東方アウトレイジ    作:たこ焼き 龍月

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第八章 火消しの女たち

 

 

 人里の朝は、まだ来ていなかった。

 

 空の端だけが白み、屋根の輪郭がぼんやりと浮かんでいる。だが、通りに人影はない。戸は閉まり、犬も鳴かず、井戸端の桶も伏せられたままだった。

 

 それなのに、里は眠っていなかった。

 

 家々の奥に、人の気配がある。

 息を潜める気配。

 耳を澄ます気配。

 何かが起きると知っていて、それでも外へ出られない者たちの気配。

 

 霊夢は地底から戻るなり、人里の入口で足を止めた。

 

 焦げた匂いがする。

 

 火事ではない。まだ火は見えない。だが、紙か木か布か、何かが少しだけ燃えた後の匂いが、夜明け前の空気に混じっている。

 

 文が低く言った。

 

「始まっていますね」

 

「何が」

 

 鈴仙が息を切らしながら訊く。

 

「火事ではなく、火事の準備です」

 

 霊夢は袖の札を握った。

 

 前方、寺子屋の方角に小さな灯が見えた。

 

 守矢の集会所でも、博麗の祭りでも、紅魔館の夜会でも、永遠亭の薬棚でもない。もっと小さく、もっと切実な灯。

 

 火消し詰所の灯だった。

 

 お燐に案内された抜け道から戻ってきた霊夢たちの後ろには、文、鈴仙、レミリア、咲夜が続いていた。地底の熱を背に受けてきたせいか、全員の顔に疲れがあった。

 

 ただ一人、レミリアだけは不満そうに夜明けの空を見上げた。

 

「朝が近いわ。面白くない」

 

「帰れば?」

 

 霊夢が言う。

 

「嫌よ。紅魔館を巻き込んだ火遊びの最後を見ずに帰るほど、私は寛大ではないわ」

 

「じゃあ日傘でも差してなさい」

 

「咲夜」

 

「はい」

 

 咲夜がどこからか日傘を取り出した。

 

 鈴仙が小さく呟く。

 

「本当に準備がいいですね……」

 

 文は手帳を取り出しかけたが、霊夢に睨まれて引っ込めた。

 

「書かないわけではありません。今は書くより見るべき場面だと思っただけです」

 

「それを黙ってやれば少しは信用できるのに」

 

「信用される天狗は、天狗として半人前ですから」

 

「もういい」

 

 霊夢は火消し詰所へ向かった。

 

 道の途中、問屋の前に荷車が止まっていた。荷台には何もない。だが、縄だけが残っている。荷を縛っていた跡がある。新しい。誰かがついさっき、荷を下ろしたか、積み替えたか。

 

 咲夜が荷車の車輪を見た。

 

「泥がついています。地底の泥ではありません。水路の泥に近い」

 

「命蓮寺の?」

 

 鈴仙が訊く。

 

「可能性はあります」

 

 文が周囲を見回した。

 

「人里の問屋、命蓮寺の船荷、地霊殿の洗浄記録。完全に繋がりましたね」

 

 霊夢は荷車の脇に落ちていた木札を拾った。

 

 人材派遣用の札。

 自警組の印。

 裏に焦げ跡。

 

「妹紅」

 

 霊夢は低く呟いた。

 

 その時、背後から声がした。

 

「呼んだか」

 

 藤原妹紅が路地の影から現れた。

 

 白い髪は乱れ、目には寝不足の赤が浮いている。だが、表情は硬い。逃げる者の顔ではない。迎え撃つ者の顔だった。

 

 霊夢は振り返る。

 

「ちょうど探してたわ」

 

「だろうな」

 

「聞きたいことが山ほどある」

 

「答えられることなら答える」

 

「答えられないことも答えさせる」

 

 妹紅は鼻で笑った。

 

「相変わらず巫女ってより取り立て屋だな」

 

 レミリアが横から言う。

 

「火の女。あなたが紅魔館の台帳を盗ませたの?」

 

 妹紅はレミリアを見た。

 

「いきなり偉そうだな」

 

「私は偉いのよ」

 

「ここは紅魔館じゃない」

 

「なら、あなたの縄張り?」

 

「人里だ」

 

「人里はあなたの所有物?」

 

 妹紅の目が細くなった。

 

「所有物なんて言葉を使うな」

 

「図星を突かれるのは嫌い?」

 

「お前の言葉は、全部腐って聞こえる」

 

 レミリアの瞳が赤く光った。

 

 咲夜が一歩前に出る。妹紅の手にも炎の気配が宿る。

 

 霊夢が二人の間に札を投げた。

 

「ここで始めたら、両方祓う」

 

「霊夢、私は」

 

