東方アウトレイジ    作:たこ焼き 龍月

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第七章 地霊殿の掃除屋

 

 

 地底へ降りる道は、口を開けた傷のようだった。

 

 冥界の静けさを背に、霊夢たちは旧地獄へ続く穴の前に立っていた。上を見れば、幻想郷の空はまだ淡く白み始めたばかりだというのに、穴の底には夜より濃い闇が沈んでいる。

 

 空気が重い。

 

 土の匂い、鉄の匂い、古い煙の匂い。

 そして、何かを焼いた後に残る、嫌な甘さ。

 

 鈴仙は穴を覗き込み、すぐに顔を引いた。

 

「……ここ、本当に降りるんですか」

 

「来たんだから降りるでしょ」

 

 霊夢は当然のように言った。

 

「地底ですよ。旧地獄ですよ。永遠亭でも白玉楼でも紅魔館でもないんですよ」

 

「今さら怖がる相手を選んでる場合じゃないわ」

 

 文が翼を軽く広げる。

 

「地底は取材しがいがありますねえ。上の連中が見ないふりをしたものが、まとめて沈んでいる場所ですから」

 

「取材じゃないって何回言わせるの」

 

「では、同行記録」

 

「もっと嫌な言い方になったわ」

 

 レミリアは穴の前で不満げに鼻を鳴らした。

 

「湿っぽい場所ね。紅魔館の地下の方がまだ品があるわ」

 

 咲夜が静かに言う。

 

「お嬢様、足元にお気をつけください」

 

「咲夜、私を誰だと思っているの」

 

「紅魔館のご当主です」

 

「なら、地底程度で転ぶわけがないでしょう」

 

 その直後、レミリアは小石を踏んでわずかによろめいた。

 

 咲夜が何事もなかったように支える。

 

「……今のは地面が悪いのよ」

 

「はい。地面が悪うございました」

 

 霊夢は呆れた顔で二人を見た。

 

「帰る?」

 

「帰らないわ。紅魔館を侮辱した相手の尻尾がここにあるなら、私が踏む」

 

「その靴で?」

 

「何か文句があるの?」

 

「別に」

 

 霊夢は札を一枚取り出し、穴の闇へ投げた。札は淡い光を放ちながら、ゆっくりと下へ落ちていく。しばらくしても底には届かない。まるで闇そのものが光を飲み込んでいるようだった。

 

 文が目を細める。

 

「歓迎の灯りはなさそうですね」

 

「地底の歓迎なんて、ろくなものじゃないわ」

 

 霊夢は先頭に立ち、降り始めた。

 

 細い階段のような岩道が、穴の内側を螺旋状に続いている。足を踏み外せば、どこまでも落ちる。壁には古い札や縄が残っていた。誰かがかつて封じ、誰かが破り、誰かが通った跡だ。

 

 降りるたびに、上の空気が遠ざかる。

 

 博麗の賭場。

 八雲の工事現場。

 守矢の集会所。

 永遠亭の薬棚。

 紅魔館の夜会。

 白玉楼の蔵。

 

 どの場所にも、灯りがあった。

 だがここには、灯りの残骸しかない。

 

 鈴仙は布袋を胸に抱えていた。中には偽薬包、紅魔館から渡された債務帳、白玉楼の蔵で拾った紙片が入っている。どれも本物であり、どれも誰かに見せるために置かれたものだった。

 

 咲夜は黙って歩いている。

 レミリアは時々不満を口にする。

 文は壁の傷や古い札を見ては、手帳に何かを書きつける。

 

 霊夢は黙っていた。

 

 地底へ近づくにつれ、頭の中のざわつきが大きくなっていく。予感というより、誰かに遠くから見られている感覚だった。目ではない。もっと奥。心の薄い皮を、指先でなぞられるような感覚。

 

 鈴仙が立ち止まった。

 

「……気持ち悪いです」

 

「薬?」

 

 霊夢が訊く。

 

「違います。視線みたいなものが」

 

「さとりね」

 

 文が言った。

 

「古明地さとり。心を読む妖怪。地霊殿の主。上の悪党たちが一番会いたがらない相手です」

 

「文は会いたいの?」

 

「もちろん。取材対象としては最高です」

 

 その瞬間、闇の奥から声がした。

 

「嘘ですね」

 

 全員が足を止めた。

 

 声は柔らかかった。

 だが、逃げ場がなかった。

 

「あなたは取材対象として私に会いたいのではありません。自分が読まれることを恐れながら、それでも読まれた時に何が出るかを知りたい。そういう悪趣味な好奇心です」

 

