博麗神社の祭りは、終わっていなかった。
正確に言えば、終わらせる暇がなかった。
夜通し灯っていた提灯は、朝の光の中で色褪せて見えた。屋台の火は落ち、酒樽は空になり、境内の隅には誰かが吐いた跡と、踏み潰された札と、勘定の合わない小銭が転がっている。
昨夜、ここは賭場だった。
祭りだった。
博麗の縄張りだった。
今朝は、裁き場になった。
霊夢は本殿の前に立っていた。
賽銭箱の前ではない。社務所でもない。境内の中央。誰が来ても見える場所。誰が逃げても背中が見える場所。
その前には、長い板が何枚も並べられていた。
人里の火消し詰所から運ばれてきた記録。
命蓮寺の船荷の写し。
地霊殿の洗浄記録の一部。
白玉楼の債務帳の断片。
紅魔館の契約台帳の写し。
永遠亭の薬包と廃棄記録。
守矢講の名簿の一部。
八雲工事の下請け台帳。
そして、慧音が夜明け前から書き起こした、人里の名もなき者たちの名前。
全部は出せない。
出せば、壊れる者がいる。
逃げ場を失う者がいる。
名を出されることで、もう一度傷つく者もいる。
だが、全部隠すこともできない。
隠せば、また同じことが起きる。
だから、霊夢は全員を呼んだ。
呼んだというより、呼びつけた。
射命丸文が朝一番に飛ばした号外には、たった一文だけが大きく刷られていた。
『博麗神社にて、幻想郷裏利権調停。関係者は来なければ名前を出す』
文は「少し刺激的ですかね」と言った。
霊夢は「ちょうどいい」と言った。
その結果、幻想郷の悪党たちは、全員、博麗神社に集まった。
最初に来たのは、八雲紫だった。
隙間から現れた彼女は、いつものように笑っていた。薄紫の衣、扇、涼しげな目。だが、後ろに控える藍の顔は硬い。橙は緊張した様子で周囲を見ている。
霊夢は紫を見るなり言った。
「遅い」
「呼びつけておいて、挨拶もそれ?」
「お茶会じゃないの」
「知っているわ。だから来たのよ」
紫は境内に並べられた記録を見た。
その笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
「ずいぶん集めたわね」
「上から下まで流れてたものよ。拾うのが大変だったわ」
「拾ったものをそのまま並べれば、拾った者の手も汚れる」
「もう汚れてる」
霊夢は紫を睨んだ。
「今さら綺麗な手を探す場じゃないわ」
次に来たのは、守矢だった。
八坂神奈子は堂々と石段を上がってきた。東風谷早苗はその後ろで、どこか不安そうに境内を見ている。洩矢諏訪子は、楽しそうとも退屈そうともつかない顔で、石段の端をぴょんぴょんと歩いていた。
「博麗」
神奈子は霊夢の前に立った。
「人里の講の件、説明してもらおうか」
「それを言うのはこっちよ。守矢の講で偽薬が出た。名簿と奉納記録が地底へ流れてた。説明するのはあんた」
「守矢は被害者だ」
「今日はその言葉禁止にしようかしら」
霊夢は声を張った。
「全員、自分を被害者って言うの禁止」
境内に妙な沈黙が落ちた。
神奈子は鼻で笑った。
「無茶な裁きだな」
「裁きじゃない。面倒事の整理よ」
永遠亭は、少し遅れて来た。
八意永琳、蓬莱山輝夜、鈴仙、因幡てゐ。
永琳は境内に入るなり、薬包の置かれた板の前へ向かった。鈴仙がすぐそばに控える。輝夜は眠そうに欠伸をし、てゐは屋台の残り物を物色しようとして霊夢に睨まれた。
「永琳」
霊夢が言う。
「人里に出た偽薬と、地底に流した廃棄薬の説明」
「するわ」
「珍しい」
「隠しても、もう意味がないもの」
「最初からそうしてれば早かったのに」
「最初から全部話す医者は、医者を続けられないわ」
「裏医者の理屈ね」
「それでも医者よ」
紅魔館は、昼近い光を嫌うように現れた。
