港街の冒険者ギルド。西日が差し込む酒場では、相変わらず潮風に吹かれた冒険者たちが喧騒に身を委ねていた。その喧騒を切り裂くように、一人の青年が受付へと飛び込んでいた。
「本当なんですか!? 彼女たちの楽団が、ゴブリンの群れに襲われたというのは!」
「……未だ詳細は不明ですが、先ほど目撃したという方から調査と救出の依頼が入りました。既に、待機していた白磁等級の一党が現場に向かっています。」
「白磁等級!? 馬鹿な! 楽団には銀等級を含めた護衛が何人もついていたんですよ!? その彼らが敗れたというのなら、相手はただの小鬼じゃない!もし、本当に小鬼王(ゴブリンロード)が率いるような大規模な群れだったら……新人を向かわせるなんて自殺行為だ!!」
「……落ち着いてください。仰ることは分かりますが、ギルドにも規定があります。ゴブリンロードなど、そうそう産まれるものではありません。現時点では『よくある野良の襲撃』と判断されています。それにこの街の熟練者は、今……」
「そうだぜ、坊ちゃん」
酒場の奥で大剣を立てかけていたベテラン冒険者が、鼻で笑いながら割り込んできた。
「俺たちの掲示板を見てみろ。航路を塞いでる海獣や、魔神の残党といった、真に『脅威』となる依頼が山積みなんだよ。ゴブリン如きに貴重な熟練の手を割く余裕なんて、今のギルドにはねえんだ」
「ですが……!」
「仮に、本当に銀等級を仕留めた小鬼がいたとしてもだ」
別の冒険者が、酒を煽りながら冷淡に付け加える。
「プロの護衛とやり合った後なら、連中も既に消耗しきってるはずだ。白磁のガキ共の初手柄には、ちょうどいい『食い残し』だろうよ」
「…………っ!!」
青年は、自分を取り囲む「無関心」という名の巨大な壁に、絶望的な孤独を覚えた。
誰も動かない。誰も信じない。
救済を求める声は、熟練者たちの自尊心と、組織の合理性という泥の中に沈んでいく。
「……分かりました。もういいです」
青年は、嘲笑のなかで背を向けた。
そのままギルドを飛び出し、雨の降り始めた街へと駆け出していった。
――洞窟の最奥、かつてゴブリンロードが鎮座していた不浄な玉座。
そこにはいま、血に汚れた杖を横に置き、欲望を剥き出しにしたゴブリンシャーマンが、力なく横たわる歌姫を組み伏せていた。
「GORB,GORB……!!(ククク……最高だ。この柔らかな肌。何よりこの絶品な『鳴き声』。ようやく、すべてが俺のものになった……!)」
シャーマンは、彼女が絶望に顔を歪めるたびに、至高の悦びに浸っていた。自らの知略で強者たちを葬り去り、手に入れた王の特権。彼は今、人生で最も輝かしい瞬間にいると確信していた。
「GORB!!(ボ、ボス! 大変だッ!!)」
一匹のゴブリンが転がり込むようにして駆け込んできた。
「GROUUU!!(ふざけるなッ! 今は忙しいと言っただろう! 邪魔をするな、後にしろ!!)」
シャーマンは激昂し、背後の小鬼を睨みつけた。しかし、部下の小鬼はガタガタと震えながら、入り口の方を指差した。
「GORB!!(冒険者が! 冒険者が巣穴に踏み込んできました! 仲間が次々とやられています!)」
「(……何だと!?)」
その報告と同時。
不浄な闇を切り裂くような凛とした声が響き渡った。
「――そこまでよ! ゴブリン共!!」
松明の光を背負い、銀色に輝く細剣を構えた少女――女細剣使いが、勢いよく広場へ踏み込んだ。その後ろには、武器を構えた白磁等級の少年たちが続いている。
「助けに来ました。地母神様、どうか御加護を!」
「本当に捕まっていたんだな……。おい、あの不気味なのがボスのようだな!」
「(しまっ……!!)」
シャーマンは慌てて歌姫から離れ、傍らの杖を掴み取る。
迎撃のために、最も得意とする『火矢(ファイアボルト)』を放とうとした瞬間。
彼の脳裏に、冷たい戦慄が走った。
(……待て。……ロードの部下たちを眠らせるために『眠雲(スリープ)』を使い。……さっき、チャンピオンの息の根を止めるために『火矢』を使った……)
一日に二回。
それが、小鬼の術師に許された精神の限界。
「Gu……!?(……しまった。呪文は二回とも、使い切ってしまった……!)」
手元にあるのは、ただの古びた木の杖。
目の前にいるのは、まだ恐怖を知らず、正義感に燃える「元気な」冒険者たち。
かつての「王」に相応しい軍勢は、自らの手で殺し尽くしてしまい、守るべき盾も、放つべき術も、今の彼には何一つ残されていなかった。
「――やらせないわよ!」
最後尾にいた新米魔術師の少女が、一歩前に出た。彼女は、まだあどけなさが残る横顔で、教本通りに正確な発音で真言を紡ぐ。
「カリブンクルス(火石)――クレスクント(成長)――ヤクタ(投射)!!」
「火球(ファイアボール)ッ!!!」
――――――――ドォォォォォォォォォォォンッ!!!