 文の笑顔が固まった。

 

「……これは手厳しい」

 

 岩道の先に、灯りが見えた。

 

 旧都へ続く広い空間に出ると、その向こうに地霊殿があった。黒い石造りの館。上の世界の館とは違い、飾り気は少ない。だが、壁の奥に熱を溜め込んでいるような存在感があった。

 

 入口に、古明地さとりが立っていた。

 

 薄い髪、静かな目、胸元に浮かぶ第三の目。小柄な体に似合わないほど、周囲の空気を支配している。レミリアのように命令するわけではない。神奈子のように圧をかけるわけでもない。ただ、こちらを見る。

 

 それだけで、隠し事が後ずさる。

 

「ようこそ、地霊殿へ」

 

 さとりは静かに言った。

 

「歓迎しているようには見えないわね」

 

 霊夢が返すと、さとりは微笑んだ。

 

「歓迎していますよ。あなたたちは、ようやく下まで降りてきました」

 

「ようやく?」

 

「ええ。上でずいぶん歩き回っていましたね。博麗の賭場、八雲の現場、守矢の講、永遠亭の薬棚、紅魔館の夜会、白玉楼の蔵。皆さん、ご苦労様です」

 

 鈴仙が青ざめる。

 

「見ていたんですか」

 

「見てはいません。けれど、心は流れてきます。上の者たちが捨てたものと一緒に」

 

 レミリアが不快そうに言った。

 

「ずいぶん無礼な物言いね。私の心まで流れてきたと言うの?」

 

 さとりはレミリアを見る。

 

「あなたの心は流れてきません。強すぎて、沈みません。ですが、あなたの館で働く者、契約された者、去っていった者、切り捨てられた者。そういう心は、何度もここへ来ました」

 

 レミリアの表情が消えた。

 

 咲夜が一歩前に出る。

 

「さとり様。お嬢様への侮辱は」

 

「侮辱ではありません。記録です」

 

「心を勝手に読んで、記録と呼ぶのですか」

 

「はい」

 

 咲夜の指が動く。

 

 霊夢がその前に札を投げ、咲夜の足元に立てた。

 

「やめなさい」

 

「霊夢様」

 

「地底で時間を止めたら、何が起きるかわからないでしょ」

 

 さとりは咲夜を見つめた。

 

「あなたは今、私を黙らせる方法を三つ考えました。一つ目は時間を止めて距離を詰める。二つ目は第三の目を狙う。三つ目は、お嬢様に判断を仰ぐふりをして、その間に出口を確認する」

 

 咲夜の顔がわずかに強張った。

 

 レミリアは低く笑った。

 

「面白いじゃない。咲夜、動くな」

 

「かしこまりました」

 

 文が小声で言う。

 

「これは記事にすると大変なことになりますね」

 

 さとりは文へ目を向ける。

 

「あなたは今、『記事にすると』ではなく、『どう書けば自分だけ助かるか』を考えました」

 

「……心外ですね」

 

「心外だと思っている心はありません」

 

 文は珍しく黙った。

 

 霊夢はさとりに言った。

 

「話が早そうね」

 

「そうであればいいのですが」

 

「命蓮寺の船荷、八雲の結界杭、守矢の講の偽薬、永遠亭の禁制薬、紅魔館の台帳、白玉楼の債務帳。全部、ここに繋がってる」

 

「ええ」

 

「地霊殿がやったの?」

 

「いいえ」

 

「なら、何を知ってる」

 

「多くを」

 

「言いなさい」

 

 さとりは微笑んだ。

 

「その前に、中へどうぞ。ここは立ち話に向かない場所です。地底の入口は、上の疑いが落ちてくる場所ですから」

 

「疑い?」

 

「ええ。あなたたちのような」

 

 霊夢は舌打ちしたが、さとりについて歩き出した。

 

 地霊殿の中は、熱かった。

 

 外気は重く冷たいのに、館の中には地の底から上がってくる熱がある。壁には古い配管が走り、時々低い音を立てる。廊下の奥では、何か大きな炉が息をしているようだった。

 

 赤い目の猫が廊下の角から現れた。

 

 火焔猫燐。お燐。

 

 彼女はにやりと笑い、霊夢たちを見る。

 

「あらまあ、上の有名人がまとめてご来店だ。今日はずいぶん賑やかだねえ」

 

「お燐」

 

 さとりが静かに言う。

 

「余計なことは言わないように」

 

「はいはい。言う前に読まれるんだから、黙ってても同じだけどね」

 

 お燐は鈴仙の布袋を見て、鼻をひくつかせた。

 