咲夜が大きな日傘を差し、その下にレミリアがいる。美鈴とパチュリーも同行していた。パチュリーは陽の光を嫌そうにしながら、分厚い本を抱えている。
「博麗」
レミリアは境内を見るなり言った。
「ずいぶん安い会場ね」
「帰る?」
「冗談よ。紅魔館を侮辱した件の落とし前を、まだつけていないもの」
「今日つけるのは、あんたの分も含めて全部よ」
「私に落とし前を要求する気?」
「要求じゃない。置いていってもらう」
レミリアは楽しそうに笑った。
「何を?」
「隠してた帳簿の鍵」
咲夜の目がわずかに鋭くなる。
パチュリーが静かに言った。
「それは簡単には出せないわ」
「簡単じゃなくても出すの。今日の話は全部それ」
白玉楼からは、幽々子と妖夢が来た。
幽々子はいつも通り優雅に、妖夢は少し青い顔で。妖夢の手には、蔵から盗まれた帳面の残りと、封じられた武器商記録の写しがあった。
「霊夢、いい天気ね」
「そうね。秘密を干すにはちょうどいいわ」
「嫌な洗濯物ね」
「地霊殿はもっと嫌な洗濯場だったわよ」
幽々子はふふ、と笑う。
「さとりも来るのかしら」
「来るわ」
霊夢が言った直後、地面の影がわずかに揺れた。
旧地獄から上がってきた気配。
古明地さとりが現れた。お燐、お空、そしてこいしも一緒だった。こいしは境内の端にある屋台の残骸を見て、無邪気に首を傾げている。
「お招きありがとうございます」
さとりは静かに言った。
「招いた覚えはないわ。呼びつけたの」
「同じことです」
「違うわよ」
文が横で呟く。
「今日の霊夢さん、細かいですね」
「黙って記録してなさい」
「はいはい」
最後に、命蓮寺が来た。
聖白蓮、村紗水蜜、一輪、星。
白蓮の顔には、明らかな疲れがあった。村紗は険しい表情で、霊夢を睨んでいる。消えた船荷。その責任を一番最初に問われるのは、彼女たちだからだ。
「霊夢さん」
白蓮は静かに頭を下げた。
「遅くなりました」
「来ただけましね」
「命蓮寺の船荷の件、こちらにも責任があります」
「責任があります、で済む話じゃないわよ」
「わかっています」
村紗が低く言う。
「船を使われた。うちの海運を」
「使われた?」
霊夢は村紗を見た。
「本当に?」
村紗は歯を食いしばる。
「……うちの中に、協力者がいた」
境内に重い空気が広がった。
これで揃った。
博麗。
八雲。
守矢。
永遠亭。
紅魔館。
白玉楼。
地霊殿。
命蓮寺。
天狗。
そして、人里の自警組。
妹紅と慧音は、境内の端に立っていた。
慧音の手には、人里の記録。
妹紅の肩には、火消しの半纏。
霊夢は全員を見回した。
「じゃあ、始めるわ」
紫が扇で口元を隠す。
「議長はあなた?」
「文句ある?」
「ないわ。責任もあなたが取るなら」
「取るわよ」
霊夢は即答した。
紫の目がわずかに動いた。
「珍しいわね」
「責任を取るのが嫌で、みんな地底へ捨ててたんでしょ。だったら、今日は誰かが前に立たないと終わらない」
神奈子が腕を組む。
「博麗がそこまで言うなら聞こう。で、何を裁く?」
「裁かない」
霊夢は言った。
「全員裁いたら幻想郷が空になる」
文が小さく笑いかけたが、すぐにやめた。
霊夢は続ける。
「今日やるのは三つ。まず、何が起きたか確認する。次に、誰が何を隠したか認める。最後に、これから何を隠せなくするか決める」
レミリアが言った。
「随分と健全ね。博麗の巫女が道徳の授業?」
「嫌なら帰っていいわよ。帰った瞬間、紅魔館の契約台帳の写しを文に渡すけど」
レミリアの笑みが止まった。
文が手を上げる。
「受け取る準備はあります」
「黙ってなさい」
「はい」
霊夢は板の上に置かれた最初の記録を指した。
「命蓮寺の船荷。これが始まり。表向きは法具と救援物資。実際には、各勢力の処理予定物が混載されていた。八雲の工事書類、永遠亭の廃棄薬、紅魔館の契約写し、白玉楼の債務記録、守矢の講関係、その他いくつか」