「言い訳も祓う」

 

 レミリアは不満げに黙った。

 

 妹紅は少しだけ笑った。

 

「助かったよ、吸血鬼。今の私は機嫌が悪い」

 

「妹紅」

 

 霊夢の声が低くなる。

 

「命蓮寺の船荷。八雲の結界杭。守矢の講。永遠亭の偽薬。紅魔館の台帳。白玉楼の債務帳。地霊殿の洗浄記録。全部に人里の問屋と火消しが絡んでる」

 

「ああ」

 

「認めるの?」

 

「絡んでることはな」

 

「じゃあ、誰がやった」

 

 妹紅は答えなかった。

 

 その沈黙の奥から、別の声がした。

 

「私です」

 

 寺子屋の方から、上白沢慧音が歩いてきた。

 

 髪はきちんと整えられている。服装も乱れていない。だが、顔色は悪かった。目の下には疲れがあり、それでも背筋はまっすぐ伸びている。

 

 教師の顔だった。

 自警組の顔だった。

 そして、何かを覚悟した者の顔だった。

 

 妹紅が鋭く言う。

 

「慧音」

 

「もう隠せない」

 

「隠す気はない。ただ、言い方を選べ」

 

「選んでいる時間はない」

 

 慧音は霊夢の前に立った。

 

「霊夢。命蓮寺の船荷に、人里の問屋が関わっていたのは事実です。地霊殿へ送られるはずだった荷の一部を、私たちは確認しました」

 

「確認?」

 

「盗んだわけではありません」

 

「じゃあ何」

 

「中身を見たのです」

 

 文が小さく息を呑んだ。

 

「それは十分に大事件ですね」

 

 慧音は文を見た。

 

「射命丸。今から話すことを、あなたがどう書くかは知らない。だが、書くなら、名前を消された者たちのことも書け」

 

 文の表情が消えた。

 

「それは、情報提供ですか。脅しですか」

 

「願いだ」

 

 文は黙った。

 

 霊夢は慧音を睨む。

 

「続けて」

 

 慧音は頷いた。

 

「人里の問屋は、昔から各勢力の荷を扱ってきた。表の荷も、裏の荷も。八雲の工事資材、守矢の講の札、永遠亭の医療品、紅魔館の封印箱、白玉楼の預かり物、命蓮寺の海運荷。私たち自警組は、揉め事を避けるために、それらの動きを監視していた」

 

「監視だけ?」

 

「最初は」

 

 妹紅が苦々しく言った。

 

「途中から、運ぶ側にも回された」

 

 霊夢は妹紅を見る。

 

「どういうこと」

 

「火消し、用心棒、人足の手配。人里の仕事は便利だからな。上の連中は、自分たちで汚い荷を持たない。命蓮寺が船で運び、問屋が一時預かりし、自警組が道を空ける。地底に送れば、後は掃除屋が片付ける。誰も自分の手を汚さない」

 

 鈴仙が青ざめた。

 

「永遠亭も……」

 

 妹紅は鈴仙を見た。

 

「薬箱もあった。中身は知らない。知りたくもなかった。でも、運ぶ人間は知ってるんだよ。箱が軽いか重いか。臭いがあるか。誰が急いでいるか。誰が口止め料を払ったか」

 

 咲夜が低く言う。

 

「紅魔館の荷も?」

 

「何度もな」

 

 レミリアが不快そうに目を細める。

 

「紅魔館は正式な仲介を通しているわ」

 

「正式だろうが何だろうが、荷を持つのは下だ。上の署名なんて、荷車の車輪には関係ない」

 

 慧音が続ける。

 

「命蓮寺の船荷が消える前、私は問屋の帳面を確認した。そこには、本来なら別々に処理されるはずの荷が、一つにまとめられていた。博麗の印、八雲の部品、永遠亭の薬箱、紅魔館の封印箱、白玉楼の債務写し、守矢の講関係の記録。すべてが地霊殿へ送られる予定だった」

 

「知ってたなら、なぜ言わなかった」

 

 霊夢の声は低い。

 

 慧音は唇を噛んだ。

 

「言えば、人里が潰されると思った」

 

「誰に」

 

「全員に」

 

 その言葉に、誰もすぐには反論できなかった。

 

 慧音は言う。

 

「博麗は異変として踏み込む。八雲は管理案件として封じる。守矢は信仰への妨害だと言う。永遠亭は医療機密を盾にする。紅魔館は契約違反として人を閉じ込める。白玉楼は債務者を黙らせる。命蓮寺は慈悲の名で沈黙する。地霊殿は汚れを受け取る。どこへ話しても、人里の問屋と自警組が最初に切られる」

 

 霊夢は黙った。

 

