地底へ降りる道は、口を開けた傷のようだった。
冥界の静けさを背に、霊夢たちは旧地獄へ続く穴の前に立っていた。上を見れば、幻想郷の空はまだ淡く白み始めたばかりだというのに、穴の底には夜より濃い闇が沈んでいる。
空気が重い。
土の匂い、鉄の匂い、古い煙の匂い。
そして、何かを焼いた後に残る、嫌な甘さ。
鈴仙は穴を覗き込み、すぐに顔を引いた。
「……ここ、本当に降りるんですか」
「来たんだから降りるでしょ」
霊夢は当然のように言った。
「地底ですよ。旧地獄ですよ。永遠亭でも白玉楼でも紅魔館でもないんですよ」
「今さら怖がる相手を選んでる場合じゃないわ」
文が翼を軽く広げる。
「地底は取材しがいがありますねえ。上の連中が見ないふりをしたものが、まとめて沈んでいる場所ですから」
「取材じゃないって何回言わせるの」
「では、同行記録」
「もっと嫌な言い方になったわ」
レミリアは穴の前で不満げに鼻を鳴らした。
「湿っぽい場所ね。紅魔館の地下の方がまだ品があるわ」
咲夜が静かに言う。
「お嬢様、足元にお気をつけください」
「咲夜、私を誰だと思っているの」
「紅魔館のご当主です」
「なら、地底程度で転ぶわけがないでしょう」
その直後、レミリアは小石を踏んでわずかによろめいた。
咲夜が何事もなかったように支える。
「……今のは地面が悪いのよ」
「はい。地面が悪うございました」
霊夢は呆れた顔で二人を見た。
「帰る?」
「帰らないわ。紅魔館を侮辱した相手の尻尾がここにあるなら、私が踏む」
「その靴で?」
「何か文句があるの?」
「別に」
霊夢は札を一枚取り出し、穴の闇へ投げた。札は淡い光を放ちながら、ゆっくりと下へ落ちていく。しばらくしても底には届かない。まるで闇そのものが光を飲み込んでいるようだった。
文が目を細める。
「歓迎の灯りはなさそうですね」
「地底の歓迎なんて、ろくなものじゃないわ」
霊夢は先頭に立ち、降り始めた。
細い階段のような岩道が、穴の内側を螺旋状に続いている。足を踏み外せば、どこまでも落ちる。壁には古い札や縄が残っていた。誰かがかつて封じ、誰かが破り、誰かが通った跡だ。
降りるたびに、上の空気が遠ざかる。
博麗の賭場。
八雲の工事現場。
守矢の集会所。
永遠亭の薬棚。
紅魔館の夜会。
白玉楼の蔵。
どの場所にも、灯りがあった。
だがここには、灯りの残骸しかない。
鈴仙は布袋を胸に抱えていた。中には偽薬包、紅魔館から渡された債務帳、白玉楼の蔵で拾った紙片が入っている。どれも本物であり、どれも誰かに見せるために置かれたものだった。
咲夜は黙って歩いている。
レミリアは時々不満を口にする。
文は壁の傷や古い札を見ては、手帳に何かを書きつける。
霊夢は黙っていた。
地底へ近づくにつれ、頭の中のざわつきが大きくなっていく。予感というより、誰かに遠くから見られている感覚だった。目ではない。もっと奥。心の薄い皮を、指先でなぞられるような感覚。
鈴仙が立ち止まった。
「……気持ち悪いです」
「薬?」
霊夢が訊く。
「違います。視線みたいなものが」
「さとりね」
文が言った。
「古明地さとり。心を読む妖怪。地霊殿の主。上の悪党たちが一番会いたがらない相手です」
「文は会いたいの?」
「もちろん。取材対象としては最高です」
その瞬間、闇の奥から声がした。
「嘘ですね」
全員が足を止めた。
声は柔らかかった。
だが、逃げ場がなかった。
「あなたは取材対象として私に会いたいのではありません。自分が読まれることを恐れながら、それでも読まれた時に何が出るかを知りたい。そういう悪趣味な好奇心です」
文の笑顔が固まった。
「……これは手厳しい」
