東方アウトレイジ    作:たこ焼き 龍月

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第六章 死者の蔵

 

 

 白玉楼へ続く道は、いつも静かすぎる。

 

 生者の世界には、夜でも何かしらの音がある。虫の声、風の音、戸口の軋み、遠くの犬の声、誰かが隠した溜息。だが冥界へ続く道には、それがない。音が消えるのではない。音が、最初から生まれない。

 

 霊夢はその静けさが嫌いだった。

 

 騒がしい賭場も、血の気の多い山の現場も、薬臭い永遠亭も、紅魔館の香水じみた夜会も、どれも苛立ちはする。だが、まだ生きている場所だった。腹を立てる者がいて、嘘をつく者がいて、金を握る者がいて、誰かを出し抜こうとする熱がある。

 

 白玉楼には、その熱がない。

 

 あるのは、払い終わった後のような静けさだ。

 

 石段を上るたびに、足音が薄くなる。空は淡く白み、夜とも朝ともつかない色をしていた。桜は咲いていないはずなのに、どこからか花びらが舞ってくる。季節すら、この場所では帳簿の数字のように都合よく並べ替えられている。

 

 霊夢の後ろには、射命丸文と鈴仙が続いていた。

 

 そして、少し離れてレミリア・スカーレットと十六夜咲夜が歩いている。

 

 紅魔館の主人は、冥界の静けさの中でも相変わらずだった。赤い瞳に不機嫌を宿し、マントを引きずることもなく、堂々と石段を上っている。咲夜はその半歩後ろに控え、足音すら立てない。

 

 鈴仙はちらちらとレミリアを気にしていた。

 

「……本当に紅魔館まで連れてきてよかったんですか」

 

「私が連れてきたんじゃないわ。勝手についてきたの」

 

 霊夢が言うと、レミリアが後ろから笑った。

 

「失礼ね。私は招かれていない場所へも行く権利があるの」

 

「それを不法侵入って言うのよ」

 

「紅魔館では、視察と呼ぶわ」

 

「ここ紅魔館じゃないでしょ」

 

「だから面白いのよ」

 

 文が横から口を挟む。

 

「博麗、永遠亭、紅魔館、そして白玉楼。今夜の面子は随分豪華ですね。これで八雲様と守矢様がいれば、幻想郷裏会議の完成です」

 

「呼ばないで」

 

 霊夢は短く言った。

 

「紫と神奈子まで来たら、話が進む前に場所が壊れる」

 

「白玉楼は壊れにくそうですけどね」

 

「冥界を壊すな」

 

 鈴仙が小さく呟いた。

 

「私、永遠亭に戻りたいです」

 

「戻ったら永琳に帳面を見せろって言われるだけよ」

 

「それでも紅魔館と冥界を回るよりはましです」

 

 鈴仙は大事そうに布包みを抱えていた。紅魔館で受け取った古い債務帳。表紙には『命の値段』と書かれていた。開くことはまだしていない。開けば、何かが始まる気がした。

 

 石段の終わりに、白玉楼の門が見えた。

 

 その前に、魂魄妖夢が立っていた。

 

 半人半霊の庭師。腰には二振りの刀。表情はいつも以上に硬い。こちらを待っていたのだろう。驚きはなかった。だが、霊夢の後ろにレミリアがいるのを見て、目元がわずかに引きつった。

 

「博麗霊夢。射命丸文。永遠亭の鈴仙。それに……紅魔館のお嬢様まで」

 

「歓迎が足りないわね」

 

 レミリアが言う。

 

 妖夢は一礼した。

 

「白玉楼へようこそ。ただし、今夜の訪問は歓迎とは言い難いものです」

 

「幽々子は?」

 

 霊夢が訊く。

 

「奥でお待ちです」

 

「知ってたのね」

 

「はい。幽々子様は、皆様が来るとおっしゃっていました」

 

「またそれ」

 

 霊夢はうんざりしたように息を吐いた。

 

「どいつもこいつも、私の行き先を先に知ってる顔をする」

 

 妖夢は真面目に答えた。

 

「幽々子様の場合、先に知っているというより、来るように流れができていた、と言うべきかと」

 

「それが一番嫌なのよ」

 

 文が門を見上げた。

 

「今夜、白玉楼に客は?」

 