 妹紅が吐き捨てるように言った。

 

「便利なんだよ、私たちは。火が出たら呼ばれる。揉めたら呼ばれる。荷を通す時は黙って道を空けろと言われる。誰かが怪我をしたら運べ。誰かが消えたら探せ。誰かが余計なことを言えば止めろ。だが、名前は残らない」

 

 慧音の声が震えた。

 

「寺子屋の子供の親が、工事で怪我をした。記録には載らなかった。問屋の若い者が荷運びの途中で行方不明になった。どこの勢力も知らないと言った。火消しの一人が、紅魔館の関係荷を運んだ後に怯えるようになった。永遠亭に連れて行かれ、戻ってきた時には何も覚えていなかった」

 

 鈴仙が小さく言う。

 

「そんな……」

 

 慧音は鈴仙を見た。

 

「君個人を責めているわけではない。だが、永遠亭という名は残る。紅魔館という名は残る。守矢も、八雲も、博麗も、白玉楼も残る。だが、荷車を押した者の名は残らない。怪我をした者の名も、怖がった者の声も、何も残らない」

 

 文は手帳を握りしめていた。

 

 いつもの軽さはない。

 

 霊夢は慧音に訊く。

 

「だから、船荷を奪ったの?」

 

 慧音は首を横に振った。

 

「奪ってはいない。中身を確認し、写しを取ろうとした。歴史から消される前に、記録だけでも残したかった」

 

「写しを取った時点で同じよ」

 

「そうだ」

 

 慧音は認めた。

 

「私は、境界を越えた」

 

 妹紅が言った。

 

「慧音は止めようとしてた。私が強く言ったんだ。どうせまた消される。地底で洗われて、なかったことにされる。だったら、燃やしてでも見せてやるって」

 

「火をつけたのはあんた?」

 

 霊夢が訊く。

 

 妹紅は目を逸らさなかった。

 

「一部はな」

 

 鈴仙が息を呑む。

 

 レミリアが笑う。

 

「ようやく認めたわね」

 

 妹紅はレミリアを睨んだ。

 

「紅魔館の台帳には触ってない。永遠亭の薬にも触ってない。白玉楼の蔵にも入ってない。八雲の杭も盗ってない。私がやったのは、問屋の古い記録を焼いたように見せたことと、いくつかの場所に白い羽根を残したことだけだ」

 

「だけ?」

 

 霊夢の声が鋭くなる。

 

「だけ、じゃないわよ。あんたのせいで全員が疑心暗鬼になった」

 

「狙い通りだ」

 

「妹紅」

 

 慧音が苦しそうに言う。

 

 妹紅は続けた。

 

「疑心暗鬼になればいいと思った。上の連中が、少しでも自分たちの汚れを見ればいいと思った。だけど、ここまで広がるとは思ってなかった」

 

「甘いわね」

 

 霊夢は低く言った。

 

「火をつけて、どこまで燃えるか自分で決められると思ったの?」

 

 妹紅は黙った。

 

 霊夢はさらに一歩近づく。

 

「妹紅。あんたは火を知ってるんでしょ。なら、一番わかってるはずよ。火は、怒りでつけられても、怒りだけを選んで燃えてくれない」

 

 妹紅の拳が震えた。

 

「わかってるよ」

 

「わかってないからやったんでしょ」

 

「わかってたら、黙って消されろって言うのか!」

 

 妹紅の声が朝前の通りに響いた。

 

 閉ざされた家々の中で、人々が息を呑む気配がした。

 

「荷車を押してた奴が消えても、仕方ないって言うのか。火消しが壊れても、問屋の若いのが戻らなくても、寺子屋の子が親の怪我の理由も知らずに泣いても、全部、幻想郷の均衡のために黙ってろって言うのかよ!」

 

 霊夢は答えなかった。

 

 妹紅は慧音を指した。

 

「慧音は記録しようとした。名前を残そうとした。歴史に載せようとした。でも、そんなもの、上の連中はまた消す。八雲は管理する。紅魔館は所有する。永遠亭は医療機密にする。守矢は信仰で包む。白玉楼は債務にする。天狗は面白おかしく書く。博麗は異変って名前にして終わらせる!」

 

 文が静かに言った。

 

「面白おかしく書く、ですか」

 

 妹紅は文を見た。

 

「違うと言えるのか」

 

 文はすぐには答えなかった。

 

 霊夢も、胸の奥に刺さるものを感じた。

 

 異変。

 

 便利な言葉だ。

 

 原因を叩き、名をつけ、終わらせる。

 終わった後に残る者の生活までは、異変の中に入らない。

 

 慧音が静かに言った。

 

「だが、妹紅。私たちも間違えた」

 