岩道の先に、灯りが見えた。
旧都へ続く広い空間に出ると、その向こうに地霊殿があった。黒い石造りの館。上の世界の館とは違い、飾り気は少ない。だが、壁の奥に熱を溜め込んでいるような存在感があった。
入口に、古明地さとりが立っていた。
薄い髪、静かな目、胸元に浮かぶ第三の目。小柄な体に似合わないほど、周囲の空気を支配している。レミリアのように命令するわけではない。神奈子のように圧をかけるわけでもない。ただ、こちらを見る。
それだけで、隠し事が後ずさる。
「ようこそ、地霊殿へ」
さとりは静かに言った。
「歓迎しているようには見えないわね」
霊夢が返すと、さとりは微笑んだ。
「歓迎していますよ。あなたたちは、ようやく下まで降りてきました」
「ようやく?」
「ええ。上でずいぶん歩き回っていましたね。博麗の賭場、八雲の現場、守矢の講、永遠亭の薬棚、紅魔館の夜会、白玉楼の蔵。皆さん、ご苦労様です」
鈴仙が青ざめる。
「見ていたんですか」
「見てはいません。けれど、心は流れてきます。上の者たちが捨てたものと一緒に」
レミリアが不快そうに言った。
「ずいぶん無礼な物言いね。私の心まで流れてきたと言うの?」
さとりはレミリアを見る。
「あなたの心は流れてきません。強すぎて、沈みません。ですが、あなたの館で働く者、契約された者、去っていった者、切り捨てられた者。そういう心は、何度もここへ来ました」
レミリアの表情が消えた。
咲夜が一歩前に出る。
「さとり様。お嬢様への侮辱は」
「侮辱ではありません。記録です」
「心を勝手に読んで、記録と呼ぶのですか」
「はい」
咲夜の指が動く。
霊夢がその前に札を投げ、咲夜の足元に立てた。
「やめなさい」
「霊夢様」
「地底で時間を止めたら、何が起きるかわからないでしょ」
さとりは咲夜を見つめた。
「あなたは今、私を黙らせる方法を三つ考えました。一つ目は時間を止めて距離を詰める。二つ目は第三の目を狙う。三つ目は、お嬢様に判断を仰ぐふりをして、その間に出口を確認する」
咲夜の顔がわずかに強張った。
レミリアは低く笑った。
「面白いじゃない。咲夜、動くな」
「かしこまりました」
文が小声で言う。
「これは記事にすると大変なことになりますね」
さとりは文へ目を向ける。
「あなたは今、『記事にすると』ではなく、『どう書けば自分だけ助かるか』を考えました」
「……心外ですね」
「心外だと思っている心はありません」
文は珍しく黙った。
霊夢はさとりに言った。
「話が早そうね」
「そうであればいいのですが」
「命蓮寺の船荷、八雲の結界杭、守矢の講の偽薬、永遠亭の禁制薬、紅魔館の台帳、白玉楼の債務帳。全部、ここに繋がってる」
「ええ」
「地霊殿がやったの?」
「いいえ」
「なら、何を知ってる」
「多くを」
「言いなさい」
さとりは微笑んだ。
「その前に、中へどうぞ。ここは立ち話に向かない場所です。地底の入口は、上の疑いが落ちてくる場所ですから」
「疑い?」
「ええ。あなたたちのような」
霊夢は舌打ちしたが、さとりについて歩き出した。
地霊殿の中は、熱かった。
外気は重く冷たいのに、館の中には地の底から上がってくる熱がある。壁には古い配管が走り、時々低い音を立てる。廊下の奥では、何か大きな炉が息をしているようだった。
赤い目の猫が廊下の角から現れた。
火焔猫燐。お燐。
彼女はにやりと笑い、霊夢たちを見る。
「あらまあ、上の有名人がまとめてご来店だ。今日はずいぶん賑やかだねえ」
「お燐」
さとりが静かに言う。
「余計なことは言わないように」
「はいはい。言う前に読まれるんだから、黙ってても同じだけどね」