「いません」

 

 妖夢はすぐ答えた。

 

「本当に?」

 

「表向きには」

 

「裏向きには?」

 

 妖夢の表情がさらに硬くなった。

 

「今は、お答えできません」

 

 霊夢が妖夢を見る。

 

「答えられないことがあるってことね」

 

「あります」

 

「正直でよろしい」

 

「嘘をつけば、すぐに見破られるでしょう」

 

「見破った後で殴る手間が省けるわ」

 

 妖夢は咲夜の方をちらりと見た。咲夜は静かに微笑む。

 

「同じ従者同士、苦労するわね」

 

 咲夜が言うと、妖夢はわずかに眉を寄せた。

 

「苦労など」

 

「主人が何を考えているかわからない時ほど、従者は忙しいものよ」

 

「幽々子様は、何も考えていないように見えて、すべてお考えです」

 

「うちのお嬢様は、考えているように見えて、時々本当に遊んでいるわ」

 

 レミリアが不満げに言う。

 

「咲夜?」

 

「失礼いたしました」

 

「あとで紅茶」

 

「かしこまりました」

 

 妖夢は二人を見て、少しだけ疲れた顔をした。

 

「こちらへ」

 

 白玉楼の廊下は冷たかった。

 

 冷たいが、不快ではない。磨き上げられた床、整えられた襖、静かに揺れる灯。どこにも乱れはない。むしろ、乱れがなさすぎる。紅魔館の完璧さが支配のための整然さなら、白玉楼の整然さは、すべての終わりを受け入れた後の片付き方だった。

 

 途中、霊夢は蔵の方を見た。

 

 白壁の大きな蔵が、庭の奥に建っている。扉は分厚く、古い封印札が何枚も貼られている。その近くを、妖夢の半霊がふわりと通り過ぎた。

 

「あれが死者の蔵?」

 

 霊夢が訊くと、妖夢は足を止めずに答えた。

 

「白玉楼の蔵です」

 

「名前を変えただけでしょ」

 

「そう呼ぶ者もいます」

 

「中には?」

 

「古い記録、預かり物、未処理の品、返済されていない約定、扱いに困るもの」

 

「つまり金貸しの帳面と武器?」

 

 妖夢は黙った。

 

 レミリアが笑う。

 

「沈黙は肯定よ」

 

 妖夢は低く言った。

 

「紅魔館の方にだけは言われたくありません」

 

「あら、言うじゃない」

 

「ここは白玉楼です」

 

「いい返しね。咲夜、覚えておきなさい」

 

「必要ございません」

 

 霊夢は蔵を見つめた。

 

 紅魔館に届いた帳面。命の値段。死者の蔵。

 誰かが、ここを開けさせようとしている。

 

 広い座敷へ案内されると、西行寺幽々子が待っていた。

 

 彼女はいつものように穏やかだった。淡い衣、ゆるやかな微笑み、どこか眠たげな声。前には茶と菓子が用意されている。まるで深夜の客人を待っていた貴婦人のようだ。

 

 だが、霊夢は知っている。

 

 幽々子の穏やかさは、優しさだけではない。

 あれは、すべてが最後に自分の側へ来ると知っている者の穏やかさだ。

 

「いらっしゃい、霊夢。ずいぶん賑やかな顔ぶれね」

 

「呼んだ?」

 

「呼んでいないわ。でも、来ると思っていた」

 

「それも聞き飽きた」

 

 幽々子はふふ、と笑った。

 

「退屈しない夜ね。幻想郷のあちこちで、蓋が開いている」

 

「開けてる奴を探してるの」

 

「蓋は、閉まっている間だけ価値があるものよ。中身が腐っていても、見えなければ美しいまま」

 

 霊夢は布包みを座敷の中央に置いた。

 

「紅魔館にこれが届いた」

 

 鈴仙が布をほどく。

 

 古い債務帳。

 『命の値段』。

 

 妖夢の顔色が変わった。

 

「それは」

 

 幽々子は微笑んだままだった。

 

「懐かしい帳面ね」

 

「知ってるのね」

 

「ええ。白玉楼の古い帳面よ」

 

「じゃあ、紅魔館に送ったのはあんた?」

 

「違うわ」

 

「信じられない」

 

「信じなくてもいいのよ。事実は変わらないもの」

 