「その袋、嫌な匂いがするね。薬、紙、古い金、血筋、契約。上の世界の腐った盛り合わせだ」

 

 鈴仙が布袋を抱きしめる。

 

「これは証拠です」

 

「証拠ねえ。上の連中は、捨てる時にはゴミって呼ぶくせに、拾い直すと証拠って呼ぶんだ」

 

 霊夢はお燐を睨んだ。

 

「喧嘩売ってる?」

 

「まさか。あたいは運ぶだけだよ。昔からね」

 

「何を」

 

「いらなくなったもの。見られたくないもの。燃やせないもの。埋められないもの。祓えないもの」

 

 レミリアが低く言う。

 

「死体運びの猫が、よく喋るわね」

 

 お燐の笑顔が少しだけ尖った。

 

「紅いお嬢様。あんたの館から来た荷も、何度か運んだよ。もっとも、あたいは中身を聞かない。運び賃さえ払えば、荷物は荷物だ」

 

 咲夜の視線が鋭くなる。

 

 レミリアは微笑んだが、目は笑っていなかった。

 

「紅魔館の名を軽々しく出すのね」

 

「名前を軽くしたのは、上の連中さ」

 

 お燐は肩をすくめた。

 

「何でも下へ流せば消えると思ってる。紙も、薬も、武器も、約束も、名前も、たまには人の思い出まで」

 

「お燐」

 

 さとりが再び名を呼ぶ。

 

 お燐は両手を上げた。

 

「わかってますよ、さとり様。核心はそちらで」

 

 霊夢たちは広い応接室へ通された。

 

 応接室といっても、紅魔館のような華やかさはない。古い椅子と机。壁に並ぶ記録棚。床には地底の熱を逃がすための鉄格子があり、下から赤い光が漏れている。

 

 部屋の隅には、巨大な鳥のような影があった。

 

 霊烏路空。お空。

 

 彼女は壁にもたれ、霊夢たちを見ると首を傾げた。

 

「さとり様、この人たち燃やす?」

 

「燃やしません」

 

「まだ?」

 

「燃やしません」

 

「そっか」

 

 お空は残念そうに頷いた。

 

 鈴仙が小声で言う。

 

「……帰りたいです」

 

「私も少し帰りたいわ」

 

 霊夢が言うと、レミリアが笑った。

 

「博麗の巫女が弱気ね」

 

「うるさい。あんたから先に燃やされたい?」

 

「誰が誰を燃やすですって?」

 

 お空が嬉しそうに顔を上げる。

 

「違う、座ってなさい」

 

 さとりの一言で、お空は素直に椅子へ座った。

 

 さとりは机の前に立ち、霊夢たちを見回した。

 

「さて。あなたたちは、地霊殿を疑っていますね」

 

「疑ってるわ」

 

 霊夢は即答した。

 

「幻想郷の汚れたものがここに流れてる。今回盗まれたものも、処理や洗浄に関係してる。白玉楼の紙には『沈んだものを洗う者に聞け』とあった。これで疑うなって方が無理でしょ」

 

「正しい判断です」

 

 さとりはあっさり認めた。

 

「地霊殿は、幻想郷の掃除屋です。上の勢力が見せたくないものを、地底へ運び、封じ、焼き、洗い、記録から消す。それを請け負ってきました」

 

 鈴仙が青ざめる。

 

「やっぱり……」

 

「永遠亭からも来ました。危険な薬の廃棄、失敗した処方の処理、患者記録の一部、廃棄された器具」

 

「患者記録まで?」

 

「名前は伏せられていましたが」

 

 鈴仙は唇を噛んだ。

 

 さとりはレミリアを見る。

 

「紅魔館からは、契約破棄の記録、処分された封印具、使われなくなった従属契約、夜会で出せない証言」

 

 レミリアは黙った。

 

「白玉楼からは、返済不能の債務記録、封じられた武器、持ち主のいない遺品」

 

 文が低く言う。

 

「八雲からは?」

 

「結界工事で出た危険な廃材、境界の歪みを受けた物品、存在したことにしたくない下請け契約」

 

「守矢は?」

 

「講の失敗記録、信者間の揉め事、山の事故報告、表に出せない祈祷結果」

 

 霊夢は腕を組んだ。

 

「博麗は?」

 

 さとりは霊夢を見た。

 

「あなたのところから直接来たものは少ない」

 

「へえ」

 

「ですが、博麗の賭場で負けた者、用心棒に追われた者、示談で黙らされた者。その後始末は、別の勢力を経由してここへ来ることがあります」

 

 霊夢は黙った。

 