お燐は鈴仙の布袋を見て、鼻をひくつかせた。
「その袋、嫌な匂いがするね。薬、紙、古い金、血筋、契約。上の世界の腐った盛り合わせだ」
鈴仙が布袋を抱きしめる。
「これは証拠です」
「証拠ねえ。上の連中は、捨てる時にはゴミって呼ぶくせに、拾い直すと証拠って呼ぶんだ」
霊夢はお燐を睨んだ。
「喧嘩売ってる?」
「まさか。あたいは運ぶだけだよ。昔からね」
「何を」
「いらなくなったもの。見られたくないもの。燃やせないもの。埋められないもの。祓えないもの」
レミリアが低く言う。
「死体運びの猫が、よく喋るわね」
お燐の笑顔が少しだけ尖った。
「紅いお嬢様。あんたの館から来た荷も、何度か運んだよ。もっとも、あたいは中身を聞かない。運び賃さえ払えば、荷物は荷物だ」
咲夜の視線が鋭くなる。
レミリアは微笑んだが、目は笑っていなかった。
「紅魔館の名を軽々しく出すのね」
「名前を軽くしたのは、上の連中さ」
お燐は肩をすくめた。
「何でも下へ流せば消えると思ってる。紙も、薬も、武器も、約束も、名前も、たまには人の思い出まで」
「お燐」
さとりが再び名を呼ぶ。
お燐は両手を上げた。
「わかってますよ、さとり様。核心はそちらで」
霊夢たちは広い応接室へ通された。
応接室といっても、紅魔館のような華やかさはない。古い椅子と机。壁に並ぶ記録棚。床には地底の熱を逃がすための鉄格子があり、下から赤い光が漏れている。
部屋の隅には、巨大な鳥のような影があった。
霊烏路空。お空。
彼女は壁にもたれ、霊夢たちを見ると首を傾げた。
「さとり様、この人たち燃やす?」
「燃やしません」
「まだ?」
「燃やしません」
「そっか」
お空は残念そうに頷いた。
鈴仙が小声で言う。
「……帰りたいです」
「私も少し帰りたいわ」
霊夢が言うと、レミリアが笑った。
「博麗の巫女が弱気ね」
「うるさい。あんたから先に燃やされたい?」
「誰が誰を燃やすですって?」
お空が嬉しそうに顔を上げる。
「違う、座ってなさい」
さとりの一言で、お空は素直に椅子へ座った。
さとりは机の前に立ち、霊夢たちを見回した。
「さて。あなたたちは、地霊殿を疑っていますね」
「疑ってるわ」
霊夢は即答した。
「幻想郷の汚れたものがここに流れてる。今回盗まれたものも、処理や洗浄に関係してる。白玉楼の紙には『沈んだものを洗う者に聞け』とあった。これで疑うなって方が無理でしょ」
「正しい判断です」
さとりはあっさり認めた。
「地霊殿は、幻想郷の掃除屋です。上の勢力が見せたくないものを、地底へ運び、封じ、焼き、洗い、記録から消す。それを請け負ってきました」
鈴仙が青ざめる。
「やっぱり……」
「永遠亭からも来ました。危険な薬の廃棄、失敗した処方の処理、患者記録の一部、廃棄された器具」
「患者記録まで?」
「名前は伏せられていましたが」
鈴仙は唇を噛んだ。
さとりはレミリアを見る。
「紅魔館からは、契約破棄の記録、処分された封印具、使われなくなった従属契約、夜会で出せない証言」
レミリアは黙った。
「白玉楼からは、返済不能の債務記録、封じられた武器、持ち主のいない遺品」
文が低く言う。
「八雲からは?」
「結界工事で出た危険な廃材、境界の歪みを受けた物品、存在したことにしたくない下請け契約」
「守矢は?」
「講の失敗記録、信者間の揉め事、山の事故報告、表に出せない祈祷結果」
霊夢は腕を組んだ。
「博麗は?」
さとりは霊夢を見た。
「あなたのところから直接来たものは少ない」
「へえ」
「ですが、博麗の賭場で負けた者、用心棒に追われた者、示談で黙らされた者。その後始末は、別の勢力を経由してここへ来ることがあります」