 文が身を乗り出す。

 

「その帳面には何が?」

 

 妖夢が鋭く言う。

 

「射命丸文。ここで聞いたことを記事にすることは」

 

「今夜、それを言わない勢力がありませんね」

 

「なら、なおさらです」

 

 幽々子が軽く手を上げた。

 

「いいのよ、妖夢。文は書くわ。書くか、書かないか、書けるか、書けないかは別として」

 

「幽々子様」

 

「情報は、死者より厄介ね。死者は喋らないけれど、情報は勝手に歩くもの」

 

 文は笑った。

 

「素晴らしい表現ですね。引用しても?」

 

「言葉だけならどうぞ。ただし、名前を添えるならお茶代をいただくわ」

 

「幽々子様、商売上手ですね」

 

「死者も生者も、お腹は空くもの」

 

 レミリアが鼻で笑う。

 

「冥界の亡霊が、金の話をするとはね」

 

 幽々子はレミリアを見る。

 

「吸血鬼が所有を語るのだから、亡霊が債務を語ってもおかしくないでしょう?」

 

「死んでも借金は残るの?」

 

「残る場合もあるわ。残したい者がいれば」

 

 霊夢は帳面を指した。

 

「説明して」

 

 幽々子は菓子を一つ手に取った。

 

「白玉楼は、死者の屋敷。けれど、死者だけを相手にしているわけではないの。生きている間に終わらなかった約束、返せなかった借り、消せなかった怨み、誰にも預けられなかった品。そういうものが、時々ここへ流れてくる」

 

「金貸しってこと?」

 

「そう呼ぶ者もいるわ」

 

「便利な言い換えはもういい」

 

 霊夢の声が少し荒くなった。

 

「守矢は信仰、永遠亭は薬、紅魔館は契約。あんたは何? 死者の名で生者から取り立ててるの?」

 

 妖夢が一歩前に出た。

 

「霊夢。それ以上は」

 

「いいの、妖夢」

 

 幽々子の声はやわらかかった。

 

「霊夢は怒っているのよ。怒っている時の霊夢は、だいたい正しいところを踏むわ」

 

 妖夢は口を閉じた。

 

 幽々子は続けた。

 

「白玉楼は、金を貸す。品も預かる。時には、表に出せない武器や妖具を封じる。借り手は人間だけではない。妖怪も、神の使いも、寺の者も、山の技術者も、紅い館の関係者もいる」

 

「紅魔館の?」

 

 レミリアの瞳が細くなる。

 

「名は言わないわ」

 

「言いなさい」

 

「ここは白玉楼よ、レミリア」

 

 幽々子の声は変わらない。

 

 だが、その瞬間、座敷の空気が冷えた。

 

 レミリアは笑った。

 

「亡霊の屋敷で、吸血鬼に口止め?」

 

「死者は血を流さないわ。あなたには相性が悪い場所でしょう?」

 

 咲夜の指がわずかに動いた。

 

 妖夢の手も刀に近づく。

 

 霊夢が二人の間に札を一枚放った。札は畳に立ち、軽く光る。

 

「ここでやったら両方祓う」

 

「霊夢、私はまだ何もしていないわ」

 

 レミリアが言う。

 

「しそうだった」

 

「理不尽ね」

 

「今夜は全員理不尽だから我慢しなさい」

 

 幽々子は楽しそうに笑った。

 

「霊夢が一番、この場に向いているわね」

 

「褒められてる気がしない」

 

「褒めているわ。白玉楼の帳は、生きている者ほど扱いにくいの」

 

 鈴仙が帳面を見つめながら言った。

 

「あの、この『命の値段』というのは……」

 

 幽々子は鈴仙を見る。

 

「そのままの意味ではないわ。少なくとも、白玉楼の正式な帳面ではね」

 

「正式では?」

 

「それは写しよ。古い債務帳の一部を、誰かが悪意ある題でまとめ直したもの」

 

 霊夢は眉をひそめた。

 

「また偽物?」

 

「偽物ではない。本物を切り貼りしたもの」

 

 文が低く言う。

 

「一番厄介なやつですね。本物だから否定できず、切り貼りだから意味が歪む」

 

「情報屋らしい理解ね」

 

 幽々子は頷いた。

 