白蓮が目を伏せる。
「命蓮寺は、荷のすべてを把握していませんでした」
霊夢はすぐに言った。
「それ、言い訳として最悪よ」
白蓮は顔を上げた。
「そうですね」
村紗が拳を握る。
「うちは、船を貸した。荷を運んだ。けれど、中身までは」
慧音が静かに言った。
「荷を運ぶ者は、いつもそう言われます。中身を知らないから責任がない、と」
村紗は言葉を失った。
白蓮が慧音を見る。
「その通りです。知らなかった、では済まされない。命蓮寺の海運は、慈悲と救済の名で荷を運び、その中に誰かが捨てたいものを混ぜる余地を作ってしまった」
神奈子が低く言う。
「それは命蓮寺だけではないだろう」
「そうよ」
霊夢は次の板を指した。
「八雲。大結界再整備計画。下請け台帳に、実在しない人足、名前を伏せた作業員、地底処理に回された廃材がある」
藍が一歩前に出た。
「工事現場では、多数の下請けが関わっている。すべてを八雲が直接」
「藍」
紫が静かに止めた。
「言い訳は醜いわ」
藍は口を閉じた。
紫は霊夢を見た。
「八雲は、大結界再整備計画において、いくつかの不透明な下請け処理を認めます。危険な廃材や記録を地底へ送ったことも事実」
「なぜ隠した」
「幻想郷の安定のため」
霊夢は鼻で笑った。
「便利な言葉ね」
「ええ。便利だから使ってきたの」
紫の声は静かだった。
「でも、便利な言葉で隠したものが、今回は戻ってきた。認めるわ」
神奈子が口を挟む。
「八雲が認めるとは珍しい」
紫は神奈子を見た。
「次はあなたよ」
霊夢は守矢の板を指した。
「守矢安全講。紹介者記録、奉納記録、現場安全祈祷部。人里の不安を集めて、信仰と金に変えてた」
早苗が顔を青くした。
「霊夢さん、その言い方は」
「きつい?」
「……はい」
「でも、事実から遠い?」
早苗は答えられなかった。
神奈子が代わりに言う。
「守矢は信仰を集めた。人里に入り、互助会を作り、現場祈祷を請け負った。そこに金が動いたことも認める」
「人の不安に値段をつけた」
「不安に形を与えた」
「同じよ」
「違う」
神奈子の声が強くなる。
「博麗、お前は救えない不安を放っておいた。こちらはそこへ手を伸ばした。手を伸ばせば、金も責任もついてくる。それを全部悪と呼ぶなら、お前は人里の日々をどう支える?」
慧音が言った。
「支えると言うなら、記録を開示してください。誰が紹介し、誰が払えず、誰が講の中で肩身を狭くしたか。守矢が把握しているはずです」
早苗が慧音を見る。
「慧音さん……」
「責めているだけではありません。守矢の仕組みで助かった者もいるでしょう。それも記録する必要がある。だが、助かった者だけを見せ、苦しんだ者を隠すなら、それは救済ではなく支配です」
神奈子はしばらく黙った。
そして言った。
「名簿は出せない」
霊夢が札を抜きかける。
神奈子は続けた。
「全員には、だ。だが、慧音と博麗、そして本人同意のある範囲で確認する場を設ける。守矢が握っていた不安を、人里側にも見せる」
早苗が驚いたように神奈子を見た。
「神奈子様」
「早苗。信仰は奪い合いでは終わらん。残すなら、形を変える必要がある」
霊夢は小さく頷いた。
「次。永遠亭」
永琳は前に出た。
霊夢は薬包を指した。
「偽薬は永遠亭のものじゃなかった。でも、地底に流した廃棄薬と記録が悪用された。禁制薬の管理にも穴があった」
「認めるわ」
永琳は短く言った。
鈴仙が隣で唇を結んでいる。
「永遠亭は、表に出せない薬、治療記録、処理品を地底へ送っていた。医療上必要なものもあった。けれど、その仕組みが外部に利用された」
霊夢は言う。