霊夢は黙った。
胸の奥に、嫌なものが沈む。
自分が外へ出した面倒事。
戸を閉めて見ないことにしたもの。
それは消えたのではなく、ここへ落ちていた。
さとりは言う。
「地霊殿は、上の世界の汚れを吸い込む穴でした。けれど、穴は底なしではありません」
お燐が机に腰掛ける。
「溜まるんだよ。捨てられたものはね。燃やしても、洗っても、埋めても、臭いは残る」
お空が無邪気に言う。
「燃やせばいいのに」
「燃やしても残るものがあるの」
さとりが言った。
「心です」
部屋が静かになった。
「物は壊せる。紙は燃やせる。薬は中和できる。武器は封じられる。けれど、捨てられた側の心は、どこかに残る。上の勢力はそれを見ない。見たくない。だから、私が見ることになる」
文が低く訊いた。
「それで、今回の犯人はその捨てられた心の中にいると?」
「近いです」
「近い?」
「犯人、という言葉は簡単すぎます。今回動いているのは、一人ではない」
霊夢の目が鋭くなった。
「複数?」
「ええ。ただし、全員が同じ目的ではありません。怒っている者、利用している者、見て見ぬふりをした者、途中で怖くなった者、そして、止める気がない者」
レミリアが言う。
「曖昧ね。心を読めるなら、名前を言えばいいでしょう」
さとりはレミリアを見た。
「読める心は、目の前にある心だけです。過去にここへ流れた心の残り香から、すべての名前を断定することはできません」
「便利な能力にも穴があるのね」
「はい。あなたの運命と同じで」
レミリアの瞳が赤く光った。
咲夜が一歩出るが、レミリアが手で止める。
「いいわ。続けなさい」
さとりは机の上に一冊の帳面を置いた。
黒い表紙。題名はない。
「これは地霊殿の洗浄記録です」
「洗浄記録?」
鈴仙が訊く。
「上から来たものを、いつ、誰が、何として受け取り、どこへ処理したか。すべては書けません。ですが、完全に記録を消すこともしません。忘れれば、同じ汚れがまた流れてくるから」
霊夢は帳面を見た。
「見せなさい」
「そのために出しました」
さとりは帳面を開いた。
ページには、細かい文字が並んでいた。だが、名は暗号化されている。勢力名も直接は書かれていない。印、記号、日付、荷の種類、処理内容。ところどころ、赤い線が引かれている。
文が覗き込む。
「この赤線は?」
「今回盗まれた、もしくは偽装に使われた可能性のある記録です」
赤線は多かった。
永遠亭の薬品廃棄。
紅魔館の契約記録処理。
白玉楼の封印武器移送。
八雲の工事廃材。
守矢の講関係の揉め事記録。
命蓮寺経由の混載荷。
霊夢はある欄で指を止めた。
「これ」
日付は、命蓮寺の船荷が消える三日前。
荷の種類は「未分類紙束、封印部品、薬瓶、契約片、債務写し」。
搬入元は、命蓮寺海運。
受取予定は、地霊殿洗浄場。
処理状況は、未了。
「未了って?」
さとりが答える。
「届いていません」
「命蓮寺の船荷?」
「おそらく、その一部です。上の勢力から出た汚れをまとめて、地底へ送る予定だった」
霊夢の声が低くなる。
「それが途中で消えた」
「はい」
咲夜が言う。
「つまり、盗まれた荷は、最初から地霊殿へ処理される予定だったもの?」
「ええ。少なくとも一部は」
「では、紅魔館の封印箱も」
「処理対象に含まれていました」
レミリアが不快そうに言う。
「紅魔館は、台帳を処分する指示など出していないわ」
咲夜が静かに言った。
「お嬢様。失われた台帳は、原本ではなく写しです。処分対象になり得ます」
「咲夜」
「紅魔館内部で、誰かが古い写しを処理に出した可能性があります」
レミリアは黙った。
さとりは鈴仙を見る。