「借金の記録、治療費の立替、武器の封印費、護衛の依頼料、葬儀の手配、遺族への送金。そういう記録が、まとめ方ひとつで『命を売り買いした帳面』に見える」

 

 霊夢は言った。

 

「見えるだけ?」

 

 幽々子は菓子を置いた。

 

「見えるだけではないものもあるわ」

 

 座敷が静まった。

 

 幽々子は微笑みを浮かべたまま、恐ろしく淡々と続けた。

 

「借りた金を返せない者はいる。返せないなら、労働で返す。情報で返す。品で返す。時には、危険な仕事で返す。白玉楼は死者の屋敷だから、生者の世界の法では測れない取引も扱う。綺麗ではないわね」

 

「綺麗ではないどころじゃないでしょ」

 

「そうね」

 

 幽々子はあっさり認めた。

 

「でも、借りた者が全員、悪いとは限らない。貸した者が全員、悪いとも限らない。病で金が必要だった者、家を失った者、妖怪に脅された者、仕事を失った者、家族を弔う金がなかった者。白玉楼は、そういう者にも手を伸ばした」

 

「その手で、首根っこも掴んだ」

 

 霊夢が言う。

 

 幽々子は微笑んだ。

 

「ええ。手を伸ばすというのは、そういうことよ」

 

 鈴仙の顔が曇る。

 

「助けと支配が、一緒になっている……」

 

「永遠亭もそうでしょう?」

 

 幽々子の一言に、鈴仙は黙った。

 

「薬を渡せば、患者は永遠亭を頼る。信仰を与えれば、信者は守矢を見る。仕事を与えれば、人足は八雲の現場へ行く。金を貸せば、借り手は白玉楼に頭を下げる。保護を与えれば、相手は紅魔館の所有になる」

 

 レミリアが口を挟む。

 

「所有と保護は違うわ」

 

「そうね。所有する側にとっては」

 

 レミリアの笑みが消える。

 

 文が小さく呟く。

 

「この章、全員に刺さりますね」

 

「章立てするな」

 

 霊夢が睨んだ。

 

 幽々子は債務帳に手を伸ばした。妖夢が一瞬止めようとしたが、幽々子はそのまま表紙に触れる。

 

「これは白玉楼の蔵から出たものではないわ」

 

「どうしてわかるの」

 

「紙の匂いが違う」

 

「匂い?」

 

「白玉楼の蔵に長く眠っていた紙は、もっと死に近い匂いがするの。これは、一度どこか生者の手元に渡っている」

 

 咲夜が言う。

 

「紅魔館に届いた時点で、既に外を経由していたということですか」

 

「そうね」

 

 パチュリーがいない場で、咲夜は自分で考えるように視線を落とした。

 

「紅魔館の封印箱、永遠亭の薬包、八雲の結界杭、白玉楼の債務帳。すべて、持ち出された後で別の場所に置かれている」

 

 文が続ける。

 

「犯人は物を盗んでいるだけでなく、配置している。読ませたい相手に、読ませたい順番で」

 

 霊夢は腕を組んだ。

 

「命蓮寺の船荷から始まった。次に八雲の現場、守矢の講、永遠亭、紅魔館、白玉楼」

 

 鈴仙が言った。

 

「順番に意味があるんでしょうか」

 

「あるでしょうね」

 

 幽々子が答えた。

 

「まず、博麗の印で霊夢を動かす。八雲の杭で紫を焦らせる。守矢の講で神奈子を怒らせる。永遠亭の薬で永琳を外へ引っ張る。紅魔館の台帳でレミリアの所有を揺らす。白玉楼の債務帳で、生者たちの借りを表に出す」

 

「次は?」

 

 霊夢が訊く。

 

 幽々子は庭の方を見た。

 

「掃除屋でしょうね」

 

 霊夢の表情が変わった。

 

「地霊殿?」

 

「汚れたものは、最後に片付ける場所へ行くもの」

 

 文が目を輝かせる。

 

「地底、掃除屋、洗浄屋、証拠隠滅。いよいよ核心ですね」

 

「嬉しそうにするな」

 

 霊夢は言ったが、否定はしなかった。

 

 ここまでの流れを考えれば、次は地霊殿だ。

 

 物を盗む。

 名前を使う。

 証拠を置く。

 汚れを広げる。

 