 胸の奥に、嫌なものが沈む。

 

 自分が外へ出した面倒事。

 戸を閉めて見ないことにしたもの。

 それは消えたのではなく、ここへ落ちていた。

 

 さとりは言う。

 

「地霊殿は、上の世界の汚れを吸い込む穴でした。けれど、穴は底なしではありません」

 

 お燐が机に腰掛ける。

 

「溜まるんだよ。捨てられたものはね。燃やしても、洗っても、埋めても、臭いは残る」

 

 お空が無邪気に言う。

 

「燃やせばいいのに」

 

「燃やしても残るものがあるの」

 

 さとりが言った。

 

「心です」

 

 部屋が静かになった。

 

「物は壊せる。紙は燃やせる。薬は中和できる。武器は封じられる。けれど、捨てられた側の心は、どこかに残る。上の勢力はそれを見ない。見たくない。だから、私が見ることになる」

 

 文が低く訊いた。

 

「それで、今回の犯人はその捨てられた心の中にいると?」

 

「近いです」

 

「近い?」

 

「犯人、という言葉は簡単すぎます。今回動いているのは、一人ではない」

 

 霊夢の目が鋭くなった。

 

「複数?」

 

「ええ。ただし、全員が同じ目的ではありません。怒っている者、利用している者、見て見ぬふりをした者、途中で怖くなった者、そして、止める気がない者」

 

 レミリアが言う。

 

「曖昧ね。心を読めるなら、名前を言えばいいでしょう」

 

 さとりはレミリアを見た。

 

「読める心は、目の前にある心だけです。過去にここへ流れた心の残り香から、すべての名前を断定することはできません」

 

「便利な能力にも穴があるのね」

 

「はい。あなたの運命と同じで」

 

 レミリアの瞳が赤く光った。

 

 咲夜が一歩出るが、レミリアが手で止める。

 

「いいわ。続けなさい」

 

 さとりは机の上に一冊の帳面を置いた。

 

 黒い表紙。題名はない。

 

「これは地霊殿の洗浄記録です」

 

「洗浄記録?」

 

 鈴仙が訊く。

 

「上から来たものを、いつ、誰が、何として受け取り、どこへ処理したか。すべては書けません。ですが、完全に記録を消すこともしません。忘れれば、同じ汚れがまた流れてくるから」

 

 霊夢は帳面を見た。

 

「見せなさい」

 

「そのために出しました」

 

 さとりは帳面を開いた。

 

 ページには、細かい文字が並んでいた。だが、名は暗号化されている。勢力名も直接は書かれていない。印、記号、日付、荷の種類、処理内容。ところどころ、赤い線が引かれている。

 

 文が覗き込む。

 

「この赤線は?」

 

「今回盗まれた、もしくは偽装に使われた可能性のある記録です」

 

 赤線は多かった。

 

 永遠亭の薬品廃棄。

 紅魔館の契約記録処理。

 白玉楼の封印武器移送。

 八雲の工事廃材。

 守矢の講関係の揉め事記録。

 命蓮寺経由の混載荷。

 

 霊夢はある欄で指を止めた。

 

「これ」

 

 日付は、命蓮寺の船荷が消える三日前。

 荷の種類は「未分類紙束、封印部品、薬瓶、契約片、債務写し」。

 搬入元は、命蓮寺海運。

 受取予定は、地霊殿洗浄場。

 処理状況は、未了。

 

「未了って?」

 

 さとりが答える。

 

「届いていません」

 

「命蓮寺の船荷?」

 

「おそらく、その一部です。上の勢力から出た汚れをまとめて、地底へ送る予定だった」

 

 霊夢の声が低くなる。

 

「それが途中で消えた」

 

「はい」

 

 咲夜が言う。

 

「つまり、盗まれた荷は、最初から地霊殿へ処理される予定だったもの?」

 

「ええ。少なくとも一部は」

 

「では、紅魔館の封印箱も」

 

「処理対象に含まれていました」

 

 レミリアが不快そうに言う。

 

「紅魔館は、台帳を処分する指示など出していないわ」

 

 咲夜が静かに言った。

 

「お嬢様。失われた台帳は、原本ではなく写しです。処分対象になり得ます」

 

「咲夜」

 

「紅魔館内部で、誰かが古い写しを処理に出した可能性があります」

 

 レミリアは黙った。

 

 さとりは鈴仙を見る。

 

「永遠亭の薬も同じです。原瓶そのものではなく、廃棄予定の試薬箱と記録片が含まれていた」

 

 鈴仙は小さく言う。

 