「永遠亭の薬も同じです。原瓶そのものではなく、廃棄予定の試薬箱と記録片が含まれていた」
鈴仙は小さく言う。
「でも、師匠は封印棚から原瓶が消えたと」
「ええ。そこが問題です」
さとりは帳面を閉じた。
「最初に消えた荷には、各勢力の汚れの写しが入っていた。処理されるはずだったものです。ところが、それを奪った者は、その写しを使って、本物に見える騒動を起こした。さらに、その後、いくつかの勢力から本物も抜かれた」
霊夢は理解した。
「最初の荷で、どこに何があるかを知った」
「はい」
「写しを見て、本物の場所を探った」
「あるいは、写しを持っていた者が、内部の協力者に本物を抜かせた」
文が低く言う。
「内部協力者が複数いる」
「そうです」
霊夢は舌打ちした。
全員が悪党。
全員に穴がある。
全員の下に、不満を抱えた者がいる。
犯人が一人である必要はない。
むしろ、一人のはずがない。
鈴仙が震える声で言う。
「永遠亭の中にも、協力者がいるということですか」
さとりは鈴仙を見た。
「可能性はあります」
「誰ですか」
「それを今、あなたは一番聞きたくて、一番聞きたくない」
鈴仙は俯いた。
霊夢はさとりに訊く。
「地霊殿の内部は?」
「疑うべきです」
お燐が目を丸くする。
「さとり様?」
「地霊殿も例外ではありません。洗浄記録に触れられる者は限られます。荷が届かなかった時、その情報を誰が上に戻したか。誰が黙っていたか。誰が旧都の運び屋に話したか。調べる必要がある」
お燐は口を尖らせた。
「私はやってないよ」
さとりが静かに見る。
「あなたは、直接はやっていない」
「直接は、って嫌な言い方だね」
「あなたは、命蓮寺の船荷が消えた夜、旧都の問屋筋から妙な話を聞いた。そしてそれを、面白半分で別の運び屋に話した」
お燐は顔をしかめた。
「あれは噂話だよ」
「噂話は、地底では荷車より早く走ります」
お燐は黙った。
霊夢は言った。
「問屋筋?」
さとりは霊夢を見る。
「人里の自警組と繋がる問屋です」
妹紅。
慧音。
火消し。
人材派遣。
問屋。
またそこへ戻る。
霊夢は低く言った。
「妹紅か慧音が関わってる?」
「関わっています」
さとりは即答した。
部屋の空気が一気に重くなる。
鈴仙が息を呑む。
文の目が細くなる。
レミリアが笑みを浮かべる。
霊夢はさとりを睨んだ。
「どこまで」
「それは、あなたが本人に聞くべきです」
「読めないの?」
「読めます。けれど、私がここで言えば、あなたはその言葉を証拠にしてしまう。心は証拠ではありません。特に、怒りの心は」
「便利な逃げ方ね」
「ええ。私も地霊殿を守る者ですから」
霊夢は机に手をついた。
「さとり。今回の件で、あんたたちは被害者? 共犯? それとも掃除屋として見逃したの?」
さとりは静かに霊夢を見る。
「全部です」
霊夢は黙った。
「地霊殿は、荷を失った被害者です。上の汚れを引き受けてきた共犯でもあります。そして、捨てられた心を見ながら、上へ戻さなかった見逃し者でもあります」
さとりの声は淡々としていた。
だが、その淡々とした声が、逆に重かった。
「幻想郷の上にいる者たちは、汚れを流した。私たちは受け取った。受け取れば、上は綺麗な顔ができる。私たちは、そういう役を引き受けてきた。だから、今さら完全な被害者の顔はできません」
文が小さく言う。
「珍しいですね。自分の罪を先に言う勢力は」
さとりは文を見る。
「隠しても読まれる側の気分を、私はよく知っていますから」
その時、部屋の奥の扉が、音もなく開いた。
誰も触れていない。
咲夜が即座に反応し、ナイフを構える。鈴仙が身を固くする。お空が立ち上がりかける。お燐の尻尾が揺れる。