「……ああ」

 

「写しを残すだけなら、まだ戻れた。だが、羽根を置き、火をちらつかせ、上の勢力を揺さぶった。それを見た誰かが、私たちの怒りを利用した」

 

 霊夢は目を細めた。

 

「誰」

 

 慧音は答える前に、火消し詰所を見た。

 

「中にいます」

 

 通りの空気が冷えた。

 

 霊夢は火消し詰所へ向かった。

 

 妹紅が先に立つ。慧音が続く。霊夢、文、鈴仙、レミリア、咲夜も後に続いた。

 

 詰所の扉は開いていた。

 

 中には、火消し道具、古い帳面、問屋の荷札、地図、使い込まれた半纏が並んでいる。壁には、人里の地図が貼られていた。寺子屋、問屋、集会所、水路、博麗神社へ続く道。そこに赤い印がいくつも付けられている。

 

 部屋の中央に、一人の男が座っていた。

 

 見覚えのある顔だった。

 

 博麗神社の賭場で、山犬の妖怪と揉めて放り出された人間の男。

 

 あの時、負けが込み、刃物に手をかけた男。

 

 霊夢は眉をひそめた。

 

「あんた」

 

 男は顔を上げた。

 

 目は血走っている。だが、酔ってはいない。むしろ、妙に澄んでいた。

 

「博麗さん」

 

 男は笑った。

 

「遅かったな」

 

 妹紅が低く言う。

 

「お前、ここで何をしてる」

 

「火消しに来たんだよ」

 

「ふざけるな」

 

「ふざけてないさ。火をつけたのは、あんたたちだろう?」

 

 男はゆっくり立ち上がった。

 

 その足元には、木箱があった。命蓮寺の荷箱。八雲の部品箱。永遠亭の薬箱に似せた箱。紅魔館の赤い布。白玉楼の古い帳面の写し。地霊殿の洗浄記録の一部。

 

 全部、ここに集まっている。

 

 鈴仙が青ざめた。

 

「なぜ、これが」

 

 男は笑った。

 

「運んだからだ」

 

 霊夢は男を睨んだ。

 

「あんた、ただの賭場の負け客じゃなかったのね」

 

「ただの負け客だよ。負けて、負けて、負け続けた。金も、仕事も、家も、信用も。最後には名前もな」

 

 慧音が呟いた。

 

「彼は、問屋の元人足だ」

 

 男は慧音を見た。

 

「先生は覚えてくれてたんですね。ありがたいことだ」

 

 慧音の顔が歪む。

 

「私は、君を救えなかった」

 

「救えなかった? 違う。誰も救う気なんてなかった」

 

 男の声は静かだった。

 

 静かすぎた。

 

「八雲の荷を運んだ。重かった。何が入ってるか聞くなと言われた。守矢の講の札を配った。紹介すれば徳になると言われた。永遠亭の箱を運んだ。落とすな、開けるな、見たら忘れろと言われた。紅魔館の荷を夜中に運んだ。顔を上げるなと言われた。白玉楼の帳面を預かった。死人の金だ、口にするなと言われた。命蓮寺の船に積んだ。慈悲の荷だ、余計なことを考えるなと言われた」

 

 誰も口を挟まなかった。

 

 男は続ける。

 

「でもな、荷は重いんだよ。言葉がどうだろうと、箱は重い。重いものを持つのは、いつも下の人間だ」

 

 文の手が震えた。

 

 男は霊夢を見た。

 

「博麗さん。あんたの賭場で、俺は最後の金を失った。いや、失ったんじゃない。賭けた。負けた。そこまでは俺が悪い。だが、あんたは言ったな。賭けた時点で、あんたの金じゃないって」

 

 霊夢は何も言わなかった。

 

「その通りだ。俺の金じゃなくなった。じゃあ、俺の名前は? 俺の仕事は? 俺が運んだ荷の重さは? 俺が見たものは? 誰のものになった?」

 

 妹紅が男に近づこうとした。

 

 男は木箱に手を置いた。

 

「動くなよ、火の女」

 

 妹紅が足を止める。

 

 箱の中から、かすかな薬の匂いがした。

 

 鈴仙が鋭く言う。

 

「その箱、中に何が」

 

「永遠亭の本物じゃない。安心しろ。半分は偽物だ。半分は、地底で拾った廃棄物だ」

 

「危険です!」

 

「だろうな」

 

 男は笑った。

 

「危険なものは、いつも下に流れてくる。なら、上に返してもいいだろう?」

 

 霊夢は低く言った。

 

「今回の騒ぎ、あんたが広げたのね」

 

「種を蒔いたのは、そこの二人だ」

 

 男は妹紅と慧音を指した。

 