「患者の秘密を盾にして、隠しすぎた」
「そうね」
「認めるの早いわね」
「遅すぎたからよ」
永琳の声は冷たかったが、いつもより少しだけ重かった。
「薬は人を救う。でも、薬を扱う者が自分だけは正しいと思えば、人を支配する。今回、永遠亭はその危険を突かれた」
鈴仙が一歩前に出た。
「永遠亭は、人里に出た偽薬の回収と治療に協力します。薬包の見分け方、安全な封じ方も、必要な範囲で共有します」
てゐが小声で言う。
「商売あがったりだね」
永琳がてゐを見る。
「てゐ」
「はいはい、黙ります」
霊夢は次に紅魔館を見た。
「紅魔館」
レミリアは日傘の下で笑った。
「さあ、何を認めろと言うのかしら」
「契約台帳。保護対象、労務登録、沈黙契約。人を資産扱いしてた」
「紅魔館は所有する。そこは変えないわ」
境内に緊張が走る。
霊夢はレミリアを睨んだ。
「今日くらい、言葉を選びなさいよ」
「選んでいるわ。嘘をつかないようにね」
レミリアは一歩前に出る。
「紅魔館は、幻想郷のルールに完全には従わない。館の中には館の法がある。これは変わらない。けれど、紅魔館の契約記録が外へ流れ、他者を脅す道具になったことは認める。私の所有物が、私の意志を離れて動いた。これは許しがたい」
慧音が低く言った。
「所有物ではなく、人です」
レミリアは慧音を見た。
「あなたにとってはね」
「幻想郷にとってもです」
「本当に?」
レミリアは周囲を見回した。
「八雲は人を人足として使う。守矢は信者として数える。永遠亭は患者として記録する。白玉楼は債務者として見る。博麗は客や揉め事として扱う。天狗は情報源として見る。私だけが、人を人でなくしていると?」
慧音は一瞬黙った。
だが、すぐに答えた。
「いいえ。だからこそ、ここで止める必要があります」
レミリアは少し笑った。
「面白いわね、先生。あなたは弱いのに、言葉だけは強い」
「弱い者を見てきたからです」
咲夜が静かに言った。
「お嬢様。紅魔館の契約台帳については、本人同意のない拘束契約、処理済みとされた労務記録、外部仲介の名簿を再確認すべきかと」
レミリアは咲夜を見た。
「咲夜までそちらにつくの?」
「いいえ。私はお嬢様の従者です。だからこそ、紅魔館の穴を塞ぐ必要があります」
パチュリーが本を閉じる。
「同感ね。支配を続けたいなら、腐った契約は切るべきよ。腐敗を抱えた所有は、館ごと腐らせる」
レミリアはしばらく黙った。
やがて、面白くなさそうに言った。
「いいわ。紅魔館は、契約台帳の一部を監査させる。ただし、博麗と慧音、そして本人に関係する範囲まで。天狗には渡さない」
文が残念そうに言う。
「信頼がありませんね」
全員が同時に文を見た。
「……はい、黙ります」
霊夢は白玉楼を見る。
「幽々子」
「はい」
「債務帳、武器商記録、死者の蔵」
「認めるわ」
幽々子は穏やかに答えた。
「白玉楼は、死者だけでなく、生者の未払いも扱ってきた。金を貸し、品を預かり、武器を封じ、時には危険な取引も止めずに見ていた」
「止めなかったの?」
「止めれば、別の場所でもっと悪くなることもあるのよ」
「それも便利な言い訳ね」
「ええ。便利だったわ」
妖夢が悔しそうに俯く。
幽々子は続けた。
「でも、借りた者の名を隠すことと、貸した側の都合を隠すことは違う。白玉楼は、前者を守るつもりで、後者まで守っていたのかもしれないわね」
慧音が言う。
「債務者の名は、本人の同意なく出すべきではありません」
「その通り」
幽々子は頷いた。
「でも、貸した側、取り立てた側、武器を流した側の記録は別。そこは見直しましょう」
霊夢は地霊殿を見る。
「さとり」
「はい」
「掃除屋。洗浄屋。証拠処理」
「認めます」
さとりは最初から逃げる気がなかった。