扉の向こうには、誰もいなかった。
いや、いた。
気づいた時には、部屋の中央に少女が立っていた。
古明地こいし。
第三の目を閉じた少女。
気配がない。
存在しているのに、そこにいることを誰も意識できない。
霊夢は一瞬、心臓を掴まれたような感覚を覚えた。
「こいし」
さとりの声が少しだけ変わる。
こいしはにこにこと笑っていた。
「お客さんがいっぱいだね」
「どこへ行っていたの」
「上」
「上のどこ」
「いろいろ」
こいしはくるりと回った。
「赤いところ、白いところ、竹のところ、山のところ、人のところ。みんな、怖い顔してた」
霊夢はこいしを見た。
「紅魔館の広間に紙を置いたの、あんた?」
こいしは首を傾げた。
「紙?」
「白玉楼の蔵に入った?」
「蔵?」
「命蓮寺の船荷は?」
「船?」
霊夢の苛立ちが増す。
「とぼけてる?」
こいしは笑った。
「とぼけてるつもりはないよ。覚えているものと、覚えていないものがあるの」
さとりが静かに言う。
「こいしは、誰かに頼まれて動くことがあります。本人も、それを強い目的として覚えていないことがある」
レミリアが不快そうに言う。
「便利な手駒ね」
さとりの目が鋭くなる。
「妹を手駒と呼ばないでください」
「実際、そう使われているのではなくて?」
「だからこそ、私は怒っています」
その声に、初めて明確な感情があった。
こいしは周囲を見回し、鈴仙の布袋を指差した。
「あ、それ知ってる」
鈴仙が袋を抱きしめる。
「これを?」
「うん。紙がいっぱい入ってた。重い紙。みんな、見たくないって言ってた」
霊夢が一歩近づく。
「どこで見た」
「人里」
「誰が持ってた」
「怖い顔の人」
「妹紅?」
こいしは首を傾げる。
「火の人は怖いけど、悲しかった。紙を持ってた人は、もっと静かだった」
「慧音?」
「角が見えた気がした。でも、見えなかった気もする」
霊夢は眉をひそめた。
上白沢慧音。
歴史を操る半獣。
角。
静かな怒り。
さとりが言った。
「霊夢。今、あなたは慧音を疑いました。そして同時に、疑いたくないと思いました」
「読まなくていい」
「読まなくても見えます」
「どっちでも嫌よ」
こいしは無邪気に続けた。
「でも、その人だけじゃないよ。紙を欲しがった人はいっぱいいた。神様みたいな人、薬の匂いの人、赤い匂いの人、死んだ匂いの人、山の匂いの人。みんな、ちょっとずつ持ってた」
文が低く言う。
「やはり複数の内部協力者」
咲夜が言う。
「こいし様。紅魔館へは入りましたか」
「入ったよ」
咲夜の顔が冷えた。
「いつ」
「夜会の前と、夜会の時と、夜会の後?」
「誰に頼まれて」
「誰だったかな」
「思い出してください」
こいしは笑った。
「思い出そうとすると、逃げちゃうの」
咲夜の指が白くなるほど握られる。
レミリアは静かに言った。
「咲夜、下がりなさい」
「ですが」
「この子を責めても、面白い答えは出ないわ」
さとりはレミリアを見た。
「珍しく正しい判断です」
「珍しくは余計よ」
霊夢はこいしに訊いた。
「人里で、紙を持ってた静かな人は何て言ってた?」
こいしは目を閉じた。
いや、第三の目は閉じたままだ。普通の目を閉じ、記憶の底を探るように首を傾げる。
「えっとね」
部屋が静まる。
「上の連中は、火が怖いんじゃない。記録が怖い。だから、燃やすふりをして、読ませる」
霊夢の背筋に冷たいものが走った。
こいしは続ける。
「あと、こうも言ってた。『歴史に残らない者たちの名前を、今夜だけでも全員に見せてやる』って」
慧音。
その言葉は、あまりにも慧音に近かった。
けれど、近すぎる。