「でも、師匠は封印棚から原瓶が消えたと」

 

「ええ。そこが問題です」

 

 さとりは帳面を閉じた。

 

「最初に消えた荷には、各勢力の汚れの写しが入っていた。処理されるはずだったものです。ところが、それを奪った者は、その写しを使って、本物に見える騒動を起こした。さらに、その後、いくつかの勢力から本物も抜かれた」

 

 霊夢は理解した。

 

「最初の荷で、どこに何があるかを知った」

 

「はい」

 

「写しを見て、本物の場所を探った」

 

「あるいは、写しを持っていた者が、内部の協力者に本物を抜かせた」

 

 文が低く言う。

 

「内部協力者が複数いる」

 

「そうです」

 

 霊夢は舌打ちした。

 

 全員が悪党。

 全員に穴がある。

 全員の下に、不満を抱えた者がいる。

 

 犯人が一人である必要はない。

 むしろ、一人のはずがない。

 

 鈴仙が震える声で言う。

 

「永遠亭の中にも、協力者がいるということですか」

 

 さとりは鈴仙を見た。

 

「可能性はあります」

 

「誰ですか」

 

「それを今、あなたは一番聞きたくて、一番聞きたくない」

 

 鈴仙は俯いた。

 

 霊夢はさとりに訊く。

 

「地霊殿の内部は?」

 

「疑うべきです」

 

 お燐が目を丸くする。

 

「さとり様?」

 

「地霊殿も例外ではありません。洗浄記録に触れられる者は限られます。荷が届かなかった時、その情報を誰が上に戻したか。誰が黙っていたか。誰が旧都の運び屋に話したか。調べる必要がある」

 

 お燐は口を尖らせた。

 

「私はやってないよ」

 

 さとりが静かに見る。

 

「あなたは、直接はやっていない」

 

「直接は、って嫌な言い方だね」

 

「あなたは、命蓮寺の船荷が消えた夜、旧都の問屋筋から妙な話を聞いた。そしてそれを、面白半分で別の運び屋に話した」

 

 お燐は顔をしかめた。

 

「あれは噂話だよ」

 

「噂話は、地底では荷車より早く走ります」

 

 お燐は黙った。

 

 霊夢は言った。

 

「問屋筋?」

 

 さとりは霊夢を見る。

 

「人里の自警組と繋がる問屋です」

 

 妹紅。

 慧音。

 火消し。

 人材派遣。

 問屋。

 

 またそこへ戻る。

 

 霊夢は低く言った。

 

「妹紅か慧音が関わってる?」

 

「関わっています」

 

 さとりは即答した。

 

 部屋の空気が一気に重くなる。

 

 鈴仙が息を呑む。

 文の目が細くなる。

 レミリアが笑みを浮かべる。

 

 霊夢はさとりを睨んだ。

 

「どこまで」

 

「それは、あなたが本人に聞くべきです」

 

「読めないの?」

 

「読めます。けれど、私がここで言えば、あなたはその言葉を証拠にしてしまう。心は証拠ではありません。特に、怒りの心は」

 

「便利な逃げ方ね」

 

「ええ。私も地霊殿を守る者ですから」

 

 霊夢は机に手をついた。

 

「さとり。今回の件で、あんたたちは被害者? 共犯? それとも掃除屋として見逃したの?」

 

 さとりは静かに霊夢を見る。

 

「全部です」

 

 霊夢は黙った。

 

「地霊殿は、荷を失った被害者です。上の汚れを引き受けてきた共犯でもあります。そして、捨てられた心を見ながら、上へ戻さなかった見逃し者でもあります」

 

 さとりの声は淡々としていた。

 

 だが、その淡々とした声が、逆に重かった。

 

「幻想郷の上にいる者たちは、汚れを流した。私たちは受け取った。受け取れば、上は綺麗な顔ができる。私たちは、そういう役を引き受けてきた。だから、今さら完全な被害者の顔はできません」

 

 文が小さく言う。

 

「珍しいですね。自分の罪を先に言う勢力は」

 

 さとりは文を見る。

 

「隠しても読まれる側の気分を、私はよく知っていますから」

 

 その時、部屋の奥の扉が、音もなく開いた。

 

 誰も触れていない。

 

 咲夜が即座に反応し、ナイフを構える。鈴仙が身を固くする。お空が立ち上がりかける。お燐の尻尾が揺れる。

 

 扉の向こうには、誰もいなかった。

 

 いや、いた。

 

 気づいた時には、部屋の中央に少女が立っていた。

 

 古明地こいし。

 