「地霊殿は、上から流れた汚れを受け取ってきました。危険物を処理し、書類を封じ、記録を消し、あるいは消したことにした。上の世界が綺麗な顔をするための下水でした」
お燐が顔をしかめる。
「さとり様、そこまで言わなくても」
「言うべきです」
さとりは霊夢を見た。
「ただし、地霊殿はこれからも危険物を処理します。それ自体をやめれば、幻想郷は別の形で壊れる。変えるべきは、何を、誰が、なぜ流したかを完全に消さないこと」
紫が静かに言った。
「記録を残すのね」
「ええ。地底だけで抱えない。上にも、責任の一部を戻す」
霊夢は頷いた。
「最後に、人里」
慧音と妹紅が前に出た。
境内の空気がさらに重くなる。
今回の騒動の火種は、ここにあった。
慧音は深く息を吸った。
「人里の自警組は、各勢力の荷や揉め事に関わってきました。問屋、火消し、人材派遣、用心棒。その中で、見て見ぬふりをしてきたことがあります。私は、それを記録しながら、公表できなかった」
妹紅が続ける。
「私は、火をちらつかせた。羽根を置いた。上の連中を疑わせた。怒りで動いた。結果、仁助に利用された」
仁助。
火消し詰所で拘束された男の名だった。
その名が出た瞬間、境内の端に座らされていた男がわずかに顔を上げた。今は札で縛られている。だが、誰も彼を荷物のようには扱っていなかった。
慧音がその名を記録したからだ。
霊夢は言った。
「仁助は、各勢力の処理荷を運んでいた元人足。賭場で負けて、問屋を追われ、名前も信用も失った。慧音たちが取った写しと、妹紅の火の偽装を使って、今回の騒ぎを広げた」
仁助は笑った。
乾いた笑いだった。
「どうせ俺が全部悪いってことで終わらせるんだろ」
霊夢は彼を見た。
「終わらせない」
「なら、俺は何だ」
「犯人の一人」
仁助の笑みが止まった。
「一人?」
「そう。一人で全部やったわけじゃない。あんたは怒りを運んだ。妹紅は火を置いた。慧音は記録を隠した。命蓮寺は荷を運んだ。八雲は隠した。守矢は不安を集めた。永遠亭は薬を流した。紅魔館は契約を握った。白玉楼は債務を抱えた。地霊殿は汚れを受け取った。文は情報を売った。私も、賭場であんたを切り捨てた」
境内に沈黙が落ちた。
霊夢は言った。
「だから、あんた一人を燃やして終わりにはしない」
仁助は俯いた。
「……今さらだ」
「そうね。今さらよ」
「全部遅い」
「遅いわね」
「遅すぎる」
「それでも、今やるしかない」
仁助は何も言わなかった。
霊夢は全員を見回した。
「さて」
その声は、境内の端まで届いた。
「ここからが本題」
紫が静かに言う。
「落とし前ね」
「そう」
霊夢は指を三本立てた。
「一つ。地底へ流す処理荷は、今後、博麗、地霊殿、人里記録係の三者で記録を残す。危険物の中身までは全部出さなくていい。でも、誰が、何を、なぜ流したかの責任者名は残す」
永琳が言う。
「医療機密に触れるものは?」
「患者の名は伏せる。責任者の名は出す」
永琳は少し考え、頷いた。
「妥当ね」
「二つ。人里の人足、火消し、問屋、自警組を、各勢力の使い捨てにしない。危険な荷には危険手当。怪我をしたら治療保証。消えたら調査義務。これは守矢、永遠亭、八雲、命蓮寺、紅魔館、白玉楼、全部に適用」
神奈子が言う。
「金がかかるな」
「かけなさい」
「誰が管理する」
「慧音」
慧音が驚いた。
「私?」
「人里の記録係。あんたがやるしかないでしょ」
「だが、私は今回」
「だからやるの。隠した人間が、今度は隠さない仕組みを作る」
慧音はしばらく黙り、やがて頷いた。
「引き受ける」
「妹紅は火消し側の責任者」
妹紅が眉を上げる。
「私も?」
「当たり前でしょ。火をちらつかせた罰よ。今度は本当に火を消しなさい」