 その汚れを誰が片付けてきたのか。

 

 地底の掃除屋たちだ。

 

 その時、妖夢が低く言った。

 

「幽々子様。まだ蔵を確認しておりません」

 

「そうね」

 

 幽々子はゆっくり立ち上がった。

 

「皆で見に行きましょうか」

 

「開けるの?」

 

 霊夢が訊く。

 

「開けなければ、誰かに開けられるわ」

 

 幽々子の声は穏やかだった。

 

 だが、その意味は重い。

 

 白玉楼の蔵を開ける。

 

 それは、幽々子が自分の秘密を一部見せるということでもある。あるいは、誰かに先に暴かれるくらいなら、自分で暴くということか。

 

 レミリアが笑った。

 

「ようやく面白くなってきたわね」

 

 幽々子は振り返る。

 

「レミリア。あなた、蔵の中を見て平気かしら」

 

「死者の帳簿くらいで怯えると思う?」

 

「死者より、生者の名前の方が怖いものよ」

 

 レミリアは少しだけ黙った。

 

「望むところよ」

 

 霊夢たちは座敷を出て、庭の奥の蔵へ向かった。

 

 白玉楼の庭は静かだった。池には波がなく、石灯籠の灯だけが淡く揺れている。蔵の前に立つと、その扉の重さがよくわかった。木と鉄と封印札。時間そのものを閉じ込めているような扉だった。

 

 妖夢が鍵を取り出した。

 

 だが、鍵穴に差し込む前に、彼女の手が止まった。

 

「……開いています」

 

 空気が凍った。

 

 霊夢が一歩前に出る。

 

「妖夢、下がって」

 

「いえ、私が」

 

「下がって」

 

 霊夢の声には、有無を言わせない強さがあった。

 

 妖夢は悔しそうに唇を噛み、一歩下がった。

 

 咲夜がレミリアの前に立つ。鈴仙は帳面を抱えたまま、目を鋭くする。文は手帳をしまい、カメラを構えた。

 

 幽々子だけは、静かに蔵を見つめていた。

 

 霊夢は札を扉に貼り、ゆっくりと開けた。

 

 蔵の中は暗かった。

 

 古い紙の匂い。木箱の匂い。鉄の錆びた匂い。封じられた妖気。死者の気配よりも、生者の執着の方が濃い。棚には帳面が並び、奥には布で巻かれた長物、封印された箱、札で閉じられた壺が置かれていた。

 

 武器庫というには静かすぎる。

 金庫というには生臭い。

 墓というには、まだ欲が残りすぎている。

 

 霊夢は中へ入った。

 

 床に、足跡があった。

 

 白い灰のようなものが薄く撒かれ、その上に靴跡が残っている。妖夢が息を呑む。

 

「蔵の中に、足跡……」

 

「誰かが入ったわね」

 

 霊夢はしゃがんで見る。

 

 人間のものに近い。だが、足取りが軽い。重さを感じさせない。まるで、そこにいることを途中でやめた者の足跡だ。

 

 文が低く言った。

 

「こいし?」

 

 霊夢は顔を上げた。

 

「まだ決めつけない」

 

「でも、気配の薄さとしては」

 

「決めつけない」

 

 幽々子が奥を見た。

 

「妖夢」

 

「はい」

 

「あの棚を」

 

 妖夢が急いで奥の棚へ向かった。帳面が並んでいた場所だ。彼女は一冊ずつ確認し、顔を青くした。

 

「幽々子様」

 

「何がないの」

 

「債務者名簿の一部。それから、封印品の移送記録。さらに……」

 

 妖夢の声が詰まる。

 

「さらに?」

 

「武器商の帳面が、二冊ありません」

 

 レミリアが面白そうに眉を上げる。

 

「白玉楼、武器商までやっていたの?」

 

 妖夢が怒りを抑えた声で言う。

 

「売っていたのではありません。預かり、封じていたものもあります」

 

「でも、帳面がある」

 

「管理のためです」

 

 霊夢は言った。

 

「管理、ね」

 

 妖夢は反論しようとしたが、言葉を飲み込んだ。今夜、その言葉がどれほど胡散臭く響くか、彼女にもわかっていた。

 

 幽々子は蔵の中央に立ち、目を細めた。

 