「怒りをくれた。記録をくれた。火の匂いをくれた。俺は、それを運んだだけだ。昔から得意だからな。荷を運ぶのは」

 

 慧音が苦しそうに言う。

 

「私たちの写しを、君が盗んだのか」

 

「盗んだ? 先生、それは違う。あんたたちは残そうとした。俺は見せようとした」

 

「こんな形で?」

 

「他に誰が見た!」

 

 男の声が初めて荒れた。

 

「普通に訴えたら、誰が聞いた! 問屋の人足が消えました。火消しが壊れました。荷が怪しいです。薬が危ないです。契約が変です。債務がおかしいです。そう言って、誰が動いた!」

 

 霊夢は答えられなかった。

 

 男は霊夢を睨む。

 

「博麗さん。あんたは、博麗の印が使われたから動いた」

 

 次に鈴仙を見る。

 

「永遠亭は、薬の名が汚されたから動いた」

 

 レミリアを見る。

 

「紅魔館は、台帳を突かれたから動いた」

 

 文を見る。

 

「天狗は、記事になるから動いた」

 

 慧音と妹紅を見る。

 

「あんたたちは、やっと怒りを外へ出したから動いた」

 

 男は笑った。

 

「誰も、人足一人が消えたくらいじゃ動かなかった」

 

 詰所の中が沈黙した。

 

 それは、嘘ではなかった。

 

 嘘ではないから、誰もすぐに切り捨てられなかった。

 

 霊夢は静かに言った。

 

「だから、人里を燃やす?」

 

「燃やさないさ」

 

 男は木箱を軽く叩いた。

 

「燃やすのは、記録だ。いや、記録を燃やすんじゃない。燃えているように見せる。みんな飛んでくる。自分の名前が出るかもしれないと怯えてな」

 

「もう十分飛んできたでしょ」

 

「ああ。だから最後だ」

 

 男は奥の壁に貼られた地図を指した。

 

 そこには、博麗神社、守矢の集会所、永遠亭へ続く竹林、紅魔館、白玉楼、地霊殿への経路、命蓮寺の水路が線で結ばれていた。そして中央には、人里の寺子屋。

 

「今朝、寺子屋の前に全部並べる。子供たちが見る前に、大人たちが見る。上の連中の名前、荷の記録、消された人足、借金、薬、契約、処理記録。全部だ。誰も、知らなかったとは言えなくなる」

 

 慧音の顔色が変わった。

 

「寺子屋を巻き込むな」

 

「先生。寺子屋だから意味があるんだ」

 

「違う!」

 

 慧音が初めて声を荒げた。

 

「子供たちは関係ない。彼らに背負わせるな!」

 

 男は慧音を見た。

 

「なら、俺たちには関係あったのか?」

 

 慧音は言葉を失った。

 

 妹紅の拳に炎が宿る。

 

「お前、やりすぎだ」

 

「火の女がそれを言うのか」

 

「ああ、言う。私は燃やす怖さを知ってる」

 

「なら、燃やされる側の怖さも知ってくれ」

 

 妹紅の炎が揺れた。

 

 霊夢は札を構えた。

 

「終わりよ」

 

 男は笑った。

 

「終わるのは、俺じゃない。お前たちの綺麗な顔だ」

 

 彼は木箱の蓋を開けようとした。

 

 その瞬間、咲夜が消えた。

 

 時間が歪む。

 

 次の瞬間、男の手元から蓋が離れ、咲夜のナイフが箱の縁を押さえていた。だが、男は笑っていた。

 

「紅魔館の時間か。便利だな」

 

 咲夜の表情が変わる。

 

 箱の側面に、細い紐が伸びていた。

 

 蓋ではない。足元の札が仕掛けだった。

 

 妹紅が叫ぶ。

 

「伏せろ!」

 

 大きな爆発ではなかった。

 

 ただ、白い煙と紙片が詰所の中に一気に広がった。薬の匂い、焦げた紙の匂い、古い墨の匂い。鈴仙がすぐに叫ぶ。

 

「吸わないで!」

 

 霊夢が札で風を起こし、煙を外へ押し出す。妹紅が炎で紙片を焼こうとするが、慧音が止める。

 

「燃やすな! 記録が!」

 

「今は記録より人だ!」

 

 妹紅の炎が煙を裂く。

 

 咲夜がレミリアを庇い、文が翼で紙片を払う。鈴仙は薬包らしきものを布で押さえ、外へ飛ばないよう封じる。

 

 煙の向こうで、男は扉へ走っていた。

 

 霊夢が札を飛ばす。

 

 だが、その前に妹紅が動いた。

 

 彼女は男の前に回り込み、炎をまとった腕で道を塞いだ。

 