妹紅は苦笑した。
「きつい罰だな」
「死なないんだから働きなさい」
「お前な」
霊夢は三本目の指を立てた。
「三つ。今回の記録のうち、名を出せるものは文が残す。ただし、面白おかしい記事にしたら、天狗の山ごと祓う」
文が目を丸くする。
「山ごとですか」
「比喩よ。たぶん」
「たぶん?」
慧音が文を見る。
「射命丸。名を出す者、伏せる者、その線引きは私も見る」
文は少しだけ真面目な顔で頷いた。
「わかりました。今回は、新聞というより記録として扱います」
レミリアが言う。
「紅魔館に不利な部分は?」
「出るわよ」
霊夢が即答する。
「ただし、契約者本人の安全に関わる名は伏せる。紅魔館の不正と、被害者の名は別」
レミリアは霊夢を見つめた。
「あなた、いつからそんな器用なことを考えるようになったの」
「夜通し歩き回れば、嫌でも考えるわ」
紫が扇を閉じた。
「面白い案ね。でも、それだけでは足りない」
霊夢は紫を見た。
「何が」
「博麗神社はどうするの?」
境内が静まった。
紫は微笑む。
「賭場。屋台。用心棒。異変後の示談。博麗もまた、人里と妖怪の間で利権を持っている。あなたは他者に記録を求める。では、自分は?」
霊夢は黙った。
文が手帳を持つ手を止める。
妹紅も慧音も、霊夢を見た。
霊夢はゆっくり息を吐いた。
「博麗も出す」
紫の笑みが止まった。
神奈子が驚いたように眉を上げる。
「本気か」
「全部じゃない。賭場の客名簿なんて出したら、それこそ別の火事になる。でも、屋台の場所代、用心棒代、示談金、博麗の印を使った書類は、慧音と文に見せる」
文が目を丸くした。
「私にも?」
「変なこと書いたら落とす」
「了解しました」
紫はしばらく霊夢を見ていた。
「変わったわね」
「変わってないわよ。私の名前を勝手に使われたから、腹が立ってるだけ」
「それだけ?」
「それだけよ」
霊夢はそっぽを向いた。
幽々子が楽しそうに笑う。
「霊夢らしいわね。善意ではなく、腹立ちで秩序を作る」
「最悪の褒め方ね」
「褒めているわ」
さとりが静かに言った。
「霊夢。あなたは今、少しだけ怖がっていますね」
「読まないで」
「博麗の帳を出すことで、自分の足元が崩れるかもしれないと思っている」
「読まないでって言ったわよね」
「でも、それでも出すと決めた。理由は、自分だけ隠したままでは、二度とこの場で札を振れなくなるから」
霊夢はさとりを睨んだ。
「本当に嫌な妖怪ね」
「よく言われます」
紫が小さく笑った。
「では、決まりかしら」
神奈子が腕を組む。
「守矢は条件付きで受ける」
永琳が言う。
「永遠亭も、患者保護を前提に受ける」
レミリアは不満そうだったが、咲夜とパチュリーに視線を向けられ、ため息をついた。
「紅魔館も受ける。ただし、館内の法は残す」
「少しは減らしなさい」
霊夢が言うと、レミリアは笑った。
「考えておくわ」
「絶対考えないやつね」
白蓮が深く頭を下げる。
「命蓮寺は、海運の監査を受け入れます。荷の名目と実態を、少なくとも人里側に確認できるようにします」
村紗も渋々頷いた。
「船を使われっぱなしは、こっちも腹が立つ」
幽々子が言う。
「白玉楼も、貸し手側の記録を見直すわ。債務者を守るためにもね」
さとりが頷く。
「地霊殿は、洗浄記録を閉じすぎない。上に責任を戻す仕組みを作ります」
紫は最後に言った。
「八雲も受けるわ。ただし、幻想郷全体の均衡に関わるものは、私の判断で伏せることがある」
霊夢が札を抜いた。
「却下」
紫は目を細める。
「霊夢」
「伏せるなら、理由を書きなさい。誰が判断して、なぜ伏せたか。それも記録に残す」
紫は黙った。
藍が紫を見る。
「紫様」
紫はやがて、小さく笑った。
「本当に面倒な巫女になったわね」