「持っていかれたのは、白玉楼の汚いところばかりね」

 

「綺麗なところもあるの?」

 

 霊夢が言うと、幽々子は笑った。

 

「あるわよ。桜とか、お茶とか、お菓子とか」

 

「帳簿と武器の話をしてるの」

 

「なら、少ないわね」

 

 霊夢はため息をついた。

 

 蔵の奥に、一つだけ開いた箱があった。

 

 妖夢が近づこうとするのを、咲夜が止めた。

 

「待って。糸が張ってある」

 

 咲夜は空中を指差した。細い糸。ほとんど見えない。箱を開けた者が、何かを仕掛けていったらしい。咲夜はナイフで糸を切るのではなく、手袋越しにそっと外した。

 

 箱の中には、白い紙片が一枚。

 

 霊夢はもう驚かなかった。

 

 文が呟く。

 

「恒例ですね」

 

 紙には、こう書かれていた。

 

『貸したものは返ってくる。

 返らないものは、地の底へ沈む。

 沈んだものを洗う者に聞け。』

 

 霊夢は紙を握った。

 

「地霊殿」

 

 幽々子が静かに頷いた。

 

「やはりね」

 

「やはりって、知ってたの?」

 

「流れとしては」

 

「流れって便利な言葉ね」

 

「あなたも使うようになるわ」

 

「嫌よ」

 

 鈴仙が不安そうに言う。

 

「地霊殿は、永遠亭とも関わりがあります。廃棄する薬品や危険物の処理を頼むことも……」

 

 そこで鈴仙は口を閉じた。

 

 霊夢が見る。

 

「続けて」

 

「……表に出せないものを、地底へ送ることがあります。危険だから、処理が必要だから、という理由です」

 

「永遠亭だけ?」

 

「わかりません」

 

 咲夜が言った。

 

「紅魔館にも、処理を依頼した記録があります」

 

 レミリアが咲夜を見る。

 

「咲夜」

 

「隠しても無駄かと」

 

「従者の判断にしては大胆ね」

 

「お嬢様が先ほど、主人は取り返すとおっしゃいました。取り返すには、まず失ったものを認める必要があります」

 

 レミリアはしばらく咲夜を見ていたが、やがて笑った。

 

「いいわ。続けなさい」

 

 咲夜は霊夢に向き直った。

 

「紅魔館では、表に出せない契約品、破棄された書類、危険な魔法具の処分を地底に依頼することがあります。直接ではありません。仲介を通します」

 

「誰」

 

「その名は、今ここでは」

 

「咲夜」

 

 レミリアが言う。

 

「言いなさい」

 

 咲夜は一瞬だけ目を伏せた。

 

「命蓮寺の海運です」

 

 霊夢は目を細めた。

 

「繋がったわね」

 

 命蓮寺の船荷。

 八雲の工事。

 守矢の講。

 永遠亭の薬。

 紅魔館の契約。

 白玉楼の債務。

 そして、地底の処理。

 

 汚れたものは、地底へ流れていた。

 

 文が低く言った。

 

「幻想郷の裏側の下水ですね」

 

 妖夢が睨む。

 

「言い方が悪い」

 

「でも、構造としては近いでしょう。上の勢力が汚したものを、下へ流す。地底で洗う。洗ったことにする」

 

 鈴仙の顔が曇った。

 

「洗ったことにする……」

 

 霊夢は蔵の中を見回した。

 

 ここにある帳面も、武器も、債務も、全部が地底と繋がっている可能性がある。処理されたもの。消されたもの。なかったことにされたもの。

 

 その行き先に、さとりがいる。

 

 心を読む妖怪。

 地霊殿の主。

 幻想郷中の悪党が、最も会いたくない相手。

 

 なぜなら、嘘が通じない。

 

 幽々子が言った。

 

「霊夢。地霊殿へ行くなら気をつけなさい」

 

「みんな気をつけろって言うわね」

 

「地霊殿では、隠したことがそのまま傷になるわ。あなたが隠していることも、文が書かなかったことも、鈴仙が言えなかったことも、レミリアが所有と呼ぶものも、咲夜が忠誠と呼ぶものも、妖夢が正義だと思っているものも。全部、読まれる」

 

「幽々子は?」

 

 霊夢が訊く。

 

 幽々子は微笑む。

 