「どけ!」

 

 男が叫ぶ。

 

 妹紅は動かない。

 

「どけよ! お前だって怒ってたんだろ! 燃やしたかったんだろ!」

 

「ああ」

 

 妹紅は低く言った。

 

「燃やしたかったよ。今でもな」

 

「なら!」

 

「でも、寺子屋は駄目だ」

 

 男の顔が歪んだ。

 

「子供を盾にするな」

 

 妹紅の声は震えていた。

 

「私たちが守るって決めた場所を、私たちの怒りで汚すな」

 

 男は妹紅へ掴みかかった。

 

 妹紅は避けなかった。

 

 ただ、男の腕を掴み、力で押さえ込む。炎は出さない。焼かない。殴らない。ただ、止める。

 

 男は暴れた。

 

「離せ! 離せよ! 俺の名前を返せ!」

 

 その叫びに、慧音が近づいた。

 

 彼女は男の前に膝をついた。

 

「返す」

 

 男の動きが止まった。

 

 慧音はまっすぐ彼を見る。

 

「君の名前を、私が記録する。君だけではない。消された者、怪我をした者、黙らされた者、運んだ者、見た者。私が記録する。歴史として残す」

 

 男は笑った。

 

 壊れたような笑いだった。

 

「今さら?」

 

「今さらだ」

 

 慧音の声は震えていた。

 

「遅すぎた。私は怖かった。人里が潰されるのが怖かった。子供たちに火の粉がかかるのが怖かった。だから、記録だけして、出せなかった」

 

「それじゃ意味がない」

 

「そうだ」

 

 慧音は深く頷いた。

 

「だから、今度は隠さない」

 

 男は慧音を見つめた。

 

「信じろって?」

 

「信じなくていい。だが、寺子屋に火を持ち込むな。子供たちの前に、憎しみだけを置くな」

 

 男の力が少し抜けた。

 

 その隙に、霊夢の札が彼の肩に貼りついた。

 

 男の体が動かなくなる。

 

 妹紅が手を離した。

 

 男は膝から崩れた。

 

 詰所の中には、紙片が散らばっていた。焦げた記録、偽の薬包、荷札、債務の写し、契約の断片。どれも完全ではない。だが、断片だからこそ、そこに何かがあったことはわかる。

 

 文が一枚を拾った。

 

 そこには、人の名前が書かれていた。

 

 知らない名前だった。

 

 けれど、その名前にも生活があったのだろう。荷を運び、飯を食い、誰かと笑い、どこかで怯え、そして記録から消されかけた。

 

 文は手帳を閉じた。

 

 霊夢はそれを見た。

 

「書かないの?」

 

「書きます」

 

 文は静かに言った。

 

「でも、いつもの書き方では書けません」

 

「へえ」

 

「茶化さないでください。私にも、たまには迷うことがあります」

 

「天狗なのに?」

 

「天狗だからです」

 

 鈴仙は薬包を封じながら、震える声で言った。

 

「この煙、強いものではありません。でも、不安を煽る成分が混じっています。長く吸えば危なかった」

 

「永遠亭の本物?」

 

「違います。ですが、廃棄薬を混ぜています。誰かが、地霊殿から拾ったものを使ったんです」

 

 レミリアが男を見下ろす。

 

「下の者の怒り、か。見苦しいわね」

 

 妹紅が睨む。

 

「黙れ」

 

 レミリアは妹紅を見る。

 

「怒りは理解するわ。でも、支配を持たない怒りは、結局こうなる。誰かを巻き込むだけ」

 

「お前にだけは言われたくない」

 

「そうでしょうね」

 

 レミリアは微笑んだ。

 

「でも、事実よ」

 

 霊夢がレミリアを睨む。

 

「今はやめなさい」

 

「はいはい」

 

 慧音は男のそばに座り込んでいた。

 

 男は動けないまま、涙を流していた。声はない。ただ、顔が歪み、息だけが漏れている。

 

 慧音はその名前を呼んだ。

 

 初めて聞く名だった。

 

 だが、男はその名前に反応した。

 

 霊夢は、その瞬間に理解した。

 

 この男は、金が欲しかっただけではない。

 復讐だけでもない。

 自分の名前を、誰かに呼んでほしかったのだ。

 

 幻想郷の裏側で、荷物として扱われ、人数として数えられ、労働力として消費され、最後には賭場の負け客として捨てられた男。

 

 その男が、幻想郷中の悪党の秘密を運び、投げ返した。

 

 霊夢は目を閉じた。

 

 胸の奥が重い。

 

 だが、それでも終わりではない。

 

「慧音」

 

 霊夢が言った。

 

「記録は全部出しなさい」

 

