもしれない」
「じゃあ何」
「諦めかもしれないわね」
「諦め?」
「怒りは燃える。諦めは沈む。沈んだものは、地の底へ行く」
霊夢は幽々子を見た。
「地霊殿に答えがあるってこと?」
「答えがあるかどうかは知らないわ。でも、そこには、捨てたものがある」
文が小さく言う。
「幻想郷が捨てたもの」
幽々子は頷いた。
「そう。幻想郷の上にいる者たちが、見なかったことにしたもの」
レミリアが不機嫌そうに言った。
「随分と詩的ね」
「死者の屋敷ですもの」
「私は詩より契約の方が好きよ」
「だから紅魔館は赤いのね」
「どういう意味?」
「さあ」
霊夢は歩き出した。
「行くわよ。地霊殿」
鈴仙、文、レミリア、咲夜が続く。
妖夢は門の前まで見送った。彼女は最後に霊夢へ言った。
「霊夢」
「何」
「妹紅を、決めつけないでください」
霊夢は足を止めた。
「慧音にも似たようなこと言われたわ」
「妹紅は危うい人です。ですが、燃やすだけの人ではありません」
「知ってる」
「本当に?」
「たぶん」
妖夢は少しだけ不安そうな顔をした。
「たぶん、ですか」
「今夜、確かなことなんてほとんどないわ」
霊夢は荷札を袖にしまった。
「だから見に行くのよ」
白玉楼を後にすると、冥界の静けさが背中に残った。
死者の蔵は開けられた。
白玉楼の帳面は盗られた。
武器商の記録も消えた。
問屋の荷札が残された。
次の行き先は地底。
地霊殿。
そこには、汚れを洗う者がいる。
だが、汚れは洗えば消えるのか。
それとも、別の場所に移るだけなのか。
霊夢にはわからない。
ただ、幻想郷の悪党たちは皆、同じことをしていた。
信仰を売る。
薬を売る。
契約を売る。
債務を売る。
情報を売る。
秩序を売る。
沈黙を売る。
そして、いらなくなったものを地底へ捨てる。
霊夢は石段を下りながら、低く呟いた。
「全員、掃除してもらってたわけね」
文が横で言う。
「では、次は掃除屋に取材ですね」
「取材じゃない」
「異変解決?」
「それも違う気がする」
鈴仙が訊く。
「では、何ですか」
霊夢は少し考えた。
そして言った。
「落とし物探し」
文が首を傾げる。
「落とし物?」
「幻想郷が捨てたものを、誰かが拾って投げ返してる。なら、何を捨てたのか見に行く」
レミリアが笑った。
「詩的なことを言うじゃない」
「うるさい」
「嫌いではないわ」
「褒めるな」
冥界の石段の下に、地底へ続く闇が待っていた。
夜は終わりかけている。
だが、幻想郷の裏側では、これからが一番暗い時間だった。
霊夢は振り返らなかった。
白玉楼の門は、静かに閉じられた。
その奥で、幽々子は庭に立ち、誰もいない蔵の方を見ていた。
妖夢が隣に来る。
「幽々子様」
「何かしら」
「地霊殿に、答えはあるのでしょうか」
幽々子は少しだけ考えた。
「答えというより、残り物ね」
「残り物?」
「食べ終わった皿を見れば、誰が何を食べたかわかるでしょう?」
「……幽々子様らしい例えです」
「地底には、幻想郷が食べ散らかした皿が積まれているのよ」
妖夢は黙った。
幽々子は淡く笑う。
「そして、皿を洗う者は、誰が一番汚したかを知っている」
冥界の風が吹いた。
桜の花びらが、咲いてもいないのに舞った。
その一枚が、開いた蔵の前に落ちる。
花びらの白は、灰のようにも、羽根のようにも、紙片のようにも見えた。
どれにも見えるものは、誰の罪にもできる。
だからこそ、誰かが使っている。
幽々子は花びらを見つめ、ぽつりと言った。
「さて。次は、誰の心が読まれるのかしらね」
その声は、誰にも届かなかった。
白玉楼は再び、死者の屋敷らしい静けさに包まれた。
だが、蔵の奥に残った空白だけは、もう元には戻らなかった。