 第三の目を閉じた少女。

 気配がない。

 存在しているのに、そこにいることを誰も意識できない。

 

 霊夢は一瞬、心臓を掴まれたような感覚を覚えた。

 

「こいし」

 

 さとりの声が少しだけ変わる。

 

 こいしはにこにこと笑っていた。

 

「お客さんがいっぱいだね」

 

「どこへ行っていたの」

 

「上」

 

「上のどこ」

 

「いろいろ」

 

 こいしはくるりと回った。

 

「赤いところ、白いところ、竹のところ、山のところ、人のところ。みんな、怖い顔してた」

 

 霊夢はこいしを見た。

 

「紅魔館の広間に紙を置いたの、あんた?」

 

 こいしは首を傾げた。

 

「紙?」

 

「白玉楼の蔵に入った?」

 

「蔵?」

 

「命蓮寺の船荷は?」

 

「船?」

 

 霊夢の苛立ちが増す。

 

「とぼけてる?」

 

 こいしは笑った。

 

「とぼけてるつもりはないよ。覚えているものと、覚えていないものがあるの」

 

 さとりが静かに言う。

 

「こいしは、誰かに頼まれて動くことがあります。本人も、それを強い目的として覚えていないことがある」

 

 レミリアが不快そうに言う。

 

「便利な手駒ね」

 

 さとりの目が鋭くなる。

 

「妹を手駒と呼ばないでください」

 

「実際、そう使われているのではなくて?」

 

「だからこそ、私は怒っています」

 

 その声に、初めて明確な感情があった。

 

 こいしは周囲を見回し、鈴仙の布袋を指差した。

 

「あ、それ知ってる」

 

 鈴仙が袋を抱きしめる。

 

「これを?」

 

「うん。紙がいっぱい入ってた。重い紙。みんな、見たくないって言ってた」

 

 霊夢が一歩近づく。

 

「どこで見た」

 

「人里」

 

「誰が持ってた」

 

「怖い顔の人」

 

「妹紅?」

 

 こいしは首を傾げる。

 

「火の人は怖いけど、悲しかった。紙を持ってた人は、もっと静かだった」

 

「慧音?」

 

「角が見えた気がした。でも、見えなかった気もする」

 

 霊夢は眉をひそめた。

 

 上白沢慧音。

 歴史を操る半獣。

 角。

 静かな怒り。

 

 さとりが言った。

 

「霊夢。今、あなたは慧音を疑いました。そして同時に、疑いたくないと思いました」

 

「読まなくていい」

 

「読まなくても見えます」

 

「どっちでも嫌よ」

 

 こいしは無邪気に続けた。

 

「でも、その人だけじゃないよ。紙を欲しがった人はいっぱいいた。神様みたいな人、薬の匂いの人、赤い匂いの人、死んだ匂いの人、山の匂いの人。みんな、ちょっとずつ持ってた」

 

 文が低く言う。

 

「やはり複数の内部協力者」

 

 咲夜が言う。

 

「こいし様。紅魔館へは入りましたか」

 

「入ったよ」

 

 咲夜の顔が冷えた。

 

「いつ」

 

「夜会の前と、夜会の時と、夜会の後?」

 

「誰に頼まれて」

 

「誰だったかな」

 

「思い出してください」

 

 こいしは笑った。

 

「思い出そうとすると、逃げちゃうの」

 

 咲夜の指が白くなるほど握られる。

 

 レミリアは静かに言った。

 

「咲夜、下がりなさい」

 

「ですが」

 

「この子を責めても、面白い答えは出ないわ」

 

 さとりはレミリアを見た。

 

「珍しく正しい判断です」

 

「珍しくは余計よ」

 

 霊夢はこいしに訊いた。

 

「人里で、紙を持ってた静かな人は何て言ってた?」

 

 こいしは目を閉じた。

 

 いや、第三の目は閉じたままだ。普通の目を閉じ、記憶の底を探るように首を傾げる。

 

「えっとね」

 

 部屋が静まる。

 

「上の連中は、火が怖いんじゃない。記録が怖い。だから、燃やすふりをして、読ませる」

 

 霊夢の背筋に冷たいものが走った。

 

 こいしは続ける。

 

「あと、こうも言ってた。『歴史に残らない者たちの名前を、今夜だけでも全員に見せてやる』って」

 

 慧音。

 

 その言葉は、あまりにも慧音に近かった。

 

 けれど、近すぎる。

 

 近すぎる証拠は、偽装にもなる。

 

 霊夢は奥歯を噛んだ。

 

「妹紅は?」

 

 こいしは少し悲しそうな顔をした。

 