近すぎる証拠は、偽装にもなる。
霊夢は奥歯を噛んだ。
「妹紅は?」
こいしは少し悲しそうな顔をした。
「火の人は、怒ってた。すごく怒ってた。でも、迷ってた。燃やしたいのに、燃やしたくない。守りたいのに、壊したい。そんな感じ」
さとりが静かに言う。
「妹紅は火種です。けれど、火元とは限りません」
文が言う。
「では、慧音が火元?」
さとりは首を振る。
「慧音もまた、火元ではなく、記録者かもしれません」
「記録者?」
「歴史に残らない者たちを、残そうとしている」
霊夢は言った。
「そのために幻想郷中を巻き込んだなら、十分火元よ」
「ええ」
さとりは頷いた。
「ですが、まだ一つ足りません」
「何が」
「この計画を、幻想郷全体の抗争へ変えるための仕上げです」
その時、地霊殿の奥で大きな音が響いた。
金属が歪むような音。
続いて、低い警報のような響き。
お空が立ち上がる。
「炉の方だ」
お燐の表情が変わる。
「まさか、洗浄場?」
さとりの第三の目がわずかに揺れた。
「お燐、案内を」
「はいよ!」
全員が走り出した。
廊下を抜け、階段を下り、地底の熱が強まる方へ向かう。壁の配管が赤く光り、空気が乾いていく。鈴仙は息を切らし、文は低空を飛び、咲夜はレミリアを守るように前へ出る。
たどり着いた先には、広大な洗浄場があった。
巨大な炉。
封印された槽。
古い紙を焼く場所。
危険物を中和する設備。
武器を分解する台。
何もかもが、上の世界の汚れを消すために作られている。
その中央の槽が、開いていた。
中から、紙片が溢れている。
紙、札、帳面の切れ端、契約片、薬包の包み紙、債務記録の写し、工事台帳の破片。すべてが混ざり、床に散らばっている。
そして壁には、赤黒い文字が書かれていた。
『掃除屋もまた、汚れの一部』
お燐が歯を食いしばる。
「やってくれるじゃないか」
お空が怒ったように言う。
「燃やす?」
「まだ駄目」
さとりが低く答える。
霊夢は床に散らばった紙を見た。
その中に、一枚だけ大きな紙があった。
札で挟み、開く。
そこには、人里の地図が描かれていた。
寺子屋。
問屋。
火消し詰所。
守矢の集会所。
博麗の祭りへ続く道。
そして、赤い印が一点。
自警組の詰所。
地図の下に、短く文字。
『最後の火消しは、人里で』
霊夢の表情が変わった。
「慧音……妹紅……」
文が低く言う。
「人里に戻るべきですね」
鈴仙が言った。
「でも、これは罠では」
「罠でも行く」
霊夢は即答した。
レミリアが笑う。
「あなた、本当に罠が好きね」
「好きじゃない。嫌いだから踏みに行くのよ」
さとりが霊夢を見る。
「霊夢。人里へ戻れば、あなたは選ばなければなりません」
「何を」
「怒りを祓うのか、怒らせた者を裁くのか」
「両方やる」
「できるでしょうか」
「やる」
さとりは少しだけ微笑んだ。
「その単純さは、羨ましいですね」
「褒めてる?」
「半分は」
「残り半分は?」
「危ういと思っています」
霊夢は地図を布袋に入れた。
「さとり。あんたは?」
「地霊殿を守ります。洗浄場に入られた以上、こちらも動かなければなりません」
「来ないの?」
「私が人里へ行けば、皆が心を閉ざします。閉ざした心は、余計に暴発する」
「便利なようで不便ね」
「ええ」
さとりはこいしを見た。
「こいし」
「なあに」
「もう上へ行かないで」
「どうして?」
「あなたを使う者がいるから」
こいしは首を傾げた。
「使われてるのかな」
「ええ」
「でも、みんな使われてるよ」
その言葉に、誰もすぐには答えられなかった。
こいしは無邪気に続ける。