 慧音は顔を上げる。

 

「霊夢」

 

「隠したら、あんたも同罪。出したら、幻想郷中が荒れる。でも、ここまで来たらもう隠して終われない」

 

「わかっている」

 

「妹紅」

 

「何だ」

 

「あんたは火を使うな。しばらく」

 

 妹紅は苦笑した。

 

「無茶言うな」

 

「無茶でもやれ。あんたが動くと、全部火事に見える」

 

「……わかった」

 

 レミリアが言う。

 

「紅魔館の名が出る記録は、こちらで確認するわ」

 

「確認はさせる。でも消させない」

 

 霊夢が返す。

 

 レミリアの目が細くなる。

 

「博麗、あなたに命令される覚えは」

 

「ここは人里よ」

 

 霊夢は言った。

 

「紅魔館じゃない」

 

 レミリアはしばらく霊夢を見て、それから笑った。

 

「いいわ。今回は顔を立ててあげる」

 

「顔じゃなくて人里を立てなさいよ」

 

「難しい注文ね」

 

 鈴仙が小さく言う。

 

「永遠亭にも、記録を持ち帰ります。師匠に報告します。隠さずに」

 

「永琳が隠そうとしたら?」

 

 霊夢が訊く。

 

 鈴仙は少し黙った。

 

 それから、はっきり言った。

 

「止めます。できるかはわかりません。でも、止めます」

 

「それでいい」

 

 文は詰所の床に散らばる紙片を見た。

 

「これは、記事ではなく、記録に近いですね」

 

 慧音が文を見る。

 

「協力してくれるのか」

 

「私は天狗です。綺麗な善意では動きません」

 

「では、なぜ」

 

「幻想郷が割れる記事は売れます」

 

 文はいつものように笑おうとした。

 

 だが、その笑みは少しだけ弱かった。

 

「ただ、割れた後に誰も読まなくなるのは困ります。だから、燃やす記事ではなく、残す記事にします」

 

 慧音は深く頭を下げた。

 

 その時、外から声が聞こえた。

 

 人々のざわめき。

 

 家々の戸が少しずつ開いている。煙に気づいた者、騒ぎを聞いた者、夜明け前から眠れずにいた者たちが、通りへ出始めていた。

 

 寺子屋の方から、子供の声も聞こえた。

 

 慧音が立ち上がる。

 

「子供たちを中へ入れるな。妹紅」

 

「ああ」

 

 妹紅が外へ出る。

 

 霊夢も続いた。

 

 通りには、人々が集まっていた。怖がる者、不安そうな者、怒っている者、何が起きたのかわからない者。そこへ、妹紅が両手を広げて立った。

 

「火事じゃない! 危ないものは押さえた! 子供は寺子屋に戻せ!」

 

 人々は戸惑ったが、妹紅の声に従い始めた。

 

 慧音も出てきた。

 

「皆さん、聞いてください」

 

 その声は震えていた。

 

 だが、逃げなかった。

 

「昨夜から今朝にかけて、人里に危険な荷と記録が持ち込まれました。これは、幻想郷の各勢力が関わる問題です。人里も、無関係ではありません。私たち自警組も、関わっています」

 

 ざわめきが広がる。

 

 妹紅が慧音を見た。

 

 慧音は続けた。

 

「私は、これまで知っていたことのすべてを、すぐには話せませんでした。恐れていたからです。人里が巻き込まれることを。子供たちの生活が壊れることを。ですが、黙っていた結果、もっと大きな火種を生みました」

 

 霊夢は慧音の横に立った。

 

 人々の視線が霊夢に集まる。

 

「博麗神社も調べるわ」

 

 霊夢は言った。

 

「八雲、守矢、永遠亭、紅魔館、白玉楼、命蓮寺、地霊殿。全部、関係してる。人里だけを悪者にして終わらせる気はない」

 

 誰かが言った。

 

「本当か」

 

 霊夢はその声の方を見る。

 

「本当よ。というか、私の名前も使われてる。黙って終わらせるわけないでしょ」

 

 それは正義の言葉ではなかった。

 

 だが、人々にはかえって届いた。

 

 博麗霊夢は綺麗なことを言わない。

 だから、少なくとも今この場では、嘘が少なく聞こえた。

 

 レミリアは少し離れた場所で日傘の下に立っていた。

 

「咲夜」

 

「はい」

 

「人里というのは、面倒ね」

 

「はい」

 

「でも、少しだけわかったわ。所有できないものほど、騒がしい」

 

「お嬢様」

 

「何?」

 

「それを口に出すと、また霊夢様に怒られます」

 

「なら黙っておくわ」

 