「火の人は、怒ってた。すごく怒ってた。でも、迷ってた。燃やしたいのに、燃やしたくない。守りたいのに、壊したい。そんな感じ」

 

 さとりが静かに言う。

 

「妹紅は火種です。けれど、火元とは限りません」

 

 文が言う。

 

「では、慧音が火元?」

 

 さとりは首を振る。

 

「慧音もまた、火元ではなく、記録者かもしれません」

 

「記録者?」

 

「歴史に残らない者たちを、残そうとしている」

 

 霊夢は言った。

 

「そのために幻想郷中を巻き込んだなら、十分火元よ」

 

「ええ」

 

 さとりは頷いた。

 

「ですが、まだ一つ足りません」

 

「何が」

 

「この計画を、幻想郷全体の抗争へ変えるための仕上げです」

 

 その時、地霊殿の奥で大きな音が響いた。

 

 金属が歪むような音。

 続いて、低い警報のような響き。

 

 お空が立ち上がる。

 

「炉の方だ」

 

 お燐の表情が変わる。

 

「まさか、洗浄場?」

 

 さとりの第三の目がわずかに揺れた。

 

「お燐、案内を」

 

「はいよ!」

 

 全員が走り出した。

 

 廊下を抜け、階段を下り、地底の熱が強まる方へ向かう。壁の配管が赤く光り、空気が乾いていく。鈴仙は息を切らし、文は低空を飛び、咲夜はレミリアを守るように前へ出る。

 

 たどり着いた先には、広大な洗浄場があった。

 

 巨大な炉。

 封印された槽。

 古い紙を焼く場所。

 危険物を中和する設備。

 武器を分解する台。

 何もかもが、上の世界の汚れを消すために作られている。

 

 その中央の槽が、開いていた。

 

 中から、紙片が溢れている。

 

 紙、札、帳面の切れ端、契約片、薬包の包み紙、債務記録の写し、工事台帳の破片。すべてが混ざり、床に散らばっている。

 

 そして壁には、赤黒い文字が書かれていた。

 

『掃除屋もまた、汚れの一部』

 

 お燐が歯を食いしばる。

 

「やってくれるじゃないか」

 

 お空が怒ったように言う。

 

「燃やす?」

 

「まだ駄目」

 

 さとりが低く答える。

 

 霊夢は床に散らばった紙を見た。

 

 その中に、一枚だけ大きな紙があった。

 

 札で挟み、開く。

 

 そこには、人里の地図が描かれていた。

 

 寺子屋。

 問屋。

 火消し詰所。

 守矢の集会所。

 博麗の祭りへ続く道。

 そして、赤い印が一点。

 

 自警組の詰所。

 

 地図の下に、短く文字。

 

『最後の火消しは、人里で』

 

 霊夢の表情が変わった。

 

「慧音……妹紅……」

 

 文が低く言う。

 

「人里に戻るべきですね」

 

 鈴仙が言った。

 

「でも、これは罠では」

 

「罠でも行く」

 

 霊夢は即答した。

 

 レミリアが笑う。

 

「あなた、本当に罠が好きね」

 

「好きじゃない。嫌いだから踏みに行くのよ」

 

 さとりが霊夢を見る。

 

「霊夢。人里へ戻れば、あなたは選ばなければなりません」

 

「何を」

 

「怒りを祓うのか、怒らせた者を裁くのか」

 

「両方やる」

 

「できるでしょうか」

 

「やる」

 

 さとりは少しだけ微笑んだ。

 

「その単純さは、羨ましいですね」

 

「褒めてる?」

 

「半分は」

 

「残り半分は?」

 

「危ういと思っています」

 

 霊夢は地図を布袋に入れた。

 

「さとり。あんたは?」

 

「地霊殿を守ります。洗浄場に入られた以上、こちらも動かなければなりません」

 

「来ないの?」

 

「私が人里へ行けば、皆が心を閉ざします。閉ざした心は、余計に暴発する」

 

「便利なようで不便ね」

 

「ええ」

 

 さとりはこいしを見た。

 

「こいし」

 

「なあに」

 

「もう上へ行かないで」

 

「どうして?」

 

「あなたを使う者がいるから」

 

 こいしは首を傾げた。

 

「使われてるのかな」

 

「ええ」

 

「でも、みんな使われてるよ」

 

 その言葉に、誰もすぐには答えられなかった。

 

 こいしは無邪気に続ける。

 

「霊夢も、文も、鈴仙も、紅い人も、ナイフの人も、火の人も、先生も。みんな、何かに使われてる。怒りとか、忠誠とか、信仰とか、薬とか、記事とか、運命とか、歴史とか」

 