「誰のせいよ」
「私かしら」
「半分くらいね」
紫は頷いた。
「いいわ。伏せる理由も残す。これで満足?」
「全然」
「でしょうね」
これで、表向きの合意はできた。
だが、境内の空気は軽くならなかった。
誰も勝っていない。
紫は管理の穴を認めた。
神奈子は信仰商売の歪みを認めた。
永琳は薬の管理の危うさを認めた。
レミリアは契約の腐敗を認めた。
幽々子は債務の闇を認めた。
白蓮は海運の責任を認めた。
さとりは掃除屋の共犯性を認めた。
慧音と妹紅は怒りの暴走を認めた。
霊夢は博麗の利権を認めた。
全員悪党。
だが、悪党が全員いなくなれば、幻想郷は明日から動かない。
その事実が、一番救いようがなかった。
仁助が境内の端で笑った。
「結局、上の連中は残るのか」
誰も答えなかった。
仁助は続けた。
「俺は捕まる。妹紅さんと先生は責められる。でも、神様も、妖怪も、吸血鬼も、医者も、寺も、みんな席に戻る」
霊夢は仁助の前に歩いていった。
「そうよ」
仁助は顔を上げた。
「認めるのか」
「認めるわ。全員を落としたら、幻想郷が壊れる。あんた一人を落としても、何も変わらない。だから、全員の席を少しずつ削る」
「それで許せって?」
「許さなくていい」
霊夢は言った。
「許すのは、あんたの仕事じゃない。私の仕事でもない。慧音が名前を残す。文が記録する。各勢力が金と責任を出す。妹紅が火を消す。私は、逃げようとした奴を祓う」
仁助は小さく笑った。
「それで、俺は?」
「罪は残る。名前も残る」
慧音が近づく。
「仁助。君がやったことは消えない。だが、君がなぜやったかも消さない」
仁助は慧音を見た。
しばらくして、彼は俯いた。
「……それでいい」
その声は、怒りが消えた声ではなかった。
だが、燃え尽きる寸前の火のように、少しだけ静かになっていた。
その時、文が空を見上げた。
「来ますね」
霊夢も気づいた。
妖怪の山の方角から、天狗たちの気配がする。
人里の方からは、人々が少しずつ石段の下へ集まり始めている。
地底、湖、竹林、冥界、命蓮寺、守矢。
この会合の気配は、もう幻想郷中へ広がっている。
隠して終わることはできない。
霊夢は本殿の前へ戻った。
「最後に」
全員が霊夢を見る。
「この件、異変として処理する」
紫が目を細めた。
「名前は?」
霊夢は少し考えた。
そして、足元に落ちていた紙片を取り出した。
『こいつら、全員悪党』
その文字を見て、霊夢は小さく笑った。
「黒社会異変」
文の目が光る。
「そのまま載せていいですか」
「載せるなら、名前も一緒に載せなさい。消えた人足、怪我をした火消し、黙らされた問屋、薬で壊れかけた者、契約に縛られた者、借金で逃げられなかった者。書ける範囲で、全部」
文は深く頷いた。
「わかりました」
「あと、私の賭場の件は小さめに」
「そこは公平に大きくします」
「落とすわよ」
「記録ですので」
境内に、初めて少しだけ笑いが生まれた。
乾いた笑いだった。
だが、昨夜までの笑いとは違った。
隠すための笑いではなかった。
霊夢は全員を見回した。
「これで終わりじゃない。むしろ、これから面倒が始まる。逃げる奴がいたら、私が行く。隠す奴がいたら、文が嗅ぐ。名前を消す奴がいたら、慧音が書く。火をつける奴がいたら、妹紅が消す。薬をばらまく奴がいたら、永遠亭が止める。契約で縛る奴がいたら、紅魔館も責任を取る。信仰で囲う奴がいたら、守矢が説明する。荷を流す奴がいたら、命蓮寺が中身を見る。借金で潰す奴がいたら、白玉楼が貸し手を見る。地底へ捨てる奴がいたら、地霊殿が記録を戻す。八雲が隠したら」
霊夢は紫を見た。
「私が隙間ごと祓う」
紫は笑った。
「怖いわね」
「怖がってなさい」
神奈子が言った。