「私は死んでいるから、少しだけずるいわね」

 

「絶対ずるい」

 

 妖夢が小さく言う。

 

「幽々子様は、同行なさるのですか」

 

「私は行かないわ」

 

「なぜ」

 

「地底は食べ物が少なそうだから」

 

「幽々子様」

 

「冗談よ。半分は」

 

 霊夢は幽々子を見る。

 

「本当の理由は?」

 

「白玉楼を空けられない。蔵に入られた以上、こちらも守らなければならないものがある。それに」

 

「それに?」

 

「私が行くと、話が死者の方へ寄りすぎるわ。次は、生きている者が地底へ降りるべき」

 

 レミリアが鼻で笑う。

 

「私は行くわ」

 

「でしょうね」

 

 霊夢が言う。

 

「でも地底で偉そうにしすぎたら置いていく」

 

「置いていけると思う?」

 

「祓えば置いていける」

 

「乱暴ね」

 

「今さら」

 

 咲夜が静かに言う。

 

「お嬢様が行かれるなら、私も」

 

「当然よ、咲夜」

 

 鈴仙は不安そうに霊夢を見る。

 

「私は……」

 

「来るの?」

 

「師匠に、薬包の確認だけと言われています。でも、地底に永遠亭の処理品が関わっているなら、戻って報告すべきか、同行すべきか……」

 

「自分で決めなさい」

 

 霊夢は言った。

 

「永琳の指示じゃなくて」

 

 鈴仙は息を呑んだ。

 

「自分で」

 

「そう。嫌なら帰る。気になるなら来る。どっちでもいいわ」

 

 鈴仙はしばらく黙っていた。

 

 やがて、債務帳を強く抱きしめる。

 

「……行きます。永遠亭の名前が使われたままなのは、嫌です」

 

「それでいい」

 

 文が羽を広げた。

 

「もちろん私は行きます」

 

「聞いてない」

 

「言わなくてもわかるでしょう?」

 

「わかるから面倒なのよ」

 

 妖夢が幽々子に言った。

 

「幽々子様。私は」

 

「妖夢は残りなさい」

 

「しかし」

 

「蔵を開けられたのよ。白玉楼を守る者が必要」

 

「……はい」

 

 妖夢は悔しそうに頷いた。

 

 霊夢は蔵を出ようとして、足を止めた。

 

 入口近くの棚に、小さな木札が落ちていた。白玉楼のものではない。見覚えがある。

 

 人里の問屋で使われる荷札。

 

 その裏に、焦げた跡があった。白い鳥の羽根のような形にも見える。

 

 霊夢はそれを拾った。

 

 妹紅。

 慧音。

 自警組。

 問屋。

 火消し。

 人材派遣。

 

 上の勢力が汚したものを下へ流す。

 その途中で、人里の実働部隊が必ず関わる。

 

 荷を運ぶ。

 火を消す。

 人を動かす。

 記録に残らない処理をする。

 

 妹紅たちは、どこまで知っているのか。

 

 あるいは、どこまで使われてきたのか。

 

 蔵の外へ出ると、空がわずかに白み始めていた。冥界の朝は、生者の朝とは違う。光が差すのではなく、闇が薄くなるだけだった。

 

 幽々子は庭に立ち、静かに言った。

 

「霊夢」

 

「何」

 

「怒りだけを追うと、怒っている者しか見えなくなるわ」

 

「妹紅のこと?」

 

「誰とは言わない。でも、怒っている者は目立つ。火を持つ者は疑われやすい。けれど、火のそばで油を売る者は、意外と見逃されるものよ」

 

 霊夢は黙った。

 

 幽々子は微笑む。

 

「今回の相手は、怒りをよく知っている。でも、怒りそのものではないかもしれない」

 

「じゃあ何」

 

「諦めかもしれないわね」

 

「諦め?」

 

「怒りは燃える。諦めは沈む。沈んだものは、地の底へ行く」

 

 霊夢は幽々子を見た。

 

「地霊殿に答えがあるってこと?」

 

「答えがあるかどうかは知らないわ。でも、そこには、捨てたものがある」

 

 文が小さく言う。

 

「幻想郷が捨てたもの」

 

 幽々子は頷いた。

 

「そう。幻想郷の上にいる者たちが、見なかったことにしたもの」

 