狭い洞窟の中で爆炎が渦巻いた。
シャーマンの周囲を固めていた最後の手下たちは、悲鳴を上げる間もなく炎に飲み込まれ、消し飛ばされた。
「(……な……あ……)」
一瞬前まで「王」として君臨していたはずのシャーマンは、煤に汚れ、焼け焦げた地面に這いつくばっていた。
「逃がさないわ。……楽団の皆を返してもらうわよ!」
女細剣使いの鋭い突きが、シャーマンの喉元へ迫る。
(……俺が、王になったばかりなのに……。ようやく、すべてを……ッ。それが……こんな……こんな、何も知らないガキ共に……)
王座に手をかけた瞬間に訪れた、あまりにも無様な終焉。
「神々のダイスの出目」は、最も卑怯な簒奪者に対し、最も残酷な『1(ファンブル)』を突きつけた。
――――グサッ!!!
(ガ、は……ッ)
喉を貫かれ、シャーマンは王座の影で血を吐きながら崩れ落ちた。
「――もう大丈夫ですよ」
女細剣使いはシャーマンから細剣を引き抜き、震える歌姫の肩に自分の真新しいマントを優しくかけた。その瞳には、一人の犠牲者を救い出したという正義の充足感が満ち溢れていた。
「初依頼、無事達成ですね! 地母神様が見守ってくださったおかげです」
少年僧侶は、返り血一つついていない聖杖を握りしめ、無邪気に声を弾ませた。
「へへっ、だから言っただろ? ゴブリンなんて雑魚だって。俺たちの敵じゃねえよ」
少年戦士が、足元に転がっているゴブリンシャーマンの死体を、無造作に蹴り飛ばした。
「……でも。おかしいわ」
新米魔術師が、周囲に積み上がった「小鬼同士が殺し合った凄惨な死骸の山を見つめ、首を傾げた。
「ギルドの報告では、楽団にはベテランの護衛が何人もいたはずよ。……本来ならこんな簡単に勝てる相手じゃなかったんじゃ……」
「あんなの、油断してただけだろ」
少年戦士が鼻で笑い、自慢げに短剣を鞘に納めた。
「有名人の護衛で浮ついてたんじゃないか? 俺たちみたいに、ちゃんと気合を入れて戦えば、ゴブリンなんてこんなもんだって」
(………………)
歌姫は、その言葉を、逃げ場のない檻の中で聴いていた。
雑魚。
油断。
初依頼の子供でも倒せる相手。
その無邪気な言葉のひとつひとつが、鋭いナイフとなって、彼女の魂を切り刻んでいく。
(……あんな……、あんなゴミみたいな連中に……)
(私の仲間は……楽長は……、あんなに惨めに、殺されたの……?)
自分が数日間、地獄のような苦しみの中で、神に、死に物狂いで祈り続けた。
その絶望のすべてが、目の前の少年の「油断してただけ」という一言で、価値のない、滑稽な喜劇へと塗り替えられてしまった。
(……ああ。……私が、弱かったからなんだ……)
彼女の喉の奥で、何かが音を立てて壊れた。
助けに来てくれた少年たちの清らかな光が、いまや彼女にとっては、小鬼の爪よりも残酷な暴力となって、その尊厳を完膚なきまでに打ち砕いていた。
「さあ、立ち上がって。他にも捕まっている楽団の人たちがいるわ。早くギルドへ連れて帰ってあげないと!」
女細剣使いが、歌姫の手を引いて立ち上がらせた。
洞窟の外へ。眩しい朝日が差し込む、出口へと向かう一行。
少年たちの顔は、希望と誇りに輝いていた。
だが彼らに支えられて歩く歌姫の瞳には、出口の光さえも、自分を嘲笑う不浄な白さに見えていた。
――邪教団本拠地、観測室
「――クク、あの内紛の『残りカス』であっても、ダイスの出目次第では返り討ちに遭うかと思いましたが……。どうやら無用な心配でしたな」
教団幹部が、手元の記録票を捲りながら冷淡に笑った。
「初陣の若造たちが、誰一人欠けることなく『英雄』として凱旋する。出来すぎた物語です。おかげで彼女の自尊心は、粉々に砕け散りましたがね」
「……ゴブリン退治に失敗し、悲劇に見舞われる例など。全体数から見れば、あくまで少数派だ。そのことを忘れてはならないよ」
司祭は、手にした杖をコツコツと石畳に叩き、無機質な統計学を説くように言葉を続けた。
「毎日、大陸中のどこかで小鬼は退治され、若者は名声を上げ、平穏は守られている。神々の遊戯盤の上で、あの子が味わったような地獄は、確率論の誤差に過ぎないのだよ」
「クク……全くだ。世の賢しらな連中はよく言いますな。『ゴブリンだけを見て、奴らが危険な生き物だと大声で喚くような者は、視野が狭い』とね」
幹部は、王都の魔導師や騎士たちが口にする「高尚な正論」を真似て、肩をすくめて見せた。
「より強大な魔神や竜の脅威に比べれば、小鬼による被害など局所的な雑音。それに固執するのは、大局を見られぬ無能の証拠である……。彼らはそう信じて疑わない」
「全くその通り。正論だよ。」
司祭は、水晶の中に映る歌姫の「光の消えた瞳」を指先でなぞり、不気味に微笑んだ。
「国もギルドも、その『広い視野』を絶やさずに持っていてくれるおかげで……。あの子の悲鳴は誰にも届かず、最高の鮮度で我々の元へ届けられた。彼らが大局という名の星を見上げている隙に、足元の泥沼で何が産まれているのか、気づきもしないのだからな」
司祭の瞳に、狂信的な確信が宿る。
「『よくある悲劇』。……彼らがそう呼んで切り捨ててきたゴミの山が、やがて彼らの喉笛を食い破る死神になる。……その時、彼らの誇る『広い視野』は、自分たちの滅びを余すことなく観測するための呪いへと変わるだろう」