「博麗。これは新しい秩序か?」
「違うわ」
「では何だ」
「応急処置」
永琳が小さく笑った。
「医者の言葉ね」
「借りただけよ」
霊夢は賽銭箱の方を見た。
朝日が境内を照らしていた。
賽銭箱は相変わらず空に近い。
だが、その前に並べられた記録だけは重かった。
金より重い。
血より面倒。
信仰より厄介。
薬より苦い。
契約より逃げにくい。
名前だった。
消えかけた者たちの名前。
それを前にして、全員が少しだけ黙った。
悪党たちが、ようやく自分たちの足元を見た。
それだけで幻想郷が良くなるわけではない。
だが、見なければ何も始まらない。
霊夢は言った。
「じゃあ、解散。逃げるなよ」
誰も、すぐには動かなかった。
それぞれが、それぞれの記録を見ていた。
やがて紫が隙間を開き、神奈子が早苗を連れて石段を下り、永琳が薬包を回収し、レミリアが咲夜に日傘を持たせたまま不機嫌に帰り、幽々子が妖夢に帳面を預け、白蓮が村紗と低く話し合い、さとりがこいしの手を取った。
最後に残ったのは、霊夢、文、慧音、妹紅、そして仁助だった。
仁助は慧音に連れられて人里へ戻される。罰は免れない。だが、今度は荷物としてではなく、名前を持った者として裁かれる。
妹紅は彼の背中を見ていた。
「霊夢」
「何」
「私は、あいつを責めきれない」
「責めなさいよ」
妹紅は霊夢を見る。
「え?」
「責めるのと、理解するのは別。理解したからって、やったことが消えるわけじゃない。あんたも同じ」
妹紅は苦笑した。
「厳しいな」
「甘くしたらまた燃やすでしょ」
「燃やさねえよ」
「しばらくはね」
慧音が霊夢に頭を下げた。
「記録を始める。だが、全員の名前を守りながら残すのは難しい」
「難しいことをやるために先生っているんでしょ」
「無茶を言う」
「幻想郷は無茶でできてるのよ」
文が手帳を閉じる。
「私も手伝います。記録の形を整えます」
慧音は文を見た。
「ありがとう」
「礼はまだ早いですよ。私は天狗です。時々、余計なことを書きたくなります」
「その時は私が止める」
「怖い先生ですね」
妹紅が言った。
「止まらなかったら、私が燃やす」
「もっと怖いですね」
霊夢は空を見上げた。
朝は完全に来ていた。
夜に動いた悪事が、朝の光の中で情けなく見える。だが、それでも消えない。消えないから、記録し、縛り、時々殴るしかない。
霊夢は社務所へ向かった。
「どこへ行くんですか」
文が訊く。
「寝る」
「この状況で?」
「寝ないと、次に誰かを祓う時に手元が狂う」
妹紅が笑った。
「物騒な理由だな」
「私らしいでしょ」
霊夢は振り返らずに言った。
「あと、文」
「はい」
「記事の見出し」
「はい」
「『全員悪党』だけはやめなさい」
「なぜです?」
「開き直って格好つける奴が出る」
文は少し考えた。
「では、こうしましょう」
彼女は手帳に一行を書いた。
『悪党たち、名もなき者に頭を下げる』
霊夢はそれを覗き込み、眉をひそめた。
「下げてない奴もいるでしょ」
「では、『下げさせられる』にしますか?」
「そっち」
文は笑った。
「了解です」
霊夢はようやく少しだけ笑った。
博麗神社の境内に、朝の風が吹いた。
提灯が揺れる。
札が揺れる。
記録の紙が、飛ばないように石で押さえられている。
その紙の上には、まだ乾ききっていない墨で、いくつもの名前が書かれていた。
幻想郷は、昨日と同じように今日も続く。
ただ、少しだけ違う。
今まで地底へ流れていた汚れが、少しだけ地上に残った。
それは醜い。
だが、醜いものを見える場所に置くことからしか、落とし前は始まらない。
霊夢は社務所の戸を開け、ぼそりと呟いた。
「本当に面倒くさい」
けれど、その声は昨夜より少しだけ軽かった。