 レミリアが不機嫌そうに言った。

 

「随分と詩的ね」

 

「死者の屋敷ですもの」

 

「私は詩より契約の方が好きよ」

 

「だから紅魔館は赤いのね」

 

「どういう意味?」

 

「さあ」

 

 霊夢は歩き出した。

 

「行くわよ。地霊殿」

 

 鈴仙、文、レミリア、咲夜が続く。

 

 妖夢は門の前まで見送った。彼女は最後に霊夢へ言った。

 

「霊夢」

 

「何」

 

「妹紅を、決めつけないでください」

 

 霊夢は足を止めた。

 

「慧音にも似たようなこと言われたわ」

 

「妹紅は危うい人です。ですが、燃やすだけの人ではありません」

 

「知ってる」

 

「本当に?」

 

「たぶん」

 

 妖夢は少しだけ不安そうな顔をした。

 

「たぶん、ですか」

 

「今夜、確かなことなんてほとんどないわ」

 

 霊夢は荷札を袖にしまった。

 

「だから見に行くのよ」

 

 白玉楼を後にすると、冥界の静けさが背中に残った。

 

 死者の蔵は開けられた。

 白玉楼の帳面は盗られた。

 武器商の記録も消えた。

 問屋の荷札が残された。

 次の行き先は地底。

 

 地霊殿。

 

 そこには、汚れを洗う者がいる。

 

 だが、汚れは洗えば消えるのか。

 それとも、別の場所に移るだけなのか。

 

 霊夢にはわからない。

 

 ただ、幻想郷の悪党たちは皆、同じことをしていた。

 

 信仰を売る。

 薬を売る。

 契約を売る。

 債務を売る。

 情報を売る。

 秩序を売る。

 沈黙を売る。

 

 そして、いらなくなったものを地底へ捨てる。

 

 霊夢は石段を下りながら、低く呟いた。

 

「全員、掃除してもらってたわけね」

 

 文が横で言う。

 

「では、次は掃除屋に取材ですね」

 

「取材じゃない」

 

「異変解決?」

 

「それも違う気がする」

 

 鈴仙が訊く。

 

「では、何ですか」

 

 霊夢は少し考えた。

 

 そして言った。

 

「落とし物探し」

 

 文が首を傾げる。

 

「落とし物?」

 

「幻想郷が捨てたものを、誰かが拾って投げ返してる。なら、何を捨てたのか見に行く」

 

 レミリアが笑った。

 

「詩的なことを言うじゃない」

 

「うるさい」

 

「嫌いではないわ」

 

「褒めるな」

 

 冥界の石段の下に、地底へ続く闇が待っていた。

 

 夜は終わりかけている。

 だが、幻想郷の裏側では、これからが一番暗い時間だった。

 

 霊夢は振り返らなかった。

 

 白玉楼の門は、静かに閉じられた。

 

 その奥で、幽々子は庭に立ち、誰もいない蔵の方を見ていた。

 

 妖夢が隣に来る。

 

「幽々子様」

 

「何かしら」

 

「地霊殿に、答えはあるのでしょうか」

 

 幽々子は少しだけ考えた。

 

「答えというより、残り物ね」

 

「残り物?」

 

「食べ終わった皿を見れば、誰が何を食べたかわかるでしょう?」

 

「……幽々子様らしい例えです」

 

「地底には、幻想郷が食べ散らかした皿が積まれているのよ」

 

 妖夢は黙った。

 

 幽々子は淡く笑う。

 

「そして、皿を洗う者は、誰が一番汚したかを知っている」

 

 冥界の風が吹いた。

 

 桜の花びらが、咲いてもいないのに舞った。

 

 その一枚が、開いた蔵の前に落ちる。

 

 花びらの白は、灰のようにも、羽根のようにも、紙片のようにも見えた。

 

 どれにも見えるものは、誰の罪にもできる。

 

 だからこそ、誰かが使っている。

 

 幽々子は花びらを見つめ、ぽつりと言った。

 

「さて。次は、誰の心が読まれるのかしらね」

 

 その声は、誰にも届かなかった。

 

 白玉楼は再び、死者の屋敷らしい静けさに包まれた。

 

 だが、蔵の奥に残った空白だけは、もう元には戻らなかった。

 

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