 レミリアが目を細めた。

 

「子供の言葉は、時々腹立たしいほど核心を突くわね」

 

 さとりは静かに言った。

 

「こいし。もう黙りなさい」

 

「はーい」

 

 霊夢はこいしを見た。

 

「最後に一つ。あんた、人里で紙を持ってた静かな人に、どこで会った?」

 

 こいしは笑った。

 

「寺子屋の裏」

 

 霊夢は目を閉じた。

 

 やはり、慧音に近すぎる。

 

「それとね」

 

 こいしは思い出したように言った。

 

「その人、泣いてなかったけど、心が泣いてたよ」

 

 鈴仙が小さく息を呑む。

 

 霊夢は何も言わず、踵を返した。

 

「行くわよ。人里」

 

 文が続く。

 

「いよいよ火消しですね」

 

「黙って飛びなさい」

 

「はいはい」

 

 鈴仙も駆け出す。

 咲夜はレミリアを見る。

 

「お嬢様」

 

「当然行くわ。ここまで来て、最後の火を見ないなんてありえない」

 

「かしこまりました」

 

 お燐が声をかけた。

 

「上に戻るなら、旧都の抜け道を使いな。正面から上がるより早い」

 

「案内して」

 

 霊夢が言うと、お燐はにやりと笑った。

 

「あたいは掃除屋だよ。道案内は別料金」

 

「後で博麗神社の屋台券をあげる」

 

「しけてるねえ」

 

「じゃあ祓う」

 

「案内します」

 

 お燐は肩をすくめ、先頭に立った。

 

 さとりは洗浄場に残った。

 

 散らばった紙片、開かれた槽、赤黒い文字。地霊殿の秘密もまた、誰かに暴かれた。掃除屋は、掃除する側でありながら、掃除される側にもなった。

 

 霊夢たちは走り去る。

 

 その背を見送りながら、さとりは静かに呟いた。

 

「上の世界は、ずいぶん燃えやすくなりましたね」

 

 お空が横で訊く。

 

「さとり様、燃えるの?」

 

「燃やさないように、霊夢が行きました」

 

「霊夢が?」

 

「ええ」

 

「じゃあ大丈夫?」

 

 さとりは少し考えた。

 

「わかりません」

 

 お空は不思議そうに首を傾げた。

 

「さとり様でも?」

 

「心は読めます。でも、未来は読めません」

 

 こいしがふわりと近くに来る。

 

「未来じゃなくて、もう始まってるよ」

 

 さとりは妹を見る。

 

「何が」

 

「火事」

 

 こいしは笑っていた。

 

 だが、その笑顔はいつもより少しだけ寂しそうだった。

 

「上の人里で、誰かが火消しを呼んでる」

 

 さとりの第三の目が、静かに震えた。

 

 地底の洗浄場に、上の世界から落ちてきた紙片が舞う。

 

 その一枚が、さとりの足元に落ちた。

 

 そこには、かすれた文字でこう書かれていた。

 

『歴史に残らないなら、燃やしてでも見せる』

 

 さとりは紙片を拾い、目を伏せた。

 

「怒りだけではない。これは、記録になれなかった者たちの声」

 

 そして、ゆっくりと紙片を閉じた。

 

 旧地獄の炉が、低く唸る。

 

 その音は、上の世界へ向かう足音のようにも聞こえた。

 

 霊夢たちは地底を駆け上がる。

 

 向かう先は人里。

 

 寺子屋。

 問屋。

 火消し詰所。

 自警組。

 

 幻想郷の上にいる悪党たちが、目を逸らし続けた場所。

 

 最後の火は、そこで上がる。

 

 そしてその火を消す者が、火をつけた者なのかもしれない。

 

 霊夢は暗い抜け道を走りながら、袖の中の札を握りしめた。

 

 今度こそ、逃がさない。

 

 妹紅でも。

 慧音でも。

 その後ろにいる誰かでも。

 

 博麗の名を使い、幻想郷中の汚れを投げつけ、人里に火を持ち込んだ者には、必ず落とし前をつけさせる。

 

 地底の闇の向こうに、薄い朝の光が見えた。

 

 だが、その光は救いではなかった。

 

 朝が来れば、夜に隠れていたものが見える。

 

 幻想郷の悪党たちは、ようやく自分たちの汚れを朝日に晒されることになる。

 

 霊夢は地上へ向かって走った。

 

 背後では、地霊殿の炉がまだ唸っている。

 

 まるで、幻想郷そのものを焼き直す時を待っているかのように。

 

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