「霊夢も、文も、鈴仙も、紅い人も、ナイフの人も、火の人も、先生も。みんな、何かに使われてる。怒りとか、忠誠とか、信仰とか、薬とか、記事とか、運命とか、歴史とか」
レミリアが目を細めた。
「子供の言葉は、時々腹立たしいほど核心を突くわね」
さとりは静かに言った。
「こいし。もう黙りなさい」
「はーい」
霊夢はこいしを見た。
「最後に一つ。あんた、人里で紙を持ってた静かな人に、どこで会った?」
こいしは笑った。
「寺子屋の裏」
霊夢は目を閉じた。
やはり、慧音に近すぎる。
「それとね」
こいしは思い出したように言った。
「その人、泣いてなかったけど、心が泣いてたよ」
鈴仙が小さく息を呑む。
霊夢は何も言わず、踵を返した。
「行くわよ。人里」
文が続く。
「いよいよ火消しですね」
「黙って飛びなさい」
「はいはい」
鈴仙も駆け出す。
咲夜はレミリアを見る。
「お嬢様」
「当然行くわ。ここまで来て、最後の火を見ないなんてありえない」
「かしこまりました」
お燐が声をかけた。
「上に戻るなら、旧都の抜け道を使いな。正面から上がるより早い」
「案内して」
霊夢が言うと、お燐はにやりと笑った。
「あたいは掃除屋だよ。道案内は別料金」
「後で博麗神社の屋台券をあげる」
「しけてるねえ」
「じゃあ祓う」
「案内します」
お燐は肩をすくめ、先頭に立った。
さとりは洗浄場に残った。
散らばった紙片、開かれた槽、赤黒い文字。地霊殿の秘密もまた、誰かに暴かれた。掃除屋は、掃除する側でありながら、掃除される側にもなった。
霊夢たちは走り去る。
その背を見送りながら、さとりは静かに呟いた。
「上の世界は、ずいぶん燃えやすくなりましたね」
お空が横で訊く。
「さとり様、燃えるの?」
「燃やさないように、霊夢が行きました」
「霊夢が?」
「ええ」
「じゃあ大丈夫?」
さとりは少し考えた。
「わかりません」
お空は不思議そうに首を傾げた。
「さとり様でも?」
「心は読めます。でも、未来は読めません」
こいしがふわりと近くに来る。
「未来じゃなくて、もう始まってるよ」
さとりは妹を見る。
「何が」
「火事」
こいしは笑っていた。
だが、その笑顔はいつもより少しだけ寂しそうだった。
「上の人里で、誰かが火消しを呼んでる」
さとりの第三の目が、静かに震えた。
地底の洗浄場に、上の世界から落ちてきた紙片が舞う。
その一枚が、さとりの足元に落ちた。
そこには、かすれた文字でこう書かれていた。
『歴史に残らないなら、燃やしてでも見せる』
さとりは紙片を拾い、目を伏せた。
「怒りだけではない。これは、記録になれなかった者たちの声」
そして、ゆっくりと紙片を閉じた。
旧地獄の炉が、低く唸る。
その音は、上の世界へ向かう足音のようにも聞こえた。
霊夢たちは地底を駆け上がる。
向かう先は人里。
寺子屋。
問屋。
火消し詰所。
自警組。
幻想郷の上にいる悪党たちが、目を逸らし続けた場所。
最後の火は、そこで上がる。
そしてその火を消す者が、火をつけた者なのかもしれない。
霊夢は暗い抜け道を走りながら、袖の中の札を握りしめた。
今度こそ、逃がさない。
妹紅でも。
慧音でも。
その後ろにいる誰かでも。
博麗の名を使い、幻想郷中の汚れを投げつけ、人里に火を持ち込んだ者には、必ず落とし前をつけさせる。
地底の闇の向こうに、薄い朝の光が見えた。
だが、その光は救いではなかった。
朝が来れば、夜に隠れていたものが見える。
幻想郷の悪党たちは、ようやく自分たちの汚れを朝日に晒されることになる。
霊夢は地上へ向かって走った。
背後では、地霊殿の炉がまだ唸っている。
まるで、幻想郷そのものを焼き直す時を待っているかのように。