 鈴仙は封じた薬包を抱え、慧音の横で不安そうに立っている。文は人々の顔を見ながら、手帳を開いた。今度は軽薄な見出しではなく、名前を書き留めるために。

 

 火消し詰所の中では、男が札で拘束されたまま座っていた。

 

 妹紅は彼のそばへ戻った。

 

「お前の名前は残る」

 

 男は顔を上げない。

 

「でも、やったことも残る」

 

 妹紅は続けた。

 

「それでもいいな」

 

 男はかすれた声で言った。

 

「消えるよりは」

 

 妹紅は何も言わなかった。

 

 慧音が中へ入り、男の前に座る。

 

 筆を取る。

 

「名前を」

 

 男は、自分の名前を言った。

 

 慧音はそれを書いた。

 

 一文字ずつ、丁寧に。

 

 その光景を見て、霊夢はようやく息を吐いた。

 

 火は消えた。

 

 だが、焦げ跡は残った。

 

 そして、その焦げ跡こそが、今まで誰も見ようとしなかった記録だった。

 

 夜が明ける。

 

 朝日が人里の屋根を照らし始める。昨夜まで隠れていた汚れが、光の中に浮かび上がる。綺麗にはならない。むしろ、汚さがはっきり見える。

 

 だが、それでいいのかもしれない。

 

 見えなければ、また誰かが地底へ流すだけだ。

 

 文が霊夢の隣に来た。

 

「霊夢さん」

 

「何」

 

「これで終わりですか」

 

「まさか」

 

 霊夢は朝日に目を細めた。

 

「ここからが面倒なのよ。紫も神奈子も永琳も白蓮も、黙ってない。レミリアだって、すぐ自分の都合で動く。白玉楼も地霊殿も記録を守る。慧音は人里の記録を出す。妹紅はしばらく睨まれる」

 

「博麗は?」

 

「私は全部まとめて異変にする」

 

 文は少し笑った。

 

「便利ですね、異変」

 

「便利よ」

 

 霊夢は火消し詰所を見る。

 

「でも今回は、解決して終わりじゃない。名前を残さないと終われない」

 

 文は手帳を閉じた。

 

「では、見出しを変えなければ」

 

「どんな?」

 

 文は少し考えた。

 

「『全員悪党、されど名もなき者あり』」

 

「売れなさそう」

 

「そうですね」

 

 文は苦笑した。

 

「でも、たまには売れない記事も書きます」

 

 霊夢は驚いたように文を見た。

 

「明日は雪?」

 

「失礼ですね」

 

 妹紅が外へ出てきた。

 

 彼女は空を見上げ、眩しそうに目を細める。

 

「朝か」

 

「そうね」

 

 霊夢が言う。

 

「火消しの朝って、こんな感じ?」

 

「最悪だよ」

 

 妹紅は笑った。

 

「煙臭くて、眠くて、何も解決してなくて、それでも火が消えてるだけましだと思う」

 

「今も?」

 

「ああ」

 

 霊夢は妹紅を見た。

 

「殴るのは後にしてあげる」

 

「殴るのかよ」

 

「当然でしょ。羽根置いて回った分」

 

「手加減しろよ」

 

「考えておく」

 

「しないやつだな」

 

 慧音も出てきた。

 

 疲れ切った顔をしていたが、少しだけ表情が軽くなっている。

 

「霊夢」

 

「何」

 

「ありがとう、とはまだ言えない」

 

「言われても困る」

 

「だが、止めてくれたことは覚えておく」

 

「歴史に残す?」

 

 慧音は小さく笑った。

 

「残すかどうかは、内容次第だ」

 

「厳しい先生ね」

 

「仕事だからな」

 

 人里の空に、朝の光が広がっていく。

 

 その光の下で、幻想郷の裏側は初めて人々の前に出た。まだ断片だけだ。まだ多くは隠されている。だが、一度見えたものを、なかったことにはできない。

 

 火消し詰所の前に、焼け残った紙片が一枚落ちていた。

 

 霊夢はそれを拾う。

 

 そこには、かすれた字でこう書かれていた。

 

『こいつら、全員悪党』

 

 霊夢はその紙をしばらく見つめた。

 

 そして、小さく笑った。

 

「今さらね」

 

 彼女は紙片を袖にしまい、人里の通りを歩き出した。

 

 行く先は博麗神社ではない。

 

 まずは八雲。

 次に守矢。

 永遠亭、紅魔館、白玉楼、命蓮寺、地霊殿。

 全員に、同じものを見せる必要がある。

 

 名前だ。

 消されかけた者たちの名前。

 

 それを前にして、どいつがどう言い訳するか。

 

 霊夢は少しだけ口角を上げた。

 

 火は消えた。

 

 だが、落とし前はこれからだった。

 

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